19.自由への鍵(2)
アスベエルは自室に戻り、サリエルとリナーシタを連れて、小宮殿の新しい部屋に移った。
さらには、今夜だけフレイアと夕食を共にしてよいという許しをもらい、四人は夢のようなひと時を過ごすこととなった。
こうしてアスベエルは、自分の幸運が信じられないまま朝を迎えた。
朝食後、三人でフレイアの部屋に行き、あいさつを済ませる。
義弟達は、今日から彼女と一緒に学習を開始することになったのだ。
その足で、アスベエルはラジエルを訪ねた。
しかし、彼を出迎えたのは、またもホムンクルスの方だった。
「あれ、ネヴェスさん。お早うございます……あ、ラジエル様は、また?」
「お早う、アスベエル。左様、援軍に駆り出された。
それゆえ、一から教えるより、魔法の記憶を送る方が早かろうということになってな、ようやくわたしも、ラジエルの記憶をすべて引き継ぐことが出来た。
さあ、そこにひざまずいて」
「はい」
言われた通りにした彼の額に、ホムンクルスは手を当てた。
魔法に関する記憶が、流れ込んで来る。
「これでよし。後は実践だが……その前に、サマエル様、どうぞ」
ネヴェスが何もない空中に声をかけると、部屋の中央にサマエルの幽霊が現れた。
「あ、サマエル様、昨日は、ありがとうございました」
アスベエルは、ぺこりと頭を下げた。
“うまく行ってよかった。
……しかし、お前がミカエルを刺したと聞いた時には、肝を冷やしたよ”
昨日、あの事件があった直後にネヴェスからの連絡を受けた彼は、アスベエルの地下室行きを阻止するため、一芝居打ったのだった。
「済みませんでした、考えなしに行動してしまって」
アスベエルは深々と礼をした。
“まあいいさ、気持ちは分かる。
実はね、胸がすく思いもしたのだよ、刺された瞬間の、ヤツの顔を見てみたかったな”
サマエルは微笑んだ。
「鳩が豆鉄砲を食らったとは、まさにあやつのことかと」
ネヴェスも笑いながら答えた。
“そうか。だが、もう無茶してはいけないよ。お前には、生きて幸福になって欲しいからね。
死んでしまっては元も子もない……私のように”
幽霊は、淋しげに眼を伏せた。
「はい……」
“本当は、仲間を裏切りたくなどないのだろう……?
このままいけば、フレイアとの仲も認められるかも知れない、そうなったら裏切る必要もない、などと考えてね”
静かにサマエルは言う。
見透かされたように感じて、アスベエルはどきりとした。
「あ、い、いえ、そんなことは……」
“……残念だが、そう事はうまく運ばないよ。
ゼデキアは、何とかミカエルに手柄を立てさせ、天使長に復帰させた上で、フレイアと結びつける心積りでいるから”
「あいつと結婚!? フレイア様は、絶対、うんって言いませんよ!」
アスベエルは叫び、ネヴェスはあきれた顔をした。
「この期に及んで、まだミカエルを復職させる気とは……」
サマエルは肩をすくめた。
“そもそもゼデキアが、ミカエルを排除することなどあり得ないさ、たとえ、天地がひっくり返っても、ね。
……なぜなら、ミカエルは、あの男の実子なのだから”
「ええっ!? ……ってことは、皇子なんですか、ミカエルは!?」
アスベエルは眼を丸くした。
「……むう、左様な噂もあったな」
ホムンクルスは、大して驚いた様子もなかった。
「え、知ってたんですか」
「いや、偶然、小耳に挟んだのだ。……ラジエルが幼い頃にな。
……いずれにせよ、母親が大天使では、皇子とは認められまいが」
サマエルはうなずく。
“そう、皆も感づいてはいたのだね”
「はい。ミカエルの母親は、あまり身持ちが良くない女天使だったそうですが、何ゆえか、天帝は気に入っていたようでして。
身ごもった際も、魔族が相手ではと疑われ、異端審問にかけられるところを天帝は
そうしたことから、父親は天帝ではないかと噂する者もおりましたが、当然、地下送りにされ、誰も詮索は出来ず仕舞いで……。
まさか、真実だったとは……」
ネヴェスは首を振った。
「……へえ、ミカエルは母親似なんですね」
皮肉っぽく、アスベエルは言った。
“ヤツは、ゼデキアから、天使達の
何をしても尻ぬぐいしてもらえるから、やりたい放題だったわけさ”
「……道理で。
昨日、俺、もう最後だと思って、天帝に、ミカエルを甘やかし過ぎだって言ってやったんですけど、そういうことだったんですね……」
“そんなことより、ゼデキアはご両親の仇なのだよ、アスベエル。
大昔に兄弟だったとしても、大天使は、もう、他の天使達とは血のつながりなどない。
「そ、そうか……くそ!」
アスベエルは、拳を握り締めた。
“それと……いや、これは言わないでおこう……ただ、この戦いで神族が勝てば、ミカエルとの結婚以上の不幸が、フレイアには振りかかる恐れがある……それを肝に銘じておくのだね”
「えっ、どんな不幸が振りかかるって言うんですか?」
彼は眼を見開いた。
“あ、いや……、魔族が勝てばいいことだ、お前は知らない方が……”
サマエルは口を濁す。
「そんな、意地悪しないで教えて下さい!
俺、フレイア様が心配なんです、お願いします、どうか、この通りです!」
何度も、アスベエルは頭を下げた。
“……そうまでされたら、話さないわけにも行かないか……”
根負けしたように、サマエルは話し始めた。”
“ゼデキアは、ミカエルとの縁談が不調に終わった場合、七大天使の残り連中と、フレイアを娶せるつもりなのだ。
気の毒だが、お前のことは眼中にないね、アスベエル”
「……そうでしょうね。フレイア様は嫌がると思いますけど。
それでも天帝は、ごり押しする気なんだろうな……」
アスベエルは、深く息を吐いた。
“それくらいなら、まだいいのだけれどね……。
フレイアも、政略結婚自体は、仕方ないことと受け入れる覚悟は出来ているようだから。
問題は、……”
言いにくそうに、再びサマエルは口ごもる。
「え、まだ何か?」
“戦では、かなり死者が出るだろう……?
たとえ、神族が勝利出来たとしても、七大天使全員が戦死する可能性もある。
そして……もしそうなったら……、ゼデキアは……フレイアを……”
またしても、サマエルはためらう。
「教えて下さい、天帝は、フレイア様をどうする気なんですか!?」
食い下がるアスベエルを、サマエルは複雑な表情で見た。
“実は……ヤツは、
……こともあろうに、自分のひ孫を愛人にし、子を産ませよう……などという、ね”
「ええっ、う、嘘でしょう!?」
アスベエルは真っ青になり、ネヴェスは声が裏返った。
「子を産ませるですとぉ!? おのれのひ孫にぃ!?」
“……残念ながら真実だ。
私はゼデキアの夢に入り、ヤツの秘めたる願望を見て来たのだから……”
「ああ……何てこった」
アスベエルは頭を抱えた。
“フレイアは人族との混血だ……もしかしたら、自分との間に子をもうけることが出来るかも知れないと、ゼデキアは思っている……もちろん、あくまで最終手段として、だけれど”
「フ、フレイア様が承知しませんよ、そんなこと!」
「さすがは親子、ミカエルそっくりですな!」
二人の天使は
“……そうだね。散々、我ら魔族を
だが、一番の被害者はフレイアだな……。
保護者として信じていた者に、そんな関係を強要されたとしたら……気が強そうに見えて、実は繊細な彼女のことだ、正気ではいられないだろう……”
サマエルは、首を横に振る。
「そんな……」
“そして、もし子供が出来れば、当然相手はお前、ということになるだろうな、アスベエル”
亡霊は彼を指差す。
「え……?」
アスベエルは、ぽかんとした。
“お前を名目上の夫にし、事を収めようとするかも知れないが……いや、天帝の曾孫を身ごもらせたという濡れ衣を着せ、処刑する公算の方が高いな。
そうなれば、彼女は……たとえ正気でいたとしても、すべてを捨て、眠りについてしまうだろう……ゼデキアは、それでも構わないだろうが。
自分の血を引く子供さえ、手に入ればね……”
「くそう……何てヤツだ! 俺には近親婚がどうとか言っといて!」
アスベエルは歯を食いしばった。
“済まない、こんなこと、言わなければよかったね……”
サマエルはうなだれた。
「いいえ、話してもらってよかったです、俺、まだ少し、迷ってたし。
もし魔族につかずに天界が勝って、そういう事態になってから後悔しても、遅いですからね」
“……そう。では、改めてよろしく、アスベエル。我が同志よ”
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
アスベエルは深く礼をした。
“少し休んだらどうかな、色々ショックだったろう。
私が入れば、魔法など、わざわざ練習する必要もないさ”
「たしかにそうですね。では、アスベエル、そこに座るといい、お茶を
ネヴェスはソファを指差す。
香り高い紅茶を楽しみながら、天使達はくつろいだ。
サマエルも、穏やかな表情で、そんな彼らを見守る。
だが、平和なひとときは、突如終わりを告げた。
彼らの心に、切羽詰まったラジエルの念が届いたのだ。
“アスベエル! ネヴェス! 聞こえるか! 今、いずこにおる!?”
“は? ラジエル様の部屋です……けど、何か?”
知っているはずだろうと思いつつ、アスベエルは答える。
“あ……ああ、そうだったな。
実は、大変なことが起きてしまった。ラファエルが……”
“え、まさか、戦死!?”
“……それならば、まだましだったのだがな。
彼は、ミカエルに……いや、ヤツの複製に殺された!”
「な、何ですってぇ!?」
思わず、彼はカップを落としかけ、ネヴェスの顔からも血の気が引く。
サマエルは黙ったまま、二人の様子を注視していた。
慌ててカップをテーブルに戻し、アスベエルは訊いた。
“ど、どういうことなんですか!?”
“言葉通りだ、ミカエルの複製が、炎の短剣で刺したのだ。
助けに行ったが、間に合わず……彼は灰と化した……あれでは、蘇生も出来まい……”
“そんな……味方なのに、どうして……!?”
“決まっている、ミカエル本体の差し金だ!
お前に刺された
ラジエルの念は、噛みつくようだった。
“……俺のせいなんですね”
アスベエルはうなだれた。
“いいや、断じて、お前のせいではない!”
ラジエルはきっぱりと否定した。
“複製を捕らえて自白させたかったが、死んだ。
ともかく、今より戻る。天帝様に詳しくご報告するゆえ、お前達も同席してくれ”
“分かりました”
アスベエルは、もの問いたげな幽霊に、今の話を伝えた。
“……ミカエルめ、ついに狂ったか。ラファエルも気の毒に。
そういうことなら、私も話を聞きたい、お前の中に入ってもいいかな”
「はい、もちろんです」
“ありがとう”
大天使の中に吸い込まれる瞬間、死霊の美しい唇に笑みが刻まれたことに、天使達は気づかなかった。
いしゅがえし【意趣返し】
恨みを返すこと。しかえし。復讐(ふくしゅう)。