~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

19.自由への鍵(1)

「アスベエル、いつまで唇を合わせておるつもりじゃ、離れよ!」
天帝の声に、アスベエルは顔を上げようとしたが、出来なかった。
“すみません……動けないんです、フレイア様が、しがみついてて”

「何じゃと!?」
天帝は、のしのしとベッドに歩み寄り、彼の髪をわしづかみにした。
「痛たた……!」
乱暴に引っ張られては、頭を上げるしかない。

「どうして離れるの、アスベエル……?
ここは夢の世界……わたくしとお前だけの……もう、誰にも遠慮はいらないのよ……」
か細い声が、ベッドから聞こえた。
「フレイア! 目覚めたのじゃな!?」
天帝は、ひ孫の顔を覗き込んだ。

「……ひいお祖父様……?
いいえ、そんなはずないわ……わたくしは、眠っているのだもの……」
だが、フレイアはすぐ目蓋(まぶた)を閉じてしまい、天帝は慌てて彼女を揺さぶる。
「何を申しておる!? フレイア、眼を開けよ!」

「フレイア様、起きて下さい、お願いします!」
アスベエルも一緒に取りすがる。
その声に女神は薄目を開き、彼を確認すると飛びついて来た。
「ああ、アスベエル! 生きてた……生きてたのね!」
「フレイア様……!」
二人は固く抱き合う。

「離れよ!」
天帝が、苛立たしげに二人を引き離した途端、フレイアは再び眼を閉じ、ぱたりとベッドに横たわってしまった。
「フレイア、いかがしたのじゃ!?」
焦った天帝は、またも彼女を揺する。

フレイアはそれには答えず、眼を固く閉じたまま、言った。

「……さようなら、アスベエル。
わたくし、眠るわね……もう一度お前に会いたい、っていう願いも叶ったから……もう、思い残すこと、ないわ……」

「何ゆえじゃ、フレイア……せめて、目覚めぬ訳を聞かせておくれ」
天帝はうなだれた。
「だって……もう、嘘つくのは嫌ですもの……。
アスベエルとの約束も覚えてるし、そもそも、忘れたことなんかなかったわ……でも、こうなったからには、ひいお祖父様は、彼を……殺しておしまいになるのでしょう……?
彼のいない世界に、取り残されるくらいなら、わたくし……」

「フレイア様、覚えていて下さったんですね!」
アスベエルは、思わず彼女の手を握る。
女神は、わずかに眼を開け、彼を見た。
「許してね……わたくしのせいで、看守なんかにされてしまって……」
急いで、彼は首を横に振った。
「いえ、フレイア様のせいじゃありません、ずっと前から決まってたんですよ」

「でも、職に就くのは、成人してから、だったはずだわ……。
お前と結婚の約束をしたなんて、ひいお祖父様に言ったから……予定よりずっと早く、お屋敷を出されてしまったんじゃない……。
その上、約束にこだわるなら、お前を地下送りにするって……だから、忘れた振りをするしか、なかったの……」
「そうだったんですか、……」

「ウリエルとの縁談だって、仕方なく承諾したのに、彼ったら断るんですもの……。
わたくし、焦って、会いに行ったのよ……。
そしたら、彼は……こちらから断ったのだから、アスベエルは殺されないって……そして、大人になってから自分と結婚すれば、もう何も言われないし、夫婦揃って堂々とマトゥタ様のお屋敷に行ける、休暇で戻って来るお前にも、会うことが出来るからって言ってくれて……なのに……忌々しいミカエルが、それを全部、駄目にして……!」

「偽装結婚……ウリエルは、左様なことをしてまで……」
ラファエルは、ため息をついた。
「……何ということじゃ」
天帝は、苦虫を噛み潰したような表情になった。

「ミカエルが、サリエルの複製を連れ出した時も……ひいお祖父様の前だったし、わざと冷たく当たったのよ……。
でも、もちろん、ミカエルのところになんか、行かせる気はなかったから……大急ぎでルクバトに頼んだの、そっとラファエルに知らせてって……でも、彼はあの日、部屋の監視当番じゃなかった……。
あれほど焦ったこと、なかったわ……。
そしたら、すぐ、ルクバトがセリンに連絡してくれて……ラファエルが間に合ったときには、ほっとして、気絶しそうになったのよ……!」
フレイアは涙を浮かべ、切々と訴えた。

「フレイア様……! そんなこととは知らずに、俺……」
アスベエルは、黒い瞳をうるませ、きつく女神の手を握る。
「……いいのよ。高慢ちきな女と嫌われたって、お前には生きてて欲しかったもの……。
わたくしね……お前が魔界に行ってから、天国のお母様にお祈りしてたのよ、お前の無事を……でも、ミカエルに根掘り葉掘り訊かれてるうちに、急に何もかもが嫌になって……お前が戻るまで、ずっと眠ってたいって思ったの……。
お前と二人で楽しく過ごす夢を見てたわ……でも、それも今日でおしまい……。
アスベエル、わたくしのために死んでくれる?」

「はい、喜んで」
唐突な問いかけにも、間髪(かんはつ)()れず、彼は答えた。
どうせ、死ぬことになっていたのだし、女神の本当の心を知った今は、彼にも思い残すことは何もなかった。
「息を引き取るときに、わたくしを呼んでね。
そうしたら、わたくしも、二度と目覚めない眠りにつくわ……」
「はい……天国で、またお会いしましょう、フレイア様……」
アスベエルは、握った女神の華奢な手を、自分の頬に寄せた。

「な、何をたわけたことを申しておるか、自害など許さぬぞ!
その方らも、何ゆえ止めぬのだ!」
たまりかねたように、天帝は、大天使達に指を突きつけた。
「されど、天帝様。
一旦お決めになられたことは、何があろうと(くつがえ)さぬとのお言葉、しかと(うけたまわ)りましたゆえ……」

いつもは必ず抗議するラファエルが、従順に答えた。
その眼には、涙がにじんでいる。
ホムンクルスのネヴェスは、上を向いて落涙を我慢し、本物のラジエルも眼が紅い。
周囲にいた魔法医や衛兵達も皆、もらい泣きをこらえ、眼をこすったりしていた。

「左様、若き二人がこれほど想い合い、心を決めておるものを、我らに何が出来ましょうや」
残務処理を終えて帰還したメタトロンが、入室して来た。
経緯はすべて、ラジエル達から念話で聞いていた。
フレイアは、悲しげな顔をした。
「エノク……ごめんなさい、お母様の形見のドレス、もう着れないわね……」

「……ならば、せめて、死に装束としてご着用を」
もう、彼には、名前を訂正する気力もなかった。
「そうね……あの世で式を挙げるわ、アスベエルと……」
「はい……」
メタトロンもまた、目頭を押さえた。

それを(しお)に、アスベエルは、フレイアの手にキスすると立ち上がり、深々と礼をした。
「では、フレイア様、しばしのお別れです」
「ええ、またね」
彼女は手を振り、二人の恋人は、名残惜しげに見つめ合う。

「い、いずこへ参る気じゃ、アスベエル……」
幾分ひるんだように、天帝は訊いた。
「もちろん、地下研究所ですよ。そこで、わたしは死ぬことになるんでしょう?」
穏やかに彼は答え、戸口に向かって歩き出した。

「ま、待て……」
天帝が言いかけた時だった。
銀髪の幽霊が、湧き出すように現れたのは。
“お待ち、アスベエル。私の仲間になれば、確実にフレイアと一緒にいられるよ”

「な、何を申すか、この亡者(もうじゃ)めが!」
眼を剥く天帝を無視して、サマエルは話し続けた。
“私と手を組めば、フレイアを守りつつ極上の夢を見せ、そして、ミカエルと天帝とに、救いようのない悪夢を見せ続けることが出来るぞ”

「悪霊め、許さぬぞ! 左様なことをすれば、サリエルの命はないものと思え!」
天帝は脅すように言い放った。
“殺せばいいさ、息子も。複製共々ね。
そうしたら、我ら全員、怨霊(おんりょう)と化して、お前達が死ぬまで呪い続けてやる”
青ざめた美しい死霊は、凄絶(せいぜつ)な笑みを浮かべた。

“さて、アスベエル、どうする?
裏切りを決めた瞬間、お前は心臓の虫によって殺され、そうして幽鬼と化したなら、永久に夢の世界の住人として、眠りに落ちたフレイアと共にいられるだろう。
──さあ、おいで。共に闇へと堕ちよう、神に見捨てられし者よ”
手を差し出す亡霊に向かって、アスベエルは、ふらふらと歩み寄っていく。
フレイアは、その情景に魅入られ、他の天使達もまた、凍りついたように動きを止めていた。

「ま、待つのじゃ、アスベエル!
死ぬでない!」
そのとき、天帝が叫び、はっとして、アスベエルは足を止めた。
「そちを、小宮殿の警護長に任ずる!
生きてフレイアを守ってみせよ、戻って参れ!」

「は!」
彼は、きびきびと天帝の元へ行き、ひざまずく。
「しかと承りました、天帝様」
フレイアは、思わず起き上がった。
「ひいお祖父様! 彼を生かして下さるの、本当に!?」

「無論じゃ。みすみす亡者の手に渡すわけには行かぬでな」
そう言うと、天帝は、幽霊に指を突きつけた。
「この二人はたった今、そちの手を離れた!
サリエルの命は保証してやるゆえ、我が眷属(けんぞく)より手を引くのじゃ、退け、悪霊!」

“……おやおや、残念”
サマエルは、唇に笑みを貼りつけたまま、肩をすくめた。
“でもまあ、息子も、長生して少しは幸せになって欲しいところだし、順当なところか。
いいさ、手は引いてやる、二人の純愛に免じてね。
お前達、せいぜい今を楽しむがいい、破滅の時は、すぐそこまで来ているのだから……くっくくく……!”
含み笑いをしながら、亡霊は宙に溶け込むように姿を消し、同時に皆の呪縛は解けた。

「ああ、アスベエル!」
「フレイア様!」
抱き合う二人に、天帝は顔をしかめて言った。
「勘違いするでない、その方らの仲を認めたわけではないぞ」
女神は暗い顔になった。
「……分かってますわ」

「もちろんです、天帝様」
眼を伏せ、手を離したアスベエルは、ふと思い出したように天帝を見た。
「そうだ、ハニエルはどうなったでしょう」
「無事発見され、こちらへ運ばれておる最中じゃ」
「そうですか、よかった」
安堵して、彼はフレイアに経緯を話した。

「まあ、そんなことが……可哀想なハニエル。やっぱりミカエルは最低ね。
ひいお祖父様、お願いです、アスベエルだけじゃなく、サリエルも小宮殿に、住まわせて下さい、じゃないとわたくし……一人じゃ怖いわ」
フレイアは身震いした。

「……致し方あるまいな。
されど、あらかじめ申しておくが、アスベエル、フレイアと同衾(どうきん)など、決して許さぬぞ」
天帝は釘を刺す。
「え? どう、きん……?」
彼が首をかしげると、ラファエルが咳払いした。
「ごほん……共寝(ともね)のことだ、アスベエル」

フレイアは真っ赤になった。
「そ、そんなふしだらなこと、彼がするわけないわ、ミカエルじゃあるまいし!」
それでようやく意味が分かり、アスベエルも顔を赤らめて抗議した。
「も、もちろんですとも!
そんな大それたこと考えてもいませんし、その前に、虫に殺されますよ!」

「……左様じゃったな。
まあよい、そちとサリエルとに、部屋を与えてやる」
「ありがとうございます、ひいお祖父様!」
フレイアは曽祖父に抱きつき、頬にキスした。
天帝は顔をほころばせた。