~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

19.自由への鍵(2)

アスベエルは自室に戻り、サリエルとリナーシタを連れて、小宮殿の新しい部屋に移った。
さらには、今夜だけフレイアと夕食を共にしてよいという許しをもらい、四人は夢のようなひと時を過ごすこととなった。

こうしてアスベエルは、自分の幸運が信じられないまま朝を迎えた。
朝食後、三人でフレイアの部屋に行き、あいさつを済ませる。
義弟達は、今日から彼女と一緒に学習を開始することになったのだ。

その足で、アスベエルはラジエルを訪ねた。
しかし、彼を出迎えたのは、またもホムンクルスの方だった。

「あれ、ネヴェスさん。お早うございます……あ、ラジエル様は、また?」
「お早う、アスベエル。左様、援軍に駆り出された。
それゆえ、一から教えるより、魔法の記憶を送る方が早かろうということになってな、ようやくわたしも、ラジエルの記憶をすべて引き継ぐことが出来た。
さあ、そこにひざまずいて」

「はい」
言われた通りにした彼の額に、ホムンクルスは手を当てた。
魔法に関する記憶が、流れ込んで来る。
「これでよし。後は実践だが……その前に、サマエル様、どうぞ」
ネヴェスが何もない空中に声をかけると、部屋の中央にサマエルの幽霊が現れた。

「あ、サマエル様、昨日は、ありがとうございました」
アスベエルは、ぺこりと頭を下げた。
“うまく行ってよかった。
……しかし、お前がミカエルを刺したと聞いた時には、肝を冷やしたよ”
昨日、あの事件があった直後にネヴェスからの連絡を受けた彼は、アスベエルの地下室行きを阻止するため、一芝居打ったのだった。

「済みませんでした、考えなしに行動してしまって」
アスベエルは深々と礼をした。
“まあいいさ、気持ちは分かる。
実はね、胸がすく思いもしたのだよ、刺された瞬間の、ヤツの顔を見てみたかったな”
サマエルは微笑んだ。
「鳩が豆鉄砲を食らったとは、まさにあやつのことかと」
ネヴェスも笑いながら答えた。

“そうか。だが、もう無茶してはいけないよ。お前には、生きて幸福になって欲しいからね。
死んでしまっては元も子もない……私のように”
幽霊は、淋しげに眼を伏せた。
「はい……」

“本当は、仲間を裏切りたくなどないのだろう……?
このままいけば、フレイアとの仲も認められるかも知れない、そうなったら裏切る必要もない、などと考えてね”
静かにサマエルは言う。
見透かされたように感じて、アスベエルはどきりとした。
「あ、い、いえ、そんなことは……」

“……残念だが、そう事はうまく運ばないよ。
ゼデキアは、何とかミカエルに手柄を立てさせ、天使長に復帰させた上で、フレイアと結びつける心積りでいるから”
「あいつと結婚!? フレイア様は、絶対、うんって言いませんよ!」
アスベエルは叫び、ネヴェスはあきれた顔をした。
「この期に及んで、まだミカエルを復職させる気とは……」

サマエルは肩をすくめた。
“そもそもゼデキアが、ミカエルを排除することなどあり得ないさ、たとえ、天地がひっくり返っても、ね。
……なぜなら、ミカエルは、あの男の実子なのだから”
「ええっ!? ……ってことは、皇子なんですか、ミカエルは!?」
アスベエルは眼を丸くした。

「……むう、左様な噂もあったな」
ホムンクルスは、大して驚いた様子もなかった。
「え、知ってたんですか」
「いや、偶然、小耳に挟んだのだ。……ラジエルが幼い頃にな。
……いずれにせよ、母親が大天使では、皇子とは認められまいが」
サマエルはうなずく。
“そう、皆も感づいてはいたのだね”

「はい。ミカエルの母親は、あまり身持ちが良くない女天使だったそうですが、何ゆえか、天帝は気に入っていたようでして。
身ごもった際も、魔族が相手ではと疑われ、異端審問にかけられるところを天帝は赦免(しゃめん)し、出産後女天使が死ぬと、名付け親にもなったのです。
そうしたことから、父親は天帝ではないかと噂する者もおりましたが、当然、地下送りにされ、誰も詮索は出来ず仕舞いで……。
まさか、真実だったとは……」
ネヴェスは首を振った。

「……へえ、ミカエルは母親似なんですね」
皮肉っぽく、アスベエルは言った。
“ヤツは、ゼデキアから、天使達の(いわ)れや、自分の出自を聞かされていたのだよ。
何をしても尻ぬぐいしてもらえるから、やりたい放題だったわけさ”
「……道理で。
昨日、俺、もう最後だと思って、天帝に、ミカエルを甘やかし過ぎだって言ってやったんですけど、そういうことだったんですね……」

“そんなことより、ゼデキアはご両親の仇なのだよ、アスベエル。
大昔に兄弟だったとしても、大天使は、もう、他の天使達とは血のつながりなどない。
因習(いんしゅう)を盲目的に踏襲(とうしゅう)し、ゼデキアはご両親を処刑した……そのくせ自分の息子を、ひ孫と(めあわ)せようとしているのだ”

「そ、そうか……くそ!」
アスベエルは、拳を握り締めた。
“それと……いや、これは言わないでおこう……ただ、この戦いで神族が勝てば、ミカエルとの結婚以上の不幸が、フレイアには振りかかる恐れがある……それを肝に銘じておくのだね”

「えっ、どんな不幸が振りかかるって言うんですか?」
彼は眼を見開いた。
“あ、いや……、魔族が勝てばいいことだ、お前は知らない方が……”
サマエルは口を濁す。
「そんな、意地悪しないで教えて下さい!
俺、フレイア様が心配なんです、お願いします、どうか、この通りです!」
何度も、アスベエルは頭を下げた。

“……そうまでされたら、話さないわけにも行かないか……”
根負けしたように、サマエルは話し始めた。”
“ゼデキアは、ミカエルとの縁談が不調に終わった場合、七大天使の残り連中と、フレイアを娶せるつもりなのだ。
気の毒だが、お前のことは眼中にないね、アスベエル”

「……そうでしょうね。フレイア様は嫌がると思いますけど。
それでも天帝は、ごり押しする気なんだろうな……」
アスベエルは、深く息を吐いた。

“それくらいなら、まだいいのだけれどね……。
フレイアも、政略結婚自体は、仕方ないことと受け入れる覚悟は出来ているようだから。
問題は、……”
言いにくそうに、再びサマエルは口ごもる。

「え、まだ何か?」
“戦では、かなり死者が出るだろう……?
たとえ、神族が勝利出来たとしても、七大天使全員が戦死する可能性もある。
そして……もしそうなったら……、ゼデキアは……フレイアを……”
またしても、サマエルはためらう。
「教えて下さい、天帝は、フレイア様をどうする気なんですか!?」

食い下がるアスベエルを、サマエルは複雑な表情で見た。
“実は……ヤツは、(よこしま)な考えを胸に秘めているのだよ。
……こともあろうに、自分のひ孫を愛人にし、子を産ませよう……などという、ね”
「ええっ、う、嘘でしょう!?」
アスベエルは真っ青になり、ネヴェスは声が裏返った。
「子を産ませるですとぉ!? おのれのひ孫にぃ!?」

“……残念ながら真実だ。
私はゼデキアの夢に入り、ヤツの秘めたる願望を見て来たのだから……”
「ああ……何てこった」
アスベエルは頭を抱えた。

“フレイアは人族との混血だ……もしかしたら、自分との間に子をもうけることが出来るかも知れないと、ゼデキアは思っている……もちろん、あくまで最終手段として、だけれど”
「フ、フレイア様が承知しませんよ、そんなこと!」
「さすがは親子、ミカエルそっくりですな!」
二人の天使は憤慨(ふんがい)した。

“……そうだね。散々、我ら魔族を誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)して来たくせに、みずから……まあ、それほど切羽詰まっているということだろうが。
だが、一番の被害者はフレイアだな……。
保護者として信じていた者に、そんな関係を強要されたとしたら……気が強そうに見えて、実は繊細な彼女のことだ、正気ではいられないだろう……”
サマエルは、首を横に振る。
「そんな……」

“そして、もし子供が出来れば、当然相手はお前、ということになるだろうな、アスベエル”
亡霊は彼を指差す。
「え……?」
アスベエルは、ぽかんとした。

“お前を名目上の夫にし、事を収めようとするかも知れないが……いや、天帝の曾孫を身ごもらせたという濡れ衣を着せ、処刑する公算の方が高いな。
そうなれば、彼女は……たとえ正気でいたとしても、すべてを捨て、眠りについてしまうだろう……ゼデキアは、それでも構わないだろうが。
自分の血を引く子供さえ、手に入ればね……”

「くそう……何てヤツだ! 俺には近親婚がどうとか言っといて!」
アスベエルは歯を食いしばった。
“済まない、こんなこと、言わなければよかったね……”
サマエルはうなだれた。

「いいえ、話してもらってよかったです、俺、まだ少し、迷ってたし。
もし魔族につかずに天界が勝って、そういう事態になってから後悔しても、遅いですからね」
“……そう。では、改めてよろしく、アスベエル。我が同志よ”
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
アスベエルは深く礼をした。

“少し休んだらどうかな、色々ショックだったろう。
私が入れば、魔法など、わざわざ練習する必要もないさ”
「たしかにそうですね。では、アスベエル、そこに座るといい、お茶を()れよう」
ネヴェスはソファを指差す。

香り高い紅茶を楽しみながら、天使達はくつろいだ。
サマエルも、穏やかな表情で、そんな彼らを見守る。

だが、平和なひとときは、突如終わりを告げた。
彼らの心に、切羽詰まったラジエルの念が届いたのだ。
“アスベエル! ネヴェス! 聞こえるか! 今、いずこにおる!?”
“は? ラジエル様の部屋です……けど、何か?”
知っているはずだろうと思いつつ、アスベエルは答える。

“あ……ああ、そうだったな。
実は、大変なことが起きてしまった。ラファエルが……”
“え、まさか、戦死!?”
“……それならば、まだましだったのだがな。
彼は、ミカエルに……いや、ヤツの複製に殺された!”

「な、何ですってぇ!?」
思わず、彼はカップを落としかけ、ネヴェスの顔からも血の気が引く。
サマエルは黙ったまま、二人の様子を注視していた。

慌ててカップをテーブルに戻し、アスベエルは訊いた。
“ど、どういうことなんですか!?”
“言葉通りだ、ミカエルの複製が、炎の短剣で刺したのだ。
助けに行ったが、間に合わず……彼は灰と化した……あれでは、蘇生も出来まい……”
“そんな……味方なのに、どうして……!?”

“決まっている、ミカエル本体の差し金だ!
お前に刺された意趣返(いしゅがえ)しか、それとも、ラファエルが目障りだったのか知らぬが!”
ラジエルの念は、噛みつくようだった。
“……俺のせいなんですね”
アスベエルはうなだれた。

“いいや、断じて、お前のせいではない!”
ラジエルはきっぱりと否定した。
“複製を捕らえて自白させたかったが、死んだ。
ともかく、今より戻る。天帝様に詳しくご報告するゆえ、お前達も同席してくれ”
“分かりました”

アスベエルは、もの問いたげな幽霊に、今の話を伝えた。
“……ミカエルめ、ついに狂ったか。ラファエルも気の毒に。
そういうことなら、私も話を聞きたい、お前の中に入ってもいいかな”
「はい、もちろんです」
“ありがとう”
大天使の中に吸い込まれる瞬間、死霊の美しい唇に笑みが刻まれたことに、天使達は気づかなかった。

いしゅがえし【意趣返し】

恨みを返すこと。しかえし。復讐(ふくしゅう)。