19.自由への鍵(5)
「この裏切り者めが!」
天界へと戻ったセリンは、突如、怒鳴りつけられて身を固くした。
そこにいたのは、ミカエル本人ではなくホムンクルスだったが、尊大な言い回しはまったく同一だった。
心臓が止まりそうな思いで、おどおどとセリンは答えた。
「な、何のことで……? わ、わたしは、ただ、息抜きに……」
「嘘をつけ! では、これは何だ!」
懐から出した物を、ホムンクルスは、彼に突きつけた。
「貴様がこれを放つところを、我が使い魔が見ておったのだぞ!」
「あ、そ、それは……返して下さい!」
セリンは焦り、先ほど宇宙空間へと送り出したはずの岩を取り戻そうとした。
「誰が返すか! 貴様ら、この裏切り者を取り押さえろ!」
複製が大声を出し、見張りの兵士達が顔を見合わせた時、魔法陣から四つの人影が現れた。
「何事かな、一体?」
「戦い終えたばかりで、疲れているのだがね」
ミカエルに呼び出されたラジエルとラグエルは、不機嫌な顔で歩み寄って来る。
「セリンが裏切った? そんなわけないよ」
同じくアスベエルも、不快そうに言った。
「また、お得意の
メタトロンが皮肉っぽく問いかけるが、ミカエルの複製はまったくめげず、手にしていた物を高々と掲げた。
「見よ! こやつが岩に偽装し、宇宙に放った使い魔だ!
天界の機密情報を漏らし、魔物どもへ命乞いをするためにな!
さあ、白状しろ、セリン!」
「……セリン、今の話は本当なのか?
穏やかに、メタトロンが訊く。
「いえ、あの……たしかに……わたしが……放ったもの、ですけれども……」
「認めたな! よし、こやつを牢へ……」
「いえ、わたしは潔白です。嘘だと思うなら、中をご覧下さい」
セリンは、意を決したように、きっぱりと言った。
「ふん、ならば、望み通りにしてやるわ!」
ホムンクルスは岩を放り投げ、剣で真っ二つにした。
金糸を束ねたようなものが二つ、転がり出る。
複製より先に、メタトロンが、さっとそれを拾い上げた。
「これは……髪か? セリン」
「はい。わたしと妹の髪です……」
「何ゆえ、左様なものを?」
不思議そうに、ラグエルが尋ねる。
「あ、まさか、形見のつもりで……?」
アスベエルが口を挟んだ。
「いえ、形見というわけでは……。
実は、その……お恥ずかしい話ですが、近頃、よく眠れなくなっておりまして……魔物に捕まれば、わたしも妹も、命はありませんし……。
天界も安全、とは言えませんが……かといって、わたし達には、他に行く宛も……」
たどたどしく言いながら、セリンは、ちらりとミカエルの複製を見た。
「思い悩むうち……せめて、生きた証だけでも残せれば……などと考えるようになり……ついに、今日、実行に移してしまいました……。
髪だけでも自由になり……どこまでも旅が出来るようにと……岩に似せて、流したのです……。
お陰様で、一時的に、解放された気にはなれましたが……思えば、まことに浅はかな行為でした……お騒がせしまして、誠に申し訳ありません……」
セリンは、深々と頭を下げた。
「たわけ! 左様なでたらめで、言い抜けるつもりか!」
頭ごなしのホムンクルスに覆いかぶせるように、メタトロンは同情を込めて言った。
「左様か、ずいぶん思い詰めておったのだな」
「それを、裏切りなどとは笑止千万。
彼をここまで追い詰めたは、ミカエル様の責であろう」
「まったくだ。中身を確認もせず、騒ぎおって。
ラグエルとラジエルは、当てつけがましい口ぶりだった。
「なあんだ、また勝手な思い込みか、迷惑な」
ここぞとばかり、アスベエルも当てこすってやった。
「むむむ……!」
ミカエルの複製は頬を紅潮させ、睨み殺しそうな勢いでセリンを見た。
「さて、ホムンクルス殿、気は済んだろうな?
セリン、これは次の当番の時にでも、わたしが流してやろう」
髪の束を、メタトロンは懐にしまった。
「ありがとうございます、お礼の言葉もございません」
再び深く礼をしたセリンに近づき、アスベエルは肩に手を置いた。
「あんまり一人で背負い込むなよ。
さ、戻ろ」
「はい……」
そうして、皆去って行き、顔を真っ赤にした複製だけが取り残された。
部屋に帰る道すがら、アスベエルはセリンに言った。
「……お前が捕まるんじゃないかって、はらはらしたよ。
ミカエル様は複製でも同じだな、何もなくても無理矢理こじつけて、罪に落とそうとするんだから」
「ご心配をお掛けしました」
会釈した後、セリンは念話に切り替えた。
“サマエル様が、どうにかして魔界と連絡を取りたいと仰ったので、それなら、わたしが、と請け負いましてね。
疑われていないと思っていたわたしも、甘かったのですが……”
“ホント、ミカエルのヤツ、変に鼻が利くからなあ”
“同感です。それでも、周囲に気を配ってはおりましたので、使い魔に後を付けられていることには気づけたのですよ。
そこで、とっさに偽物を創り、目立つように出してから、そっと本物を……。
使い魔相手で助かりました、伝言が無事、届いているとよいのですが”
“ふうん。お前も結構、やり手だな”
“いえいえ、サマエル様の足元にも及びませんよ”
「じゃ、俺はこれで。何かあったら部屋においでよ、話すだけでも楽になるぜ。
エレアによろしくな」
「はい、ありがとうございます」
セリンは頭を下げ、二人は別れた。
翌日、集合場所に集まったアスベエル達に、苦虫を噛み潰したような顔で、ラジエルは言った。
「天帝様のご命令で、点検には、ミカエル様も加わることとなった」
「ふん、ホムンクルスになど、任せられるか!」
腕を組み、ふんぞり返って言い放つミカエルを、皆、不快そうな目つきで見た。
それでも、転移装置の点検は
天帝は、万一の事態に備えるという名目で、ミカエルを牢から出しておくと言い出し、皆の反感をさらに買った。
アスベエルやセリンが奮闘している間、魔界の王子も手をこまねいていたわけではなく、夢魔の本領を遺憾なく発揮して、神々に見せる夢の内容を紡ぎ直していた。
ここぞというところで、必ず天帝に邪魔されるようにしたのだ。
そのことにより、多少の窮屈さだけで済んでいた、束縛されることへの不快感が一気に増大した。
自由とは名ばかりで、天界の外へは出られず、子を持つことも出来ないなど一つ一つは
結果、神々は、玩具を取り上げられた子供のように苛々し、怒りっぽくなった。
天使や使い魔に当たり散らし、神々同士で対立し、さらには、大っぴらに天帝への不満を口にするようになるなど、天界は殺伐としていく。
ほくそ笑んだサマエルは、再び夢の中身を練り直しにかかった。
その間にも、魔族は、日々着実に結界を破壊し続け、数日後には、いよいよ転移門に到達すると思われた。
そんな緊迫した中、またもや事件は起きた。
使われずじまいだったフレイアのホムンクルスが、何者かの手によって培養槽から出され、見るも無惨な状態で発見されたのだ。
「幸い、命は取り留めたのだがな……こともあろうに、ミカエル様に慰みものにされ、殺されかけたと、泣いて訴えておるそうだ」
ラジエルは、この上なく不快そうな面持ちをしていた。
「そ、そんなことが……」
アスベエルは呆然とした。
もし、フレイアがそんな目に遭っていたらと思うと、一旦顔から引いた血が、かっと昇って来るのを感じ、彼は歯を食いしばった。
「大丈夫か、アスベエル?」
心配そうに声をかけられて、彼は我に返る。
「あ、す、すみません……」
「……お前の気持ちは分かるぞ、痛いほどにな。
まったく、かように切羽詰まった折に、あの方ときたら!
いつも通り、自分ではないと言い張っておるそうだがな!」
ラジエルは吐き捨てた。
「誰が信じんですか、そんなの!」
アスベエルも呆れ果てて叫んだ。
「ともあれ、
くれぐれも、フレイア様のお耳に入らぬようにな」
「分かりました」
小宮殿に戻ってみると、時すでに遅く、その話にショックを受けたフレイアは、天帝の元へ行ったとのことだった。
彼は急いで女神を追いかけた。
控えの間を通り、執務室の扉の前に来たとき、中から声が響いて来た。
「酷いわ、ひいお祖父様!
たとえ婚儀が決まっていたとしても、式が終わるまでは、清い体でいるのが当然でしょ、まったく、
「フレイア、ミカエルは否定しておるのじゃぞ。
そもそも、複製が真を語っておるのかどうか……」
彼はノックし、ドアを開けた。
「天帝様、失礼致します、アスベエルです……」
「あ、アスベエル、聞いて、酷いのよ!
ミカエルが、わたくしの複製を……ええと、そのぉ……」
フレイアは、困ったように口ごもる。
「知ってます、ラジエル様から聞きました。
天帝様……」
彼が向き直ると、天帝は、うんざりした顔になる。
「何じゃ、そちもか」
「はい、これでは、せっかくのフレイア様のお覚悟も……」
「覚悟じゃと?」
「そうよ、わたくし、ひいお祖父様がどうしてもと仰るなら、ミカエルと名目上の夫婦になるのも仕方ないと思ってたのに。
でも、絶対、寝室を共にするのはごめんだわ、もしそうなったら、短剣で刺してやるから!」
「フレイア、落ち着くがよい、返り討ちに合うが関の山じゃぞ」
「あら、そうなったら、皆、どう思うかしらね。
天帝の血を引く妻を、平気で手にかけるような男を?」
「……まったく、おなごと申すは。
一時の感情に任せ、過激なことを……」
天帝がため息をついた時、ドアがノックされた。
「失礼致します、ゼデキア様」
入室して来たのは、壮年の神だった。
金髪の巻き毛に青緑の眼、長い顎ひげを蓄えている。
「まあ、ヤヴィシュタ様……」
フレイアは眼を丸くした。
軽く会釈し、神は、つかつかと近づいて来た。
「ミカエルの所業を腹立たしく思うは、男女に関わりはございませぬよ。
あやつの傍若無人を、いつまでお許しになられるおつもりか」
天帝は眉をしかめた。
「久方ぶりじゃと申すに、相変わらずじゃの」
「
今回のこととて、フレイア様のお怒りと悲しみは、
「複製の言を
「ならば、何者の仕業だと?
培養槽に手を出せる者など、そうはおりますまい」
「む、むう……」
言葉に詰まった天帝は、ちらりとアスベエルを見た。
「まあ、彼がやったと仰るの!?」
フレイアは憤慨した。
「余は、何も申しておらぬぞ」
天帝は鼻にしわを寄せた。
言い争う二人には構わず、火の神ヤヴィシュタは続ける。
「実はもう一つ、気になることがありましてな。
皆が繰り返し、同じ夢を見ておるのですよ。
無論、夢魔めの仕業でありましょうが、不安が広がっております。
それにつきましても、お伺いを立てたく、参上
「いかなる夢じゃ」
天帝は、渋い顔で尋ねた。
大山(たいざん)鳴動して鼠(ねずみ)一匹 【大山鳴動して鼠一匹】
事前の騒ぎばかりが大きくて、実際の結果が小さいことをいう。西洋のことわざ。
緘口令(箝口令):かんこうれい
ある物事や話などを、他人に言うのを禁止すること。
単に秘密を漏らさないようにすることに関する命令だけではなく、コメントや発言などを控えることに関する命令なども含む。
「箝口(かんこう)」は口をつぐんで言わないこと。
「箝口結舌」はそうした様子を表現する言い回し。 (実用日本語表現辞典)