~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

24.龍の宿命(1)

サマエルの望み通りに墓碑を取り除いた後、シンハはリオンの元へ行った。
『ヴァーミリオンよ、汝に告げておかねばならぬことがある。
ライラの惑乱(わくらん)について、なのだが……』
「か、彼女に何かあったの!?」
リオンは、やりかけの仕事を放り出し、彼に駆け寄った。

『開戦直後より、彼女の状態は把握しておったのだが、汝の胸中を(おもんぱか)り、今まで口をつぐんでおった……許せ』
シンハは深く頭を下げた。
「……そ、そうなんだ。あ、まさか記憶が戻っちゃったの?
でも、あれ……ぼくには何も感じ取れない……」
リオンは首をかしげた。

『現在、この次元の位相は、人界とかなりずれておるゆえ、感知は難しかろう。
我が戦時に感じられたは、流された数多(あまた)の血が、我が力をかつてなく増大させたがゆえだ、気に病むでない』
「何の話だ?」
その時、タナトスが戻って来て、話に割り込んだ。
『ライラの苦衷(くちゅう)についてだ。
懐妊(かいにん)が知れてのち、女王の心は千々(ちぢ)に乱れておってな』
「懐妊だと?」

「それって、子供が出来たってこと!?
彼女、結婚したの!? いつ、誰と!?」
リオンは勢い込んで尋ねた。
『否、ライラは未だ独り身。それゆえ、汝の子ではないか、左様に我は思うのだがな』
シンハは、爛々と輝く眼で彼の顔を覗き込んだ。

「えっ!? ぼくの!?」
思わず、リオンの声は上ずる。
「覚えがないとでも言うつもりか、貴様」
魔界の王にじろりと睨まれて、リオンは真っ赤になった。

「……い、いえ。ぼくの子に、間違いないと思います……。
それまで彼女には、キスしかしたことがなかった……でも、別れを決意して……今日で最後だ、って思ったら、どうしても我慢出来なくなって……。
彼女、困ってるんだろうな……ああ、ごめん、ライラ……」

『左様、女王に覚えがないゆえ、夢魔の仕業と考える者もおるようだ。
いずれにせよ、女王たる者が父なし子を(はら)むなど、許されることではあるまい。
赤子が闇に葬られるは必定(ひつじょう)
シンハの瞳の炎が揺らぐ。
「そ、そんな……」
リオンは青ざめた。

タナトスは肩をすくめた。
「ふん、さすが、手の早いサマエルの血を引くだけはあるな。
だがまあ、せっかく授かった命だ。
人間どもがいらんと言うなら、連れ帰って魔族として育てればいい」
「え、でも……」

魔界の王は、口ごもる弟の子孫を、冷ややかに見た。
「何だ、貴様。(はら)ませておいて、今さら責任逃れか」
「いえ、そうじゃなくて、ですね……彼女はもう、ぼくを覚えてないし、どうしたらいいかと……」
「ち、何を言っている。記憶を戻し、母子共に連れてくればいいだけだろう。
ライラと貴様は元々恋仲同士、何の不都合がある」

リオンは唇を噛んだ。
「……そんなこと言ったって、ぼくの我がままで記憶を消したのに、今さら戻すなんてこと、出来ませんよ。
それに、跡継ぎごと女王が消えたら、ファイディーは困るでしょう。
と、とにかく、ぼくの責任です。
彼女には子供を産んでもらって、ぼくが育てますから」
「ふん、当たり前だ」

『汝の子ならば、魔力の強さも尋常ではあるまい、人の手には余るであろう。
……されど、ヴァーミリオンよ。
サタナエルの申す通り、元の(さや)に収まるわけには参らぬのか?
せっかく母となったと言うに、子を取り上げられるライラの身になってもみよ、不憫(ふびん)でならぬわ』
魔界の獅子は首を振り、真っ赤な火の粉が床に散った。

「そ、それは……、考えてみます……けど、ともかく行かなくちゃ」
居ても立っても居られずに、リオンは出発しようとする。
『待つがよい、位相がずれていると申したであろう。
一人では転移などおぼつかぬぞ。我らが力を貸そう」
ライオンが前足を差し出すと、タナトスも面倒くさそうに手を上げた。
「ち、仕方あるまい」
「ありがとうございます」

おじぎをした次の瞬間、リオンは、人界のファイディー城の中にいた。
ほんの一年ほど前まで恋人だったライラ女王、その居城は、夜も更けて人影もなく、灯りもごくわずかだった。
それでも、夜目の利く魔族にとって闇は友、恐れるものは何もない。

十年もの間、密かに女王との愛を育んだ城の中を、リオンは懐かしい思いに浸りつつ、小走りで進んだ。
女王の寝室の隣、何もない壁の前で立ち止まる。
(……ここだ。僕の部屋があったところ)
彼は、一度消した自室を複雑な気分で復元し、ベッドに腰掛けて、ライラの夢に忍び込んだ。

周囲に反対されたにも関わらず、意外にも彼女は産むことを強く望み、もう赤ん坊は臨月になっていた。
リオンは、説得する必要がないことに安堵しつつも、おのれの行為を悔やんだ。
彼女の潜在意識の底に消しきれない記憶が残り、それで、彼との子を欲しがったのかも知れないのだ。

(ごめん、ライラ。今すぐに記憶を全部戻して、何べんでも謝りたいよ。
……でも、勝手なことしたぼくを、キミは許してくれるだろうか……?)
迷いながら、お腹の子を何気なく透視したその刹那、彼は息を呑んだ。
あちこち角度を変え、注意深く胎児を観察する。
そうして、深くため息をつき、うなだれた。

(ああ……やっぱりダメだ。
ぼくらは、最初から……一緒には暮らせない運命だったんだ……)
彼は、倒れるようにベッドに横たわり、彼女の出産に異を唱える者達の夢に入り込んで、思考の操作をし始めた。

それが終わった頃には、もう夜が明けていた。
一睡もしないまま、リオンは魔界の王族達に念話を送った。
“シンハ、タナトス伯父さんも、起きてます?
ライラは、最初から赤ちゃん産むつもりでした。
ぼく、残って、彼女の不安を軽くしてあげたいんですけど”
“それがよかろう”
“天帝どもの処刑日には戻って来い”
二人は短く答えた。

だが、数日経つと、恋しい人のそばにいるせいで、リオンの心は乱れ始めた。
(サマエルも、こんな気持ちだったんだろうか……。
ジルが死んで、子供達、孫達とも別れて……独りぼっちで。
でも、相手が死んでしまったのなら、まだ諦めもつくよね……。
ああ、ライラ、キミに触れたい……!
キスして、抱きしめて、愛してると……ああ、ダメだ、ダメだ!)
苦悩のあまり嗚咽(おえつ)を噛み殺すことが、幾晩か続いた。
すると、城では、すすり泣く幽霊が出るという噂が立ってしまった。

(まずいな、まだ帰れないのに。
縁起でもない噂なんて、ライラの耳に入れたくない。
我慢しなきゃ……でも、やっぱり会いたいよ。
こっそり隠れて……いや、誰かに化けて、……あー、どっちもダメだ、バレたら話がややこしくなる)
彼は頭を抱えた。

(……あ、なら、猫に化けようか。
ライラは猫好きだし、近づいても大丈夫だろう。
いや、物陰からでもいい、ちょっと姿を見るだけでも)
リオンは、ここに来て初めて心が弾むのを感じた。

自室の鏡の前に立ち、呪文を唱える。
「──シザイルルス!」
次の瞬間、そこには、小ぶりだが美しい猫が映っていた。
月光の下、瞳は琥珀(こはく)色に輝き、ふさふさで(つや)やかな毛並みは、髪と同じ栗色だった。

リオンは尻尾とヒゲをピンと立て、鏡の前を行ったり来たりしてみた。
(我ながら中々いいや。気に入ってもらえそうだ)
彼は幸せな気分で、ごろごろと喉を鳴らした。

翌日の午後、リオンは再び変身し、鏡で自分の姿を確認した。
日光を浴びて、彼の毛皮は綺麗なオレンジ色に見えた。
その足で中庭に向かうと、散歩をしていたライラに会ってしまった。
「あら、猫」
心臓が口から飛び出しそうだった。
彼は、震える前足をどうにか揃えて彼女を見上げ、にゃーおと鳴いた。

「いい子ね、ここへおいで」
おっかなびっくり近づくと、女王は、彼の顎の下を上手になでてくれた。
「ふふ。可愛い」
抱き上げられて少し焦ったものの、結局、彼は喉を鳴らして彼女に身を委ねた。

ペマウと名付けられ、飼われることになったのは、リオンには望外の幸運だった。
彼は出来る限り優雅に振る舞い、餌も行儀よく食べた。
女王は、金とトルコ石で毛色に合う首輪を作らせ、謁見の時にまで彼を連れて行った。

医者はお腹の子によくないと言い、家臣達が眉をひそめたのも初めのうちだけで、その行儀のよさとあふれる気品、頭の良さも相まって、すぐに皆も彼の(とりこ)となり、しなやかな仕草に見とれるようになった。

予定日が近づき、ライラが横になることが多くなると、彼は、大きな腹部に鼻を押しつけ、日に何度も様子を見た。
「赤ちゃんに何か話してるの? ペマウ」
ライラになでられた彼は顔を上げ、にゃあと鳴いた。
「わたしもお前と話してみたいわ。猫語が分かればいいのに」
母子共に順調だと彼も伝えたかったが、喉を鳴らすだけで我慢した。

そんな彼を、じっと見つめていたライラが、不意に言った。
「……お前の眼、見たことがあるような気がする。
いつ、どこでだったか、思い出せないけれど……」
居心地が悪くなった彼は顔を背け、立ち上がった。

「どこへ行くの」
リオンは振り返り、小さく一声鳴くと、女王の元を去った。
(ごめんね、ライラ、これでさよならだ。
これ以上一緒にいたら、キミは、ぼくを思い出してしまうかも知れない)

翌日。
姿を消した彼を捜し疲れたライラが、ソファでまどろんでいると、女官達の話し声が聞こえて来た。

「まったく、どこに行ったのかしら、ペマウったら」
「ねぇ、あの猫、魔物かも知れなくてよ」
「……え、何言ってるの?」
「だって、そもそもどこから来たの? お城じゃ誰も飼ってなかったわ。
それに、こんなに捜しても見つからないなんて、変よ」
「でも、猫なら、ちょっとした隙間にでも入れるでしょ。
それに、お城の外から来て、また気まぐれに出てったのかも知れないし」
「そうかしら?
でも、人間の言葉も全部分かってたみたいじゃない、うす気味悪いったら」
「しっ、女王様に聞こえるわよ」

(……ペマウが魔物……?)
彼女は夢うつつにつぶやき、はっとした。
(まさか、あれが、この子の父親……!? 
まあ、何てこと! わたしをもてあそんだだけじゃ足りなくて、また悪さをしに……いえ、違うわ、赤ちゃんを見守るために来たみたいだった。
わたしを見る眼も、優しくて、悲しげで。とても邪悪な魔物とは思えないわ。
……なら、どうして? わたしとの間に、何があったの?
教えて、ペマウ。あなたはこの子の父親なの?
なら、どうしてそれを、わたしは覚えていないの!)

祈るような彼女の心の声を、リオンは聞いていた。
(ああ、ライラ、このままキミを、お腹の子ごとさらっていきたい。
でも、ごめん、ダメなんだ……。
キミを、人間と魔族、国とぼくの狭間で苦しめたくない……。
子供が生まれたら、永遠にさよならだ……二度と会うことはない……)
その夜は、幽霊のすすり泣きが、再び城の住人をおびやかした。

わくらん【惑乱】

冷静な判断ができないほど心が乱れること。また、人の心などをまどわし乱すこと。

くちゅう【苦衷】

苦しい心のうち。

シザイルルス

猫の祖先の一種。

ペマウ(Pami パミ/ペマウ/ピマイ)

古代エジプト 第三中間期 第22王朝の王(前789年頃-784年頃)。
「パミ」はリビアの言葉で、エジプト語に直すとネコを意味する。
したがってエジプト史上ただ一人の、そして世界でも数少ない(?)、自分の名前を「猫です。」と名乗った王様である。
ただし第22王朝の王たちのホームグラウンドは猫の女神バステトの信仰されたブバスティス周辺なので、この名前は「バステト女神のもとにいるもの」として解釈されている。
 「無限∞空間 別館 エジプト神話研究所」より抜粋