19.自由への鍵(3)
アスベエル達が天帝の執務室に着くとほぼ同時に、ラジエルが三人の大天使を連れて帰還し、非番のメタトロンも合流した。
「天帝様、これなる三人が、ラファエル殺害の瞬間を目撃した者達でございます……」
すでに念話で経緯を伝えていたラジエルは、沈痛な面持ちで、大天使達を示した。
天帝は、しかし、彼らには目もくれなかった。
「案ずるな、折よくラファエルのホムンクルスが完成致したところじゃ、天界の防御には何ら支障はないわ」
「な、何を仰って……?」
ラジエルだけでなく、その場にいた全員が唖然とした。
「皆の複製も間もなく完成致そう、さらには、ガブリエルとウリエルの……」
平然と続く天帝の言葉を、たまりかねたようにラジエルはさえぎった。
「しばしお待ちを!
わたしは、防衛力の低下を
ホムンクルスの暴挙は、ミカエル様の差し金に相違なく、是非ともあの方を尋問して頂きたい!」
天帝は険しい表情になった。
「……証拠でもあると申すのか」
「あ……いえ、遺憾ながら。ホムンクルスも死にましたゆえ。
されど、ミカエル様を問い
「論拠なき尋問なぞ不要。
そもそも、ラファエルと反目し、
「お言葉でございますが、七大天使の一人が殺されたのですぞ!
彼の死を無駄になさるおつもりならば、もはや我らは、ミカエル様の複製と共には戦えませぬ!」
ラジエルは吼えた。
「何じゃと、ラジエル、敵前逃亡致す気か!?」
さっと、天帝は気色ばむ。
「いえいえ、決して左様なことは……」
ラジエルは、なだめるような口調になった。
「わたしとて、天界のためならば、命を惜しむいわれなどございませぬ。
されど、名誉の戦死ならともかく、いつ味方に背中を刺されるかと思えば、戦どころではございませぬわ」
「何を
天帝は眉をしかめた。
メタトロンが取り成すように、話を引き取る。
「天帝様、お分かり頂けておらぬようでございますな。
ホムンクルスが、上位の者を殺害するとは異常事態、さらに同様の事件が起これば、下位の者への示しもつかず、士気にも
「何を申す。たまさか、起こったことであろうに……」
「ならばいっそ、ミカエル様の複製のみの部隊を作り、我らの複製と交代で出撃させては。
部隊を分ければ、いざこざも起こらぬことと存じますが」
ラジエルの提案に、天帝はひげをなでつける。
「さて……」
「おお、それはよい考えだな、ラジエル。
天帝様、仮に、ウリエルやラファエルの複製が、本体の仇を討つため、ミカエル様の複製の殺害を
同士討ちなど不毛の極みでございましょう、どうか、ご一考願いたく……」
メタトロンは、拝むように両の手を合わせ、頭を下げた。
「むむ……」
天帝が腕組みをしたとき、ラグエルが息を切らして入って来た。
「て、天帝様、大変でございます!」
「何じゃ、ラグエル。またミカエルの複製が……?」
「はい?
い、いえ、眠りについておられた神々が、続々とお目覚めになられて……!」
「何じゃと!?」
天帝は眼を剥いた。
「何と!?」
「それはまことか!?」
「えっ!?」
一同はどよめく。それには、アスベエルの声も混じっていた。
「されど、何ゆえ、今頃……」
「分かりませぬ。先ほど、市街地を通りかかりますと、街路は、かつての
皆様、以前とお変わりにならず……何はともあれ、幾人かにお話を伺ってみましたが、何もご存じないようでございました、されど……」
ラグエルも、半信半疑の様子で、首を横に振った。
「むう……サマエルが、心を入れ替えたとでも申すか……?」
天帝も首をひねった。
「たしかに
ラジエルの複製が、考え込むようにつぶやく。
「ふむ……相分かった。先ほどの提言、考えておく。
ともかく、今は彼奴の意図を知るが先決、皆の者、手分けして皆に話を聞くのじゃ」
天帝は、行けと手を振った。
「かしこまりました」
一同は声を揃え、礼をして執務室を後にした。
回廊に出ると、ラジエルが口火を切った。
「わたしは北地区に向かう、お前達もだ」
複製と三人の大天使を、彼は示す。
「ラグエルは東、メタトロンは西を頼む。
アスベエルは南だ、各々部下を招集し、取り急ぎ話を聞いて回ろう」
皆はうなずき、歩き出そうとした。
そのとき、ラジエルのホムンクルスがつぶやいた。
「されど、天帝様のあのご様子では、
「噂?」
ラグエルが振り向く。
「……ミカエル様が、天帝様の落とし
代わりに答えたのは、ラジエル本人だった。
「ああ、ありましたな、左様な噂。されど……」
メタトロンは首をひねる。
「あのミカエル様が? まさか……」
とっくに知っていたが、アスベエルは、初めて聞いたような顔をした。
ラジエルは肩をすくめた。
「昨今の天帝様の言動からするに、
「されど、ミカエル様のご母堂は大天使、いかに天帝様のご
ラグエルは首を横に振った。
ラジエルは腕組みをした。
「ふうむ……それゆえ、強引に、フレイア様との縁談を推し進めようとしておられるのか?」
「息子を日陰者にしておくは忍びぬという、天帝様のお心も分からぬではないが、それではフレイア様がお気の毒だ……左様に思わぬか、アスベエル」
メタトロンは気遣わしげに彼を見た。
「ええ。それに、天帝様は、近親婚は禁止されてるから両親を処刑したって言ったんですよ、それを……」
アスベエルが言った途端、その場の空気が凍りついた。
「え……あの、俺、何か、変なこと、言いました?」
彼は焦って皆を見回す。
「近親婚、とはどういうことだ? お前の両親には、血のつながりなどなかったはずだが……」
代表するように、ラジエルが問いかける。
「あ……そっか、皆さんは知らなかったんですね……」
アスベエルは、ラジエルの複製と顔を見合わせた。
「何だ? 隠さず申してみよ」
ラジエルが促す。
「えっと……実は……」
アスベエルは仕方なく、天帝が話した天使の由来を、皆に語って聞かせた。
「左様なことが……」
「……何とまあ……」
ラジエルとメタトロンは、言葉を失くしていた。
「そ、それでは、わたし達は、天帝の血筋だということか?」
ラグエルは、自分の胸に手を当てた。
「左様。近親婚を禁ずるなどとは笑止千万、天帝様は、みずから禁を破っておられたのですよ」
ラジエルの複製は付け加えた。
「……」
ラジエルとラグエル、メタトロンは、複雑な表情で顔を見合わせた。
「あ、そういや、天帝様のご命令、忘れてませんか……?」
アスベエルの声に、石像のように動けずにいた天使達は、はっと我に返った。
「左様であったな、アスベエル、後で詳しく聞かせてもらうぞ。
皆、参ろう」
ラジエルが言い残し、天使達は散って行った。
アスベエルも、割り当ての南地区へと向かった。
たしかに行く先々で、楽しげに話をしたり、通りを行き交う神々の姿が眼につく。
「……またここに戻って来られるなんて、夢にも思わなかったな……」
マトゥタの屋敷の前を通りかかった彼は、足を止め、しばし感慨にふけった。
土地勘があるので、ラジエルは、彼を南に配置したのだろう。
「まあ、アスベエル。こんなところでどうしたの?」
不意に声をかけられて、彼は振り向いた。
「あ、女神様」
そこには、マトゥタと比較的仲が良かった女神が立っていた。
「お前、七大天使になったんですって? おめでとう、出世したわねぇ。
マトゥタが生きていたら、どんなにか喜んだでしょうに……」
女神は涙ぐんだ。
「ありがとうございます……」
アスベエルも胸が熱くなり、深々とお辞儀をした。
「またここに戻って来なさいな、サリエルも一緒に」
「そうしたいのは山々なんですが、俺、フレイア様の護衛長になったんで……」
「まあ、では、天帝様も、ついに二人の仲をお認めになったのね?」
女神は眼を丸くした。
「い、いえ……認められたわけじゃないです……」
彼は首を横に振った。
「……そうなの。ミカエルなんかより、お前の方が、ずっといい子だと思うけれどねぇ。
天帝様は、人を見る目がおありでないというか……あ、今の内緒よ」
女神は、唇に人差し指を当てた。
「分かってますよ」
彼は苦笑し、それから役目を思い出して、尋ねた。
「ところで、女神様、その……最近、何か、夢を見てますか?
サマエルの、とか……」
女神は、小首をかしげた。
「んー……見てないと思うけど。でも、なぜそんなことを?」
「だって、この頃、神々は眠ってばっかりじゃないですか。
天帝様は、サマエルの呪いじゃないかって、ご心配されて……」
「それは違うわ、退屈だからよ。
だって、前は毎日、色々な催し物があったじゃない?
なのに、近頃は何もないんですもの、戦のせいで。
市街だって窮屈だわ、どこに行っても、知っている人ばかりでしょ。
かといって、寝てばかりいるのにも飽きたし……きっと、皆そうなんじゃない?」
女神は肩をすくめた。
「そ、そうなんですか……」
「ええ。戦なんか、早く終わって欲しいわ。
魔物が天界を欲しがっているのなら、くれてやればいいじゃないの。皆、そう言ってるわよ。
お前はいいわね、アスベエル、魔界に行って来たんでしょ、わたしも自由に、色々な世界へ行ってみたいわ」
「平和になれば、行けるようになるかも……」
「多分無理ね。だって天帝様は、大昔の規則通りにすることだけ考えておいでなんだもの」
「えっと、その……」
「あ、こんなこと、お前に言ってもしょうがないわね。
ま、フレイア様のためにも頑張りなさいな、ミカエルより、お前の方が役に立つってところを見せつけて、ね!」
女神は、ぽんと彼の肩をたたき、にっと笑った。
「女神様……」
「応援してるわよ、じゃあね」
女神は彼に投げキッスし、手を振り去って行く。
「参ったなぁ」
彼は頭をかいた。
すると、サマエルの声が聞こえた。
“夢に足跡を残すほど、私は間抜けではないよ。彼らは、私のことなど覚えていないさ。
それより、部下を集めるついでに、セリンを呼んでくれ。
彼に頼みたいことがある”
“分かりました”
早速アスベエルは、ベリアスやルクバトなど部下達に、念話で天帝の命令を伝えた。
その後でセリンを呼び出し、二人は密かにマトゥタの屋敷の門をくぐった。
たまさか【偶さか/適さか】
1 思いがけないさま。偶然であるさま。たまたま。
2 機会が数少ないさま。まれに。たまに。
おとしだね 【落(と)し胤】
(主に身分の高い人が)正妻以外の女に生ませた子。落とし子。落胤(らくいん)。