~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

20.最終戦争(2)

“討ち取ったぞ!”
黔龍(けんりゅう)王タナトスは、息を引き取ったばかりのラジエルをくわえ、咆哮(ほうこう)した。
そして、勢いもそのままに、最後の結界目がけて突入しようとした時、シンハが背中に飛び乗って来た。

“待て、サタナエル、耳寄りな情報が手に入ったぞ”
“後にしろ、今は一気呵成(いっきかせい)に結界を……”
台詞を最後まで聞きもせず、魔界のライオンは、黒いスカラベを黔龍の額に乗せた。
“む、何だ?”

それはもちろん、セリンが送った使い魔だった。
瞬時に内容を読み取った黒い龍は、複雑な顔をした。
“……ふん、セリンか。ヤツめ、生きていたのだな。
『転移装置の破壊と引き換えに、妹エレアの助命を願いたい、サマエルの承認も受けている』、だと……?”
シンハは軽く肩をすくめた。

“渡りに船だな、“黯黒の眸”はすでに汝の妃、傀儡(くぐつ)たるセリンを許さぬ法もあるまい”
“まあな。だが、連中のことだ、罠の可能性もあるぞ”
すると、ライオンは、ぶるんと首を振った。
“否。この提案には、たしかにルキフェルの匂いがする、魔族との確執あるセリンならば、疑われず実行に移せると踏んだのだ。
大いなる手柄と引き換えならば、セリンを許すもたやすい、不満を持つ者もなだめられようとな”

“……ふん、あいつの考えそうなことだ”
“ともかく、残る結界は一つのみ。
セリンの成否いかんに関わらず、神族どもはウィリディスより動けぬ、一旦出直し、敵の出方を見るのには、特段不都合もあるまい”

“そうだな、ここのところ戦い詰めだったし、たまには休みも必要か”
黔龍は同意し、周囲の敵に向かって念話を響かせた。
“天使ども、ゼデキアに伝えろ!
もうすぐ、魔族は故郷(ウィリディス)を取り戻す、首を洗って待っていろな!
──よし、全軍退却!”

そうして、意気揚々と汎魔殿に戻ったタナトスは、斥候(せっこう)を除く全軍に、丸一日、休養を取るよう命じた。
『我が結界を強化していてやろう、“黯黒の眸”と水入らずで過ごすがよい、サタナエル』
「相分かった、恩に着る」
シンハの申し出を受けて、タナトスは久しぶりに、妃を自室に連れて帰った。

「おぬしと、こうして、ゆるりと出来るは久方ぶりだ……まこと、喜ばしきことこの上ないが、“焔の眸”の心持ちを思うと……」
ケテルは、金と銀の眼を伏せた。
「まあな。だが、あいつの志を無にすることもあるまい。
英気を養い、さっさと神族をぶちのめして、サマエルの亡骸だけでも、早く“焔の眸”の手元に戻してやらねば」

すると、化身はいきなり、タナトスにしがみついた。
「む? どうした、ケテル」
「帰って来てくれ、必ず……!
おぬしがおらねば、我は……いや、我のみならず、ニュクスも、カーラも、そして、テネブレさえも……」
美しい金目銀目を涙でうるませ、震える妃を、タナトスは固く抱き締めた。

「案ずるな、俺一人ならばともかく、他の龍達、兵達もいる。
それにだ、あのサマエルが、死んだ後まで、天界で画策しているのだぞ。
多種多様の、陰険な(はかりごと)を巡らせているに決まっている、セリンの申し出もその一環だろう。
必ず故郷を取り返し、俺は生きて戻って来るから、もう泣くな」
タナトスは、妃の涙を優しくぬぐった。

「……取り乱して相済まぬ……。
相分かった、今宵は我が力を、おぬしの力と相為(あいな)そう」
「愛している、我が妃よ」
ようやく落ち着きを取り戻したケテルに、タナトスは口づけた。

翌朝、天界が総出で結界の補修にかかっているとの報告を受けたタナトスは、早速、少数の部隊を送ってみた。
案の定、敵は、常軌を(いっ)した激しさで応戦して来たため、深入りするなと命じられていた彼らは、すぐに退却した。

「ふん、ついに連中も尻に火が付いたな。
これでようやく、神どもを引っ張り出せるな、腕が鳴るわ!」
報告を聞いたタナトスは、拳を握り、力こぶを作ってみせた。
シンハもうなずく。
『うむ。転移装置の破壊は、首尾よく行ったと見える』

「……なら、いいんだけどね。神族って卑怯なヤツらだから、大丈夫かな」
リオンは懐疑的だった。
「だったら、あたしに先陣を切らせて下さい、叔父様。
もし罠でも、あたし一人の犠牲で済みます。
お父さんの仇を討ちたいんです、お願い!」
シュネは頭を下げた。

「まだ罪の意識に囚われているのか、シュネ。
お前が死ねばサマエルが嘆く、無茶はやめろ」
タナトスは、諭すように答えた。
「じゃあ、ぼくが一緒に行きますよ。
何かあっても、ぼくがいれば、彼女を守って逃げ出せると思いますから」
リオンが口を挟む。

「ありがと、リオン兄さん。
お願いします、タナトス叔父様」
二人は一緒に頭を下げた。
『行かせてやれ、サタナエル』
シンハも口を添えた。
「むう、だがな……」
渋る魔界王の紅い眼と、ライオンの炎の瞳が合う。

「……ち、貴様らがそうまでいうなら許可してやるわ」
仕方なく、タナトスは折れた。
「それでは、紅龍軍も連れて行け。
自分の身は自分で守れる連中だ、サマエルの直属軍なのだからな」
「……危険ですけど、彼らの気持ちも分かりますから、止められませんね」
リオンが言った。

出撃の朝、ピンと空気が張り詰める中、タナトスは魔界全軍を前にして、声を張った。
「残る結界はただの一つ、それさえ突破すれば、いよいよ我が故郷、ウィリディスでの最終決戦だ、皆、心してかかれ!」
「──おう!」
兵士達は、一斉に答えた。

「では、幾つか注意事項がある。
まず、サマエルは生前、汎神殿で様々工作し、天使を何人も味方につけた、そいつらは全員、例のダミーを体内に入れている。
魔族だけでなく、堕天使達にも感知出来るようにしておいた、信号を出している天使は味方だ!
特に、このアスベエル!」
タナトスが手を上げると、空中に、アスベエルの顔の映像が浮かび上がる。

「見ての通り、天界で唯一、黒い眼と黒い髪の天使だ。
サマエルの息子サリエルの義兄弟で、使者として魔界にも来たゆえ、見覚えがある者も多いだろう、そのときから味方になっている!
それから、セリンだ!」
王は、またも手を上げ、セリンの画像を浮かび上がらせる。
「こいつらは、サマエルの行動を助け、天界内部からの切り崩しを図って来た、間違っても殺すなよ!
いいな!」
「──は!」

「よし、それともう一つ、神族の女は絶対に殺してはならんぞ!
味見も禁止だ、なるべく無傷で捕虜にしろ、俺達魔族の子を産む女達だ、大事にしろ!
従わんヤツは、俺直々に首を()ねてやる!
だが、安心しろ、手柄を上げた者の褒章(ほうしょう)には、女も含まれるからな!」
その話に、兵士達のこわばった顔にも笑みが浮かび、少し緊張が解けた。

「だからと言って功を焦るなよ、死んでは元も子もない!
さて、最後に、今回の先陣はシュネとリオン、それと紅龍軍とする!
俺も含めた他の部隊は、天界の手前で待機、罠があるかも知れん、注意を怠るな!
俺からは以上だ、出立(しゅったつ)!」
それを合図に、兵士達は、次々に魔法陣へと足を踏み入れて行く。

ほぼ同時刻、天界にて。
ウリエル、ラファエル、ラグエル、ラジエル、ガブリエル……五体のホムンクルスと、メタトロン、アスベエル、牢から出されたばかりのミカエル本人、合計八人の天使は、執務室に招集されていた。
複製達に植え付けられたオリジナルの記憶は、少し古かったため、今後の戦いに備え、最新の情勢を教えておく必要があったのだ。

だが、フレイアに付き添われて現れた天帝を見て、皆はぎょっとした。
「て、天帝様!?」
「い、いかがなされたのですか!?」
「お具合が!?」
「魔法医を呼びましょうか!?」
たった一日で、天帝の頬はこけ、灰色の眼も深く落ちくぼみ、何百年も年を取ったように見えていた。

「よい、案ずるな……」
その身を案じて駆け寄る天使達に、天帝は手を振って見せ、フレイアの手を借り、ソファに身を沈めた。
「無理なさらないで頂きたいのですけれど、どうしてもと仰って……」
女神は顔を曇らせる。
「なに、大事ない、少々疲れておるのみじゃ。
さ、メタトロン、概略を」

「は、はい」
メタトロンが進み出たものの、青ざめ、肩で息をしている天帝の様子を見ては、黙っていられなかった。
「天帝様、やはり、お休みになられてはいかがかと存じます、わたしが話しておきますゆえ」
「じゃが……」
「ひいお祖父様、彼の言う通りです。
ご無理は禁物ですわ、どうぞ、お休みになって」
フレイアが口を添える。

「ならば、わたしが寝室にお連れ致そう。
天帝様、あなた様に万が一のことがありましたら、天界は立ち行かなくなりますぞ、さ、お手を」
ミカエルは天帝に歩み寄り、うやうやしく手を出す。
「左様か……ならば、頼むぞ」
天帝は、半ば抱えられるようにして退出し、フレイアも後に続く。

それを見送ったメタトロンは気を取り直し、これまでの概略を説明した。
「何か質問は?」
すると、ウリエルの複製が口火を切った。
「情勢は分かり申したが、何ゆえわたしは死んだのかを、教えて頂きたい。
やはり、魔物との戦いで不覚を取ったのでありましょうか?」

一瞬、部屋の空気が凍りつく。
「むむ……それは……」
メタトロンは、事情を知っているアスベエル、並びにラジエルの複製と視線を合わせ、ためらった。
「何があったかは存じませぬが、ぜひとも、お教え願いたい。
さもなくば、お勤めにも集中出来かねますぞ」
ウリエルの複製は粘った。

「……致し方あるまい、いずれ知れることであろうしな。
わたしの記憶を読めばよい」
渋々、メタトロンは手を差し出す。
「かたじけない」
ウリエルはその手を握る。

「わたしにも見せて下され」
「わたしもお願い致します」
「お頼みします」
他の三人のホムンクルスも競うように彼の腕に触れ、最後にガブリエルも、遠慮がちに手を出した。
「では……」
メタトロンは、気が重そうに言い、眼を閉じた。

「……むうう……」
書記長の記憶を読んだ複製達は唸り、特にウリエルの顔はひきつっていた。
「何と……わたしは、ミカエル様に殺された……!?」
「……わたしもだ」
ラファエルの複製も、無表情に言った。
「いえ、手を下したのはホムンクルスで……」
言いかけるメタトロンをさえぎり、ラファエルは語気を強めた。
「同じことですよ、ミカエル様の差し金に決まっております!」

「いやいや、あなた方も悲劇だが、わたしの場合、もっとひどい……わたしの本体は、サマエルに操られ……大事な装置を、この手で……!?」
ラジエルは混乱したように、震える自分の掌を見つめた。
執務室内が静まり返る。

ウリエル達の複製は、三体ずつ創られていた。
一体は天界の外で結界の補修を、もう一体は転送装置を直していた。
彼らはそれぞれの複製達に今の記憶を送り、共有した。

「とにかく、現状はかなり不利ですよ、天帝様もあのご様子だし、俺達が何とかしなきゃ。ええと、まずは……」
アスベエルは頭に手を当てた。
「まさか、籠城(ろうじょう)になろうとは……」
メタトロンがつぶやいたとき。
「大変です、魔物が攻めて参りました!」
血相を変えた天使が、飛び込んで来た。