~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

19.自由への鍵(3)

アスベエル達が天帝の執務室に着くとほぼ同時に、ラジエルが三人の大天使を連れて帰還し、非番のメタトロンも合流した。

「天帝様、これなる三人が、ラファエル殺害の瞬間を目撃した者達でございます……」
すでに念話で経緯を伝えていたラジエルは、沈痛な面持ちで、大天使達を示した。

天帝は、しかし、彼らには目もくれなかった。
「案ずるな、折よくラファエルのホムンクルスが完成致したところじゃ、天界の防御には何ら支障はないわ」
「な、何を仰って……?」
ラジエルだけでなく、その場にいた全員が唖然とした。

「皆の複製も間もなく完成致そう、さらには、ガブリエルとウリエルの……」
平然と続く天帝の言葉を、たまりかねたようにラジエルはさえぎった。
「しばしお待ちを!
わたしは、防衛力の低下を(うれ)いておるのではございませぬ!
ホムンクルスの暴挙は、ミカエル様の差し金に相違なく、是非ともあの方を尋問して頂きたい!」

天帝は険しい表情になった。
「……証拠でもあると申すのか」
「あ……いえ、遺憾ながら。ホムンクルスも死にましたゆえ。
されど、ミカエル様を問い(ただ)して頂ければ……」
「論拠なき尋問なぞ不要。
そもそも、ラファエルと反目し、刃傷沙汰(にんじょうざた)に至ったは複製じゃ、ミカエルにいかなる非があろうか」

「お言葉でございますが、七大天使の一人が殺されたのですぞ!
彼の死を無駄になさるおつもりならば、もはや我らは、ミカエル様の複製と共には戦えませぬ!」
ラジエルは吼えた。
「何じゃと、ラジエル、敵前逃亡致す気か!?」
さっと、天帝は気色ばむ。

「いえいえ、決して左様なことは……」
ラジエルは、なだめるような口調になった。
「わたしとて、天界のためならば、命を惜しむいわれなどございませぬ。
されど、名誉の戦死ならともかく、いつ味方に背中を刺されるかと思えば、戦どころではございませぬわ」
「何を大仰(おおぎょう)な……」
天帝は眉をしかめた。

メタトロンが取り成すように、話を引き取る。
「天帝様、お分かり頂けておらぬようでございますな。
ホムンクルスが、上位の者を殺害するとは異常事態、さらに同様の事件が起これば、下位の者への示しもつかず、士気にも(さわ)りがあるのではと、我らは、危惧(きぐ)致しておるのでございますよ」

「何を申す。たまさか、起こったことであろうに……」
「ならばいっそ、ミカエル様の複製のみの部隊を作り、我らの複製と交代で出撃させては。
部隊を分ければ、いざこざも起こらぬことと存じますが」
ラジエルの提案に、天帝はひげをなでつける。
「さて……」

「おお、それはよい考えだな、ラジエル。
天帝様、仮に、ウリエルやラファエルの複製が、本体の仇を討つため、ミカエル様の複製の殺害を(はか)ったなら、いかがなされますか?
同士討ちなど不毛の極みでございましょう、どうか、ご一考願いたく……」
メタトロンは、拝むように両の手を合わせ、頭を下げた。

「むむ……」
天帝が腕組みをしたとき、ラグエルが息を切らして入って来た。
「て、天帝様、大変でございます!」
「何じゃ、ラグエル。またミカエルの複製が……?」
「はい?
い、いえ、眠りについておられた神々が、続々とお目覚めになられて……!」

「何じゃと!?」
天帝は眼を剥いた。
「何と!?」
「それはまことか!?」
「えっ!?」
一同はどよめく。それには、アスベエルの声も混じっていた。

「されど、何ゆえ、今頃……」
「分かりませぬ。先ほど、市街地を通りかかりますと、街路は、かつての(にぎ)わいを取り戻しておりました。
皆様、以前とお変わりにならず……何はともあれ、幾人かにお話を伺ってみましたが、何もご存じないようでございました、されど……」
ラグエルも、半信半疑の様子で、首を横に振った。

「むう……サマエルが、心を入れ替えたとでも申すか……?」
天帝も首をひねった。
「たしかに彼奴(きゃつ)は、手を引くと申しておりましたな……てっきり、フレイア様とアスベエルのことと思っておりましたが……」
ラジエルの複製が、考え込むようにつぶやく。

「ふむ……相分かった。先ほどの提言、考えておく。
ともかく、今は彼奴の意図を知るが先決、皆の者、手分けして皆に話を聞くのじゃ」
天帝は、行けと手を振った。
「かしこまりました」
一同は声を揃え、礼をして執務室を後にした。

回廊に出ると、ラジエルが口火を切った。
「わたしは北地区に向かう、お前達もだ」
複製と三人の大天使を、彼は示す。
「ラグエルは東、メタトロンは西を頼む。
アスベエルは南だ、各々部下を招集し、取り急ぎ話を聞いて回ろう」
皆はうなずき、歩き出そうとした。

そのとき、ラジエルのホムンクルスがつぶやいた。
「されど、天帝様のあのご様子では、()の噂は、やはり真であるのかと、勘ぐりたくなりますな」
「噂?」
ラグエルが振り向く。
「……ミカエル様が、天帝様の落とし(だね)だという、あれか?」
代わりに答えたのは、ラジエル本人だった。

「ああ、ありましたな、左様な噂。されど……」
メタトロンは首をひねる。
「あのミカエル様が? まさか……」
とっくに知っていたが、アスベエルは、初めて聞いたような顔をした。

ラジエルは肩をすくめた。
「昨今の天帝様の言動からするに、信憑性(しんぴょうせい)は高いやも知れぬぞ」
「されど、ミカエル様のご母堂は大天使、いかに天帝様のご落胤(らくいん)とて、皇子とは認められますまい」
ラグエルは首を横に振った。

ラジエルは腕組みをした。
「ふうむ……それゆえ、強引に、フレイア様との縁談を推し進めようとしておられるのか?」
「息子を日陰者にしておくは忍びぬという、天帝様のお心も分からぬではないが、それではフレイア様がお気の毒だ……左様に思わぬか、アスベエル」
メタトロンは気遣わしげに彼を見た。

「ええ。それに、天帝様は、近親婚は禁止されてるから両親を処刑したって言ったんですよ、それを……」
アスベエルが言った途端、その場の空気が凍りついた。
「え……あの、俺、何か、変なこと、言いました?」
彼は焦って皆を見回す。

「近親婚、とはどういうことだ? お前の両親には、血のつながりなどなかったはずだが……」
代表するように、ラジエルが問いかける。
「あ……そっか、皆さんは知らなかったんですね……」
アスベエルは、ラジエルの複製と顔を見合わせた。

「何だ? 隠さず申してみよ」
ラジエルが促す。
「えっと……実は……」
アスベエルは仕方なく、天帝が話した天使の由来を、皆に語って聞かせた。

「左様なことが……」
「……何とまあ……」
ラジエルとメタトロンは、言葉を失くしていた。
「そ、それでは、わたし達は、天帝の血筋だということか?」
ラグエルは、自分の胸に手を当てた。

「左様。近親婚を禁ずるなどとは笑止千万、天帝様は、みずから禁を破っておられたのですよ」
ラジエルの複製は付け加えた。
「……」
ラジエルとラグエル、メタトロンは、複雑な表情で顔を見合わせた。

「あ、そういや、天帝様のご命令、忘れてませんか……?」
アスベエルの声に、石像のように動けずにいた天使達は、はっと我に返った。
「左様であったな、アスベエル、後で詳しく聞かせてもらうぞ。
皆、参ろう」
ラジエルが言い残し、天使達は散って行った。

アスベエルも、割り当ての南地区へと向かった。
たしかに行く先々で、楽しげに話をしたり、通りを行き交う神々の姿が眼につく。

「……またここに戻って来られるなんて、夢にも思わなかったな……」
マトゥタの屋敷の前を通りかかった彼は、足を止め、しばし感慨にふけった。
土地勘があるので、ラジエルは、彼を南に配置したのだろう。

「まあ、アスベエル。こんなところでどうしたの?」
不意に声をかけられて、彼は振り向いた。
「あ、女神様」
そこには、マトゥタと比較的仲が良かった女神が立っていた。

「お前、七大天使になったんですって? おめでとう、出世したわねぇ。
マトゥタが生きていたら、どんなにか喜んだでしょうに……」
女神は涙ぐんだ。
「ありがとうございます……」
アスベエルも胸が熱くなり、深々とお辞儀をした。

「またここに戻って来なさいな、サリエルも一緒に」
「そうしたいのは山々なんですが、俺、フレイア様の護衛長になったんで……」
「まあ、では、天帝様も、ついに二人の仲をお認めになったのね?」
女神は眼を丸くした。
「い、いえ……認められたわけじゃないです……」
彼は首を横に振った。

「……そうなの。ミカエルなんかより、お前の方が、ずっといい子だと思うけれどねぇ。
天帝様は、人を見る目がおありでないというか……あ、今の内緒よ」
女神は、唇に人差し指を当てた。
「分かってますよ」
彼は苦笑し、それから役目を思い出して、尋ねた。
「ところで、女神様、その……最近、何か、夢を見てますか?
サマエルの、とか……」

女神は、小首をかしげた。
「んー……見てないと思うけど。でも、なぜそんなことを?」
「だって、この頃、神々は眠ってばっかりじゃないですか。
天帝様は、サマエルの呪いじゃないかって、ご心配されて……」

「それは違うわ、退屈だからよ。
だって、前は毎日、色々な催し物があったじゃない?
なのに、近頃は何もないんですもの、戦のせいで。
市街だって窮屈だわ、どこに行っても、知っている人ばかりでしょ。
かといって、寝てばかりいるのにも飽きたし……きっと、皆そうなんじゃない?」
女神は肩をすくめた。

「そ、そうなんですか……」
「ええ。戦なんか、早く終わって欲しいわ。
魔物が天界を欲しがっているのなら、くれてやればいいじゃないの。皆、そう言ってるわよ。
お前はいいわね、アスベエル、魔界に行って来たんでしょ、わたしも自由に、色々な世界へ行ってみたいわ」

「平和になれば、行けるようになるかも……」
「多分無理ね。だって天帝様は、大昔の規則通りにすることだけ考えておいでなんだもの」
「えっと、その……」

「あ、こんなこと、お前に言ってもしょうがないわね。
ま、フレイア様のためにも頑張りなさいな、ミカエルより、お前の方が役に立つってところを見せつけて、ね!」
女神は、ぽんと彼の肩をたたき、にっと笑った。

「女神様……」
「応援してるわよ、じゃあね」
女神は彼に投げキッスし、手を振り去って行く。
「参ったなぁ」
彼は頭をかいた。

すると、サマエルの声が聞こえた。
“夢に足跡を残すほど、私は間抜けではないよ。彼らは、私のことなど覚えていないさ。
それより、部下を集めるついでに、セリンを呼んでくれ。
彼に頼みたいことがある”

“分かりました”
早速アスベエルは、ベリアスやルクバトなど部下達に、念話で天帝の命令を伝えた。
その後でセリンを呼び出し、二人は密かにマトゥタの屋敷の門をくぐった。

たまさか【偶さか/適さか】

1 思いがけないさま。偶然であるさま。たまたま。 
2 機会が数少ないさま。まれに。たまに。

おとしだね 【落(と)し胤】

(主に身分の高い人が)正妻以外の女に生ませた子。落とし子。落胤(らくいん)。