18.天界の堕天使(6)
「聞いて欲しい、これには
アスベエルは、決して、
ラジエルのホムンクルスであるネヴェスは叫び、元天使長の悪行を語って聞かせた。
衛兵達はざわついた。
「フレイア様を、複製とすり替えようとなさった!?」
「ハニエルが見つからないわけだ……」
メディクスも、信じられない様子で首を振った。
「アスベエル様も拉致されそうに……ということなら、正当防衛ではございませぬか?」
「わたしも、左様に申し上げたのだが、天帝様は、
ご裁定には逆らえぬゆえ……」
ホムンクルスはうなだれる。
「左様でございましたか……」
魔法医はいかにも気の毒そうに、アスベエルを見た。
ラジエルの複製は、ここを
「されど、もし、彼が反撃せねば、いかが相成ったであろうな?
ミカエル様は、警護のお前達を皆殺しにしてフレイア様を連れ出し、すべての罪を、サマエルの悪霊に着せることくらいは平気でやってのけるお方だ。
お前達も、たとえ殺されずとも、フレイア様の身に何かあらば罪に問われるは必定、すなわち、アスベエルは、お前達にとっても恩人、左様に思わぬか?」
メディクスと兵士達は顔を見合わせた。
「……少々、お時間を頂きたい」
魔法医は、一旦部屋に引っ込んだ。
ややあって、再び扉が開き、メディクスは二人を招いた。
「どうぞ。結界は、解除致しました」
「かたじけない。ついでと申しては何だが、我ら二人きりにしてはくれぬか。
わたしは、無論、彼を見張らねばならぬが、なるべく静かに会わせてやりたいのだ」
ネヴェスの頼みを拒むこともなく、魔法医達は全員、ぞろぞろと外へ出て来た。
「皆さん、お手数おかけして済みません」
アスベエルは深々と頭を下げ、今度こそ、彼らは部屋に入ることが出来た。
「フレイア様!」
彼はベッドに駆け寄った。
横たわるフレイアは、やつれては見えず、頬はバラ色で、
安堵したアスベエルは、女神の白い手をそっと持ち上げ、腕輪をはめた。
「……フレイア様、少し早いですが、お誕生日、おめでとうございます。
そして……どうか、お幸せに……。
俺は……あなたさえ、幸せになって……くれれば……そ、それ、で……」
声がかすれる。
こみ上げる涙を抑え切れず、彼は布団に突っ伏し、声を殺して
しばしの後、ホムンクルスは、静かに声をかけた。
「アスベエル、気は済んだか? そろそろ……」
「は、はい、済みません」
彼が涙をぬぐったとき、聞き覚えのある念話が、頭の中で響いた。
“久し振りだね、アスベエル。死んでからは、初めて会うのかな”
はっと顔を上げると、淡い燐光に包まれた人影が、片目をつぶり、
薄紅色の壁を背景に立つ魔界の王子は、以前と変わらぬ美貌に妖艶な微笑を浮かべており、漆黒のローブを着込んだ体が半透明でなければ、生きていると錯覚してしまいそうだった。
「大変だ、サマエルの悪霊が出たぞ!」
勢いよくドアを開け、ネヴェスは叫んだ。
「何!?」
「悪霊が!?」
すわ一大事とばかりに、衛兵や魔法医達が部屋になだれ込む。
彼らの眼に映ったのは、自分の身を
「寄るな、悪霊!」
ラジエルの複製は、サマエルの前に立ちふさがり、天帝や七大天使達に念話を送った。
“大変です、フレイア様のお部屋に悪霊が!”
次の瞬間、戸口に天帝が現れ、老人とは思えぬ勢いで室内に駆け込み、幽霊に指を突きつけた。
「忌々しい悪魔めが! 我が
“おやおや、騒々しいね、
ははあ、また何かやらかして、牢に放り込まれたな?”
サマエルは、にやにや笑いを浮かべた。
「やはり、フレイアに
天帝は拳を握り締めた。
“ふふ、彼女の心に隙がなければ、付け入ることも出来なかったけれどね”
「何じゃと!? 我が曾孫に限って、隙などあるはずないわ!」
“ふ、身内のくせに何も分かっていないな、フレイアも気の毒に”
悪霊は冷ややかに言ってのけた。
「気の毒と思うなら、フレイア様を解放してくれ!」
アスベエルが叫んだ。
“それは出来ない相談だな”
幽霊の答えは、そっけなかった。
「どうして!」
“当然だ、せっかく捕えた敵の首領の娘を、そう簡単に逃してたまるものか”
「ならば、サリエルの命はないと思え!」
脅すように天帝が言い放った途端、サマエルの形相が、さっと変わった。
血の気の引いた唇に張りついていた笑みは消え、紅い眼の中に暗い炎が燃え上がる。
白銀の髪は、
“……よく考えてみるのだな、ゼデキア。
私が人質に取っているのは、お前の曾孫だけではないぞ。
パンテオンのすべての神々は、今や、我が手の内にある。
息子に何かあったら、彼らは一体、どうなることだろうね……”
幽霊の声は静かだったが、表情に見合う冷酷さを
「……く!」
天帝は歯噛みした。
「天帝様! わたしに話をさせて下さい!」
アスベエルが割り込む。
天帝は眉間にしわを寄せ、それでも、手振りで許可を与えた。
「ありがとうございます」
彼は会釈し、サマエルに向き直った。
「サリエルには絶対手出ししないと約束する、精気が欲しいなら、わたしのを全部やる、だから、フレイア様を目覚めさせてくれ、頼む、この通りだ!」
アスベエルは、深々と頭を下げた。
“……サリエルの安全は保証されて当然。
精気に関しては、女神達から少しずつ頂いているから、必要ない”
取り付く島もない返事だったが、彼は懸命に説得を続けた。
「だ、だけど、サリエルの一番の味方は、フレイア様なんだぞ。
もし、誰かが何かしようとしても、きっと反対して、守って下さる。
フレイア様が目覚めてる方が、あいつのためなんだ!」
“……ふむ。ゼデキアやミカエルの抑止力になる、か……”
サマエルは、考え込むように言った。
“……お前はサリエルの義兄弟だし、嘘ではなさそうだ。
牢でも世話になったし……そうだな、手がかりくらいなら、くれてやってもいいか”
「手がかりって何だ」
“私は力を貸しただけで、フレイアは、みずから心を閉ざして眠っているのだよ。
目覚めさせるには、彼女が、ぜひとも眠りから覚めたいと思うように仕向ければいいのさ”
「え、心を閉ざしてる……なぜ?
いや、それはともかく、具体的には何をすればいいんだ?」
彼が訊くと、サマエルはまったく別のことを問いかけて来た。
“お前は、人界の童話……眠り姫や白雪姫などのおとぎ話を知っているか?”
アスベエルは首をかしげた。
「え? うーん……昔、マトゥタ様が絵本読んでくれた、かな……」
“ならば、分かるだろう、おとぎ話の姫君達は、どうやったら目覚めた?”
「え? ええと……」
アスベエルが思い出そうとしているうちに、サマエルの姿は薄れ、消えかけ始めていた。
「あ、ちょっと待てよ! たしか王子様の……で、いいのか?」
“ああ。彼女にとっての『白馬の王子』とは誰か?
それさえ分かれば簡単さ……ではな”
言いながら、幽霊は、壁の中に溶け込んで消えた。
「一体何のことじゃ、童話だの、白馬の王子だなどと……?」
面食らったように尋ねたのは、天帝だった。
「ええっと、ですね……おとぎ話だと、眠ってるお姫様に、王子様がキスすると眼が覚めるんですよ、たしか……」
「ふん、左様か」
それを聞いた天帝は、ずかずかとベッドに歩み寄り、フレイアに口づけた。
そうして、しばらく様子を見ていたが、女神は、ぴくりとも動かない。
「何じゃ、目覚めぬではないか! 夢魔めが、
「いえ、天帝様は、天界の“王”、“王子”ではございませぬ。
また、“白馬の王子”が、恋人もしくは婚姻相手を意味するのであれば、保護者であらせられる天帝様は、
ネヴェスがなだめた。
「ふむう……王子……皇子……まさか、ミカエルか……?」
天帝のつぶやきを耳にしたアスベエルは眼を丸くした。
「え!? そ、それこそ、まさかですよ。
フレイア様は、ミカエル様のこと毛嫌いしてるのに……あ、申し訳ありません、余計なことを……」
慌てて、彼は頭を下げる。
天帝は渋い顔になった。
「つまるところ、天界中の男に試させねばならぬわけか、不潔な……!」
「左様なこと、不要なのではございませぬか」
「わたしにも、左様に思われますが」
不意に後ろから声がして、皆が振り向くと、本物のラジエルとラファエルが歩み寄って来ていた。
「何じゃ、そちらは! フレイアが目覚めずともよいと申すか!」
天帝は青筋を立てて怒鳴った。
ラジエルは否定の身振りをする。
「いえ、天界中の男性に試させる必要はないと申し上げているのですよ」
「左様、天帝様もすでにお気づきのはず、フレイア様にとっての王子は、彼だということを」
ラファエルは、アスベエルを示した。
「何じゃと!?」
「は、俺!?」
思わずアスベエルも、
「何を驚く。昔は、あれほど仲が良かったではないか」
ラファエルに言われ、彼は慌てて首を横に振った。
「そ、それは小さい頃のことで……」
「左様、もはやフレイアは、アスベエルのことなど眼中にないわ」
天帝の口調は、冷淡だった。
「お言葉でございますが、天帝様。
もし、万一、彼を地下室送りにした後で、他の誰でも駄目となれば……」
ラファエルの言葉を、ラジエルが引き継ぐ。
「左様、フレイア様は、二度と目覚められぬことになりますぞ。
まあ、物は試しと申しますゆえ」
「むむむ……」
天帝は険しい表情になった。
「あ、む、無理です、わたしなんかじゃ、とても……」
両手を広げ、拒むように振るアスベエルを、天帝は睨んだ。
「約束も忘れ果て、冷たく当たるフレイアを恨んでおるのか、そちは」
「い、いえ、そんな……、でも、フレイア様の王子様は、きっと他においでですよ……」
彼はうなだれ、声も自信がなく震えていた。
「されど、試してみても悪くはあるまい、冥土の土産に」
ラジエルが口を添えた。
「……それなら、天帝様、一つお願いが……」
アスベエルは、おずおずと切り出す。
「何じゃ、命乞いか」
天帝は眉をひそめた。
「まさか、違いますよ。
地下研究所の拷問……いえ、人体実験では、苦しみ抜いて死んでかなきゃいけないそうですね……だから、せめて、楽に死なせて下さい……お願いはそれだけです、どうか……」
アスベエルは、悲しげに頭を下げた。
「相分かった、ルピーダに命じておくゆえ、ともかく試してみよ」
天帝は、ベッドに向けて手を振ってみせる。
「は、はい、……」
彼は、おずおずと眠るフレイアに近づき、
雁首(がんくび)を揃(そろ)える
何人かの人が首を垂れてかしこまっていたり、いっしょに行動したりするさまを、やや軽蔑(けいべつ)していう言葉。
〔語源〕「雁首」は、もと、(雁の首の形に似ていることから)キセルの頭の、たばこを詰める部分の意。(それが人が首をうなだれているのに似ていることから)人の首・頭の意。
此処(ここ)を先途(せんど)と
ここが勝敗・成否を決する大事な場合だと思って、いっしょうけんめいになるようす。
この句での「先途」は、重要な場面の意。「出発点」の意はない。