~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

19.自由への鍵(4)

エントランスホールに入ると、アスベエルは言った。
「サマエル様が、お前に頼みたいことがあるそうだ」
セリンはさっと緊張し、ホールを見回した。
「こ、ここで、ですか……?」

アスベエルの体から、青白い幽霊が抜け出て来た。
“大丈夫だよ。探ってみたが、敷地内には誰もいない、ミカエルは、まだ牢の中だしね”
「こ、これは……お久しぶりでございます、サマエル殿下」
セリンは膝をつき、(こうべ)を垂れた。

“堅苦しいあいさつは抜きにしよう、セリン。
とはいえ、エレアは気の毒だったね”
「いえ、死んでいません、今いるのが、わたしの妹です」
セリンは顔を上げ、きっぱりと言う。
“……なるほどね”

「それで、わたしに頼みとは、どのようなことでしょうか」
“では、単刀直入に言おう。転移装置を破壊して欲しい”
「は、破壊……!?」
セリンは青ざめた。

“そうだ。あれが作動すれば、巻き込まれる魔族はもちろん、行き先にも甚大(じんだい)な被害が出るだろう。
下手をすれば人界の崩壊もあり得る、まったく迷惑な話さ”
「……お言葉ですが、そう簡単にはいきませんよ。
近づくことさえ難しいと、聞いていますし……」
ためらいがちにセリンは答えた。

“装置の破壊は、自由を得る対価……『自由への鍵』だとでも考えればいい。
アスベエルの場合で言えば、体内に私を(かくま)う、それに当たるな。
発覚すれば、拷問の挙句、処刑は免れないが、見返りも当然あるわけだ”
それを聞いたセリンは、アスベエルを見た。
「あなたは、何を見返りに?」

「フレイア様だよ。俺の命で、彼女の安全が保証されるんなら、安いもんさ」
彼の答えに、セリンは眼を丸くした。
「敵の姫君を助命……? よくお許しが出ましたね、タナトス陛下の……」
「サマエル様のお陰だよ」
アスベエルはにっこりした。

“セリン、いくら神族に尽くしても、妹と心穏やかに過ごすという、ささやかな望みさえ叶わないのだろう?
いつ襲われるかと怯える暮らしを、まだ続けたいのか?
装置を破壊出来たら、魔族は、お前に感謝こそすれ、過ちを(そし)るようなことはしないさ。
ことに、“黯黒の眸”が王妃となった今ではね”
「……分かりました、やってみます」
セリンは頭を下げた。

その日の午後遅く、セリンは、一人で汎神殿の回廊を歩いていた。
奥に行くに従い、人気がなくなる。
やがて、物々しく武装した兵士達が警護する場所に出た。
「転移装置の定期点検だ」
何くわぬ顔で彼は言い、兵士の一人に指示書を見せた。
「これは、セリン殿。ご苦労様です」
ざっと兵士は敬礼した。

「少々お待ち下さい……おい、開けろ」
兵士が合図し、扉は重々しく開いた。
「安全上、一旦閉めることになっています。
点検が済みましたら、扉の青いボタンを押して、声をかけて下さい」
「了解した。だが、初めてだから、時間がかかるかも知れない」
セリンが中に入ると、後ろで扉が閉まった。

「さてと……始めるか」
広い部屋の床一杯に、複雑な魔法陣が描かれてある。
セリンは書類をめくり、図を見ながら、転移装置の点検を始めた。
かなり込み入った図形を、大きな魔法陣と照らし合わせる作業は、想像していたよりも、ずっと骨が折れた。
それでも、一歩一歩、確認しながら魔法陣の縁を回る。

部屋のちょうど反対側まで来たとき、一箇所、明らかに書類と異なる部分があることに、彼は気づいた。
何度見比べても、やはり違っている。
少しでも異なるところがあれば、速やかに七大天使の指示を仰ぐようにと、彼は命じられていた。

セリンは扉に歩み寄り、青い丸ボタンを押した。
「図面と違っている部分を見つけた。
済まないが、七大天使のどなたかに連絡をつけてくれないか」
「了解しました、ただ今、開けます」

扉が開くと、そこにはもう、七大天使の一人が立っていた。
「……あ、メタトロン様」
「合格だな、セリン」
大天使は、にっこりした。
「え?」
「お前を試したのだ。魔法陣は、わざわざ違って描いてあったのだよ」

「試した……信用されていないのですね、わたしは」
セリンは暗い顔になった。
「いやいや、左様なことはない。
皆、同様の目に遭っているのだ、わたしも含めて」
「え、……全員、ですか?」
彼は眼を見開いた。

メタトロンは肩をすくめた。
「念には念を入れよとの、天帝様のお達しでな。
ともかく、点検役を買って出てくれて助かったぞ。
新しく就任したアスベエルを入れても、今や、七大天使は五人のみだ……」
「……お役に立てて幸いです」
セリンは頭を下げた。

「まあ、お前の気持ちも分かるが。
万が一、天界が敗れることがあれば、お前もエレアも魔物に捕らえられ、人魔大戦の責を負わされるは必定、そう思い、居ても立ってもいられなくなったのであろう?」
彼が、魔界と人界の戦争の火種となったことをよく知っている大天使は、同情するように言った。

セリンは、紫の眼を伏せた。
「……はい。保身に()けた小心者よと、(そし)りを受けるも覚悟しております……」
「左様な者はおるまいさ。
妹共々、今までよく働いて来たことは、皆、知っている……ああ、書類はこちらへ。
点検が終わり次第、戻すことになっているゆえ」

「存じておりますが、まだ、半分しか終わっておりませんよ」
「ああ、本番は明日だ。六つの魔法陣を、皆で一斉に点検する手はずになっている。さっきの調子で頑張ってくれ。
エレアの状態はまだ不安定なのだろう、今日はもうよいから、一緒にいてやりなさい」
「は。ありがとうございます」
頭を下げて、セリンは書類を渡し、(きびす)を返した。

自室に戻ると、エレアが笑顔で待っていた。
「お兄様、魔法陣はいかがでした?」
「おや、エレア、起きていていいのか」
「ええ、今日は、全然胸が痛みませんの」
「そうか、顔色もいいし、よかったな」
彼は心の底から安堵した。

「心配かけてごめんなさい」
「気にすることはない、ゆっくり養生してくれ」
「はい」
エレアには、虫のダミーのことは伏せていた。
知らせない方がいいとサマエルに言われたのはもちろんだが、彼自身、妹を巻き込むことには気乗りしなかったのだ。

「魔法陣の点検は、図案が細かくて、思ったより難しかったよ。
今日はリハーサルで、明日、皆で一斉に点検をするそうだ。
その後は、転移の日を待つばかり、だな」
「……そう。でも、パンテオンを全部転移させるなんて、うまくいくのかしら……あ、大丈夫に決まってるわよね、お兄様」
エレアは、兄に似た紫の瞳を(かげ)らせる。

「もちろんだとも。天帝様に抜かりはない、わたし達はただ、ついて行けばいいのだ……そうだ、気分がいいなら、外の空気を吸って来たらどうだい? いい天気だし」
「そうね、ちょっと、お散歩して来ようかしら」
言われるままに、エレアは身支度を整え、出かけて行った。
ミカエルに襲われる恐れもない今なら、安心して外に出してやれる。

窓越しに妹を見送った後、セリンは念を飛ばした。
“サマエル様、一応、装置を探って来ましたが……すぐに破壊した方がよろしかったのでは?”
“それでは、お前が捕まってしまう。エレアの命だって危ういだろう”
すぐさま答えが帰って来た。
“そ、それはそうですが……”

“いよいよ正念場だが、魔族が転移門に到達するまでに、まだ数日猶予がある。
今のうちに、こちらの状況を知らせたいところだな”
“それはわたしが致しましょう。
まったく疑われておりませんから、何とか出来ると思います”
“では、お願いしよう。期待しているよ、セリン。お前は魔族の希望だ”
“は、お任せを”

念話を終えたセリンは、拳を握り締めた。
「……く、ミカエルのヤツさえいなければ、こんなことにはならなかったのに……!」                        
正直なところ、長年同族として過ごした天界を裏切ることに、彼はまだ、ためらいを覚えていたのだ。

一方で、人族と魔族に対する贖罪(しょくざい)の念も、彼は持っていた。
それは、天界に少しなじんだ頃、サマエルが天使の振りまでして、人界の人々を助けていたとメタトロンに聞かされたときに、心に湧き上がって来た思いだった。

人界に行く許可をもらい、人族に対して少しずつ、(つぐな)いらしきことはしていたのだが、魔族には接触すら出来ずにいた。
魔族のほとんどは、“黯黒の眸”に取り憑かれた状態のセリンしか知らない。
そのため、正体が露見することはなかったものの、天使となった彼が近づくだけで、逃げるか襲いかかって来るかのどちらかだったのだ。

そんなことを思い出しながら、部屋を行ったり来たりしていたセリンは、不意に足を止め、パチンと指を鳴らした。
一匹の黒いスカラベが現れ、掌に止まる。
その使い魔に、自身の心の声を刻み込んでから、彼は部屋を出た。

少し歩いて、転移門へと続く魔法陣に乗る。
着いたところは、天界で一番高い塔の天辺だった。
眼下に、汎神殿と市街が広がり、頭上には、環状列石(かんじょうれっせき)が浮いている。

これが転移門であり、唯一、天界への出入りが可能な場所となっていた。
平和な頃には、人界へ行く者のみならず、景色を眺めに来る者もいたのだが、さすがに今は、監視役の兵士が二人いるだけだった。

「……セリン殿、何かご用ですか?」
兵士の一人が、不思議そうに訊いて来た。
「いや、何だか急に、宇宙を見たくなってね……ちょっと、転移門を使ってもいいだろうか?」

「この戦時下に、何を呑気な……」
もう一人が言いかけたが、相方の天使が小突いてやめさせた。
「ついさっき、魔物どもを追い払ったばかりですから、少しの間なら大丈夫だと思いますよ」
「……済まないね、ありがとう」
セリンは羽ばたき、転移門へ向かった。

「……まさか、セリン殿、逃げ出す気なんじゃ?」
後方で、そうささやく声が聞こえた。
「エレア殿を残してか?
第一、どこに逃げるんだ、魔族に捕まったら、何をされるか知れないのに」
「あ、そうだったな」
「きっと、落ち着かないんだろう。もし天界が敗けたら……とか思ったら」
「そうか……」

そこまで聞いて、セリンは環状列石に飛び込んだ。
ぐっと重力がかかる感覚があり、それが終わると、彼は宇宙空間に浮遊していた。
足下には、天界が、巨大な青い球体として見えている。
彼は、懐からスカラベを取り出し、岩に偽装した結界で包んで命じた。
“魔族を探し、伝言を届けよ”

スカラベ

[(フランス) scarabee]
(1)タマオシコガネ(フンコロガシ)と呼ばれる一群の黄金虫(こがねむし)の称。
古代エジプトでは太陽神ケペリを表し、生成・創造・再生のシンボルとして神聖視され、彫刻・印章・護符・装身具などにその意匠が彫られた。

かんじょう-れっせき 【環状列石】

新石器時代の遺構。立石などを直径数十メートルの円環状に並べたもの。
日本では東北・北海道にみられる。ストーン-サークル。