22.戦の帰結(3)
そのとき、突如ドアが開き、大きな羽音がして、何かがサマエルの前をかすめると同時に、一人の天使が駆け込んで来た。
「ラファエル!」
『おや、ウリエル、何の用かな?』
魔界の王子は、悠然と尋ねた。
「あ、いや……」
金のカブト虫が、その肩に止まった。
「スカサリの様子がおかしくて。何かあったかと……」
『おやおや、忠義な使い魔だな。
残念だよ。いいところだったのに』
サマエルは、悪びれるでもなく身を起こした。
「な……!?」
彼の下にいる裸の義弟に気づき、ウリエルαは絶句した。
『どうにも説得がうまくいかなくてね、実力行使に出たのさ』
サマエルは肩をすくめた。
「何!? 彼を放せ!」
『嫌だね』
再びサマエルは、天使に覆いかぶさる。
「よせ、サマエル」
『──ヴォクティム!』
サマエルは、近づこうとした天使の動きを呪文で封じた。
『ふふ、そこで見ているといいよ、彼が私のものになるところを、ね』
その妖艶な微笑は、死刑宣告も同様だった。
囚われたラファエルαの顔から、血の気が引く。
「か、彼は大事な弟、お願いだ、解放してくれ!
わたしに出来ることなら、何でもするゆえ!」
天使の背中には冷たい汗が流れ、振り絞る声は、悲壮にかすれていた。
『……何でも? 本当に?』
「ああ、約束する!」
『ならば、私を、諦めることが出来るか?』
サマエルは、自分の胸に手を当てた。
「何?」
ウリエルαは眼を見開く。
『私に、彼を諦めろと言うなら、お前の方も、私を諦めるべきではないのか?
それが順当というものだろう』
サマエルはにやりとする。
「う……」
ウリエルαは言葉に詰まった。
『どうするのだ? 私は空腹だ、早く決めて欲しいな』
「わ、分かった……諦めよう……わたしは……もはや、お前を求めぬ……」
天使はうなだれた。
魔界の王子は肩をすくめた。
『何だ、あっけない。私に対する気持ちは、その程度だったのだね』
ウリエルαは、ばっと顔を上げた。
「何だと、お前が諦めろと申したのではないか!
い、命に関わることなのだぞ……!」
天使は声を震わせた。
『そうかな。“焔の眸”は、兄弟である“黯黒の眸”を、私が壊そうとしたとき、止めなかったぞ。
私の望みはすべて叶えたい、たとえそれが間違っていても。そう言ってくれた……』
サマエルは、当時を思い起こすように、遠い眼をした。
「むう……」
唸るウリエルαの顔色は、蒼白を通り越して土気色になっていた。
『ふふ、これが、“紅龍を愛す”ということさ。並の神経では無理なのだよ。
さて、後は虫退治か』
サマエルはベッドから下りると、ウリエルαの胸に人差し指を突き立て、金蚕を鋭い爪で貫いた。
「うっ……!?」
痛みはなかったが、天使は驚愕の眼差しで彼を見た。
『よし。次はこれを入れるよ。
体の外からは虫に見え、魔族には味方と分かる信号を出すのだ』
彼は血まみれの指で、息子達のダミーに似せて創ったものを、つまんで見せた。
ウリエルαは呆然と、その作業を見守る。
それから、サマエルは、ベッドの天使にも同様の処置をした。
『……ときに、ウリエル。
彼は、私に精気を吸われて弱っている、早く補充してやらないと、死ぬよ。
裸で、触れる部分から一気に送り込まないと、間に合わないぞ』
王子はパチンと指を鳴らした。
「サマエル、お前……!」
金縛りを解かれた天使は、怒りも露わに、彼に詰め寄る。
『いいのかい? 心拍、呼吸共に、どんどん弱くなっているが』
サマエルはベッドを示した。
「く……!」
ウリエルαは歯噛みし、衣を脱ぎ捨てた。
「しっかりしろ、今、助けてやる!」
(……お別れだな、ウリエル。
ラファエル、彼と幸せに……)
魔界の王子はつぶやき、霊体化して壁を抜ける。
闇に沈む回廊を漂うように移動して、ガブリエルαの部屋に入る寸前、彼は漆黒の衣をまとった。
突然の亡者の出現にも、女天使は動じなかった。
「わたしが欲しくていらしたのですね?
構いませんわ、自由と引き換えになら。
ミカエルなどより、あなた相手の方がマシです、なぜなら、これは公平な取引ですもの……」
そう言いながらも、握り締める彼女の華奢な拳は、小刻みに震えている。
サマエルは、大きく息を吐いた。
『いや、見返りは要求しないと言ったはずだよ』
女天使は
「本当は迷っているんです。寝返っても、わたしの居場所はありません。
だって、本体が生きているんですもの。
けれど、このままいてもミカエルに……わたし、どうしたらいいのか……」
『心配はいらないよ。複製といっても別の命だ。
サリエルの複製は双子の弟として扱われているし、キミも、別人として生きたらどうかな』
サマエルは穏やかに言い聞かせた。
「え……別人として?」
女天使は、ぽかんとした。
『嫌かい?』
「いいえ。……素敵ですわね」
微笑む彼女に触れて気絶させ、ベッドに寝かせ、彼は虫をダミーと取り替える。
『お休み。よい夢を』
ささやいて、彼は部屋を出た。
その足で彼はラジエルαの下へ行き、前置きなしに、胸に爪を突き立てた。
「う……!?」
『虫を退治して、ダミーを入れた。
魔族には味方として扱われるが、強制はしない』
うろたえるラジエルαに素っ気なく告げ、彼は背を向けた。
「ま、待て、サマエル!」
胸を押さえ、ラジエルαが叫ぶ。
無視して去ろうとした彼に、天使はさらに呼びかけた。
「待ってくれ、礼くらい言わせてくれ!」
『え……』
てっきり罵倒されると思っていたサマエルは、思わず振り向く。
「不意打ちは酷いぞ、死ぬかと思った。
されど、これで仇が討てる、感謝の言葉もない」
天使は深々と頭を下げた。
『……仇?』
サマエルは面食らった。
「左様、汎神殿の爆発で、犠牲になられた女神様のな……」
ラジエルαは目頭を押さえた。
『……お前、恋仲の女神がいたのだね』
「ああ。人界から来られた方で、戦が終わったら婚姻の約束も交わしていた……。
わたしがホムンクルスでも、心は変わらぬと仰って下さり……。
されど、婚姻の権利は剥奪され、虫のせいで裏切りもならず……密かに
『そうだったか、辛かったな』
「されど、もはやわたしは自由を得た、幾重にも礼を言うぞ、サマエル!」
ラジエルαは、いきなり彼を抱きしめた。
『……!』
固まったサマエルに、天使は笑いかけた。
「これでおあいこだ、同志よ。他の者も解放してくれたか?」
『そう……いや、ハニエルがまだだったな。
ラファエルは、ウリエルに託して来たよ』
「左様か。あの二人、うまくいってくれればいいが」
『……知っていたのか』
「長い付き合いだからな。さ、早く、彼女も自由にしてやってくれ」
『分かった』
【煩悶】(はんもん)
いろいろ悩み苦しむこと。苦しみもだえること。