~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

22.戦の帰結(3)

そのとき、突如ドアが開き、大きな羽音がして、何かがサマエルの前をかすめると同時に、一人の天使が駆け込んで来た。
「ラファエル!」

『おや、ウリエル、何の用かな?』
魔界の王子は、悠然と尋ねた。
「あ、いや……」
(なまめ)かしい彼の姿態に、ウリエルαは頬を赤らめ、眼を(そら)す。
金のカブト虫が、その肩に止まった。
「スカサリの様子がおかしくて。何かあったかと……」

『おやおや、忠義な使い魔だな。
残念だよ。いいところだったのに』
サマエルは、悪びれるでもなく身を起こした。
「な……!?」
彼の下にいる裸の義弟に気づき、ウリエルαは絶句した。

『どうにも説得がうまくいかなくてね、実力行使に出たのさ』
サマエルは肩をすくめた。
「何!? 彼を放せ!」
『嫌だね』
再びサマエルは、天使に覆いかぶさる。

「よせ、サマエル」
『──ヴォクティム!』
サマエルは、近づこうとした天使の動きを呪文で封じた。
『ふふ、そこで見ているといいよ、彼が私のものになるところを、ね』
その妖艶な微笑は、死刑宣告も同様だった。
囚われたラファエルαの顔から、血の気が引く。

「か、彼は大事な弟、お願いだ、解放してくれ!
わたしに出来ることなら、何でもするゆえ!」
天使の背中には冷たい汗が流れ、振り絞る声は、悲壮にかすれていた。
『……何でも? 本当に?』
「ああ、約束する!」

『ならば、私を、諦めることが出来るか?』
サマエルは、自分の胸に手を当てた。
「何?」
ウリエルαは眼を見開く。
『私に、彼を諦めろと言うなら、お前の方も、私を諦めるべきではないのか?
それが順当というものだろう』
サマエルはにやりとする。

「う……」
ウリエルαは言葉に詰まった。
『どうするのだ? 私は空腹だ、早く決めて欲しいな』
「わ、分かった……諦めよう……わたしは……もはや、お前を求めぬ……」
天使はうなだれた。

魔界の王子は肩をすくめた。
『何だ、あっけない。私に対する気持ちは、その程度だったのだね』
ウリエルαは、ばっと顔を上げた。
「何だと、お前が諦めろと申したのではないか!
い、命に関わることなのだぞ……!」
天使は声を震わせた。

『そうかな。“焔の眸”は、兄弟である“黯黒の眸”を、私が壊そうとしたとき、止めなかったぞ。
私の望みはすべて叶えたい、たとえそれが間違っていても。そう言ってくれた……』
サマエルは、当時を思い起こすように、遠い眼をした。
「むう……」
唸るウリエルαの顔色は、蒼白を通り越して土気色になっていた。

『ふふ、これが、“紅龍を愛す”ということさ。並の神経では無理なのだよ。
さて、後は虫退治か』
サマエルはベッドから下りると、ウリエルαの胸に人差し指を突き立て、金蚕を鋭い爪で貫いた。
「うっ……!?」
痛みはなかったが、天使は驚愕の眼差しで彼を見た。

『よし。次はこれを入れるよ。
体の外からは虫に見え、魔族には味方と分かる信号を出すのだ』
彼は血まみれの指で、息子達のダミーに似せて創ったものを、つまんで見せた。
ウリエルαは呆然と、その作業を見守る。

それから、サマエルは、ベッドの天使にも同様の処置をした。
『……ときに、ウリエル。
彼は、私に精気を吸われて弱っている、早く補充してやらないと、死ぬよ。
裸で、触れる部分から一気に送り込まないと、間に合わないぞ』
王子はパチンと指を鳴らした。

「サマエル、お前……!」
金縛りを解かれた天使は、怒りも露わに、彼に詰め寄る。
『いいのかい? 心拍、呼吸共に、どんどん弱くなっているが』
サマエルはベッドを示した。
「く……!」
ウリエルαは歯噛みし、衣を脱ぎ捨てた。
「しっかりしろ、今、助けてやる!」

(……お別れだな、ウリエル。
ラファエル、彼と幸せに……)
魔界の王子はつぶやき、霊体化して壁を抜ける。

闇に沈む回廊を漂うように移動して、ガブリエルαの部屋に入る寸前、彼は漆黒の衣をまとった。

突然の亡者の出現にも、女天使は動じなかった。
「わたしが欲しくていらしたのですね?
構いませんわ、自由と引き換えになら。
ミカエルなどより、あなた相手の方がマシです、なぜなら、これは公平な取引ですもの……」
そう言いながらも、握り締める彼女の華奢な拳は、小刻みに震えている。

サマエルは、大きく息を吐いた。
『いや、見返りは要求しないと言ったはずだよ』
女天使は(かぶり)を振った。
「本当は迷っているんです。寝返っても、わたしの居場所はありません。
だって、本体が生きているんですもの。
けれど、このままいてもミカエルに……わたし、どうしたらいいのか……」

『心配はいらないよ。複製といっても別の命だ。
サリエルの複製は双子の弟として扱われているし、キミも、別人として生きたらどうかな』
サマエルは穏やかに言い聞かせた。
「え……別人として?」
女天使は、ぽかんとした。

『嫌かい?』
「いいえ。……素敵ですわね」
微笑む彼女に触れて気絶させ、ベッドに寝かせ、彼は虫をダミーと取り替える。
『お休み。よい夢を』
ささやいて、彼は部屋を出た。

その足で彼はラジエルαの下へ行き、前置きなしに、胸に爪を突き立てた。
「う……!?」
『虫を退治して、ダミーを入れた。
魔族には味方として扱われるが、強制はしない』
うろたえるラジエルαに素っ気なく告げ、彼は背を向けた。

「ま、待て、サマエル!」
胸を押さえ、ラジエルαが叫ぶ。
無視して去ろうとした彼に、天使はさらに呼びかけた。
「待ってくれ、礼くらい言わせてくれ!」

『え……』
てっきり罵倒されると思っていたサマエルは、思わず振り向く。
「不意打ちは酷いぞ、死ぬかと思った。
されど、これで仇が討てる、感謝の言葉もない」
天使は深々と頭を下げた。

『……仇?』
サマエルは面食らった。
「左様、汎神殿の爆発で、犠牲になられた女神様のな……」
ラジエルαは目頭を押さえた。
『……お前、恋仲の女神がいたのだね』

「ああ。人界から来られた方で、戦が終わったら婚姻の約束も交わしていた……。
わたしがホムンクルスでも、心は変わらぬと仰って下さり……。
されど、婚姻の権利は剥奪され、虫のせいで裏切りもならず……密かに煩悶(はんもん)していたのだ……」

『そうだったか、辛かったな』
「されど、もはやわたしは自由を得た、幾重にも礼を言うぞ、サマエル!」
ラジエルαは、いきなり彼を抱きしめた。
『……!』
固まったサマエルに、天使は笑いかけた。
「これでおあいこだ、同志よ。他の者も解放してくれたか?」

『そう……いや、ハニエルがまだだったな。
ラファエルは、ウリエルに託して来たよ』
「左様か。あの二人、うまくいってくれればいいが」
『……知っていたのか』
「長い付き合いだからな。さ、早く、彼女も自由にしてやってくれ」
『分かった』

【煩悶】(はんもん)

いろいろ悩み苦しむこと。苦しみもだえること。