23.天帝の罪(5)
「ちっと目を離すと、す~ぐこれだ。何やってんだよぉ、この、浮気者!」
紅い眼をうるませ、少年は叫んだ。
『ダ、ダイアデム、ち、違う……』
サマエルは、いたずらが見つかった子供のような顔になり、ミカエルから身をもぎ離した。
『ご、誤解だ、タナトス、お前からも言ってくれ!』
「あ、うむ。こやつは、看守として当然のことをだな……」
「るせー! こっちの身にもなってみろ!
ついさっき眼が覚めて、サマエルがここにいるって聞いて、やっと会えると思って、飛んで来たんだぞ!
そしたら、お楽しみの真っ最中かよ! くそ、もー知るか、バカ!」
まくし立て、“焔の眸”の化身は駆け出す。
『ま、待ってくれ、ダイアデム! あ』
追いかけようとして、サマエルは兄をちらりと見た。
タナトスは、しっしっと追い払うような仕草をした。
「早く行け。後は誰かにやらせる」
『済まない、頼む』
サマエルは軽く礼をし、走り出す。
地下の暗い通路には、すでに少年の姿はなく、彼は地上に移動した。
外は日が落ち、復元されたパンテオンの市街に灯がともっている。
辺りを探った彼は、目指す相手が、地下への出入口から少し離れた闇の中にひっそりと
『ダ……イアデム……?』
おずおずと、彼は声をかける。
「……分かってるさ、オレだって。
酷い目に遭ったんだし、お前がミカエルのバカを拷問すんの、楽しいって思っても不思議じゃねーってコトは」
宝石の少年はこちらを見ようともせず、独り言のようにつぶやいた。
『……済まない』
サマエルは
「だから、そのコトで謝る必要はねーよ。
けどな、分かってんのか!?
オレ……オレ達は、お前の無事を祈ってたんだ!
絶対大丈夫って思ったり、無理かもって泣いたり、頭おかしくなるくらい、心配してたんだぞ!」
少年は拳を握り締めた。
死の誘惑に打ち勝つことが出来なかった自分を呪い、サマエルはうなだれた。
沈黙の中、少年の体が輝き始める。
黄金のライオンが出現して、炎のたてがみが闇を祓った瞬間、サマエルは、額の角が地面に刺さる勢いで土下座した。
『シンハ、何と言って詫びたらいいのだろう……!
闇を出し抜けと言われれていたのに、私は馬鹿だ、本当に……!』
だが、無言のまま、シンハはくるりと背を向けた。
サマエルは息を呑み、眼をつぶってしまった。
去り行く彼の後ろ姿を見たくなかったのだ。
しかし、聞こえて来たのは、想像もしていなかった言葉だった。
『我が背に乗れ、ルキフェル』
サマエルは、はっと顔を上げた。
目の前に、伏せの姿勢をとったライオンの姿がある。
『い、いいのかい、乗っても……?』
彼は、気後れしたように尋ねた。
『疾く乗れ』
ライオンに促され、サマエルはそろそろと近づき、その背にまたがった。
『振り落とされぬようにしがみつくがよい』
『わ、分かった』
ためらいつつも、温かく波打つ金色の毛皮に顔をうずめ、ライオンに抱きついた途端、彼はおえつを抑えることが出来なくなった。
『ううっ、う、ああ……!』
(シンハが女性しか乗せないと思っていたのは……私の勝手な思い込みか……こんなことなら、もっと早く、生きているうちに乗せてもらえばよかった……)
生きていた頃には流せなかった涙が、シンハの背中を濡らしていく。
『……魔力で実体化させた
行き場をなくした魂は、カオスの闇の中で永遠にさ迷い……
業……私が犯した罪……とは何だ?
浅ましく、女性の精気を吸って生き延びてきたことか?
女神や……人間の女性を愛してしまったことか?
それとも……やはり、この世に生まれて来てしまったこと自体が……?』
滑るように進んでいくライオンの背中で、魔族の王子はつぶやいた。
物思いに沈む彼を乗せ、疾走していた獅子は、やがて呪文を唱えた。
直後、彼らは、さっきまでいた夜の世界から、眩しい日の下に出ていた。
『少々遠きがゆえ、移動魔法を使ったぞ。ルキフェル、見よ』
『……あ、ああ……こ、これは……!』
サマエルは夢から覚めたように眼を見開き、ライオンの背中から滑り下りた。
彼らが立っていたのは、断崖絶壁の上だった。
眼下には黒い森が広がり、曲がりくねった銀色の大河が、縫うように流れていた。
遥か遠く純白の雪を頂いた山並みが連なり、澄み渡った空には、切れ切れに白い雲が浮かんでいる。
どこからか小鳥のさえずりが聞こえ、甘い花の香りも漂って来た。
『シュネとリオンが、汝が昇天する前に、ぜひともここを見せたいと申してな。
……美しき眺めであろう? これこそが汝ら、フェレス族の故郷なのだ』
ライオンは重々しく言った。
『ああ、美しいね……』
絶景に心を奪われたまま、サマエルは答えた。
『二人にお礼を言わなくては。
シンハも、連れて来てくれてありがとう……でも、生きているうちに見たかったな、……』
『嘆くでない、故郷に還った魔族はやがて、この美しき大地の子として生まれ変わるであろうゆえに』
幽霊は眼を伏せた。
『……そうだね。でも、私は駄目だよ。
私の魂は汚れ切っている。生まれ変わることなど出来はしない……ましてや、こんな清浄な地になど……』
サマエルは
『望みを捨ててはならぬ。死はすべてを
確信を込めて、シンハは答えた。
『……そうかな。
ああ、お前には分かるのだったね、私のことが……何度生まれ変わっても』
黄金色のライオンは、重厚な仕種でうなずいた。
『いかにも。最初に相まみえし折、汝はモトであった。
そうして、次に、汝は二十一代前の魔界王、ベリアルとして生まれた』
『ベリアル……お前を救った王、か……。
私が彼に似ていると、以前話してくれたね……』
『左様。王は我を、いずこへ参るにも連れ歩いた、寝所へもな。
それゆえ、妃の嫉妬により王は毒殺された……これも以前話したな。
死の間際、王は我に告げた。“お前だけを愛していた”と……』
『……それも私と同じ……か』
サマエルはつぶやいた。
『早過ぎる別れを惜しんだものの、我が寿命は星と共にあり、いつの日にか、王の生まれ変わりに会えると確信しておった。
そうして、目論見の通り、二十万年ほど後、
されど、やはり、我らはうまくはゆかぬ定めであった。
前世の宿縁ゆえか、彼女は我に病的に執着したあげく、王座を追われ、ついには狂死した……多くは語りとうない……。
その後、再び我は待った。永劫とも思える長き時間を。……なれど……』
ライオンは遠い眼をした。
『……今回も駄目だった、か……。
何と言うか……悲惨な運命ばかりをたどってきたのだね、私達は……。
今度もまた、待つのだね? 私が生まれ変わるのを……?
済まない、私が不甲斐ないせいで、
サマエルは頭を下げる。
『否、待たぬ』
答えると同時に、シンハは勢いよく炎のたてがみを振り立て、生前には夫だった男の幽霊を、燃え立つ紅い瞳で見返した。
『えっ……今、何て?』
聞き違えたかと思い、サマエルは問い返す。
『この件において、我ら四名の意見は一致を見た。
我らは、もはや待つことはせぬ』
魔界の獅子は、かつて神託を告げていたときのように、重々しく宣言した。
(ああ……とうとう、愛想を尽かされてしまった……!)
血色の悪い顔がさらに蒼白になり、サマエルの仮初の体は震え出す。
(それも当然か……長の年月、ひたすら待ち続け、ようやく会えたと思えば、こんな私……愛する者の生まれ変わりと分かっても、すぐに受け入れる気になれなかったのも無理はない……。
その上、やっと結ばれても、この体たらく……。
いくら無限の寿命を持つ宝玉の化身でも、さすがにあきれ果て、待つ気力もなくしてしまったのだろう……。
なのに私は……こうなってしまった今でさえ、別れたくない、いつまでも共にいたいと、許されぬことを望んでしまう)
“焔の眸”への執着心を捨て去るのは不可能なことのように思え、サマエルは地にひざをつき、祈りを捧げた。
(ああ……やっとウィリディスにたどり着き、あなた様を始め、先祖の無念を晴らせたというのに……アナテ女神様……私は……どうしたらいいのでしょう……)
彼の心に感応したかのように、あれほど晴れ渡っていた空が一転、黒雲に覆われたかと思うと、ぽつりぽつりと雨粒が落ち始めた。
雨脚はあっという間に強くなり、たたきつけるような豪雨となる。
しばし無言で、けぶる景色を眺めていたサマエルは、ゆらりと立ち上がり、濡れそぼった姿のまま、とぼとぼと崖に向かって歩き出した。
そうして、止める間もなく、空中に身を投げた。
この程度の高さでは、生きていた時でも死ねないだろうが。
仮初の体も、ここから落ちたら、バラバラの肉片となるのだろうか。
みるみる、地面は近づいて来る。
そのとき、いきなり落下が止まり、気づくと彼は、再びライオンの背中に乗っていた。
『あ……シンハ、……』
『昇天にはまだ早い。ミカエルとゼデキアの処刑は
汝はカオスの貴公子。アナテ神殿の司祭として、その責を果たさねばならぬ』
『……そうだったね。忘れていたよ……』
溜息をつくように、サマエルは答えた。
思考をやめた彼を乗せ、地上に降り立った魔界の獅子は、またも行き先を告げぬまま、
そして、とある門の前で降ろされたサマエルは、再び驚くこととなった。
『……ここは?』
『汝の墓所だ』
彼の死体が埋められた荒野の一角は塀で囲われており、内部は公園のように美しく整えられていた。
芝が植えられ、花壇や噴水まである。
墓石の後ろに置かれた
『……この像は? わざわざ創ってくれたのかい?』
シンハは、体全体をぶるぶると揺すった。
『否。これは、すぐ近場で掘り出されたものよ。
おそらくは神族が侵攻の折、破壊されたもの……それを復元致したのだ』
『そうか。……これはモトなのだね、私ではなく。
なら、墓石を取り払ってアナテの像を隣に置き、ここを戦勝記念の公園にすればいいよ。
私には、墓などいらない……』
『汝がそう望むならば』
ライオンは重々しくうなずく。
『……そういえば、以前、火閃銀龍が、私に言ってくれたことがあったよ。
その身体を美しい石に変え、戦勝記念の像として飾っておいてやろうと。
冷たい墓の下などで眠るより、その方が淋しくないだろうと……』
『ふむ、
『お願いするよ。私は、連中の処刑の日まで、ここで大人しくしているから。
おや、虹だ』
いつの間にか雨は止み、大きな虹が二つも、青い空にかかっていた。
『綺麗だな……まるで、魔族の勝利を祝福しているようだ』
そう言うと、死霊は、地に吸い込まれるように消えて行った。
二重の虹
意味は「卒業、祝福、実現」。