~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

26.獣人の街(1)

翌朝、シュネの部屋へ、エマイユが朝食を運んで来て言った。
「スクライ様は、無事学院を脱出されました。
しばらく一人になりたいとご希望でしたので、サマエル様のお許しを得て、ワルプルギス山のお屋敷に滞在されておいでです」
「よかった、あそこならネスターも絶対、行けないもんね」
シュネは安堵し、朝食を取り始めた。

「あの男は、中々に強烈でございましたからね」
金と銀の眼を持つ使い魔は、顔をしかめた。
藍色の毛並みが、ぱちぱちと音を立てて逆立つ。
シュネは胸に手を当てた。
「ホント、あたしも、まだこの辺がもやもやしてるくらいだもの。 
先輩、人間不信になっちゃわないといいけど……」

「あんな男でも、かつては皆に慕われていたそうですからねぇ。
スクライ様も、放校されるまでは尊敬していらっしゃったそうですよ。
ですが、学院に戻られたときには、もう別人のようになっていて、皆も不審がっていたとか……」
猫は首を振る。

「そっか、あたしが拾われたのは、ネスターがおかしくなった後なのね。
でも、あんなのが学院長じゃ、危険なんじゃない? 学院の子達が心配だわ」
シュネは表情を曇らせた。

「ご懸念には及びません。
サマエル様からご教授頂きました、エナジーヴァンパイアの対処法を、しっかりと実行して参りましたので」
そして、エマイユは面白おかしく、昨日のてんまつを語って聞かせた。

「あははは!」
シュネは大笑いした。
「あいつのヘン顔見たかったわー!」
「それはもう間の抜けた、鳩が豆鉄砲食らったような顔でございましたよ」
にやにや笑いを浮かべたまま猫は食卓を片付け、着替えのカゴをソファに置いた。

「こちらが本日のお召し物、シルクのブリオーでございます。
では、馬車の支度がございますので、これにて」
使い魔は礼をして退出した。

カゴに入っていたのは、彼女の赤みがかった金髪によく映える、桜色の衣装だった。
手首に近づくに連れて広がる袖、ひだの多い裾は床につかない長さで、細めの紅いベルトを締めるようになっている。
たしかに、重々しく動きにくいドレスよりも、こうした軽装の方が旅にはふさわしいと言えた。

早速ブリオーに着替えたシュネは、付いてきた紅いリボンで髪を二つに結い、ヴァピュラにもらった首飾りを下げて、姿見の前に立ってみた。

ネスターと一悶着(ひともんちゃく)あったことで、昔の赤毛や灰色の眼に戻っているのではないかという懸念(けねん)は、さすがに杞憂(きゆう)だった。
それでは、髪と眼以外に違うところはないかとまじまじ見ても、元の顔がどうだったか、もうはっきりとは思い出せなくなっている。

(……まあいっか。
これが、ホントのあたしなんだ、きっと)
シュネは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

気を取り直して彼女はサリエル達の部屋に行き、来ていたイシュタルとも朝のあいさつを交わした。
「そのブリオー似合うわね、選んだ甲斐があったわ」
「ありがとうございます」
シュネは習った通りにドレスをつまみ、頭を下げた。

「そうそう、お前にも教えておかなくてはいけないわね。
リナーシタは、サマエルの息子、双子の弟として扱うことになったわ。
天界人の記憶は、サマエルが夢で書き換えるそうだから」
イシュタルが言った。
「それはいいですね」
シュネはにっこりした。

「でも、本当にいいんでしょうか。僕、ホムンクルスなのに……」
リナーシタが、ためらいがちに疑念を口にすると、サリエルは眼をうるませ、彼の手を取った。
「もちろんさ、キミは僕の弟だよ!
何度も言うけど、キミがいたから、僕は生きてこれたんだ。
これからもよろしくね、リナーシタ」
「はい、兄上……」
リナーシタは涙をあふれさせながら手を握り返し、シュネも思わず、もらい泣きした。

イシュタルも、そっと目頭を押さえた。
「この子達、繊細だから、母は天界人だとか、羽は黒でもコウモリではないとか、そんなことを気にするのよ。
第二形態がカラスや黒鳥の者もいるし、魔界の王子の子なのだから、胸を張っていていいと言っているのにね。
大人がいないと心細いみたいだから、わたしもついて行くことにしたわ。
二人に何かあったら、サマエルに申し訳ないもの」

「すみません、僕らのために、わざわざ……」
サリエル達は頭を下げる。
「いいの、わたしも楽しみよ。城から出るのは久しぶりだから」
「あたしも心強いです。まだ礼儀作法とか、よく分からないし」
シュネが言い、イシュタルは微笑んだ。
「これから行くのは庶民の街だし、堅苦しい作法はいらないわよ。
あ……エマイユから連絡が来たわ、行きましょう」

四人は汎魔殿の前庭に向かった。
青空の下、日差しを受けて輝く水晶製の馬車には、純白のユニコーンが四頭、つながれている。
ほぼ同時にヴァピュラが到着し、胸に手を当てお辞儀をした。
「お早うございます、皆様。ご一緒できて光栄です」

「「お早うございまーす!」」
声を揃えてあいさつしながら、サリエルとリナーシタは馬車に駆け寄る。
「お早う、ヴァピュラ」
一歩遅れて近づくシュネに、ユニコーンの一頭が顔を寄せて来た。
「あは、可愛い」
彼女は優しく、白い鼻面をなでた。

イシュタルが、エマイユの手を借りて乗り込みながら言った。
「さあ、皆、早くいらっしゃい、出発するわよ」
内部は、五人が向かい合わせで座っても十分な余裕があり、紅色の革張りの座席も広くて柔らかだった。
城門のところでエマイユは一旦馬車を止め、城門が開くまで待った。
その様子を、犬舎からケルベロスが見守る。

馬車は門を抜け、真っ直ぐ続く広い石畳の道を、快適な速度で進んで行く。
道の左右には大小の店が立ち並び、様々な姿の魔族達が行き交っていた。

「王都バシレイアはにぎやかでしょう?
でも、今日は通り過ぎるだけで我慢してね。お前達のことが知れたら、お祭り騒ぎになって進めなくなってしまうわ。
天帝達の処刑が済んで、タナトスが凱旋した後なら、ゆっくり見物も出来ると思うから。
……あ、馬車の中は外から見えないわ、遠慮なくご覧なさいな」
ちらちらと外を見ていたサリエル達に、イシュタルは声をかけた。

「「はーい!」」
窓に張り付く彼らだけでなく、シュネも興味津々で通りを眺めた。
魔界に来てそれほど経たないうちに天界との戦が始まったため、彼女が王都をじっくり見たのは、ほぼ初めてといってよかった。
王族のイシュタルも貴族のヴァピュラも、外出の頻度はさほど高くなかったため、バシレイアの眺めを楽しんでいた。

半日近く経ち、ようやく町外れに近付くと、家の前や通りで遊ぶ子供の姿が目につき始めた。
そして、風車を手にした何人もの子供達が駆けて行くのを眼にしたサリエル達の興奮は、最高潮に達した。
「わあ、ちっちゃい子がたくさんいる!」
「あんなにいっぱい、僕らより小さい子だ!」

「そういえば、天界には子供がいないのだったわね」
思い出したようにイシュタルが言った。
「ええ、そうなんです!」
「僕らが一番下だったんです!」
二人は同時に振り返った。

「そう。魔界には、貴族にも同じ年頃の子はたくさんいるから、そのうち友達もできるわよ」
イシュタルは微笑んだ。
「えっ、貴族にも子供がいるんですか?」
サリエルは眼を丸くした。
「もちろん。ヴァピュラにも弟や妹がいるのよ」
「ええ、三人いて、一番下の弟は、僕みたいにライオンの顔をしてます」
ヴァピュラはにっこりした。

「三人!?」
「そんなに!?」
リナーシタ達は眼を輝かせた。
「はい。いつか城にいらして下さい、ご紹介致します」
「ええ、きっと行きます!」
「うん、必ずお邪魔します!」
二人の声は抑えようもなく弾んでいた。

そうして、王都をぐるりと囲う堀に架かった橋を渡り、馬車が郊外に出た途端、青かった空が、トルコ石のような色合いへ変化して、シュネだけでなく、サリエル達も身を乗り出して空を見上げた。
「あれ? 空の色が変わっちゃった」
「さっきまで青かったよね?」
「急にどうしたんでしょう?」

「王都の結界を出たからよ。
元々、魔界の空は青緑色なのだけれど、ウィリディスを忘れないようにと、結界内では空が青く見えるようにしているの。
そして、万が一、魔界を覆う結界を破られて敵に侵入されたときのために、結界は汎魔殿や王都だけでなく、他の大きな街にも張られていて、中に入れば、また空は青くなるわよ」
イシュタルが説明する。

「へえー、すごいや」
ヴァピュラ以外の三人は、初めて聞く話に感心した。
「さて、この辺でお昼にしましょう、エマイユ、馬車を止めて」
イシュタルは使い魔に命じた。

目の前には、風に揺れるすみれ色の草原が一面に広がっていた。
白や黄、薄青の小花があちこちに咲き、若草色をした小さめの薔薇の花が、道に沿って垣根のように植えられていて、野原との区切りをつけていた。

「ここは皆がよくピクニックするところよ。
ヴァピュラも来たことあるでしょう?」
「はい、僕の母が生きていた頃はよく。
新しい母が来て弟が生まれてからは、家族で出かけることもあまりなくて、久しぶりですけど」

「あれ、キミもお母さんがいないの?
……というか、あたし達、皆いないよね」
シュネが言うと、ヴァピュラは頭をかいた。
「でもまあ、親がなくとも子は育つ、ですよ」

「そうね。さ、お昼にしましょ」
イシュタルが手を振ると、草原にさっと大きな敷物が広がり、様々な具が挟まれたサンドイッチがぎっしり詰まった、いくつものバスケットが現れた。
トレイには飲み物やスープが入ったマグカップ、切り分けられた果物も種々乗っている。
「どうぞ召し上がれ」

「「頂きまーす!」」
サリエル達が声を揃え、同時に手も出す。
「美味しそう、頂きます」
「お言葉に甘えまして、頂きます」
シュネとヴァピュラも、次々にサンドイッチを取った。

食事が済むと、サリエルとリナーシタはかけっこをしてはしゃいだ。
残りの三人は休み、少年達が飽きた頃、再び馬車に乗り込んだ。
「このままのんびり進んで、街には夕飯時に着く予定よ」
イシュタルが告げた。

人家がまばらになっても、皆にとってまだまだ珍しい眺めだった。
しかし、初めのうちは見とれていた彼らも、朝が早かったことや満腹になったこと、馬車の規則的な揺れも相まって、眠気が差してきていた。
イシュタルは、眠りに落ちた子供らに毛布をかけてやり、優しく見守った。

そのうち、ようやくレテ河が見え始めた。
川幅はかなり広く、薄紫の(かすみ)がたなびいて、向こう岸が見えないほどだった。
馬車は、川沿いにゆっくりと進んで行く。
「うーん……」
夕日が紅く水面を染める頃、一番先にヴァピュラが目覚めた。

イシュタルは彼に念話を送った。
“気になる()が占いに出たのよ。
今回の旅はお前にとって転機となるわ、何事にも慌てず、対処なさい”
“分かりました、ありがとうございます”

「さあ、皆、起きて。
ご覧なさい、レテ河を。夕焼けが綺麗よ」
イシュタルは、声に出して言った。

ブリオー【bliaud[フランス]】

11世紀から13世紀にかけ,西欧の男女に着用されたチュニック型の衣服。
女子のものはぴったりした身ごろに長い袖がつき,裾も長く引き,ベルトを着けた。男子のものは袖はもっとせまく,脇裾にスリットが入り,同じくベルトを着けたが,戦場ではこの上に鎖帷子(くさりかたびら)を着用した。
素材はおもに毛織物であるが,のちには東方からもたらされた絹を用いたり,刺繍や縁取りで飾られることもあった。労働者や兵士は一般に短いブリオーを着用した。
  世界大百科事典 第2版