~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

18.天界の堕天使(6)

「聞いて欲しい、これには仔細(しさい)があるのだ!
アスベエルは、決して、私怨(しえん)にてミカエル様を刺したのではない!」
ラジエルのホムンクルスであるネヴェスは叫び、元天使長の悪行を語って聞かせた。

衛兵達はざわついた。
「フレイア様を、複製とすり替えようとなさった!?」
「ハニエルが見つからないわけだ……」
メディクスも、信じられない様子で首を振った。
「アスベエル様も拉致されそうに……ということなら、正当防衛ではございませぬか?」

「わたしも、左様に申し上げたのだが、天帝様は、両成敗(りょうせいばい)と仰って、ミカエル様は禁固、彼は地下行きと決められたのだ……。
ご裁定には逆らえぬゆえ……」
ホムンクルスはうなだれる。
「左様でございましたか……」
魔法医はいかにも気の毒そうに、アスベエルを見た。

ラジエルの複製は、ここを先途(せんど)とまくし立てた。
「されど、もし、彼が反撃せねば、いかが相成ったであろうな?
ミカエル様は、警護のお前達を皆殺しにしてフレイア様を連れ出し、すべての罪を、サマエルの悪霊に着せることくらいは平気でやってのけるお方だ。
お前達も、たとえ殺されずとも、フレイア様の身に何かあらば罪に問われるは必定、すなわち、アスベエルは、お前達にとっても恩人、左様に思わぬか?」

メディクスと兵士達は顔を見合わせた。
「……少々、お時間を頂きたい」
魔法医は、一旦部屋に引っ込んだ。

ややあって、再び扉が開き、メディクスは二人を招いた。
「どうぞ。結界は、解除致しました」
「かたじけない。ついでと申しては何だが、我ら二人きりにしてはくれぬか。
わたしは、無論、彼を見張らねばならぬが、なるべく静かに会わせてやりたいのだ」

ネヴェスの頼みを拒むこともなく、魔法医達は全員、ぞろぞろと外へ出て来た。
「皆さん、お手数おかけして済みません」
アスベエルは深々と頭を下げ、今度こそ、彼らは部屋に入ることが出来た。

「フレイア様!」
彼はベッドに駆け寄った。
横たわるフレイアは、やつれては見えず、頬はバラ色で、(つや)やかな唇にはうっすらと笑みさえ浮かんでいる。

安堵したアスベエルは、女神の白い手をそっと持ち上げ、腕輪をはめた。
「……フレイア様、少し早いですが、お誕生日、おめでとうございます。
そして……どうか、お幸せに……。
俺は……あなたさえ、幸せになって……くれれば……そ、それ、で……」
声がかすれる。
こみ上げる涙を抑え切れず、彼は布団に突っ伏し、声を殺して嗚咽(おえつ)した。

しばしの後、ホムンクルスは、静かに声をかけた。
「アスベエル、気は済んだか? そろそろ……」
「は、はい、済みません」
彼が涙をぬぐったとき、聞き覚えのある念話が、頭の中で響いた。
“久し振りだね、アスベエル。死んでからは、初めて会うのかな”

はっと顔を上げると、淡い燐光に包まれた人影が、片目をつぶり、華奢(きゃしゃ)な指を唇にあてがっていた。
薄紅色の壁を背景に立つ魔界の王子は、以前と変わらぬ美貌に妖艶な微笑を浮かべており、漆黒のローブを着込んだ体が半透明でなければ、生きていると錯覚してしまいそうだった。

「大変だ、サマエルの悪霊が出たぞ!」
勢いよくドアを開け、ネヴェスは叫んだ。
「何!?」
「悪霊が!?」
すわ一大事とばかりに、衛兵や魔法医達が部屋になだれ込む。

彼らの眼に映ったのは、自分の身を(てい)して女神をかばうアスベエルに向かって、サマエルの幽霊が、ゆっくりと近づいていくところだった。
「寄るな、悪霊!」
ラジエルの複製は、サマエルの前に立ちふさがり、天帝や七大天使達に念話を送った。
“大変です、フレイア様のお部屋に悪霊が!”

次の瞬間、戸口に天帝が現れ、老人とは思えぬ勢いで室内に駆け込み、幽霊に指を突きつけた。
「忌々しい悪魔めが! 我が曾孫(そうそん)の部屋より()ね!」
“おやおや、騒々しいね、雁首(がんくび)揃えて……と言いたいところだが、ミカエルはどうした、一番に現れそうなものだが。
ははあ、また何かやらかして、牢に放り込まれたな?”
サマエルは、にやにや笑いを浮かべた。

「やはり、フレイアに()いておったのだな!?」
天帝は拳を握り締めた。
“ふふ、彼女の心に隙がなければ、付け入ることも出来なかったけれどね”
「何じゃと!? 我が曾孫に限って、隙などあるはずないわ!」
“ふ、身内のくせに何も分かっていないな、フレイアも気の毒に”
悪霊は冷ややかに言ってのけた。

「気の毒と思うなら、フレイア様を解放してくれ!」
アスベエルが叫んだ。
“それは出来ない相談だな”
幽霊の答えは、そっけなかった。
「どうして!」
“当然だ、せっかく捕えた敵の首領の娘を、そう簡単に逃してたまるものか”

「ならば、サリエルの命はないと思え!」
脅すように天帝が言い放った途端、サマエルの形相が、さっと変わった。
血の気の引いた唇に張りついていた笑みは消え、紅い眼の中に暗い炎が燃え上がる。
白銀の髪は、(ほど)けて無数の蛇となり、鎌首を持ち上げ牙をむき出して、しゅうしゅうと威嚇(いかく)を始めた。

“……よく考えてみるのだな、ゼデキア。
私が人質に取っているのは、お前の曾孫だけではないぞ。
パンテオンのすべての神々は、今や、我が手の内にある。
息子に何かあったら、彼らは一体、どうなることだろうね……”
幽霊の声は静かだったが、表情に見合う冷酷さを(たた)えていた。
「……く!」
天帝は歯噛みした。

「天帝様! わたしに話をさせて下さい!」
アスベエルが割り込む。
天帝は眉間にしわを寄せ、それでも、手振りで許可を与えた。
「ありがとうございます」
彼は会釈し、サマエルに向き直った。

「サリエルには絶対手出ししないと約束する、精気が欲しいなら、わたしのを全部やる、だから、フレイア様を目覚めさせてくれ、頼む、この通りだ!」
アスベエルは、深々と頭を下げた。

“……サリエルの安全は保証されて当然。
精気に関しては、女神達から少しずつ頂いているから、必要ない”
取り付く島もない返事だったが、彼は懸命に説得を続けた。
「だ、だけど、サリエルの一番の味方は、フレイア様なんだぞ。
もし、誰かが何かしようとしても、きっと反対して、守って下さる。
フレイア様が目覚めてる方が、あいつのためなんだ!」

“……ふむ。ゼデキアやミカエルの抑止力になる、か……”
サマエルは、考え込むように言った。
“……お前はサリエルの義兄弟だし、嘘ではなさそうだ。
牢でも世話になったし……そうだな、手がかりくらいなら、くれてやってもいいか”

「手がかりって何だ」
“私は力を貸しただけで、フレイアは、みずから心を閉ざして眠っているのだよ。
目覚めさせるには、彼女が、ぜひとも眠りから覚めたいと思うように仕向ければいいのさ”

「え、心を閉ざしてる……なぜ?
いや、それはともかく、具体的には何をすればいいんだ?」
彼が訊くと、サマエルはまったく別のことを問いかけて来た。
“お前は、人界の童話……眠り姫や白雪姫などのおとぎ話を知っているか?”
アスベエルは首をかしげた。
「え? うーん……昔、マトゥタ様が絵本読んでくれた、かな……」

“ならば、分かるだろう、おとぎ話の姫君達は、どうやったら目覚めた?”
「え? ええと……」
アスベエルが思い出そうとしているうちに、サマエルの姿は薄れ、消えかけ始めていた。

「あ、ちょっと待てよ! たしか王子様の……で、いいのか?」
“ああ。彼女にとっての『白馬の王子』とは誰か?
それさえ分かれば簡単さ……ではな”
言いながら、幽霊は、壁の中に溶け込んで消えた。

「一体何のことじゃ、童話だの、白馬の王子だなどと……?」
面食らったように尋ねたのは、天帝だった。
「ええっと、ですね……おとぎ話だと、眠ってるお姫様に、王子様がキスすると眼が覚めるんですよ、たしか……」
「ふん、左様か」
それを聞いた天帝は、ずかずかとベッドに歩み寄り、フレイアに口づけた。

そうして、しばらく様子を見ていたが、女神は、ぴくりとも動かない。
「何じゃ、目覚めぬではないか! 夢魔めが、(たばか)ったな!」
「いえ、天帝様は、天界の“王”、“王子”ではございませぬ。
また、“白馬の王子”が、恋人もしくは婚姻相手を意味するのであれば、保護者であらせられる天帝様は、該当(がいとう)せぬのでございましょう」
ネヴェスがなだめた。

「ふむう……王子……皇子……まさか、ミカエルか……?」
天帝のつぶやきを耳にしたアスベエルは眼を丸くした。
「え!? そ、それこそ、まさかですよ。
フレイア様は、ミカエル様のこと毛嫌いしてるのに……あ、申し訳ありません、余計なことを……」
慌てて、彼は頭を下げる。
天帝は渋い顔になった。
「つまるところ、天界中の男に試させねばならぬわけか、不潔な……!」

「左様なこと、不要なのではございませぬか」
「わたしにも、左様に思われますが」
不意に後ろから声がして、皆が振り向くと、本物のラジエルとラファエルが歩み寄って来ていた。
「何じゃ、そちらは! フレイアが目覚めずともよいと申すか!」
天帝は青筋を立てて怒鳴った。

ラジエルは否定の身振りをする。
「いえ、天界中の男性に試させる必要はないと申し上げているのですよ」
「左様、天帝様もすでにお気づきのはず、フレイア様にとっての王子は、彼だということを」
ラファエルは、アスベエルを示した。
「何じゃと!?」

「は、俺!?」
思わずアスベエルも、素っ頓狂(すとんきょう)な声を上げてしまう。
「何を驚く。昔は、あれほど仲が良かったではないか」
ラファエルに言われ、彼は慌てて首を横に振った。
「そ、それは小さい頃のことで……」
「左様、もはやフレイアは、アスベエルのことなど眼中にないわ」
天帝の口調は、冷淡だった。

「お言葉でございますが、天帝様。
もし、万一、彼を地下室送りにした後で、他の誰でも駄目となれば……」
ラファエルの言葉を、ラジエルが引き継ぐ。
「左様、フレイア様は、二度と目覚められぬことになりますぞ。
まあ、物は試しと申しますゆえ」

「むむむ……」
天帝は険しい表情になった。
「あ、む、無理です、わたしなんかじゃ、とても……」
両手を広げ、拒むように振るアスベエルを、天帝は睨んだ。
「約束も忘れ果て、冷たく当たるフレイアを恨んでおるのか、そちは」

「い、いえ、そんな……、でも、フレイア様の王子様は、きっと他においでですよ……」
彼はうなだれ、声も自信がなく震えていた。
「されど、試してみても悪くはあるまい、冥土の土産に」
ラジエルが口を添えた。

「……それなら、天帝様、一つお願いが……」
アスベエルは、おずおずと切り出す。
「何じゃ、命乞いか」
天帝は眉をひそめた。

「まさか、違いますよ。
地下研究所の拷問……いえ、人体実験では、苦しみ抜いて死んでかなきゃいけないそうですね……だから、せめて、楽に死なせて下さい……お願いはそれだけです、どうか……」
アスベエルは、悲しげに頭を下げた。

「相分かった、ルピーダに命じておくゆえ、ともかく試してみよ」
天帝は、ベッドに向けて手を振ってみせる。
「は、はい、……」
彼は、おずおずと眠るフレイアに近づき、野苺(のいちご)色の唇にキスした。

雁首(がんくび)を揃(そろ)える

何人かの人が首を垂れてかしこまっていたり、いっしょに行動したりするさまを、やや軽蔑(けいべつ)していう言葉。
〔語源〕「雁首」は、もと、(雁の首の形に似ていることから)キセルの頭の、たばこを詰める部分の意。(それが人が首をうなだれているのに似ていることから)人の首・頭の意。

此処(ここ)を先途(せんど)と

ここが勝敗・成否を決する大事な場合だと思って、いっしょうけんめいになるようす。
この句での「先途」は、重要な場面の意。「出発点」の意はない。