~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

27.偽天帝の最期(3)

人々は魔法で酒を出し、てんでに乾杯を始めた。
喧騒の中タナトスは、檻に入れて処刑を見学させていた神々の元へ歩み寄った。
明々後日(しあさって)の夕刻まで、自由をくれてやる。
逃げても構わんが、荒野で虫に心臓を食われ、くたばるのが落ちだと思うぞ」

解放された神々は、へたり込んで戦慄(わなな)いているフレイアを心配そうに見ながら、会釈をして闘技場を出て行った。
経緯を知らない彼らは、女神が生まれて初めて人を殺したことにショックを受けているのだろうと思っていた。

「俺達も失礼します。
 ──ムーヴ!」
アスベエルはお辞儀をするとフレイアを抱え上げ、マトゥタ女神の屋敷に移動した。
幼少期よく宿泊していたので彼女用の部屋があり、もう二人の間に障害はないのだからとウリエル達にも言われて、彼らは同居を始めていた。
といっても、まだ寝室は別だったが。

ベッドに寝かされた女神は、弱々しく眼を開けた。
「アス、ベエル……」
「ご気分はいかがですか。
けど、どうして彼は、あんなことを……」

「……彼を責められないわ。
だって、魔族は長い間、酷い目に遭って来たのでしょ。
わたくしだったら許さないわ、ずっとそんなことされて来たら……」
乱れた金髪、青ざめた顔、大きな金の瞳はまだ揺らいでいる。

「だからって……」
フレイアは力なく頭を振った。
「いいの。わたくしの考えが甘かったのよ。
本当なら、もっと酷い扱いを受けているはずだわ。
魔族の温情で神族は生かされている……それを今、実感しているところよ」

「フレイア様……」
「大丈夫。戦はもう、終わったのですもの。
後は平和を存続させること、それが、わたくし達の使命なのだわ」
女神は、やつれた頬でわずかに微笑み、彼の手に触れた。
「……そうですね。及ばずながら、俺もお手伝いします」
アスベエルも笑みを返し、ぎこちなく彼女の手に口づけた。

闘技場の貴賓席に戻った魔界王は、弟の姿が見えないことに気づいた。
手にした盃に香り高い酒を注がれつつ、つぶやく。
「あいつと祝杯を上げたかったのだがな……」

「あの子は、とてもそんな気分にはなれないでしょうよ。
慰めに行こうかしら……あ、何? 待って、わたし……」
話す途中でイシュタルは、とある貴族に強引に連れ去られ、巨大な焚き火の回りで踊る人々の中に消えていった。

水端(みずはな)より王族が退席はなるまい、我が様子を見て参ろう”
二人に言い置いて、シンハは闘技場を後にした。
元夫の行き先の見当はついており、足取りに迷うところはない。

思った通り、第二王子は墓標すらもない自分の墓で、悄然(しょうぜん)とうずくまっていた。
背中を滝のように流れ落ちて芝生に広がる髪は、残照を受けて(あかね)色に染まっている。

『やはりここにおったか、ルキフェル』
声をかけると、サマエルは眼だけを彼の方に向けた。
「自分の馬鹿さ加減に、あきれていたところだよ……。
どうしようもなく死に憧れて、どうしても死んでみたくて……でも」
『実際に死んでみたところが、さほど良きものでもなかった、と?』

「そう。……馬鹿だと思うだろう?
みずから敵に捕らえられ……逃げる手段もあったのに……死の誘惑を跳ねのけることはとうとう出来ず仕舞いで……あげくがこの体たらく……」
第二王子の紅い瞳からこぼれ落ち、漆黒のローブを濡らすのは、生きていたときには決して流れ出ることのなかった涙だった。

シンハは大きく息を吐く。
『……死して後ようやく、事の重大さに気づくか……』
「ああ。何を今さらとあきれるだろう?
ののしってもいいよ、というか、ののしっておくれ、愚かな私を……」
サマエルは頭をかきむしった。
『ルキフェル……』

「来ないでくれ。私には愛される資格などない。
タナトスには、私ごときと地獄に落ちる必要はないと伝えてくれ……うう」
すすり泣く王子に近づき、魔界のライオンは、濡れた頬に鼻を押しつける。
「来ないでと言っ……あっ」
そうして、その巨体でサマエルにのしかかり、押し倒した。

『汝の動揺を鎮むるには、これが最も効果的、難易度も低い手ゆえな』
「だ、駄目だよ、私の体は仮初(かりそ)めの……」
『この肉体だとて同じこと。我も精霊ゆえ実体は持たぬ。
汝が生きていようといまいと、我にはさほどの差異もない』
「シンハ……ああ、私……私は」
サマエルは、泣きじゃくりながら獅子の毛皮にしがみついた。

三日続いた宴の後、タナトスは、ウィリディス守備隊としてグーシオン公爵の軍、シンハをサマエルの守役として残し、魔界に凱旋(がいせん)した。

待ちかねた民衆は熱狂的に迎え、魔軍は意気揚々と王都バシレイアの大通りを行進する。
汎魔殿に入城後、王妃やイシュタル、リオンとシュネことベリルも列席して、祝典が執り行われた。
式が終わり、四人を従えた魔界王が、前庭に面したバルコニーに現れて魔族の勝利を宣すると、詰めかけた人々は一斉に拍手喝采した。
これらはすべて、魔界のあちこちに建てられた巨大なスクリーンに投影され、祝賀ムードを盛り上げた。

その後は連日、目も(あや)な祝宴が続き、サマエルの子孫ということで出席を余儀なくされたベリルとリオンは、貴族達の縁談攻勢にさらされる羽目となった。
「ベリル様、ぜひ一度、息子に会って頂きたく……」
「リオン様、あなた様と同じ年頃の娘がおりまして……」etc(エトセトラ)
いくら断っても、二人への熱烈な働きかけは止まない。

それは、グーシオン公の名代(みょうだい)を務めるヴァピュラも同様だった。
今回の戦況は可能な限り生中継されていたため、幼いながら彼も、勇猛果敢(ゆうもうかかん)な公爵家の跡継ぎとして、広く認知されるに至っていた。

「……ありがたいお話ですが、わたくしの一存では決められませんわ。
公爵にお話を通して頂きませんと」
義理の息子の縁談話を次々持ちかけられるグーシオン公爵夫人レイントは、にこやかに相手をしているように見えてその実、美しい顔にも声にも(けん)がある。
三人は、会うたび相身互(あいみたが)いとばかり、苦笑いを交わした。

それから一週間、昼夜を問わない宮廷行事に音を上げたベリルとリオンは、魔界王の執務室へ出向いて行った。
「あら、二人揃ってどうしたの」
ちょうどイシュタルが来合わせていた。

「すみませんが、もう行事は勘弁して下さい、ぼくは育児に専念したいんです。
それに、ライラ以外の女性との交際とか、まして結婚なんて論外ですから」
リオンはきっぱりと言い切った。

「ああ、せいぜい息子を可愛がってやるがいい。
家臣共の『妃を(めと)れ攻撃』は、まったく辟易(へきえき)ものだからな」
同じ苦労を味わったタナトスは、あっさりとそれを許した。

「あの、あたしもレギアに戻っていいですよね?
人前苦手だし、結婚も考えられないし、何より、サリエル達が淋しがってると思うので……」
ベリルも懸命に訴えた。

「あら、今回は二人のお披露目(ひろめ)の意味もあったのよ。
けれど、たしかにもういい頃合いね、ご苦労様。
わたしはまだ抜けられないけれど、ヴァピュラも行けるように掛け合ってあげるわ」
イシュタルからも許可が出た。

こうして、リオンは足取りも軽く息子の元に行き、ベリルも、明るい表情のヴァピュラと連れ立ってベスティアに戻った。

一方、ウィリディスに残ったシンハは、どうにか落ち着いたサマエルを背に乗せ、シュトラール城の敷地内、宝物殿の隣にタナトスが建ててくれた私邸へ連れて行った。

魔界王は、未亡人となった“焔の眸”が肩身の狭い思いをしないよう、宝物殿と戦勝記念公園の二箇所を管理する役職に()けるなど、この他にも色々便宜を図ってくれていたのだ。

紅龍城ほどではないにしろ、人界の屋敷よりは大きな館には、サマエルの嗜好(しこう)に合わせて落ち着いた内装が施され、置かれた家具や調度品なども洗練された物だった。
一通り邸内を見て回った後、居間に戻り、サマエルは深紅の革張りのソファに腰掛けた。

「中々住みやすそうな屋敷だね。
……ところで、他の三人が出て来ないのは、やはり怒っているから……?」
ライオンは、たてがみをぶるんと振った。
風に散る熾火(おきび)のように細かい輝きが、幾何学(きかがく)模様の絨毯(じゅうたん)に四散し、すぐに消える。

『……汝といかに接すべきかを、ダイアデムとゼーンの両名は未だ決めかねておるのだ。
汝が不帰(ふき)の客となり、身も世もなく悲嘆に暮れたものを、霊体ならまだしも実体化し、サタナエルが天寿を(まっと)うするまで現世(うつしよ)に留まる、というのではな……』

サマエルは眼を伏せた。
「……済まない、困惑するのも当たり前だよね。
天帝達の処刑が済んだら、すぐに眼を(つむ)るつもりだったのだけれど、……いや、くだくだしい弁解はよそう。
それと、フェレスはどうなのかな」

シンハは、しばし逡巡(しゅんじゅん)した末、口を開いた。
『……あれは自害を図った。
ルキフェルに創られた肉体ゆえ、もはや今世に用なしと……。
どうにか止めると眠りにつき、それきり目覚めぬ』
「あああ……彼女に何と詫びたらいいのだろう……!」
サマエルは頭を抱えた。

「うう……それなら、せめて、ダイアデムに私を責めてもらおうか。
怒りに任せて頬を張るなり、足蹴にするなり……あぁ、想像するだけで体が(うず)くよ……おや、駄目だね、これではご褒美になってしまう。
私のお仕置きには、放置が一番……やっぱり、私のことをよく分かっているのだねぇ……」
魔界の王子は、うるんだ瞳で宙を見上げた。

『左様なわけではあるまいが……』
そのつぶやきが聞こえたのか、サマエルは、我に返ったように彼を見た。
「ではお前は、なぜ相手をしてくれているの?
身勝手な私に怒りを感じてはいないのか?」

『夫たる者が、かくも気随気儘(きずいきまま)に振る舞うのであれば、妻たる我もまた、おのれの情欲の(おもむ)くまま行為に及ぶも一興、と思うたまでのこと』
シンハは澄まして言い、後足で伸び上がると王子にのしかかった。

「……お前は優しいね。私を甘やかし過ぎだ。
それとも、昔の罪滅ぼしかい?」
『はて、何のことやら』
ライオンはとぼけ、宣言通りに欲望を満たしにかかる。

後は寝室に移動して、幾晩かが過ぎた。
シンハはようやくサマエルを放し、大きく伸びをした。
仮初の体とはいえ隅々に残る気だるい甘さを、サマエルは愛おしく思い、同時に、改めて軽はずみな行いの稚拙(ちせつ)さを噛みしめるのだった。

(肉体は腐り果てている……つまり蘇生は不可能……でも何か方法が……そもそも死ななければ……ああ、生き返る手段があるなら、何だってするのに)
とつおいつ考えを巡らしていた時、念話が届いた。

“サマエル、大変なの! シンハ、今すぐ魔界へ来てちょうだい!
リナーシタとヴァピュラが毒にやられたわ!
『黯黒の眸』がリナーシタを蘇生させているけれど、ヴァピュラまで手が回らなくて……!”
それはイシュタルの思念だった。

わなな・く 【〈戦慄〉く】

1寒さ・恐怖・発熱などのために体が小刻みに震える。おののく。

みず‐はな【水端】

《「みずばな」とも》1 水の出はじめのときや部分。また、水量の増す始め。
② 物事の最初。出はじめ。はじまり。

目も綾(あや)な

まばゆくて目も開けていられないほどに美しく。目もあやに。
転じて、目もあてられないほどひどい様子を言う場合もある。

みょう‐だい【名代】

ある人の代わりを務めること。また、その人。代理。

レイント

エトルリア(紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群)の冥界の門を擬人化した女神。
顔がなく、エイタやペルシプネイ(ハーデースとペルセポネー)と一緒に冥界の入口のところで待っていて、死者たちの霊を受け取ったという。
アダムの最初の妻リリト(リリス)と何らかの関連があったとも考えられる。

険(けん)がある

顔つきや話し方に、他人を不快にさせるきつい印象がある。

あいみ‐たがい【相身互い】

《「相身互い身」の略》同じ境遇にある者どうしが同情し、助け合うこと。また、その間柄。

不帰(ふき)の客となる

二度と帰らぬ人となる。死ぬ。

身も世もない

我が身のことも,世間の手前も考えていられない。ひどく取り乱したさま。

目を瞑る(つぶる、つむる)

1 目を閉じる。また、目を閉じて眠る。
② 死ぬ。
3 過失などを見て見ぬふりをする。

きずい‐きまま【気随気儘】

勝手気ままに振る舞うこと。また、そのさま。わがまま勝手。

とつ‐おいつ

「取りつ置きつ」の音変化。手に取ったり下に置いたりの意。考えが定まらず、あれこれと思い迷うさま。