~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

21.故郷への帰還(4)

その数時間前、天帝ゼデキアの自室に、七大天使達とアスベエル、サリエルとリナーシタ、フレイアとハニエルとが一同に会していた。
天帝も入れて十三人という不吉な数に、気づいている者は誰もいない。

ハニエルは、ふんぞり返っているミカエルから顔を背け、メタトロンはそんな二人を眉をしかめて見、他の複製達は念で何事か会話しているようだった。
「怖いわ、どうなるの、わたくし達……?」
しがみついて来る女神に、アスベエルは、どうにか笑顔を向けた。
「大丈夫ですよ、皆様いらっしゃいますから」

「案ずるな、フレイア。身を隠すは一時、必ずや戻って来れようほどにの」
天帝は、ひ孫に優しく声をかけた。
「は、はい……」
「皆の者、こちらへ參れ」

部屋の奥、壁全面を覆う初代天帝の肖像画の前に皆を導いたゼデキアは、模様が彫り込まれた、黄金の額縁に手を当てた。
「──クニクルム・オース!」
肖像画が白く輝き、天帝一族の紋章が刻まれた巨大な扉が現れる。
「ようし、貴様ら! 天帝様方をお守りし、()く荒野へ向かうのだ!」
ミカエルは声を張り上げた。

天帝は、即座にそれを否定した。
「何を申すか、荒野になど行かぬ。
申したであろう、潜むは一時、魔物ごとき、すぐにも殲滅(せんめつ)してくれるわ!
それより、疾く輿(こし)の用意を致せ!
敵に感知されぬよう、これより先、魔法の使用はまかりならぬ、よいな!」

「ご命令のままに……。
──カンジュア!」
叱責されたミカエルは、子供のように膨れ面をしつつも呪文を唱え、輿を出した。
天帝とフレイアはそれに乗り、四人の近衛兵が担ぎ上げる。
不安げな表情でアスベエルを見下ろすひ孫の肩を抱き、天帝はささやいた。
「すべてうまくいく、余がついておるでな」
「はい、ひいお祖父様……」

「急げ、魔物共が来ぬうちに!」
松明(たいまつ)を手にミカエルが先頭に立ち、他の天使達は、燭台を持って輿の横と後ろとに付き従う。

長い緩やかな坂を下り、一行はやがて、五人が横並びで通れるほど広い通路に出た。
床や壁、高い天井に施された(きら)びやかな装飾が、揺らぐ灯りに照らし出される。
遙かなる太古、パンテオンと共に作られた、この天帝一族専用の避難路が、実際に使われるのは初めてのことだった。

そうして、かなりの距離を歩いたと思われる頃、天帝の私室にあったものとまったく同じ扉が見えて来た。
「お、ここですな」
近づこうとするミカエルを、ゼデキアは制した。
「いや、まだじゃ」
「え、違うのですか?」
フレイアも訊く。

「左様、もっと先じゃ」
そこで、一行は再び歩き出した。
次第に、通路は狭く天井も低くなり、装飾もなくなって、周囲の闇だけが深まっていく。

「よし、止まれ」
何もない場所で、突如、天帝は命じた。
「どうされたのですか、天帝様」
けげんな顔で、ミカエルが振り返る。

「ひいお祖父様……?」
フレイアの声も瞳も、心細げに揺れていた。
「かようなところに、何か?」
ミカエルが灯りを掲げてみても、何も見えない。

顔を見合わせる天使達を尻目に、天帝は両手を高く掲げ、呪文を唱えた。
「我は天帝の血を継ぐ者、偉大なる父祖よ、我が血に応え、真なる路を示せ!
──セクルーサ・ポルトゥム!」

すると、目の前の土壁に、ぽかりと大きな穴が開いた。
中は、やはり真っ暗で、行き先も見えない。
「よし、行け」
天帝は先を促し、一行は再び進み始めた。
闇に塗りつぶされた、荒削りな通路が延々と続き、本当にこれが正しい道なのか疑問を挟むことも許されない中、皆は黙々と進んだ。

“アスベエル、怖いわ”
フレイアが念話で訴えて来る。
“大丈夫です、何があっても、俺がお守りしますから”
彼は答え、自分の後ろを歩く二人に訊いた。
“疲れないか、サリエル、リナーシタ”
“ううん、平気”
“僕も大丈夫”
無理をしているような答えが返って来た。

それでも、彼らの行為はやがて報われた。
さっき見たものとそっくり同じ扉が、再び現れたのだ。
「着いたぞ。ここが、古より伝えられておる隠れ家じゃ、下ろせ」
天帝は輿を降り、扉に掌を押し当てた。
「──スイ・フォラメン!」
扉が開き、数百人規模の舞踏会が出来そうな広い空間が現れて、皆は思わず歓声を上げる。

「先ほどの扉は、敵の眼を(あざむ)くための贋物(がんぶつ)じゃ。
無論、あれも厳重に封じられておる、いかにも我らが隠れておるように見せかけるためにな。
用意周到なる先祖に、感謝せねばならぬ」
「まあ、本当にありがたいわ」
フレイアは安堵の吐息を漏らし、天使達は声を揃えた。
「まことにもって、仰る通りにございます」

周囲にはたくさんの部屋があり、まずは最奥に設けられた天帝の執務室に、彼らは入ってみた。
一回りほど小さいながらも、内部は地上と瓜二つだった。
「まあ、上のとそっくりね」
フレイアは眼を丸くする。

「左様じゃな。
さて、フレイア、疲れたであろう、ここまで来れば安心じゃ、向かいの部屋にて休息を取るがよい。後で、共に食事を摂ることとしよう。
アスベエル、ハニエルとサリエルと共に、警護に当たれ」
「は」
天使達は頭を下げる。
「では、後ほど」
女神も礼をし、五人は部屋を出た。

それを見送った天帝は、机に歩み寄り、横のボタンを押す。
現れたスクリーンと操縦レバーを見て、ミカエルは言った。
「おお、装置も同じですな」

天帝はうなずき、空中に投影された景色に眼をやる。
「ベリアスめ、やはり臆病風に吹かれおったか、戻さぬな。
まあ、それも想定のうちよ。
パンテオンは、いずこであろうと、地に触れれば自爆する仕かけじゃ。
強力な結界も張ったゆえ、魔物共はもはや、罠より逃がれられぬ」

「されど、天帝様。やはり、パンテオンごと破壊するのはもったいないと存じますが」
「分かっておらぬな、ミカエル。
地上の建造物など飾りに過ぎぬ、切り捨てようとも、何の痛痒(つうよう)も感じぬわ。
主要な機能はすべて、地下に集約されておるゆえの」
「……左様で」

「爆発の混乱に乗じ、我らは人界へと移る。
天界の君主たる余に逆らう者は不要、複製があればよい、それを用いて人族を駆逐し、人界に居城を築く。
この地に固執する必要などないわ」
天帝はきっぱりと言い切った。

「まことにもって、素晴らしきお考え」
ミカエルは、感極まった声で頭を下げた。
残る天使達は顔を見合わせたが、彼らに発言権は無きに等しかったので、黙って礼をするしかなかった。

『……ふふ。さて、そううまく行くかな?』
どこか聞き覚えのある声が、隠れ家に響いたのはその時だった。
「何奴!」
皆が辺りを見回すと、壁の中から青白い悪霊が、湧き出るように現れて来るところだった。

「き、貴様!」
『隠れても無駄だ。魔族は必ず、ここを見つけ出す。
逃しはしない、この地下が、お前達の墓場になることだろう。
墓穴を掘る手間が省けるな、くくく……』
異様に紅い唇から、呪いのような言葉が紡ぎ出される。
「負け惜しみを! 彼奴らは今頃、パンテオンと運命を共に……」
ミカエルの言葉の途中で、突如、地鳴りのような音と振動が、隠れ家を揺るがした。