~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

19.自由への鍵(6)

「……夢の中で、我輩は、とても美しい場所におりましてな。
緑滴る森、空は青く高く、野には花が咲き乱れ、清らかなせせらぎと澄み渡る湖水……死後の世界かとも思えるそこは、何と、天界なのですよ。
広場にてたわむれる童子らを、親達は微笑みながら見、若者は恋を語らい、老人は日向ぼこをし、左様に楽し気に暮らす人々の肌は浅黒く、髪は漆黒で、瞳の虹彩が縦に細長いことを除けば、翼もない普通の人間のようでしてな。
何ゆえ天界に人間が、といぶかしく思ううち、急に空が明るくなったと思うと、紅蓮(ぐれん)に燃える火の玉が、群をなして降り注いで参ったのです。
地上に着くと炎は消え、現れたのは、白い翼を持つ人々……それは、流れ星などではなく、結界で身を守った、我らの先祖だったのですな。
次から次へと先祖は降り立ち、地上の人々はそれを、不思議そうに見ておりました。
そうして、数が揃うと、彼らは……」
突如、言葉を切り、火の神ヤヴィシュタは身震いした。

「どうなさいました?」
アスベエルは、思わず尋ねる。
「だ、大丈夫だ。
祖先達は……人々を、殺し始めたのだよ、無差別に……!
手をつないだ恋人同士、無邪気に遊んでいた子供、無抵抗の老人、赤子を抱いて逃げ惑う母親までをも……。
一面血の海、酷い臭いで、吐き気をもよおすほどで……。
そのうちに、どこからか火が出て、街も野も畑も、見事な森も燃え上がり、すさまじい熱と煙で息も出来ぬほどになり……。
炎から逃れようと、人々は逃げ惑い、あげく濁った水に飛び込み、息絶えて行くのだ……」
そこで、神は汗をぬぐった。

「ヤヴィ……」
天帝が口を開きかけるのを、ヤヴィシュタ神は、手を振って留めた。
「あいや、しばらく。最後まで話させて頂きたい」
「……相分かった、続けよ」
渋々天帝は同意を与え、神は会釈すると、気を取り直して続けた。

「その時、立ち込める煙の中から、突如、巨大な紅い龍が現れたのですよ。
そやつは狂ったように暴れ回り、誰も止められぬまま、祖先達を引き千切り踏み潰し……大地は激しく震え、空は割れて稲妻が走り……。
この世の終わりかと思ったそのとき、弓を手にした女が、ただ一人、龍に立ち向かったのです。
放たれた黄金の矢は、狙いあやまたず紅龍を倒し……その体はみるみる縮み、一人の青年の姿となり申した。
女は、動かぬその体に取りすがり、泣き崩れ、名を呼び続け……恋人同士だったのやも知れませぬな。
そこへ九人の天使が襲いかかり、女を八つ裂きにしてしまい……そうして、すべてが終わった時、一際大きな火の玉が落下して参りました。
ご降臨されたのは、天帝様に瓜二つのお方……ご先祖でございましょうな。
……これが、夢のすべてでございまするが」

「惑わされるでない、左様なもの、夢魔の創りし悪夢に過ぎぬわ」
何の感慨もなさそうに、天帝はそっけなく言った。
「たしかに、夢魔は自在に夢を操りますゆえ、()の夢にある、神々と魔族との邂逅(かいこう)が、真かどうかは図りかねまするが……」
ヤヴィシュタ神は、頭を振った。

「真実ですよ。マトゥタ様から、同じ話を聞きました」
本当はサリエルに聞いたのだが、アスベエルは、義弟の立場が悪くならないよう、そう言った。
天帝は彼を睨みつけた。
「マトゥタじゃと!
どうせ、息子から、碌でもない大ぼらを吹き込まれたのであろう!
左様な流言飛語(りゅうげんひご)、うかつに信じるでないわ!」

アスベエルは、カッとなり、言い返した。
「お言葉ですが、ウリエル様も、同じことを仰っていました!
ミカエル様から直接聞いたそうです!」
彼にしては珍しく嘘をついたが、前天使長に対しては、色々と腹に据えかねていたので、良心はまったく痛まなかった。
「ミカエルめが、まったく口の軽い……!」
天帝は渋い顔になる。

「今、思い出した、わたくしも、まったく同じ夢を見たわ。
やっぱり本当のことなのね……でも、ご先祖様が、あんな……ひどい……」
女神は青ざめ、ふらりと倒れかかる。
「フレイア様!」
アスベエルは彼女を抱きかかえた。
「大丈夫ですか?」

「ええ、平気。起こしてちょうだい」
彼が優しく立たせてやると、女神は彼の手をぎゅっと握り、曽祖父を見た。
「ひいお祖父様、本当のことを仰って。
魔族が、悪鬼や羅刹(らせつ)だなんて嘘、本当は、わたくし達のご先祖が、この星を……彼らの住処を、奪ったのだと……」
「むうう……」
険しい顔をした天帝は、ただ唸るだけだった。

「天帝様、それが真であるならば、魔族と和解すべきではございませぬか。
戦いはもはや、無意味でございましょう」
ヤヴィシュタが、(さと)すように言う。
「何を申すか、和睦など。すでに蹴られたではないか。
過去がいかようであろうとも、もはや、後には引けぬのじゃ。
たとえ白旗を上げようと、彼奴らが手心を加えるとは到底思えぬ」
「左様ではございまするが……」

「どうせ、数日のうちに、魔物どもは転移門に達しよう。
それを蹴散らし、新天地へと降り立つのじゃ」
「人界の生物を絶滅させて、ですか」
思わず、アスベエルは口を挟む。
「無論じゃ!
先祖代々、星の海を渡って参ったのじゃぞ、今回も踏襲するのみ、それこそが正しき道じゃ!
異議は認めぬ、天帝は我、正義は我にある!」
断言されてしまっては、もう誰も、何も言えなくなってしまった。

白けた空気を取り繕うように、ヤヴィシュタは話題を変えた。
「……ならば、ミカエルは、いかがなされますか?
もはや、いかにしても、性癖の矯正は出来かねるかと思われますが」
「致し方あるまい……牢獄行きじゃ」
ここに至っては、天帝も断を下さざるを得なかった。

「やったわ、ハニエルに教えてあげなくちゃ!」
フレイアは手放しで喜び、アスベエルもいい気味だと思った。
「セリンやエレアもほっとするでしょう」

「……では、吾輩はこれにて」
頭を下げたヤヴィシュタに、天帝は念を押した。
「分かっておろうが、他言無用ぞ」
「無論。されど、いかに隠し立てしようと、真実は広まりましょうな」
「何じゃと!」
「失礼」
再び会釈し、神は帰って行った。

「それでは、わたしも失礼致します」
続いてアスベエルも執務室を退出し、道すがら念話でミカエルの投獄をセリンに伝え、密かに喜びを分かち合った。

その足でアスベエルが自室に戻ると、誰もいなかった。
サリエル達は学習のため、フレイアの部屋に行ったのだろう。
今頃は知らせを受けて、三人共安堵しているはず。

彼はサマエルに話しかけた。
“こんな切羽詰まった時に、ミカエルって馬鹿ですよね。
前科があって、すぐばれるのに。
自分を陥れようとしてホムンクルスが嘘の証言をしてる、なんて言い張っても、誰も信じないですよ”

すぐに、心の中からサマエルの返事が来た。
“もちろんだが、複製は本当のことを言っているよ。
嘘は決して、真実に勝てないからね”
“やっぱり。ホント、どうしようもないヤツだ”
“いやいや、実はミカエルの方も、嘘はついていないのだよ……くく”
笑いを含んだその答えに、彼は首をかしげた。
“え、それって、どういうことですか?”

“彼女を襲ったのは、ミカエルのホムンクルスなのさ。
理性が壊れて欲望が抑制出来ず、培養槽に入れられたままだった失敗作を、私が目覚めさせたのだよ、ルピーダを夢で操ってね”
“そ、そうだったんですか……”

“しかし、あいつときたら、予想以上だったな。
フレイアの複製を見るなり、培養槽から引きずり出して……。
何も知らない彼女は、本物のミカエルだと思った。
だから、誰も嘘はついていないというわけさ。
今、ヤツは再び、何事もなかったように眠っている……くくく……いい見物(みもの)だった、楽しませてもらったよ”

“え……”
アスベエルは言葉に詰まった。
彼の動揺を知ってか知らずか、サマエルは続ける。
“そう、どうせなら、フレイア本人を襲わせればよかったか。
天帝も頭に血が上って、ミカエルを処刑したかも知れない。
いや、むしろ、私みずから、たっぷり時間をかけてもてあそび、狂わせた上で、フレイアの堕落したさまを見せつけてやれば……。
ふふ……私は紅龍、死んではいるが実体化も出来るのだよ、最近も、私をご所望の女神を……”

“ええ!?”
自分の中にいる亡霊が、舌なめずりするのを、アスベエルは感じた。
背中を冷たい汗が流れ、彼は哀願した。
“や、やめて下さい、そんなこと! 約束をお忘れですか、サマエル様!?”
“……ああ、手は出せないのだったな。いや、ちゃんと覚えているよ”
肩をすくめるような感じで、サマエルは言った。

“お前は今、私を……歪んだ欲望の塊のような男だと思ったね?
……否定はしないよ。私は淫魔だし、正気も保てなくなりつつある。
それに、天帝を苦しめるためなら、手段は選ばない。お前との約束だけが、亡者と成り果てた、今の私を縛るものだ……。
私の中の狂気を、これからもお前は、うんざりするほど眼にすることになるだろう、その果てに、私という存在もまた、カオスの闇に飲み込まれるのだ……。
だが、それもまた一興……元より、魔族の間に私の居場所などない……どうせ魔族は勝利に酔い、私のことなど、すぐに忘れ去ってしまうさ……”
死霊の心の声が、暗さを増していく。

“そ、そんなこと、ありませんよ!
俺がタナトス様に、ちゃんとご報告します!
そしたら、皆、感謝して、あなたを絶対、忘れたりなんかしませんよ!”
アスベエルの説得の言葉も届いた様子がなく、サマエルは、自分だけの思いにのめり込んでいった。

“私は名のみの王子……たとえ生き延びて、一時的に英雄扱いされたとしても、結局、つまはじきにされるのは分かっていた……。
平和になったら、物騒な『紅龍』など必要ないものな。
元々、戦が済んだら、妻に別れを告げて姿を消すつもりでいた……。
『焔の眸』は、元来、代々の魔界王のもの……それを私が、無理に所望してそばに置いた……だから、いずれ、自由にしてやろうと思っていたのだ。
そして、今、私という束縛から解き放たれ、妻はもう、兄とよりを戻しているだろうよ……”

“まさか、そんなはずないです!
そ、そうだ、黄金の檻で、ちょっとだけ、奥さん達に会えたでしょ?
皆、抱きついて来たじゃないですか、あなたのことが好きで、心配してたから……”
懸命に説き伏せようとするアスベエルを、王子はさえぎった。

“私のことはいい、もうお行き、アスベエル。恋人が待っている。
これ以上、お前の恋路の邪魔はしない、いや、二人の仲がうまくいくよう、全力で支援するよ。
……それが天帝を、さらに苦しめることになるのだからね……!”
吹っ切るように言い、亡霊は、彼の体を抜け出て、闇に溶け込んだ。
ちらりと見えた王子の横顔、その深く傷ついたような表情は心に深く残り、アスベエルはしばらく、寝室に立ち尽くしていた。

りゅう げんひご 【流言飛語・流言蜚語】

世の中で言いふらされる確証のないうわさ話。根拠のない扇動的な宣伝。デマ。

らせつ 【羅刹】

〔梵 可畏・足失鬼と訳す〕
人の肉を食う凶暴な悪鬼。のちに仏教に入り,羅刹天とされる。三省堂『大辞林 第三版』