19.自由への鍵(4)
エントランスホールに入ると、アスベエルは言った。
「サマエル様が、お前に頼みたいことがあるそうだ」
セリンはさっと緊張し、ホールを見回した。
「こ、ここで、ですか……?」
アスベエルの体から、青白い幽霊が抜け出て来た。
“大丈夫だよ。探ってみたが、敷地内には誰もいない、ミカエルは、まだ牢の中だしね”
「こ、これは……お久しぶりでございます、サマエル殿下」
セリンは膝をつき、
“堅苦しいあいさつは抜きにしよう、セリン。
とはいえ、エレアは気の毒だったね”
「いえ、死んでいません、今いるのが、わたしの妹です」
セリンは顔を上げ、きっぱりと言う。
“……なるほどね”
「それで、わたしに頼みとは、どのようなことでしょうか」
“では、単刀直入に言おう。転移装置を破壊して欲しい”
「は、破壊……!?」
セリンは青ざめた。
“そうだ。あれが作動すれば、巻き込まれる魔族はもちろん、行き先にも
下手をすれば人界の崩壊もあり得る、まったく迷惑な話さ”
「……お言葉ですが、そう簡単にはいきませんよ。
近づくことさえ難しいと、聞いていますし……」
ためらいがちにセリンは答えた。
“装置の破壊は、自由を得る対価……『自由への鍵』だとでも考えればいい。
アスベエルの場合で言えば、体内に私を
発覚すれば、拷問の挙句、処刑は免れないが、見返りも当然あるわけだ”
それを聞いたセリンは、アスベエルを見た。
「あなたは、何を見返りに?」
「フレイア様だよ。俺の命で、彼女の安全が保証されるんなら、安いもんさ」
彼の答えに、セリンは眼を丸くした。
「敵の姫君を助命……? よくお許しが出ましたね、タナトス陛下の……」
「サマエル様のお陰だよ」
アスベエルはにっこりした。
“セリン、いくら神族に尽くしても、妹と心穏やかに過ごすという、ささやかな望みさえ叶わないのだろう?
いつ襲われるかと怯える暮らしを、まだ続けたいのか?
装置を破壊出来たら、魔族は、お前に感謝こそすれ、過ちを
ことに、“黯黒の眸”が王妃となった今ではね”
「……分かりました、やってみます」
セリンは頭を下げた。
その日の午後遅く、セリンは、一人で汎神殿の回廊を歩いていた。
奥に行くに従い、人気がなくなる。
やがて、物々しく武装した兵士達が警護する場所に出た。
「転移装置の定期点検だ」
何くわぬ顔で彼は言い、兵士の一人に指示書を見せた。
「これは、セリン殿。ご苦労様です」
ざっと兵士は敬礼した。
「少々お待ち下さい……おい、開けろ」
兵士が合図し、扉は重々しく開いた。
「安全上、一旦閉めることになっています。
点検が済みましたら、扉の青いボタンを押して、声をかけて下さい」
「了解した。だが、初めてだから、時間がかかるかも知れない」
セリンが中に入ると、後ろで扉が閉まった。
「さてと……始めるか」
広い部屋の床一杯に、複雑な魔法陣が描かれてある。
セリンは書類をめくり、図を見ながら、転移装置の点検を始めた。
かなり込み入った図形を、大きな魔法陣と照らし合わせる作業は、想像していたよりも、ずっと骨が折れた。
それでも、一歩一歩、確認しながら魔法陣の縁を回る。
部屋のちょうど反対側まで来たとき、一箇所、明らかに書類と異なる部分があることに、彼は気づいた。
何度見比べても、やはり違っている。
少しでも異なるところがあれば、速やかに七大天使の指示を仰ぐようにと、彼は命じられていた。
セリンは扉に歩み寄り、青い丸ボタンを押した。
「図面と違っている部分を見つけた。
済まないが、七大天使のどなたかに連絡をつけてくれないか」
「了解しました、ただ今、開けます」
扉が開くと、そこにはもう、七大天使の一人が立っていた。
「……あ、メタトロン様」
「合格だな、セリン」
大天使は、にっこりした。
「え?」
「お前を試したのだ。魔法陣は、わざわざ違って描いてあったのだよ」
「試した……信用されていないのですね、わたしは」
セリンは暗い顔になった。
「いやいや、左様なことはない。
皆、同様の目に遭っているのだ、わたしも含めて」
「え、……全員、ですか?」
彼は眼を見開いた。
メタトロンは肩をすくめた。
「念には念を入れよとの、天帝様のお達しでな。
ともかく、点検役を買って出てくれて助かったぞ。
新しく就任したアスベエルを入れても、今や、七大天使は五人のみだ……」
「……お役に立てて幸いです」
セリンは頭を下げた。
「まあ、お前の気持ちも分かるが。
万が一、天界が敗れることがあれば、お前もエレアも魔物に捕らえられ、人魔大戦の責を負わされるは必定、そう思い、居ても立ってもいられなくなったのであろう?」
彼が、魔界と人界の戦争の火種となったことをよく知っている大天使は、同情するように言った。
セリンは、紫の眼を伏せた。
「……はい。保身に
「左様な者はおるまいさ。
妹共々、今までよく働いて来たことは、皆、知っている……ああ、書類はこちらへ。
点検が終わり次第、戻すことになっているゆえ」
「存じておりますが、まだ、半分しか終わっておりませんよ」
「ああ、本番は明日だ。六つの魔法陣を、皆で一斉に点検する手はずになっている。さっきの調子で頑張ってくれ。
エレアの状態はまだ不安定なのだろう、今日はもうよいから、一緒にいてやりなさい」
「は。ありがとうございます」
頭を下げて、セリンは書類を渡し、
自室に戻ると、エレアが笑顔で待っていた。
「お兄様、魔法陣はいかがでした?」
「おや、エレア、起きていていいのか」
「ええ、今日は、全然胸が痛みませんの」
「そうか、顔色もいいし、よかったな」
彼は心の底から安堵した。
「心配かけてごめんなさい」
「気にすることはない、ゆっくり養生してくれ」
「はい」
エレアには、虫のダミーのことは伏せていた。
知らせない方がいいとサマエルに言われたのはもちろんだが、彼自身、妹を巻き込むことには気乗りしなかったのだ。
「魔法陣の点検は、図案が細かくて、思ったより難しかったよ。
今日はリハーサルで、明日、皆で一斉に点検をするそうだ。
その後は、転移の日を待つばかり、だな」
「……そう。でも、パンテオンを全部転移させるなんて、うまくいくのかしら……あ、大丈夫に決まってるわよね、お兄様」
エレアは、兄に似た紫の瞳を
「もちろんだとも。天帝様に抜かりはない、わたし達はただ、ついて行けばいいのだ……そうだ、気分がいいなら、外の空気を吸って来たらどうだい? いい天気だし」
「そうね、ちょっと、お散歩して来ようかしら」
言われるままに、エレアは身支度を整え、出かけて行った。
ミカエルに襲われる恐れもない今なら、安心して外に出してやれる。
窓越しに妹を見送った後、セリンは念を飛ばした。
“サマエル様、一応、装置を探って来ましたが……すぐに破壊した方がよろしかったのでは?”
“それでは、お前が捕まってしまう。エレアの命だって危ういだろう”
すぐさま答えが帰って来た。
“そ、それはそうですが……”
“いよいよ正念場だが、魔族が転移門に到達するまでに、まだ数日猶予がある。
今のうちに、こちらの状況を知らせたいところだな”
“それはわたしが致しましょう。
まったく疑われておりませんから、何とか出来ると思います”
“では、お願いしよう。期待しているよ、セリン。お前は魔族の希望だ”
“は、お任せを”
念話を終えたセリンは、拳を握り締めた。
「……く、ミカエルのヤツさえいなければ、こんなことにはならなかったのに……!」
正直なところ、長年同族として過ごした天界を裏切ることに、彼はまだ、ためらいを覚えていたのだ。
一方で、人族と魔族に対する
それは、天界に少しなじんだ頃、サマエルが天使の振りまでして、人界の人々を助けていたとメタトロンに聞かされたときに、心に湧き上がって来た思いだった。
人界に行く許可をもらい、人族に対して少しずつ、
魔族のほとんどは、“黯黒の眸”に取り憑かれた状態のセリンしか知らない。
そのため、正体が露見することはなかったものの、天使となった彼が近づくだけで、逃げるか襲いかかって来るかのどちらかだったのだ。
そんなことを思い出しながら、部屋を行ったり来たりしていたセリンは、不意に足を止め、パチンと指を鳴らした。
一匹の黒いスカラベが現れ、掌に止まる。
その使い魔に、自身の心の声を刻み込んでから、彼は部屋を出た。
少し歩いて、転移門へと続く魔法陣に乗る。
着いたところは、天界で一番高い塔の天辺だった。
眼下に、汎神殿と市街が広がり、頭上には、
これが転移門であり、唯一、天界への出入りが可能な場所となっていた。
平和な頃には、人界へ行く者のみならず、景色を眺めに来る者もいたのだが、さすがに今は、監視役の兵士が二人いるだけだった。
「……セリン殿、何かご用ですか?」
兵士の一人が、不思議そうに訊いて来た。
「いや、何だか急に、宇宙を見たくなってね……ちょっと、転移門を使ってもいいだろうか?」
「この戦時下に、何を呑気な……」
もう一人が言いかけたが、相方の天使が小突いてやめさせた。
「ついさっき、魔物どもを追い払ったばかりですから、少しの間なら大丈夫だと思いますよ」
「……済まないね、ありがとう」
セリンは羽ばたき、転移門へ向かった。
「……まさか、セリン殿、逃げ出す気なんじゃ?」
後方で、そうささやく声が聞こえた。
「エレア殿を残してか?
第一、どこに逃げるんだ、魔族に捕まったら、何をされるか知れないのに」
「あ、そうだったな」
「きっと、落ち着かないんだろう。もし天界が敗けたら……とか思ったら」
「そうか……」
そこまで聞いて、セリンは環状列石に飛び込んだ。
ぐっと重力がかかる感覚があり、それが終わると、彼は宇宙空間に浮遊していた。
足下には、天界が、巨大な青い球体として見えている。
彼は、懐からスカラベを取り出し、岩に偽装した結界で包んで命じた。
“魔族を探し、伝言を届けよ”
スカラベ
[(フランス) scarabee]
(1)タマオシコガネ(フンコロガシ)と呼ばれる一群の黄金虫(こがねむし)の称。
古代エジプトでは太陽神ケペリを表し、生成・創造・再生のシンボルとして神聖視され、彫刻・印章・護符・装身具などにその意匠が彫られた。
かんじょう-れっせき 【環状列石】
新石器時代の遺構。立石などを直径数十メートルの円環状に並べたもの。
日本では東北・北海道にみられる。ストーン-サークル。