25.龍の旅立ち(2)
「……じゃあ、先生も魔族なの?
だから、あたしを奥さんにしようとした……?」
シュネは自分を指差した。
「馬鹿な、わたしは断じて魔物などではない!
心が広いだけだ、魔物の血を引くお前を拾ってやっただけでなく、妻にしてやろうというのだから!
ありがたく思って当然なのに、なぜ断ったりするのか!」
ネスターは青筋を立てて怒鳴った。
「ありがたく思うわけないでしょ!」
言い返す声が耳に入った様子もなく、男は続けた。
「ああ、そんな禍々しい姿で式は挙げられないものな。
魔法学院長の妻にそぐわない醜い角や翼は、今すぐ切り落としてあげよう。
さあ、おいで。大丈夫、決して痛くはしないから……!」
「やめて! これはあたしの、大事な魔族の証なんだよ!
あんたの妻になんか、死んでもならないって言ってるのに!」
拳を固く握り締め、シュネは叫ぶ。
緑の炎が瞳に宿ると、髪が無数の金色の蛇となって養父に牙を向けた。
空間がビリビリと震え始め、ヴァピュラは彼女を守ろうと、翼を広げて前に出る。
そんな彼女の肩に、イシュタルは優しく手を置いた。
「落ち着いて、シュネ。こんな男が同族なわけないわ。
もしそうなら、精気を吸い尽くして亡き者にしているわよ」
「あ……。す、済みません……」
我に返ったシュネは体の力を抜いた。
髪は元に戻って振動も止まり、ヴァピュラも翼を畳む。
イシュタルは眉をしかめて男を見た。
「どうせ、呪いで落ちぶれたのでしょ。
生半可な知識で黒呪術に手を染めるから、そういう目に遭うのよ」
『仰る通りです。こいつは“謎の書”で呪われたんですよ』
ヴァピュラは鼻にしわを寄せ、ネスターはぎくりとした。
シュネは小首をかしげた。
「それって“禁呪の書”?
前にも学院にあったし、危ない本なのに、そんな簡単に手に入るの?」
『ええ。書は波長の合う者の所へ、みずから出向くそうですからね。
“謎の書”の表紙には、中の謎を解いた者に絶大なる力を授けると書かれてるんですが、それは真っ赤な嘘、中身を読んだら呪いがかかるようになってるんです』
「ひどい、詐欺じゃない、その本」
『でも、こいつに同情の余地なんかないですよ。
安っぽい罠にかかったのは、プライドが無駄に高いからでしょう。
“禁呪の書”は、所有者に死をもたらすこともあります。
魔法の教師なら知ってて当然なのに、この男ときたら』
翼あるライオンは、あきれたように目の前の男を前足で示した。
「その点、お前達の呪文の書は良心的ね、選ばれた持ち主以外が読んでも、何も起こらないのだから」
口を挟んだイシュタルに、シュネは尋ねた。
「先生の呪い、解くこと出来ませんか? 本を燃やすとかして……」
「読んですぐだったら何とかなったかもね。
でも、ここまで来てしまうともう手遅れ、燃やせばこの男も灰になるわよ。
まあ、その方が、誰にも迷惑がかからなくていいかも知れないけれど」
魔界の女貴族は肩をすくめた。
「何を言うのだ、シュネ、燃やすなどと!
あれは大事な書だ、わたしの命も同然なのだぞ!」
ネスターは叫んだ。
ヴァピュラはさらに続けた。
『こいつはどうでも、魔法学院は、結構大変なことになってるようですよ。
弱ってる生徒が何人か辛い目に遭ってるし、教師にも多少、影響が出てます。
こいつも薄々変だとは思ってたみたいですけど、自分が原因とは認めたくなくて、しらばっくれてたんです』
「えっ、生徒や先生にまで!?
まずいよ、やっぱり、皆に知らせなきゃ!
早く女王様に言って、何とかしてもらわないと!」
シュネは焦った。
「じょ、女王陛下!? よせ、やめろ! やめてくれ……!」
ネスターは青ざめた。
すると、ずいとイシュタルが前に出て、男の眼を覗き込んだ。
「そうね、やめてあげてもいいわ。
ただし、シュネから手を引くことが条件。
もう決して、彼女と関わらないと約束なさい、話題に出すことも禁止。
それが守れるなら、お前のことは黙っていてあげてもよくってよ」
「う……しかし……。
そ、そうだ、お前達のような
ははは、無駄だぞ、このわたしに
脂汗を流しながら、それでもネスターは虚勢を張る。
シュネは頭に血が上るのを感じた。
もうこれ以上、養父の
歯を食いしばると、瞳には再び緑の炎が灯り、髪の一筋一筋が金の蛇に変化していく。
だが、彼女の感情が爆発する寸前、イシュタルが男の頬を張り飛ばした。
「うわっ!?」
面食らったところに、反対側にもびんたの追い打ちをかけられ、ネスターは尻餅をついた。
「な、何をする!」
「いい加減にお黙り、このうつけ者!
もう諦めなさい、シュネはサマエルの養女なのよ!
この期に及んで往生際が悪いこと!
サマエルを通せば、陛下は信じて下さるわ!
お前はシュネの恩人かもしれないけれど、彼は女王の恩人なのだから!」
イシュタルは嫌悪も
「あ、あの……」
我に返ったシュネに目配せし、魔界の女貴族は学院長に指を突きつけた。
「さあ、どうするの?
シュネを諦めればお前は安泰、逆に固執すれば身の破滅よ!
女王の
さらには罪人として牢に入れられ、最悪、斬首もあり得るわね!」
「う……わ、分かった、もうシュネのことは忘れる、話にも出さない……」
座り込んだまま、ネスターはうなだれた。
「誰かに聞かれたら、シュネはサマエルの養女になったとだけ言いなさい、それ以外のことは口にしないで。約束出来るわね!」
「あ、ああ、約束する……」
学院長は滴る汗をぬぐう。
「破るようなことがあれば、取り返しがつかないことになるわよ?
よっく覚えておきなさい、ファイディー国立魔法学院長、ネスター。
──さ、シュネ、戻りましょ。目覚めたいと強く願って」
「はい……」
次の瞬間、シュネはベッドに座った状態で眼を開けた。
悪夢から目覚めたときのように
「お疲れ様。気分はどう?
これでもう安心ね。あの男が、お前の人生に関わって来ることはないわ」
「……ホントに、そうだといいんですけど……。
あ、あれ……わ、大変、ドレスが濡れちゃう」
いきなり涙があふれ、シュネは慌ててハンカチを目蓋に押し当てた。
「ど、どうしたんだろ……止まらない……」
「好きなだけ泣いていいのよ、シュネ。お前は自由になれたのだから」
「は、はい……」
『シュネ様……?』
心配そうにヴァピュラが顔を覗き込むと、シュネはこらえ切れなくなった。
「ヴァピュラぁ、うわあん!」
彼女はライオンの体にしがみつき、泣き出した。
『あの……』
困惑したような眼を向けて来る少年に、イシュタルは微笑みかけた。
「済まないわね、少し付き合ってあげてちょうだい。
今度こそ本当にあの男から逃げ切れたと思って、感情の解放が起こったのよ」
『分かりました』
ヴァピュラは答え、なだめるように優しく喉を鳴らし続けた。
その様子を微笑ましく見守っていたイシュタルは、やがて何かを思いついたように一人うなずき、視線を宙にさ迷わせた。
そうしている様子は、甥のサマエルによく似ていた。
やがて、少女の
「シュネ、気分を変えて、隣でお茶はいかが?
ヴァピュラもご苦労様、もう人型に戻っていいわよ」
「はい」
三人が隣室に行くと、大きな猫が、後ろ足で立ってお茶の支度をしていた。
体毛は
「使い魔のエマイユよ。こちらはシュネとヴァピュラ」
イシュタルは皆を引き合わせた。
「初めまして、エマイユでございます」
猫は、ていねいに頭を下げた。
シュネより少し背の低い、使い魔の右眼は金色で左は銀、背中には、
ブルーレースアゲート(
「わあ、可愛いにゃんこ。よろしくね」
「綺麗な猫だなぁ。僕もよろしく」
シュネとヴァピュラは口々に言い、使い魔は
「過分なお言葉。こちらこそ、よろしくお願い致します。
さ、お席にどうぞ」
三人はテーブルにつき、ティータイムを楽しんだ。
甘い焼き菓子と温かいハーブ茶に癒やされて、シュネのささくれ立った心も、穏やかさを取り戻していく。
「わたし、昔、お気に入りの子が死んでから、使い魔を使うのをやめていたの。
でも、それでは不便でしょうと、この子を贈って下さった方がいてね」
そう話すイシュタルにシュネは訊いた。
「エマイユの性別はどっちですか?」
「どちらでもないわ」
イシュタルは使い魔に、後ろを向くよう合図する。
その背中には、ぜんまいを巻く時に使う、巻き鍵がついていた。
「え……」
「あれ?」
シュネとヴァピュラはあっけにとられた。
「この巻き鍵を背中に差した者がエマイユの主人になるの。
その人が鍵を抜くか死なない限り、ずっとね」
「わたしは死にません、壊れても直せばいいだけですから」
使い魔は片目をつぶり、ゴロゴロと喉を鳴らした。
外見も動きも自然で、生身の猫と見分けがつかない。
「エマイユは、人界では『七つの宝』という意味で、体の部分もそれに
イシュタルは、順繰りに猫の体を指して行き、最後に虹色の翅を示した。
「素敵……!」
シュネは瞳を輝かせ、それを見たイシュタルは微笑んだ。
「もう大丈夫のようね、シュネ」
「あ、はい、ご心配おかけしました、ヴァピュラもごめんね」
シュネは、ぺこりと頭を下げる。
「いえ、全然構いません、お元気になられてよかった」
ライオンの少年はにっこりした。
「あ、ところで、魔法学院の方はどうしましょう。
女王様には言わないって、先生とは約束しちゃいましたけど……」
「いや、野放しにしたらまずいですよ、やっぱり」
ヴァピュラは顔をしかめた。
「でも、女王はご懐妊中よ。
エナジーヴァンパイアなんか、危なくて近づけられないわ。
出産まで、母子共にご無事で過ごして頂きたいもの」
イシュタルは冷静に答えた。
「あ、そっか……」
「それは考えてませんでした。困りましたね、どうしましょうか」
ヴァピュラは腕組みをし、シュネは途方に暮れる。
「大丈夫よ、いいことを思いついたの。
ヴァピュラ、リナーシタ達を宝物庫まで連れて来て。
わたし達は先に行くから、後で落ち合いましょう」
イシュタルは言い、全員で部屋を後にした。
かん‐き【勘気】
主君・主人・父親などの怒りに触れ、とがめを受けること。また、その怒りやとがめ。
こうむ‐る【被る・蒙る】
1.いただく。たまわる。2.身にふりかかるものとして受ける。
ちょう‐とんぼ【蝶蜻蛉】
トンボ科の昆虫。体は黒色。翅(はね)は幅広く、先端が透明なほかは黒褐色で紫青色または金緑色の光沢がある。
池沼の上をチョウのように飛ぶ。本州から九州まで分布。
翅(はね wing)
昆虫類にそなわる飛翔器官。鳥類のものに対しては羽の字,あるいは翼 (つばさ) の語をあてる。
しち‐ほう【七宝】
1 仏教で、7種の宝。七種(ななくさ)の宝。七珍。しっぽう。
無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり=ラピスラズリなど)・玻璃(はり=水晶、ガラス)・シャコガイ・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)。
法華経では、金・銀・瑪瑙・瑠璃・シャコガイ・真珠・まい瑰(まいかい=赤い宝石)。
巻き鍵
(ゼンマイ時計などの)ねじ、ねじ巻き
ブルーレースアゲート(空色縞瑪瑙、そらいろしまめのう)
柔らかい空色にレースのように見える白い模様が入っている瑪瑙(アゲート)。
色が均一で半透明のものを玉髄(ぎょくずい=カルセドニー)、縞などの模様があるものをアゲートと呼ぶが、日本では区別があいまい。
イリスアゲート/アイリスアゲート(虹瑪瑙)
イリス(イーリス)はギリシア神話の虹の女神。薄く板状にカットして強い光にかざすと虹の七色に輝く、希少なアゲート。 アゲートは様々な種類があり、多孔質で色付けもしやすいため、着色された物も多く出回っている。
エマイユ(email フランス語)
七宝焼。英語ではエナメル(enamel)。
琺瑯(ほうろう)ともいい、金属の素地にガラス釉(ゆう)を焼きつけて装飾する工芸。