25.龍の旅立ち(1)
「お前がいつまでも戻らないから、立てた予定が台無しになってしまったではないか、まったく!」
夢の中のネスターは、不服そうに眉をしかめた。
シュネはぽかんとした。
「……予定って? あたし、出てく時、帰れるかどうかも分かりませんって、言っときましたよね?」
「とぼけているのか?
魔法学院はファイディー国の最高学府なのだ、その長が再婚ともなれば、学院の内外に知らしめなければならないのだよ。
特に女王陛下には、
「えっ!? 再婚って、まさか、あたしと!?」
耳を疑うシュネには構わず、ネスターはまくし立てた。
「そんなことより、そのチャラチャラした格好は何だ、みっともない。
女王陛下のお名に恥じない行いを心がけなさい。
そもそも学生の本分は学びだ、それに見合った服装をすべきなのだ。
妻となるお前に、わたしがふさわしい衣装を選んでやろう」
「ま、待って下さい、あたしは結婚なんて……!」
「何を言うか、魔法学院の長の妻となる栄誉だぞ、もう物乞いなどしなくとも、何不自由なく暮らせるのだよ。
しかも、命の恩人のわたしに恩返しも出来て一石二鳥、みなしごのお前に、これほど好条件の婚姻はないぞ」
ネスターは、出来の悪い生徒を
今度は、シュネが顔をしかめる番だった。
「……何ですか、それ。あたしを、ずいぶん下に見てくれちゃってますね」
「勝手なのはお前だ。わたしは今まで常に、お前にとって一番良いことばかりを提案して来たのに、お前ときたら、そのすべてを蹴ってしまう。
人生というものはな、逃げてはならないのだ、困難に立ち向かってこそ、一人前になれるのだよ」
「一番いいって、あたしにとってじゃなくて、先生にでしょう!?
先生がどうだろうと、あたしが嫌なんです!
自分の人生は自分で決めます、いくら正しいと思っても、相手はそう思わないこともあるってことが、何で分からないんですか!
押し付けはごめんです、いい加減にして下さい!」
「何でもいい、とにかく、わたしの言うことに従ってみなさい。
そうすれば、いずれ必ず、わたしに感謝することになるのだから」
自信たっぷりに、ネスターは胸を張る。
(はぁ……ダメだ、話が通じない)
シュネはため息をつき、それから思い出した。
(そうだ、ネスター先生って、こういう人だった。どうして忘れてたんだろ。
いつも自分の考えだけが絶対正しくて、他の意見は間違ってるって決めつけ、誰の話も聞く耳持たずに、自説を押し通そうとする。
話してると、頭が変になってきちゃうんだよね。
先生って、ホントにあたし達とおんなじもの見てるのかなあって、マイアさんとよく顔を見合わせてたな……。
“この人の常識は世間の非常識”って言葉がぴったりな人だっけ……)
シュネは頭を振った。
助けられた当初はともかく、シュネが元気になると、ネスターは彼女の言動に一から十まで口出しするようになった。
その過干渉にシュネは疲れ果て、学院に入る頃には、養父の存在そのものにうんざりしてしまっていた。
特に説教は、苦痛以外の何物でもなかった。
理不尽で意味不明な説教が、短いときで一時間、長い時には四時間にも及び、頭の天辺から爪先に至るまで罵倒されることもあり、その間は頭が真っ白になっているのだった。
言われた内容を後から思い出そうとしても、不快なことを延々と言われ続けたことしか覚えていない。
ときには、頭痛や吐き気、発熱で寝込むことがあるほどだった。
いくら命の恩人でも、言っていいことと悪いことがあるはずだが、ネスターはそれが理解出来ない様子だった。
他の教師に助けを求めようにも、シュネは養父の話の内容を覚えていられず、うまく説明も出来なかったため、本人のために叱ってくれているのだとか、怒られるようなことをしたのだろうと、言われて終わりだった。
ネスターの虫の居所が悪いだけで、シュネが何もしなくても説教されることも多々あったのだが。
魔力がうまく制御出来なかったシュネは追い詰められ、自分が間違っているのか、すべてネスターの言う通りにしなければならないのかと悩んだ。
そのため、養父がそばいるだけで、心臓やみぞおちの周辺がしくしくと痛み出したり、気分が悪くなることもしばしばだった。
理解してくれたのは養母だけだったが、周囲はそれを甘やかしていると受け取り、特にネスターは妻を責め、夫婦関係は悪化していった。
そしてマイアが亡くなると、彼女は養父との接触を極力避け、あいさつや当り障りのない会話だけで、なるべく近づかないようにした。
そんな修羅場があったことを、なぜ忘れていたのだろう。
そして、いっときとはいえ、ネスターと結婚しなければならない、などとどうして思い込んでしまったのだろう。
シュネは、夢から覚めたような気持ちになった。
「先生は、たしかにあたしの命の恩人です、そのことには感謝しています。
でも、あたしは先生のペットじゃないし、召使でも奴隷でもありません。
自分の意志を捨ててまで従う義務はないし、結婚もお断りします、もう、あたしに構わないで下さい」
彼女は、きっぱりと言ってのけた。
「ええい、聞き分けのない娘だ!
なぜ、お前自身のためだということが分からないのだ!」
カッとなったネスターは、彼女の腕を捕らえた。
「嫌っ! 放して!」
思わずシュネは叫んだものの、どうにか力の暴走は抑えた。
いくら嫌いな相手でも、心を壊してしまうわけにはいかない。
「シュネ様を放せ!」
その刹那、弾丸のように紅い
ネスターは悲鳴を上げ、彼女の手を離した。
「シンハ!? いつ魔界に来たの?」
彼女の声に、四つ足の獣は牙を外し、振り返る。
その紅いたてがみは、宝石の精霊とは違い、炎で出来てはいなかった。
「あ……シンハじゃない……キミ、誰……?」
そのとき、イシュタルがそばに来て言った。
「シュネ、大丈夫? ごめんなさいね、まさか、こんなにこじれるとは思わなくて……」
「あ、大丈夫です。あたしも、ここまで話が通じないとは思ってなかったですから……」
『そうね、色々と予想外だったわ。
ヴァピュラ、ありがとう、シュネを守ってくれて』
イシュタルは、ライオンの頭をなでた。
『い、いえ、ノックしようとしたらシュネ様の声が聞こえて、思わず扉を開けたんですけど、僕も夢に巻き込まれちゃったようで。
ともかく、シュネ様がご無事でよかった』
ほっとしたように言うライオンは、次期公爵の顔をしていた。
「キミ、ホントにヴァピュラなの? その姿……眼の色も違うけど……」
『これは僕の第二形態で、眼は感情が高ぶると紫に変わるんですよ。
ちなみに、戦の時もこの姿だったんですけどね』
「えっ、そうなの? 気づかなかった……」
『勇壮なシンハ様と比べたら、僕なんかちっさすぎますもんね。
龍のお姿では、お目にも止まらなかったんでしょう』
少し悲しげに、ヴァピュラは言った。
「く、一体何なんだ、お前達は!」
存在を忘れられていたネスターが、噛まれた腕を押さえながら叫んだのは、その時だった。
「わたしはイシュタル、魔界王タナトスの叔母に当たる者。
そして、彼はヴァピュラ、魔界公爵グーシオン家の
低く
「魔界王……公爵、だと……!?」
ネスターは顔面蒼白になり、後ずさった。
「そうよ。よくお聞き、下劣なエナジーヴァンパイア。
シュネには魔界王家の後ろ盾があるのよ、お前ごときが保護者を名乗るなんて、おこがましいと知りなさい」
「せ、先生が、ヴァンパイア……?」
シュネは眼を丸くする。
「い、言いがかりも大概にせい!
ファイディー国の最高学府の長であるわたしを、吸血鬼呼ばわりとはどういうつもりか!」
ネスターは声を荒らげた。
「あら、誰が吸血鬼だなんて言ったの?
お前はエナジーヴァンパイア、自覚もなく、他人の精気を奪う盗人よ!」
イシュタルは、男に指を突きつけた。
「え、精気を……? じゃあ、夢魔とどう違うんですか?」
シュネは思わず尋ねる。
「天と地ほども違うわよ。
わたし達は相手の同意を得て、相手が欲しがる極上の夢と引き換えに精気を頂くでしょう?
もちろん、相手を殺してしまうこともないわ。
それに反して、エナジーヴァンパイアは、とても食い意地が張っているの。
一方的に相手の生命力を
シュネは青ざめた。
「ネ、ネスター先生が、そんな恐ろしい怪物だったなんて……」
「嘘だ! でたらめだ! お前達こそ、化け物のくせに!」
『でたらめじゃないよ、さっき噛みついた時、お前の心が読めたんだ。
お前、自分の奥方を殺してるね』
衝撃的な言葉を、ヴァピュラは口にした。
「こっ、殺した!? マイアさんを!?」
シュネは身を固くし、ヴァピュラにしがみついた。
『だ、騙されるな、シュネ!
わたしは、そんなことはしていない、決して……!」
ネスターの顔は引きつっていた。
『嘘つきだなあ、お前。
お医者が奥方に転地療養を勧めた時、そんな必要はない、妻のことは自分の方が分かっているとか言い張って、奥方をさらに弱らせたくせに。
その他にも色々やらかしてるけど、決定的だったのは、彼女が長年取り組んで来た研究の成果を横取りして部分的に書き換え、自分の論文として発表したことだったな。
しかも、書き換えた部分には間違いがあって、それを学会で指摘されて、論文は取り下げ、っていうおまけつきでね。
彼女はさすがに怒り、それが病状を余計に悪化させたんだ』
「ち、違う、マイアは弱り過ぎていて、遠方への旅は無理だったのだ。
わたしは、妻の体を
『だったら、近場にすればよかったじゃないか。
それに、魔法を使えば遠くても一瞬で行けるよね』
「く……だ、だが、論文は本当に手伝っていたし、修正を終えたら、共同名義で再提出する予定で……」
もごもごとネスターは弁解する。
『ふん、白々しい。奥方の研究を知ってた人間達の記憶まで消して、お蔵入りにしたくせに』
軽蔑したように、ヴァピュラは鼻を鳴らした。
「そんなことはしていない。それに、マイアの死期を早めたのは、シュネだ。
この子に対する教育方針の違いから、妻とわたしとの間に
「えっ……」
シュネは絶句した。
ヴァピュラは鼻にしわを寄せた。
『嘘つけ、逆だよ。シュネ様がいらしたから、奥方も元気が出て、少しだけど寿命も伸びたんだ。
シュネ様、魔力を制御できなかったのも、こいつが邪魔してたからなんですよ、思い出して下さい! 奥方の言葉を!』
不意に記憶が蘇り、シュネは頭を抱えた。
「そうだ、思い出した……!
マイアさんは『わたしが元気だったら、二人で逃げられるのに。ネスターも昔は好きだったけれどもう無理。別れたい』って泣いてた……!
そして、僕の手を握って、『お前だけでも逃げなさい、殺されないうちに』って言ったんだ……!」
彼女は、『僕』という一人称を使っていることにも気づいていなかった。
「く……馬鹿な、マイアがそんなことを言うはずが……」
ネスターは唇を震わせた。
「最高学府の長ともあろう者が、奥方の研究を盗用し、さらに死なせてまでいたの?
あきれたこと。それこそ、ライラ陛下へお伝えしなくてはいけないのではなくて?」
とどめを刺すように、イシュタルが口を挟んだ。
学院長の顔色は紙のように白くなった。