~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

21.故郷への帰還(2)

こうして魔軍は、汎神殿のエントランスホールに突入した。
中は外観よりもさらに壮麗で、四頭の龍達が悠々と羽ばたけるほど広く、天井も高かった。
ここでも天使達の猛攻は続き、前が見えないほどで、苛立ったタナトスは長い尾を振り回した。

“くそ、鬱陶(うっとう)しい! シンハ、何とかしろ!”
『相分かった』
先ほど同様、シンハは金の針を呼び出したが、天使は次々に現れて、切りがない。

“くそ、雑魚にかかずらっていられるか!”
一刻も早くゼデキアを捕らえなければと、気が()くタナトスは吼えた。
“シンハ、この場は任せる!
リオンとシュネ、マルショシアスと紅龍軍は俺に続け!
残りはシンハに加勢!
シェミハザ、俺の肩に乗れ!”

「で、ですが、恐れ多い……」
ためらう堕天使を、気の短い黔龍(けんりゅう)は尾を伸ばしてむんずとつかまえ、強引に自分の肩に乗せた。
“さあ、とっとと地下へ案内しろ!”

「は、はい……ではまず、この突き当りを、左に折れて下さいませ」
言われた通り曲がったそのとき、ハツラツとした念話が聞こえて来た。
“タナトス様、ヴァピュラです。女天使がいっぱいの部屋を見つけました!
三、四十人くらい、います!”
それは、グーシオン公爵の長男の心の声だった。

“そうか、よくやった、ヴァピュラ。逃げないよう見張っておれ。
ただし、食うなよ”
“も、もちろんです、僕、いえ、わたしは。
でも、何か、他の皆は眼の色が変わってて、危ない気がしてますけど……”
ヴァピュラは、心もとなさそうに答えた。

“ち。おい、マルショシアス、ヴァピュラのところへ行ってやれ”
タナトスは簡潔に命じた。
「で、ですが、わたしは、タナトス様のおそばで働きたく……」
“黙れ。貴様なら、女に襲いかかる恐れだけはないからな。
助太刀してやれ、若輩(じゃくはい)のヴァピュラには荷が重い”
「……致し方ないですね」
渋々といった感じで、候爵は部下達を引き連れ、戦列を離れていく。

「ええと、そちらを、今度は右折願います。
次に左に曲がりますと、階段がございまして、それを二つ上がって頂きます……地下へ行くのに、わざと一旦、上がるようにしてあるのです」
“ふん、ややこしいな”
「はい。あ、そちらは左です」
シェミハザの的確な指示により、タナトスを先頭にした魔軍は、様々装飾が施された太い柱を、縫うように突き進んで行った。

延々と続く、窓のない回廊は敵の姿もなく、所々燭台が置かれただけで、闇に沈んでいた。
それでも、魔物達は夜目が利くため、飛ぶことに何の支障もなかったが。

かなり進んだと思われる頃、タナトスは尋ねた。
“……長いな。扉とやらはまだか?”
「は、もう少し進んで頂きますと、開けた箇所に出ます。
何の変哲もない、少し広くなっているだけのような場所ですが、そこに秘密の扉が隠されておりますので」
彼の肩の上で、シェミハザは答えた。

“それにしても、守りが手薄だな”
「この辺りは普段、使われておりませんし、扉の存在を知る者も少ないのです。
それと、扉を力尽くで破壊しますと、別な空間へとつながって迷わされ、あげく元の場所へ戻ってしまい、決して地下へは行きつけないと聞いておりますので、ご注意を」
短気なタナトスをけん制するように、堕天使は言った。

“ち、面倒な”
「誰でも入れる地下通路には、隠れる場所もございませんから、天帝は秘密の通路を抜けて、荒野へ逃げたものと思われます。
入口は他にもいくつかあるのですが、わたし達が知っているのは一つだけで……あ、お止まり下さい、ここです」

“よし、皆、止まれ!”
黔龍は空中で停止し、魔軍もそれにならい、周囲を見回した。
使われていないという言葉通り、燭台の灯も絶え、案内人がいなければ、この深い闇の中に隠されている秘密の扉へ到達することは、到底無理だと思われた。

「扉はこの下です」
シェミハザは指差す。
“下だと? どこだ?”
眼を凝らしても、何もあるようには見えない。
「呪文で姿を現しますので、お待ちを。
──マグナ・セクレタム・オスティウム!」
シェミハザは唱えた。

すると、床がいきなり口を開けた。
刹那、眩い光が差し込んで来て、思わず皆は眼をつぶる。
暗がりに慣れていた眼には、その光は突き刺さるようだった。
「うわ……!?」
堕天使もまた、手で顔を覆った。

“どうした、敵襲か!”
黔龍は叫び、皆は身構えたが、それ以上は何も起こらない。
眼を細めてタナトスが覗き込むと、開け放たれた扉の向こうに見えたのは、上空から大地を見下ろしているかのような景色だった。

「これは……荒れ地?
外が見える……!?
まさか、そ、そんなはずは……、ここには地下へ続く階段があって、中も真っ暗なはずで……?」
扉の中を確認した堕天使は、混乱したように頭を抱えた。

“何だと、どういうことだ!?”
「わ、分かりません……わたしは以前、看守の一人を尾行し、この場所と呪文を突き止め……仲間と一緒に通ってみました……。
そ、そのときには、この下に階段があり、そして、間違いなく、荒野へと……」
おどおどとシェミハザは答えた。

その時、シンハからの念話が届いた。
“サタナエル。外に残しておいた斥候から、知らせが入った。
パンテオンが急上昇し、移動を開始したと”
“移動だとぉ!?”

“左様。ゼデキアは、気取られぬようパンテオンを移動させ、逃亡場所を特定出来ぬようにしたのだな”
シンハの念は、燃え上がる怒りを抑えつけているようだった。

“くそ、一杯食わされた!
ゼデキアめ、パンテオン自体を(おとり)にしおった!”
黔龍は吼えた。
「えっ、囮!? パンテオンを、ですか!?」
シェミハザは眼を見開き、兵士達にも動揺が走った。

“くそ、こうしてはおられん、ここを出て、ヤツを追うぞ!”
“待て、サタナエル。我がウィリディス全土に結界を張る。
ゼデキアはルキフェルの仇、あやつだけは逃してなるものか!
──オペリエット・イン・ゲンテム!”
冷静さをかなぐり捨て、シンハは呪文を叫ぶ。

“女神達だけでなく、女天使も居残らせ、俺達が女どもに食いついている間に逃亡、という寸法か……ふん、下らん!
ともかく、ここを出るぞ!”
黔龍が、開いた扉から外に飛び出そうと身構えたとき。
「お待ち下さい、タナトス様!」
アザゼルが、ぐったりとした黒衣の天使を抱いて、飛んで来た。

“何だ、貴様、姿が見えんと思っていたが、どこにいた?”
「まったく、こんな大変なときに。おや、その力天使は、看守か……?」
シェミハザは首をかしげる。

「そう、ベリアスだ。地下通路は、看守の方が詳しいと思ってな。
抵抗したので、とりあえず気絶させて連れて来たのだが。
それにしても、ずいぶん明るいな……あ、これは!?」
そこでようやく扉の向こうの眺めに気づき、アザゼルは絶句した。

「天帝は、丸ごとパンテオンを囮に仕立てて逃亡した。
見ての通り、我らは大地より切り離されて、移動させられている」
説明するシェミハザの口調は、いかにも口惜し気だった。

「えっ!?」
アザゼルは、慌てて扉の中を見直す。
それから振り向いて、タナトスに言った。
「実はタナトス様、この者を捕らえたとき、何やら装置を動かしていたのです。
私に気づくと、天帝の命令でこれを死守すると叫び、攻撃して参りまして……」

“ふん、こいつがパンテオンを動かしおったのか。
今のうちに虫を取り出しておけば、目覚めたらすぐ、いうことを聞かせられるだろう。
こっちへ連れて来い、アザゼル”

「御意」
堕天使は言われた通りにした。
タナトスは、シンハと同じ呪文を唱えて黄金の針を呼び出し、ベリアスの体内から虫を駆除した。

その後、床に寝かされた力天使は、ややあって目覚めた。
「う……わ、わたし、は……う、うわ、龍……敵!?」
飛び起きた彼に、シェミハザが声をかける。
「落ち着け、ベリアス。
タナトス様が、お前の中の虫を退治て下さった。
もはや天帝の命令に従う必要はない、パンテオンを元の場所に戻してくれぬか」

「え、虫を退治!? 本当に……?」
「疑うなら、確認してみるがいい」
「……ああ……確かに。虫はいません、ね……」
自分の胸に手を当てたベリアスは、なぜか困ったような表情をした。

「どうした、お前はもう、自由だぞ。うれしくないのか」
「あ、いえ……あまりにも突然のことで……、現実のこととも思えず……」
力天使は、当惑気味に頭を振った。

「気持ちは分かる。いきなりだものな。
だが、本当のことだ。気持ちの整理がつかないところを悪いが、我らも急いでいる。
天帝を捕らえるため、パンテオンを元の場所に戻して欲しい。出来るかな?」
シェミハザは優しく訊いた。

「……はい、やってはみますが、……何ぶん、操作は付け焼き刃ですので……。
つい一時間半ほど前、突然命じられたのです、敵が入って来たのを見計らい、装置を作動するようにと……」
“その、装置とやらはどこにある”
 タナトスが口を挟んだ。

「天帝の執務室にございます」
アザゼルが代わりに答えた。
“よし、そこへ行くぞ。
皆もついて来い!”

ベリアルは、まだ飛べるほど力が戻っていなかった。
そこで、再びアザゼルが抱きかかえ、先に立って案内を始めた。

やがて魔軍一行は、執務室の立派な扉の前に着いた。
さすがにここは、龍達が入れるほど大きくはなく、タナトス達はやむなく、人型に戻った。

「よし、主だった者は一緒に来い、残りはここで待機!」
そう命じたタナトスは中へと入り、アザゼルは重厚な造りの机のところまで進むと、先ほどのもみ合いの際に倒れた椅子を起こし、ベリアスを座らせた。
「頼むぞ」
「は、はい」

ベリアスが机横の目立たないボタンを押すと、机の表面に、細かい数字がたくさん書かれた丸い盤面が浮き上がった。
さらに、天使の顔の位置にスクリーンが現れ、外の情景を映し出す。
その景色は、机の反対側からも見ることが出来た。

ベリアスは震える手で、盤面の目盛りを調節し、いくつかボタンを押した。
刹那、スクリーンの景色が動き始めたが、巨大な街が移動を始めたというのに、振動などはまったく伝わって来なかった。

「え、ええと……、たしか、ここをこうして、……そうだ、こうだった」
あふれ出る汗をぬぐいながら、ぶつぶつとつぶやき、力天使は盤面を操作する。
敵の巨大な街は、ひどくのろのろと移動し、タナトス達は(はや)る心を押さえ、スクリーンを凝視した。

かなり時が経ち、魔界王だけでなく、シュネやリオンも我慢が限界に達しかけたとき、ベリアスは、か細い声で言った。
「こ、ここが元の場所です。
ええと、降りるときは……、これをこうして、と……」
天使は盤面を操作し、レバーを慎重に押し下げた。

徐々に高度が下がり始め、ゆっくりと地面が近づく。
もうすぐ着地、と思ったそのとき、金と赤の輝きが、部屋に飛び込んで来た。
『待て。ここは、先ほどの場所とは違うぞ』
ぎくりと身を固くした力天使は、次の瞬間、自棄(やけ)を起こしたように、レバーをさらに押し下げた。
「あと少しなのにっ!」