~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

23.天帝の罪(5)

「ちっと目を離すと、す~ぐこれだ。何やってんだよぉ、この、浮気者!」
紅い眼をうるませ、少年は叫んだ。
『ダ、ダイアデム、ち、違う……』
サマエルは、いたずらが見つかった子供のような顔になり、ミカエルから身をもぎ離した。
『ご、誤解だ、タナトス、お前からも言ってくれ!』
「あ、うむ。こやつは、看守として当然のことをだな……」

「るせー! こっちの身にもなってみろ!
ついさっき眼が覚めて、サマエルがここにいるって聞いて、やっと会えると思って、飛んで来たんだぞ!
そしたら、お楽しみの真っ最中かよ! くそ、もー知るか、バカ!」
まくし立て、“焔の眸”の化身は駆け出す。

『ま、待ってくれ、ダイアデム! あ』
追いかけようとして、サマエルは兄をちらりと見た。
タナトスは、しっしっと追い払うような仕草をした。
「早く行け。後は誰かにやらせる」
『済まない、頼む』
サマエルは軽く礼をし、走り出す。

地下の暗い通路には、すでに少年の姿はなく、彼は地上に移動した。
外は日が落ち、復元されたパンテオンの市街に灯がともっている。
辺りを探った彼は、目指す相手が、地下への出入口から少し離れた闇の中にひっそりと(たたず)んでいるのを、見るともなく感じ取った。

『ダ……イアデム……?』
おずおずと、彼は声をかける。
「……分かってるさ、オレだって。
酷い目に遭ったんだし、お前がミカエルのバカを拷問すんの、楽しいって思っても不思議じゃねーってコトは」
宝石の少年はこちらを見ようともせず、独り言のようにつぶやいた。

『……済まない』
サマエルは(こうべ)を垂れた。
「だから、そのコトで謝る必要はねーよ。
けどな、分かってんのか!?
オレ……オレ達は、お前の無事を祈ってたんだ!
絶対大丈夫って思ったり、無理かもって泣いたり、頭おかしくなるくらい、心配してたんだぞ!」
少年は拳を握り締めた。

死の誘惑に打ち勝つことが出来なかった自分を呪い、サマエルはうなだれた。
沈黙の中、少年の体が輝き始める。
黄金のライオンが出現して、炎のたてがみが闇を祓った瞬間、サマエルは、額の角が地面に刺さる勢いで土下座した。
『シンハ、何と言って詫びたらいいのだろう……!
闇を出し抜けと言われれていたのに、私は馬鹿だ、本当に……!』

だが、無言のまま、シンハはくるりと背を向けた。
サマエルは息を呑み、眼をつぶってしまった。
去り行く彼の後ろ姿を見たくなかったのだ。

しかし、聞こえて来たのは、想像もしていなかった言葉だった。
『我が背に乗れ、ルキフェル』
サマエルは、はっと顔を上げた。
目の前に、伏せの姿勢をとったライオンの姿がある。
『い、いいのかい、乗っても……?』
彼は、気後れしたように尋ねた。

『疾く乗れ』
ライオンに促され、サマエルはそろそろと近づき、その背にまたがった。
『振り落とされぬようにしがみつくがよい』
『わ、分かった』
ためらいつつも、温かく波打つ金色の毛皮に顔をうずめ、ライオンに抱きついた途端、彼はおえつを抑えることが出来なくなった。
『ううっ、う、ああ……!』

(シンハが女性しか乗せないと思っていたのは……私の勝手な思い込みか……こんなことなら、もっと早く、生きているうちに乗せてもらえばよかった……)
生きていた頃には流せなかった涙が、シンハの背中を濡らしていく。

『……魔力で実体化させた仮初(かりそめ)の体と涙……本当の涙は枯れ果て、肉体も、土の下で腐肉の塊と成り果てている……。
行き場をなくした魂は、カオスの闇の中で永遠にさ迷い……(ごう)の炎に焼かれて、未来永劫苦しむこととなるのだろう……。
業……私が犯した罪……とは何だ?
浅ましく、女性の精気を吸って生き延びてきたことか?
女神や……人間の女性を愛してしまったことか?
それとも……やはり、この世に生まれて来てしまったこと自体が……?』
滑るように進んでいくライオンの背中で、魔族の王子はつぶやいた。

物思いに沈む彼を乗せ、疾走していた獅子は、やがて呪文を唱えた。
直後、彼らは、さっきまでいた夜の世界から、眩しい日の下に出ていた。
『少々遠きがゆえ、移動魔法を使ったぞ。ルキフェル、見よ』
『……あ、ああ……こ、これは……!』
サマエルは夢から覚めたように眼を見開き、ライオンの背中から滑り下りた。

彼らが立っていたのは、断崖絶壁の上だった。
眼下には黒い森が広がり、曲がりくねった銀色の大河が、縫うように流れていた。
遥か遠く純白の雪を頂いた山並みが連なり、澄み渡った空には、切れ切れに白い雲が浮かんでいる。
どこからか小鳥のさえずりが聞こえ、甘い花の香りも漂って来た。

『シュネとリオンが、汝が昇天する前に、ぜひともここを見せたいと申してな。
……美しき眺めであろう? これこそが汝ら、フェレス族の故郷なのだ』
ライオンは重々しく言った。
『ああ、美しいね……』
絶景に心を奪われたまま、サマエルは答えた。

『二人にお礼を言わなくては。
シンハも、連れて来てくれてありがとう……でも、生きているうちに見たかったな、……』
『嘆くでない、故郷に還った魔族はやがて、この美しき大地の子として生まれ変わるであろうゆえに』

幽霊は眼を伏せた。
『……そうだね。でも、私は駄目だよ。
私の魂は汚れ切っている。生まれ変わることなど出来はしない……ましてや、こんな清浄な地になど……』
サマエルは(かぶり)を振る。
『望みを捨ててはならぬ。死はすべてを(すす)ぐゆえ』
確信を込めて、シンハは答えた。

『……そうかな。
ああ、お前には分かるのだったね、私のことが……何度生まれ変わっても』
黄金色のライオンは、重厚な仕種でうなずいた。
『いかにも。最初に相まみえし折、汝はモトであった。
そうして、次に、汝は二十一代前の魔界王、ベリアルとして生まれた』

『ベリアル……お前を救った王、か……。
私が彼に似ていると、以前話してくれたね……』
『左様。王は我を、いずこへ参るにも連れ歩いた、寝所へもな。
それゆえ、妃の嫉妬により王は毒殺された……これも以前話したな。
死の間際、王は我に告げた。“お前だけを愛していた”と……』
『……それも私と同じ……か』
サマエルはつぶやいた。

『早過ぎる別れを惜しんだものの、我が寿命は星と共にあり、いつの日にか、王の生まれ変わりに会えると確信しておった。
そうして、目論見の通り、二十万年ほど後、()の王は女性(にょしょう)……女王ディーネとして生まれ変わったのだ。
されど、やはり、我らはうまくはゆかぬ定めであった。
前世の宿縁ゆえか、彼女は我に病的に執着したあげく、王座を追われ、ついには狂死した……多くは語りとうない……。
その後、再び我は待った。永劫とも思える長き時間を。……なれど……』
ライオンは遠い眼をした。

『……今回も駄目だった、か……。
何と言うか……悲惨な運命ばかりをたどってきたのだね、私達は……。
今度もまた、待つのだね? 私が生まれ変わるのを……?
済まない、私が不甲斐ないせいで、今生(こんじょう)でも添い遂げることが出来なかったね……』
サマエルは頭を下げる。

『否、待たぬ』
答えると同時に、シンハは勢いよく炎のたてがみを振り立て、生前には夫だった男の幽霊を、燃え立つ紅い瞳で見返した。
『えっ……今、何て?』
聞き違えたかと思い、サマエルは問い返す。

『この件において、我ら四名の意見は一致を見た。
我らは、もはや待つことはせぬ』
魔界の獅子は、かつて神託を告げていたときのように、重々しく宣言した。
(ああ……とうとう、愛想を尽かされてしまった……!)
血色の悪い顔がさらに蒼白になり、サマエルの仮初の体は震え出す。

(それも当然か……長の年月、ひたすら待ち続け、ようやく会えたと思えば、こんな私……愛する者の生まれ変わりと分かっても、すぐに受け入れる気になれなかったのも無理はない……。
その上、やっと結ばれても、この体たらく……。
いくら無限の寿命を持つ宝玉の化身でも、さすがにあきれ果て、待つ気力もなくしてしまったのだろう……。
なのに私は……こうなってしまった今でさえ、別れたくない、いつまでも共にいたいと、許されぬことを望んでしまう)

“焔の眸”への執着心を捨て去るのは不可能なことのように思え、サマエルは地にひざをつき、祈りを捧げた。
(ああ……やっとウィリディスにたどり着き、あなた様を始め、先祖の無念を晴らせたというのに……アナテ女神様……私は……どうしたらいいのでしょう……)
彼の心に感応したかのように、あれほど晴れ渡っていた空が一転、黒雲に覆われたかと思うと、ぽつりぽつりと雨粒が落ち始めた。
雨脚はあっという間に強くなり、たたきつけるような豪雨となる。

しばし無言で、けぶる景色を眺めていたサマエルは、ゆらりと立ち上がり、濡れそぼった姿のまま、とぼとぼと崖に向かって歩き出した。 
そうして、止める間もなく、空中に身を投げた。

この程度の高さでは、生きていた時でも死ねないだろうが。
仮初の体も、ここから落ちたら、バラバラの肉片となるのだろうか。
みるみる、地面は近づいて来る。
そのとき、いきなり落下が止まり、気づくと彼は、再びライオンの背中に乗っていた。
『あ……シンハ、……』

『昇天にはまだ早い。ミカエルとゼデキアの処刑は(すべから)く見届けよ。
汝はカオスの貴公子。アナテ神殿の司祭として、その責を果たさねばならぬ』
『……そうだったね。忘れていたよ……』
溜息をつくように、サマエルは答えた。
思考をやめた彼を乗せ、地上に降り立った魔界の獅子は、またも行き先を告げぬまま、篠突(しのつ)く雨の中を疾走し始めた。

そして、とある門の前で降ろされたサマエルは、再び驚くこととなった。
『……ここは?』
『汝の墓所だ』
彼の死体が埋められた荒野の一角は塀で囲われており、内部は公園のように美しく整えられていた。
芝が植えられ、花壇や噴水まである。
墓石の後ろに置かれた雪花石膏(アラバスター)製の彫像は、サマエルの背丈の倍ほどもあり、顔も彼に瓜二つだった。

『……この像は? わざわざ創ってくれたのかい?』
シンハは、体全体をぶるぶると揺すった。
『否。これは、すぐ近場で掘り出されたものよ。
おそらくは神族が侵攻の折、破壊されたもの……それを復元致したのだ』

『そうか。……これはモトなのだね、私ではなく。
なら、墓石を取り払ってアナテの像を隣に置き、ここを戦勝記念の公園にすればいいよ。
私には、墓などいらない……』
『汝がそう望むならば』
ライオンは重々しくうなずく。

『……そういえば、以前、火閃銀龍が、私に言ってくれたことがあったよ。
その身体を美しい石に変え、戦勝記念の像として飾っておいてやろうと。
冷たい墓の下などで眠るより、その方が淋しくないだろうと……』
『ふむ、()の龍がか。ならば、ぜひとも左様に取り計るとしよう』

『お願いするよ。私は、連中の処刑の日まで、ここで大人しくしているから。
おや、虹だ』
いつの間にか雨は止み、大きな虹が二つも、青い空にかかっていた。
『綺麗だな……まるで、魔族の勝利を祝福しているようだ』
そう言うと、死霊は、地に吸い込まれるように消えて行った。

二重の虹

意味は「卒業、祝福、実現」。