26.獣人の街(2)
暮れなずむ中を馬車は進み、ようやくレテの河畔、黒
橋の幅は馬車四台が並んで走れるほど広く、両端には歩道が設けられて、大勢の人々が行き来している。
サリエル達は眼を輝かせた。
「わあ、大っきな橋!」
「こんなの初めて見る!」
「レテ河には架かる橋のうち、一番大きいのがこのセントラリス橋よ。
戦の少し前にタナトスが橋を三本、造らせたのだけれど、便利になったのはもちろん、退屈していた貴族達も喜んだわ。
この辺は勝景地で温泉も湧くし、
イシュタルの言葉通り、河の両岸には雄大な眺望が広がっている。
歩道の方々に置かれた石のベンチやテーブルで、休憩がてら周囲の景観に見とれる者も多くいた。
「上からの眺めも素晴らしいから、ほら、あんな風に飛んで行く者もいるわ」
イシュタルが示す空には、夕暮れの紅に染まった魔族達が、思い思いに空中散歩を楽しんでいる。
「……あ、それで草原に誰もいなかったんですね、お昼のとき。
前はいつ行ってもにぎやかだったのにって、不思議に思ってました」
思いついたように、ヴァピュラが言った。
「そうね。戦の
馬車が橋の中央付近に差しかかった頃、ようやく日が暮れた。
辺りが暗くなると同時に、等間隔で欄干に置かれた黒龍の石像の眼に灯りが点き、橋床の御影石に
「わあ、綺麗……!」
「キラキラしてる!」
「星の海みたい!」
「ホントですね!」
シュネ達同様、馬車の左右や上空からも感嘆の声が漏れた。
星を撒き散らした宇宙空間を渡っているかのような幻想的な光景に心を奪われているうちに、いつの間にやら対岸へと着いて、水晶の馬車は、ついに真新しい街並みに乗り入れた。
「ここからベスティアよ。辺境からの移住者が多く住んでいるから、獣人街とも呼ばれるの。
王族専用の別邸、レギアはこの街外れにあるわ。
前に一度、タナトスと滞在したけれど、とてもいいところよ」
イシュタルの言う通り、道行く人々はたしかに、王都や汎魔殿よりも獣人の比率が高いようだった。
犬や猫は言うに及ばず、トラやライオン、ヒョウやジャガー、ゾウやカバ、
(まるで、ワルプルギスの夜みたい……)
シュネは、サマエルの弟子だった頃行った、砂漠の祭りを思い出した。
「すごーい、色んな人がいっぱい」
「色んな頭の人がいるー」
サリエルとリナーシタは眼をまん丸く見開いて、きょろきょろしていた。
「獣頭の人を、こんなにいっぺんに見るの初めてです……!」
ヴァピュラも頬を紅潮させていた。
「ふふ、そのうち落ち着いたら、街を見て回ることにしましょうね。
色々なお店もあるし、きっと楽しいわよ」
イシュタルはにこやかに言った。
そうしているうち、馬車は
人影もまばらな街路を、青ざめた兄と紅の妹……魔界の二つ月が照らし出し、重なる影だけがついてくる。
やがて人家の灯りも途絶え、光は馬車に下げられたカンテラだけとなった。
さすがに心細くなってきたとき、突如、闇の中に輝く建物が浮かび上がり、シュネははっとして身を乗り出した。
「あ、ひょっとして、あれが……?」
「ええ、そうよ」
答えるイシュタルの声が聞こえたかのように、門が独りでに開き、馬車を迎え入れた。
屋敷の玄関に着くと、エマイユは馬車の扉をノックした。
『皆様、お待たせ致しました。レギア到着でございます』
「ご苦労だったわね、エマイユ」
イシュタルは使い魔をねぎらい、猫の手を借りて、五人は馬車を降りる。
「皆、疲れたでしょう。リナーシタ、体調はどうかしら?」
「あ、平気です。馬車の中でお昼寝もしましたし」
「そう。でも無理は禁物よ。今夜は早めに休んだ方がいいわ、皆もね」
「はーい」
使い魔は馬車を裏庭に運んで行き、五人は建物の中に入った。
さすが王族専用だけあって、レギアは、紅龍城と
静寂に包まれた館内は外から見るより広く感じられ、どの部屋からも
シュネの部屋はイシュタルの左隣で、その向かいのサリエルとリナーシタの部屋はドアで行き来できるようになっており、その右隣がヴァピュラだった。
部屋には各々、寝室の他に居間と内風呂、さらには野天風呂までが付属している。
露天風呂は明日の楽しみにして、シュネは、内風呂で旅の疲れを癒やした。
そして、子供三、四人が横になれるほど大きなベッドにもぐり込み、枕元の灯りを消して、河の流れる音を聞きながら眠りについた。
……はずだったのに、気づくと、彼女はなぜか、明るい場所に立っていた。
(あれっ、夢? あたし、もう寝ちゃってるのかな?)
そのとき、体が半ば透き通っていることに気づき、ただの夢ではないことを彼女は悟った。
(あ、これ、夢飛行なんだわ。……あ、お父さんのお墓……)
今、シュネの意識が飛んできているのは、ウィリディスにある戦勝記念公園だった。
おそらく、義父がリナーシタを心配しているだろうと思いながら横になったことで、無意識のうちに精神だけが戻ってきたのだろう。
そこで彼女は、サマエルが眠る場所の前にひざまずいた。
リオン同様、やはり墓標がなくとも、墓の位置は分かる。
「お父さん、安心して下さい、リナーシタは元気ですよ。
魔界で暮らす方が、体に合ってるみたいです。
たまには、二人の夢に出てあげて下さいね」
途端に、土の中から、すうっと亡霊が現れた。
「……あ」
シュネは息を呑んだ。
悲しげな紅い瞳、銀の絹糸のような髪、なめらかな肌、女性と見まごう美貌……在りし日の魔界の王子、記憶にある通りの姿。
明るい日差しの中、互いに半透明の体で二人は対峙する。
と、白衣をまとった死霊の、血をなすりつけたような真紅の唇がかすかに開き、ささやき声が漏れた。
『……済まない、ベリル』
「え? 何で謝るんですか? それに、あたしの名前は……」
『ネスターのことさ。セエレを学院に連れて行った時、あの男は、すでに禁呪の書を手に入れて
いたのだろう……それに気づけなかったのは一生の不覚だよ。済まない……』
サマエルは深々と頭を下げる。
「え、それはお父さんのせいじゃないですよ。
禁呪の書って、かなりレア物なんでしょう?
同じ場所に二冊もあるなんて思いませんよ、普通」
慌てて、シュネは言った。
『……いや、あの後も、学院にはまだ禍々しい気が渦を巻いていた。
それを書の魔力の
乱れた銀髪をかき上げ、死人はゆらゆらと首を振る。
「けど、あたしは大丈夫だったし、スクライ先輩だって……あ、それで先輩を、お屋敷に住まわせたんですか?」
『そうだよ。私のせいでいらぬ苦労をかけたのだし、いつまでいてもいいと言っておいた』
「だから、ミスなんかじゃないですってば。
それに、先輩だってそのうち、人の多いとこに戻りたくなると思いますよ、きっと」
『……そう、かな』
サマエルは首をかしげる。
「ええ、先輩はまだ若いんだし、隠居だなんて早すぎますよ。
あんな淋しいところに、ずっと独りきりでいたら、人恋しくなりますって」
『……そうなのかな』
暗い眼差しの義父は、到底納得したようには思えない。
「えっと、独りが好きどうかは人それぞれだし……先輩はどうなのか分からないけど、多分、話し相手くらいは欲しくなるんじゃないかなぁ。
ところで、あたしの名前、やっぱり元に戻した方がいいと思います?」
シュネは話題を変えた。
『……ああ、いや、さっきはつい、本名で呼んでしまったが、ぶしつけだったね、済まない。
でも、せっかく素敵な名前なのに、と思ってね……』
「うーん、そうですか……まあ、後で考えてみますよ。
あ、明日もあるんで、そろそろ帰りますね……そうだ、今、リナーシタの療養のために、タナトス様が造った、ベスティアっていう新しい街に来てるんですよ」
『その話は聞いているよ。
ではこの後、息子達の夢に入ってみることにしよう』
「きっと喜びますよ。じゃあ」
ぺこりとお辞儀をし、シュネが戻ろうとすると、サマエルが訊いてきた。
『シュネ。キミは今、幸せかい?』
「え? そうですねぇ……。
ネスターの粘着から解放されたし、やな思い出ばっかの人界にも帰らなくていいし、魔族は天界に勝ったし……ウィリディスも、とてもいいところだし。
一人ぼっちだと思ってたら、実は親戚が結構いて、天涯孤独じゃないって分かって、友達もできそうだし……」
指折り数え、シュネはうなずく。
「うん、幸せだと思いますよ。
今まで運が悪かった分、これからはいいことが続くのかも。
やっと最近、そう思えるようになりました」
彼女はにっこりした。
サマエルは眩しそうに彼女を見、それから大きく息をついた。
『……それならいい。
キミは私ではないのだから、違う人生を生きるべきだ』
魔界の王子の霊は音もなく、地中に消えて行く。
「お父さん、生まれ変わったら今度こそ幸せになれますよ、いえ、絶対幸せになって下さいね!」
何も知らないシュネはそう叫んだが、応えはなかった。
翌朝、サリエル達は、夢で父親に会えたとはしゃいでいた。
リナーシタは体調もよく、朝食の後、皆と一緒に屋敷内を見て歩いたり、庭を散策したりした。
ほどよい運動で食欲が出たのか、彼は、ウィリディスにいたときとは比べ物にならないほど、もりもりと昼食を平らげた。
午後には昼寝をしたものの、
「これなら回復も早いわね、連れてきてよかった」
イシュタルは眼を細め、皆も喜んだ。
次の日、イシュタルは、レギアの下に広がる河原──周囲に建物もなく、プライベートビーチのようになっている──に皆を連れて行った。
朝から気温は高かったが、川面を吹き抜ける風は
シュネは足元の丸い小石を拾い上げ、河原を見回した。
「ここの石、みんな黒ね」
「ええ、全部、黒御影石よ。
水まで黒く見えるから、レテは暗黒の河とも呼ばれるの」
大きな傘の下、岩に腰かけたイシュタルは言った。
子供達は小石を積み上げたり、水切り遊びをして過ごし、昼食を終えた頃、ベスティアの代表があいさつにやって来た。
黒い山犬の顔をした男と、蛙と
物見遊山(ものみゆさん)
特に目的を持たず、いろいろなものを見たり楽しんだりすること。
「物見」は見物するの意、「遊山」は野山に遊びに行くことから行楽の意。
「遊山」を「ゆうさん」「ゆうざん」などと読むのは誤り。(平明四字熟語辞典)
水切り遊び
石切り、石投げ、跳ね石遊び、水面石飛ばしなど様々な呼び名があり、水と石のある所、世界中で行われている。