~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

25.龍の旅立ち(2)

「……じゃあ、先生も魔族なの?
だから、あたしを奥さんにしようとした……?」
シュネは自分を指差した。
「馬鹿な、わたしは断じて魔物などではない!
心が広いだけだ、魔物の血を引くお前を拾ってやっただけでなく、妻にしてやろうというのだから!
ありがたく思って当然なのに、なぜ断ったりするのか!」
ネスターは青筋を立てて怒鳴った。

「ありがたく思うわけないでしょ!」
言い返す声が耳に入った様子もなく、男は続けた。
「ああ、そんな禍々しい姿で式は挙げられないものな。
魔法学院長の妻にそぐわない醜い角や翼は、今すぐ切り落としてあげよう。
さあ、おいで。大丈夫、決して痛くはしないから……!」
爛々(らんらん)と眼を光らせて、ネスターは手を伸ばして来る。

「やめて! これはあたしの、大事な魔族の証なんだよ!
あんたの妻になんか、死んでもならないって言ってるのに!」
拳を固く握り締め、シュネは叫ぶ。
緑の炎が瞳に宿ると、髪が無数の金色の蛇となって養父に牙を向けた。
空間がビリビリと震え始め、ヴァピュラは彼女を守ろうと、翼を広げて前に出る。

そんな彼女の肩に、イシュタルは優しく手を置いた。
「落ち着いて、シュネ。こんな男が同族なわけないわ。
もしそうなら、精気を吸い尽くして亡き者にしているわよ」
「あ……。す、済みません……」
我に返ったシュネは体の力を抜いた。
髪は元に戻って振動も止まり、ヴァピュラも翼を畳む。

イシュタルは眉をしかめて男を見た。
「どうせ、呪いで落ちぶれたのでしょ。
生半可な知識で黒呪術に手を染めるから、そういう目に遭うのよ」
『仰る通りです。こいつは“謎の書”で呪われたんですよ』
ヴァピュラは鼻にしわを寄せ、ネスターはぎくりとした。

シュネは小首をかしげた。
「それって“禁呪の書”?
前にも学院にあったし、危ない本なのに、そんな簡単に手に入るの?」
『ええ。書は波長の合う者の所へ、みずから出向くそうですからね。
“謎の書”の表紙には、中の謎を解いた者に絶大なる力を授けると書かれてるんですが、それは真っ赤な嘘、中身を読んだら呪いがかかるようになってるんです』
「ひどい、詐欺じゃない、その本」

『でも、こいつに同情の余地なんかないですよ。
安っぽい罠にかかったのは、プライドが無駄に高いからでしょう。
“禁呪の書”は、所有者に死をもたらすこともあります。
魔法の教師なら知ってて当然なのに、この男ときたら』
翼あるライオンは、あきれたように目の前の男を前足で示した。

「その点、お前達の呪文の書は良心的ね、選ばれた持ち主以外が読んでも、何も起こらないのだから」
口を挟んだイシュタルに、シュネは尋ねた。
「先生の呪い、解くこと出来ませんか? 本を燃やすとかして……」

「読んですぐだったら何とかなったかもね。
でも、ここまで来てしまうともう手遅れ、燃やせばこの男も灰になるわよ。
まあ、その方が、誰にも迷惑がかからなくていいかも知れないけれど」
魔界の女貴族は肩をすくめた。
「何を言うのだ、シュネ、燃やすなどと!
あれは大事な書だ、わたしの命も同然なのだぞ!」
ネスターは叫んだ。

ヴァピュラはさらに続けた。
『こいつはどうでも、魔法学院は、結構大変なことになってるようですよ。
弱ってる生徒が何人か辛い目に遭ってるし、教師にも多少、影響が出てます。
こいつも薄々変だとは思ってたみたいですけど、自分が原因とは認めたくなくて、しらばっくれてたんです』

「えっ、生徒や先生にまで!? 
まずいよ、やっぱり、皆に知らせなきゃ!
早く女王様に言って、何とかしてもらわないと!」
シュネは焦った。
「じょ、女王陛下!? よせ、やめろ! やめてくれ……!」
ネスターは青ざめた。

すると、ずいとイシュタルが前に出て、男の眼を覗き込んだ。
「そうね、やめてあげてもいいわ。
ただし、シュネから手を引くことが条件。
もう決して、彼女と関わらないと約束なさい、話題に出すことも禁止。
それが守れるなら、お前のことは黙っていてあげてもよくってよ」

「う……しかし……。
そ、そうだ、お前達のような胡散臭(うさんくさ)(やから)が、女王陛下にお目通りが叶うはずがない、たとえお会い出来たとしても、お前達などより、わたしの言葉に耳を傾けて頂けるはずだ、そうに決まっている……!
ははは、無駄だぞ、このわたしに(おど)しなど!」
脂汗を流しながら、それでもネスターは虚勢を張る。

シュネは頭に血が上るのを感じた。
もうこれ以上、養父の支離滅裂(しりめつれつ)な話を聞いていたくない。
歯を食いしばると、瞳には再び緑の炎が灯り、髪の一筋一筋が金の蛇に変化していく。

だが、彼女の感情が爆発する寸前、イシュタルが男の頬を張り飛ばした。
「うわっ!?」
面食らったところに、反対側にもびんたの追い打ちをかけられ、ネスターは尻餅をついた。
「な、何をする!」

「いい加減にお黙り、このうつけ者!
もう諦めなさい、シュネはサマエルの養女なのよ!
この期に及んで往生際が悪いこと!
サマエルを通せば、陛下は信じて下さるわ!
お前はシュネの恩人かもしれないけれど、彼は女王の恩人なのだから!」
イシュタルは嫌悪も(あらわ)に言い放った。

「あ、あの……」
我に返ったシュネに目配せし、魔界の女貴族は学院長に指を突きつけた。
「さあ、どうするの?
シュネを諦めればお前は安泰、逆に固執すれば身の破滅よ!
女王の勘気(かんき)(こうむ)って地位も名誉も剥奪され、すべてを失うわ!
さらには罪人として牢に入れられ、最悪、斬首もあり得るわね!」

「う……わ、分かった、もうシュネのことは忘れる、話にも出さない……」
座り込んだまま、ネスターはうなだれた。
「誰かに聞かれたら、シュネはサマエルの養女になったとだけ言いなさい、それ以外のことは口にしないで。約束出来るわね!」

「あ、ああ、約束する……」
学院長は滴る汗をぬぐう。
「破るようなことがあれば、取り返しがつかないことになるわよ?
よっく覚えておきなさい、ファイディー国立魔法学院長、ネスター。
──さ、シュネ、戻りましょ。目覚めたいと強く願って」
「はい……」

次の瞬間、シュネはベッドに座った状態で眼を開けた。
悪夢から目覚めたときのように動悸(どうき)がし、嫌な汗にまみれていた。
「お疲れ様。気分はどう?
これでもう安心ね。あの男が、お前の人生に関わって来ることはないわ」

「……ホントに、そうだといいんですけど……。
あ、あれ……わ、大変、ドレスが濡れちゃう」
いきなり涙があふれ、シュネは慌ててハンカチを目蓋に押し当てた。
「ど、どうしたんだろ……止まらない……」

「好きなだけ泣いていいのよ、シュネ。お前は自由になれたのだから」
「は、はい……」
『シュネ様……?』
心配そうにヴァピュラが顔を覗き込むと、シュネはこらえ切れなくなった。
「ヴァピュラぁ、うわあん!」
彼女はライオンの体にしがみつき、泣き出した。

『あの……』
困惑したような眼を向けて来る少年に、イシュタルは微笑みかけた。
「済まないわね、少し付き合ってあげてちょうだい。
今度こそ本当にあの男から逃げ切れたと思って、感情の解放が起こったのよ」
『分かりました』
ヴァピュラは答え、なだめるように優しく喉を鳴らし続けた。

その様子を微笑ましく見守っていたイシュタルは、やがて何かを思いついたように一人うなずき、視線を宙にさ迷わせた。
そうしている様子は、甥のサマエルによく似ていた。

やがて、少女の嗚咽(おえつ)が鎮まって来たことに気づくと、イシュタルは優しく声をかけた。
「シュネ、気分を変えて、隣でお茶はいかが?
ヴァピュラもご苦労様、もう人型に戻っていいわよ」
「はい」

三人が隣室に行くと、大きな猫が、後ろ足で立ってお茶の支度をしていた。
体毛は(あい)色で足先だけが白く、純白の手袋と靴下を着けているように見える。
「使い魔のエマイユよ。こちらはシュネとヴァピュラ」
イシュタルは皆を引き合わせた。
「初めまして、エマイユでございます」
猫は、ていねいに頭を下げた。

シュネより少し背の低い、使い魔の右眼は金色で左は銀、背中には、蝶蜻蛉(ちょうとんぼ)のような繊細な(はね)が二対、虹色に輝いている。
ブルーレースアゲート(空色縞瑪瑙(そらいろしまめのう))の丸玉が連なる首飾りが、よく似合っていた。

「わあ、可愛いにゃんこ。よろしくね」
「綺麗な猫だなぁ。僕もよろしく」
シュネとヴァピュラは口々に言い、使い魔は会釈(えしゃく)した。
「過分なお言葉。こちらこそ、よろしくお願い致します。
さ、お席にどうぞ」

三人はテーブルにつき、ティータイムを楽しんだ。
甘い焼き菓子と温かいハーブ茶に癒やされて、シュネのささくれ立った心も、穏やかさを取り戻していく。

「わたし、昔、お気に入りの子が死んでから、使い魔を使うのをやめていたの。
でも、それでは不便でしょうと、この子を贈って下さった方がいてね」
そう話すイシュタルにシュネは訊いた。
「エマイユの性別はどっちですか?」

「どちらでもないわ」
イシュタルは使い魔に、後ろを向くよう合図する。
その背中には、ぜんまいを巻く時に使う、巻き鍵がついていた。
「え……」
「あれ?」
シュネとヴァピュラはあっけにとられた。

「この巻き鍵を背中に差した者がエマイユの主人になるの。
その人が鍵を抜くか死なない限り、ずっとね」
「わたしは死にません、壊れても直せばいいだけですから」
使い魔は片目をつぶり、ゴロゴロと喉を鳴らした。
外見も動きも自然で、生身の猫と見分けがつかない。

「エマイユは、人界では『七つの宝』という意味で、体の部分もそれに(ちな)んだ色や材質をしているのよ。
瑠璃(るり)は毛色、金と銀は眼、珊瑚(さんご)は鼻で、シャコ貝は手足の白。
玻璃(はり)は水晶の巻き鍵、瑪瑙(めのう)虹瑪瑙(イリスアゲート)、これで七つね」
イシュタルは、順繰りに猫の体を指して行き、最後に虹色の翅を示した。

「素敵……!」
シュネは瞳を輝かせ、それを見たイシュタルは微笑んだ。
「もう大丈夫のようね、シュネ」
「あ、はい、ご心配おかけしました、ヴァピュラもごめんね」
シュネは、ぺこりと頭を下げる。
「いえ、全然構いません、お元気になられてよかった」
ライオンの少年はにっこりした。

「あ、ところで、魔法学院の方はどうしましょう。
女王様には言わないって、先生とは約束しちゃいましたけど……」
「いや、野放しにしたらまずいですよ、やっぱり」
ヴァピュラは顔をしかめた。

「でも、女王はご懐妊中よ。
エナジーヴァンパイアなんか、危なくて近づけられないわ。
出産まで、母子共にご無事で過ごして頂きたいもの」
イシュタルは冷静に答えた。

「あ、そっか……」
「それは考えてませんでした。困りましたね、どうしましょうか」
ヴァピュラは腕組みをし、シュネは途方に暮れる。

「大丈夫よ、いいことを思いついたの。
ヴァピュラ、リナーシタ達を宝物庫まで連れて来て。
わたし達は先に行くから、後で落ち合いましょう」
イシュタルは言い、全員で部屋を後にした。

かん‐き【勘気】

主君・主人・父親などの怒りに触れ、とがめを受けること。また、その怒りやとがめ。

こうむ‐る【被る・蒙る】

1.いただく。たまわる。2.身にふりかかるものとして受ける。

ちょう‐とんぼ【蝶蜻蛉】

トンボ科の昆虫。体は黒色。翅(はね)は幅広く、先端が透明なほかは黒褐色で紫青色または金緑色の光沢がある。
池沼の上をチョウのように飛ぶ。本州から九州まで分布。

翅(はね wing)

昆虫類にそなわる飛翔器官。鳥類のものに対しては羽の字,あるいは翼 (つばさ) の語をあてる。

しち‐ほう【七宝】

1 仏教で、7種の宝。七種(ななくさ)の宝。七珍。しっぽう。
無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり=ラピスラズリなど)・玻璃(はり=水晶、ガラス)・シャコガイ・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)。
法華経では、金・銀・瑪瑙・瑠璃・シャコガイ・真珠・まい瑰(まいかい=赤い宝石)。

巻き鍵

(ゼンマイ時計などの)ねじ、ねじ巻き

ブルーレースアゲート(空色縞瑪瑙、そらいろしまめのう)

柔らかい空色にレースのように見える白い模様が入っている瑪瑙(アゲート)。
色が均一で半透明のものを玉髄(ぎょくずい=カルセドニー)、縞などの模様があるものをアゲートと呼ぶが、日本では区別があいまい。

イリスアゲート/アイリスアゲート(虹瑪瑙)

イリス(イーリス)はギリシア神話の虹の女神。薄く板状にカットして強い光にかざすと虹の七色に輝く、希少なアゲート。 アゲートは様々な種類があり、多孔質で色付けもしやすいため、着色された物も多く出回っている。

エマイユ(email フランス語)

七宝焼。英語ではエナメル(enamel)。
琺瑯(ほうろう)ともいい、金属の素地にガラス釉(ゆう)を焼きつけて装飾する工芸。