~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

20.最終戦争(3)

「よし、ホムンクルスに伝えよ、かねての手はず通り結界の外側に出て、彼奴(きゃつ)らを迎え討てと!」
メタトロンは命じた。
「かしこまりました!」
伝令は、急ぎ戻って行った。

「復旧した結界は、ようやく三個……。
彼奴らが一つ壊すのに一日半ほどかけていたことを考えると、七大天使全員と神々が相手では、突破するのに数日かかろうが……」
ウリエルの複製は顔をしかめた。

「ええ、その間に、何としても、転移装置の修復を終えなければいけませんわね」
ガブリエルの複製はうなずく。
「……わたしも修復に加わらねば」
責任を感じたラグエルは、大股で部屋を出て行った。

「この際、万一のことも考え、神々には避難して頂いた方がよろしいのでは……?」
ラジエルの複製からの提案に、メタトロンはうなずく。
「うむ。アスベエル、お前が一番地下通路に詳しい、避難の誘導をしてくれ。
特に女神方は、魔物どもの毒牙より死守せねばならぬ」

「はい……けど、魔物が攻めて来たこと、天帝様にお知らせしなくていいんですか?」
彼が訊くと、書記官は首を横に振った。
「いや。今日くらいは、お休み頂いても支障はあるまい」
「そうですね……あ、避難すると言っても、地下の通路はそれほど広くないし、大勢が一緒にいられるような場所もないですけど」

「分かっている。とりあえず、数カ所に分かれて待機して頂いて……まあ、ないとは思うが、戦況次第では荒野へお連れし……最悪の場合、密林へ入り、不可視結界を張ればよい」
「了解しました、では、行ってきます」
アスベエルは戸口に向かう。

「されど、ミカエル様には、魔物の侵攻をお知らせしておかねばなるまいな。
ガブリエル……いや、それぞれ三体いるのだったな、されば、ここにいる皆のことはα(アルファ)をつけて呼ぼう、ガブリエルα、ミカエル様へお伝えしてくれ」
書記官に指名された女天使の顔色が、さっと変わった。
「まあ、ごめんこうむりますわ。どなたか、他の方にお願いして下さいませ」
「何?」
メタトロンが面食らったのはもちろんだが、他の者達も絶句し、アスベエルも思わず足を止めてしまった。

「さ、されど……いつもは、率先してミカエル様に……」
「ええ。たしかに本体はそうでしたわ。ですが、このわたしは」
ガブリエルの複製は、自分の胸に手を当てた。
「……そう、彼女の双子の妹とお考え下さい、記憶は共有しておりますけれど、別人ですわ。
そして、わたしは、ミカエル様とは関わりたくございません」

きっぱりと言い切られて、メタトロンがさらに困惑したとき、ウリエルの複製が、女天使をかばうように前に出た。
「その気持ちは、わたしにはとてもよく理解出来ますよ。
彼女には、アスベエルと共に、女神様方の警護に回ってもらえばよいのでは?
かてて加えて、ミカエル様には、メタトロン様がお伝え頂きたい。
あのお方のことだ、我らホムンクルスの言葉など、歯牙にもかけぬでありましょうよ」

「むう……たしかにな」
気が重そうに、メタトロンは同意した。
「ならば、α全員でアスベエルを手伝い、神々を避難させてくれ。
わたしは、ミカエル様と細かい打ち合わせをしに参るゆえ」
「相分かりました」
天使達は、急ぎ部下を集め、市街に向かう。

しかし、着いてみると、通りは無人だった。
「あれ……誰もいない?
またにぎやかになった……はずなのに」
アスベエルは、人影がない街路を見回す。

「……最近は皆様、朝は遅くまで眠っておられるようでな」
そう答えたのはラジエルαだった。
「まあいい、手分けして、避難を呼びかけよう。
まずは、中央広場に集合して頂き、そこから地下へご案内するのだ」
ラファエルαが言い、皆は四方に散った。

アスベエルも屋敷を訪ねて回り、事の次第を伝えたが、神々は重い腰を上げようとはしなかった。
中には、魔族が攻め込んで来たら、投降すればいいことだと言い切る神までもがいる始末だった。

昼近くになって、疲れ切った彼は、道端のベンチに力なく腰を下ろした。
「この分じゃ、皆もこんな感じだろうな……あ、」
あることを思いついた彼は、自分の中にいるサマエルに尋ねた。
“もしかして、あなたが神々を……?”
“その通りだよ。神々はもう、魔族と戦う気を完全になくしている”
すぐに答えが返って来た。

“えー、だったら、教えてくれればよかったのに”
彼は子供っぽく口をとがらせた。
“怠けて怪しまれては困るだろう?
だが、もういい頃合いだ、後は適当にやればいい。
私も行動を起こすよ、ウリエルを仲間に引き入れよう”

“でも、どうやるんですか?”
“彼は今、ちょうどこの近くにいる。
一芝居打つから、悲鳴が聞こえたら駆けつけて、話を合わせてくれ”
返事も待たずに、サマエルは、すっと彼から抜け出し、消えた。
次の瞬間、女性の短い悲鳴と、ウリエルαの叫びが聞こえた。
「よせ! サマエル、女神を放せ!」

アスベエルが声のした方に駆けて行くと、女神を捕らえ、その口をふさいでいるサマエルの姿が眼に飛び込んで来た。
「ど、どうしたんですか、これは!?」
彼は本当に驚いて、叫んだ。
“……動くな、二人共。騒ぎ立てるなら、女神を殺す”
サマエルの心の声が響く。

「や、やめよ!」
“大声を出すな、ウリエル。女神がどうなってもいいのか!”
サマエルはぴしゃりと言った。
震える女神を抱きすくめている悪霊の背後からは、氷のオーラが立ち上り、紅い眼の中には、闇の炎が燃え上がって、唇には凄みのある笑みが張りついていた。

「お、落ち着け、サマエル。
俺達、騒がないから、女神様には手を出さないでくれ……な?」
アスベエルは、敵意のない印に両手を上げた。
「女神を放せ」
ウリエルも手を上げつつ言ったが、サマエルはそっけなく答えた。
“嫌だね。せっかく、これから食事にありつこうというときに”
「何だと!」

“ふふ、お前達のどちらかが、代わりになってくれるというなら、解放してもいいが”
「えっ!?」
アスベエルは眼を見開く。
「何と理不尽な……!」
ウリエルの複製は顔をしかめた。

“嫌なら、それでもいいさ。
この獲物をどこかに連れ込み、完全に狂うまで……いや、やはり、それでは足りない、精気を吸い尽くし、干からびたミイラになるまで楽しませてもらうとしよう”
サマエルは、にやりと笑った。
「むぐ、うう……!」
女神は青ざめ、口をふさがれたまま、必死にもがいた。
長い金の髪は(つや)を失ってもつれ、青い眼には涙が浮かんでいる。

「この鬼畜めが!」
ウリエルαは気色ばんだ。
“静かにしろと言ったはずだ!”
「もうやめろよ、こんなこと、サリエルが聞いたら悲しむぞ」
アスベエルが声をひそめると、幽霊は肩をすくめた。
“言えばいいさ、息子の命も長くない……もうすぐ私の同類になり、お前達を苦しめることだろう”

「もうよい。わたしが代わりになるゆえ、女神様を解放するのだ、サマエル」
ウリエルαは、こらえ切れずに言った。
「だ、駄目ですよ、ウリエル様……!」
「女神様をお助けするためだ、致し方ない。
このことは、皆には黙っていてくれ」
「けど……!」
「お前だから、頼むのだ。
さあ、サマエル、女神をこちらへ」

“お前がここへ来るがいい。
あらかじめ言っておくが、私は、実体化と幽体化が自在に出来る。
お前が裏切った瞬間、女神の首を切り落とし、壁に溶け込んで消えることも出来るのだぞ”
「……左様なことはせぬさ、お前は。
ともかく、裏切ったりはせぬゆえ、女神様を解放してくれ」
言いながら、ウリエルαは進んで行く。

すぐそばで彼が立ち止まると、サマエルは、無言で女神を突き飛ばした。
「きゃ!」
そして、よろける彼女の後頭部に、目にも留まらぬ早さで手刀を繰り出す。
「よせ、乱暴は!」
叫ぶウリエルαの腕を後ろにねじり上げ、サマエルは拘束した。

とっさにアスベエルは駆け寄り、何とか女神を抱き止め、サマエルを睨んだ。
「何するんだよ!」
“ケガはさせていない、騒がれると面倒だからな。
さて。これでお前は、私のものだ……おや、ちょうどいい、この屋敷は無人だったな、ここを使おう”
幽霊は、青ざめた頬に笑みを浮かべた。

「ほ、本気なのか!? ウ、ウリエル様……」
おろおろした風を装い、アスベエルは、幽霊とホムンクルスを見比べた。
「案ずるな、サマエルは、わたしに危害を加えたりはせぬ。
くれぐれも、誰にも話さぬように……わたしに恥をかかせたくなくば」
ウリエルの複製の表情は、あくまで平静だった。

「は、はい……で、でも……」
アスベエルは、あくまでも心配そうな表情で口ごもる。
「心配いらぬ、少ししたら戻るゆえ」
“さあ、行こうか、ウリエル、ふふふ”
悪霊は舌なめずりをし、ホムンクルスを連れて屋敷内に消えた。

その後、正気づいた女神は、サマエルが記憶を消したのか、何も覚えておらず、アスベエルは屋敷まで送って行った。
それから、ラファエルや他の複製達に念話で状況を尋ねてみたが、やはり皆、徒労に終わっていた。
彼らは一旦呼びかけをやめ、中央広場で落ち合って対策を練ることにした。

周りを噴水に囲まれた時計台の前でアスベエルが待っていると、真っ先にやって来たラファエルαが、開口一番、尋ねた。
「アスベエル。ウリエルを見なかったか?
念話にも応答がないのだ」
「えっ、あ、あの、いえ……」
思わず彼は、しどろもどろになる。

ラファエルの複製は、一瞬眉を寄せ、それから彼に詰め寄った。
「お前、何か知っているな?」
「えっ? い、いえ、俺は何も……」
「下手な嘘をついて、何を隠しているのだ!」
ラファエルは彼の胸ぐらをつかむ。
「や、やめ……」

ちょうどそのとき、ラジエルとガブリエルのホムンクルスもやって来て、もみ合う二人に割り込んだ。
「いかがされた、ラファエル殿」
「乱暴はおやめなさいな」

解放されたアスベエルは、大急ぎでサマエルに念話を送った。
“サマエル様、済みません、ラファエルに気づかれました、ウリエルのこと。
他の天使も来て、もうごまかせません……”
“分かった、皆連れておいで。私が何とかしよう”
サマエルはすぐに答えた。

「あの、落ち着いて聞いて下さい、ラファエル様。
実は……」
そこで、アスベエルは、サマエルの幽霊が女神を人質に取ったため、やむなくウリエルが身代わりとなったてんまつを語った。

「何、淫魔と、無人の屋敷に……!?」
案の定、ラファエルαは顔を真っ赤にし、わなわなと体を震わせた。
「さ、左様な一大事、何ゆえ黙っていたのだ、今まで!」
「す、済みません、でも、ウリエル様が、自分に恥をかかせたくなかったら、皆には黙ってろって……」

「──恥!?
くうっ……と、ともかく、すぐに行かねば、案内致せ!」
ラファエルは勢いよく飛び上がり、アスベエルも慌てて羽ばたいた。
「わたし達も参ります!」
ホムンクルス達も後を追う。

「あ、あそこです」
彼が指差す屋敷の前庭に、墜落するように降り立ったラファエルは、ドアを壊さんばかりの勢いで開き、ずかずかと入って行った。
「ウリエル、どこだ!?
ここにいるのは分かっているぞ、忌まわしき淫魔め、ウリエルを返せ!」