19.自由への鍵(6)
「……夢の中で、我輩は、とても美しい場所におりましてな。
緑滴る森、空は青く高く、野には花が咲き乱れ、清らかなせせらぎと澄み渡る湖水……死後の世界かとも思えるそこは、何と、天界なのですよ。
広場にてたわむれる童子らを、親達は微笑みながら見、若者は恋を語らい、老人は日向ぼこをし、左様に楽し気に暮らす人々の肌は浅黒く、髪は漆黒で、瞳の虹彩が縦に細長いことを除けば、翼もない普通の人間のようでしてな。
何ゆえ天界に人間が、といぶかしく思ううち、急に空が明るくなったと思うと、
地上に着くと炎は消え、現れたのは、白い翼を持つ人々……それは、流れ星などではなく、結界で身を守った、我らの先祖だったのですな。
次から次へと先祖は降り立ち、地上の人々はそれを、不思議そうに見ておりました。
そうして、数が揃うと、彼らは……」
突如、言葉を切り、火の神ヤヴィシュタは身震いした。
「どうなさいました?」
アスベエルは、思わず尋ねる。
「だ、大丈夫だ。
祖先達は……人々を、殺し始めたのだよ、無差別に……!
手をつないだ恋人同士、無邪気に遊んでいた子供、無抵抗の老人、赤子を抱いて逃げ惑う母親までをも……。
一面血の海、酷い臭いで、吐き気をもよおすほどで……。
そのうちに、どこからか火が出て、街も野も畑も、見事な森も燃え上がり、すさまじい熱と煙で息も出来ぬほどになり……。
炎から逃れようと、人々は逃げ惑い、あげく濁った水に飛び込み、息絶えて行くのだ……」
そこで、神は汗をぬぐった。
「ヤヴィ……」
天帝が口を開きかけるのを、ヤヴィシュタ神は、手を振って留めた。
「あいや、しばらく。最後まで話させて頂きたい」
「……相分かった、続けよ」
渋々天帝は同意を与え、神は会釈すると、気を取り直して続けた。
「その時、立ち込める煙の中から、突如、巨大な紅い龍が現れたのですよ。
そやつは狂ったように暴れ回り、誰も止められぬまま、祖先達を引き千切り踏み潰し……大地は激しく震え、空は割れて稲妻が走り……。
この世の終わりかと思ったそのとき、弓を手にした女が、ただ一人、龍に立ち向かったのです。
放たれた黄金の矢は、狙いあやまたず紅龍を倒し……その体はみるみる縮み、一人の青年の姿となり申した。
女は、動かぬその体に取りすがり、泣き崩れ、名を呼び続け……恋人同士だったのやも知れませぬな。
そこへ九人の天使が襲いかかり、女を八つ裂きにしてしまい……そうして、すべてが終わった時、一際大きな火の玉が落下して参りました。
ご降臨されたのは、天帝様に瓜二つのお方……ご先祖でございましょうな。
……これが、夢のすべてでございまするが」
「惑わされるでない、左様なもの、夢魔の創りし悪夢に過ぎぬわ」
何の感慨もなさそうに、天帝はそっけなく言った。
「たしかに、夢魔は自在に夢を操りますゆえ、
ヤヴィシュタ神は、頭を振った。
「真実ですよ。マトゥタ様から、同じ話を聞きました」
本当はサリエルに聞いたのだが、アスベエルは、義弟の立場が悪くならないよう、そう言った。
天帝は彼を睨みつけた。
「マトゥタじゃと!
どうせ、息子から、碌でもない大ぼらを吹き込まれたのであろう!
左様な
アスベエルは、カッとなり、言い返した。
「お言葉ですが、ウリエル様も、同じことを仰っていました!
ミカエル様から直接聞いたそうです!」
彼にしては珍しく嘘をついたが、前天使長に対しては、色々と腹に据えかねていたので、良心はまったく痛まなかった。
「ミカエルめが、まったく口の軽い……!」
天帝は渋い顔になる。
「今、思い出した、わたくしも、まったく同じ夢を見たわ。
やっぱり本当のことなのね……でも、ご先祖様が、あんな……ひどい……」
女神は青ざめ、ふらりと倒れかかる。
「フレイア様!」
アスベエルは彼女を抱きかかえた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、平気。起こしてちょうだい」
彼が優しく立たせてやると、女神は彼の手をぎゅっと握り、曽祖父を見た。
「ひいお祖父様、本当のことを仰って。
魔族が、悪鬼や
「むうう……」
険しい顔をした天帝は、ただ唸るだけだった。
「天帝様、それが真であるならば、魔族と和解すべきではございませぬか。
戦いはもはや、無意味でございましょう」
ヤヴィシュタが、
「何を申すか、和睦など。すでに蹴られたではないか。
過去がいかようであろうとも、もはや、後には引けぬのじゃ。
たとえ白旗を上げようと、彼奴らが手心を加えるとは到底思えぬ」
「左様ではございまするが……」
「どうせ、数日のうちに、魔物どもは転移門に達しよう。
それを蹴散らし、新天地へと降り立つのじゃ」
「人界の生物を絶滅させて、ですか」
思わず、アスベエルは口を挟む。
「無論じゃ!
先祖代々、星の海を渡って参ったのじゃぞ、今回も踏襲するのみ、それこそが正しき道じゃ!
異議は認めぬ、天帝は我、正義は我にある!」
断言されてしまっては、もう誰も、何も言えなくなってしまった。
白けた空気を取り繕うように、ヤヴィシュタは話題を変えた。
「……ならば、ミカエルは、いかがなされますか?
もはや、いかにしても、性癖の矯正は出来かねるかと思われますが」
「致し方あるまい……牢獄行きじゃ」
ここに至っては、天帝も断を下さざるを得なかった。
「やったわ、ハニエルに教えてあげなくちゃ!」
フレイアは手放しで喜び、アスベエルもいい気味だと思った。
「セリンやエレアもほっとするでしょう」
「……では、吾輩はこれにて」
頭を下げたヤヴィシュタに、天帝は念を押した。
「分かっておろうが、他言無用ぞ」
「無論。されど、いかに隠し立てしようと、真実は広まりましょうな」
「何じゃと!」
「失礼」
再び会釈し、神は帰って行った。
「それでは、わたしも失礼致します」
続いてアスベエルも執務室を退出し、道すがら念話でミカエルの投獄をセリンに伝え、密かに喜びを分かち合った。
サリエル達は学習のため、フレイアの部屋に行ったのだろう。
今頃は知らせを受けて、三人共安堵しているはず。
彼はサマエルに話しかけた。
“こんな切羽詰まった時に、ミカエルって馬鹿ですよね。
前科があって、すぐばれるのに。
自分を陥れようとしてホムンクルスが嘘の証言をしてる、なんて言い張っても、誰も信じないですよ”
すぐに、心の中からサマエルの返事が来た。
“もちろんだが、複製は本当のことを言っているよ。
嘘は決して、真実に勝てないからね”
“やっぱり。ホント、どうしようもないヤツだ”
“いやいや、実はミカエルの方も、嘘はついていないのだよ……くく”
笑いを含んだその答えに、彼は首をかしげた。
“え、それって、どういうことですか?”
“彼女を襲ったのは、ミカエルのホムンクルスなのさ。
理性が壊れて欲望が抑制出来ず、培養槽に入れられたままだった失敗作を、私が目覚めさせたのだよ、ルピーダを夢で操ってね”
“そ、そうだったんですか……”
“しかし、あいつときたら、予想以上だったな。
フレイアの複製を見るなり、培養槽から引きずり出して……。
何も知らない彼女は、本物のミカエルだと思った。
だから、誰も嘘はついていないというわけさ。
今、ヤツは再び、何事もなかったように眠っている……くくく……いい
“え……”
アスベエルは言葉に詰まった。
彼の動揺を知ってか知らずか、サマエルは続ける。
“そう、どうせなら、フレイア本人を襲わせればよかったか。
天帝も頭に血が上って、ミカエルを処刑したかも知れない。
いや、むしろ、私みずから、たっぷり時間をかけてもてあそび、狂わせた上で、フレイアの堕落したさまを見せつけてやれば……。
ふふ……私は紅龍、死んではいるが実体化も出来るのだよ、最近も、私をご所望の女神を……”
“ええ!?”
自分の中にいる亡霊が、舌なめずりするのを、アスベエルは感じた。
背中を冷たい汗が流れ、彼は哀願した。
“や、やめて下さい、そんなこと! 約束をお忘れですか、サマエル様!?”
“……ああ、手は出せないのだったな。いや、ちゃんと覚えているよ”
肩をすくめるような感じで、サマエルは言った。
“お前は今、私を……歪んだ欲望の塊のような男だと思ったね?
……否定はしないよ。私は淫魔だし、正気も保てなくなりつつある。
それに、天帝を苦しめるためなら、手段は選ばない。お前との約束だけが、亡者と成り果てた、今の私を縛るものだ……。
私の中の狂気を、これからもお前は、うんざりするほど眼にすることになるだろう、その果てに、私という存在もまた、カオスの闇に飲み込まれるのだ……。
だが、それもまた一興……元より、魔族の間に私の居場所などない……どうせ魔族は勝利に酔い、私のことなど、すぐに忘れ去ってしまうさ……”
死霊の心の声が、暗さを増していく。
“そ、そんなこと、ありませんよ!
俺がタナトス様に、ちゃんとご報告します!
そしたら、皆、感謝して、あなたを絶対、忘れたりなんかしませんよ!”
アスベエルの説得の言葉も届いた様子がなく、サマエルは、自分だけの思いにのめり込んでいった。
“私は名のみの王子……たとえ生き延びて、一時的に英雄扱いされたとしても、結局、つまはじきにされるのは分かっていた……。
平和になったら、物騒な『紅龍』など必要ないものな。
元々、戦が済んだら、妻に別れを告げて姿を消すつもりでいた……。
『焔の眸』は、元来、代々の魔界王のもの……それを私が、無理に所望してそばに置いた……だから、いずれ、自由にしてやろうと思っていたのだ。
そして、今、私という束縛から解き放たれ、妻はもう、兄とよりを戻しているだろうよ……”
“まさか、そんなはずないです!
そ、そうだ、黄金の檻で、ちょっとだけ、奥さん達に会えたでしょ?
皆、抱きついて来たじゃないですか、あなたのことが好きで、心配してたから……”
懸命に説き伏せようとするアスベエルを、王子はさえぎった。
“私のことはいい、もうお行き、アスベエル。恋人が待っている。
これ以上、お前の恋路の邪魔はしない、いや、二人の仲がうまくいくよう、全力で支援するよ。
……それが天帝を、さらに苦しめることになるのだからね……!”
吹っ切るように言い、亡霊は、彼の体を抜け出て、闇に溶け込んだ。
ちらりと見えた王子の横顔、その深く傷ついたような表情は心に深く残り、アスベエルはしばらく、寝室に立ち尽くしていた。
りゅう げんひご 【流言飛語・流言蜚語】
世の中で言いふらされる確証のないうわさ話。根拠のない扇動的な宣伝。デマ。
らせつ 【羅刹】
〔梵 可畏・足失鬼と訳す〕
人の肉を食う凶暴な悪鬼。のちに仏教に入り,羅刹天とされる。三省堂『大辞林 第三版』