18.天界の堕天使(4)
「ぎゃあっ!」
絶叫が、マトゥタの邸内に響き渡った。
(やった!)
アスベエルは、成功を確信したが、それは甘かった。
「貴様ぁ!」
ミカエルは、怒りの形相もものすごく彼を蹴り飛ばし、胸に刺さった短剣を引き抜くと、投げ捨てた。
芝生に倒れ込んだアスベエルのそばに転がったその刃は、紅く濡れてはいたものの、出血は思ったほどはない。
距離が近すぎたせいか、それとも思い切りが悪かったのか、深くは刺さらなかったのだ。
「ふん、こんな飾り物の短剣ごときで、この我を殺せると思ったか、愚か者!
──キリエイ・アレイアサン!」
魔法で傷をふさいだミカエルは、殺意をみなぎらせ、アスベエルに剣を突きつけた。
「貴様、かようなことをして、ただで済むとは思っておるまいな!」
「く……!」
アスベエルは歯噛みしたが、不意打ちが失敗してしまっては、もう何の対抗策もない。
「いかがした、攻撃魔法を使わぬか。と申しても無理だな。
知っておるぞ、今日、貴様が習得したは、ロウソクに火をつけることのみであろう。情けない」
「う……」
彼はうなだれるしかなかった。
「何ゆえ、かような男が、七大天使の役職を頂いたのやら。
ともかく、もはや
我が剣の
ミカエルは剣を振り下ろした。
「わあっ!」
アスベエルは、思わず頭をかばう。
だが、激しく金属がぶつかる音が聞こえて、刃は彼に到達しなかった。
「早まらないで頂きたいですな!
彼の処罰は、天帝様のお裁きを受けた後に願いましょう!」
眼を開けると、大天使ラジエルが、剣で
「く、ラジエル、何ゆえ邪魔致す!
こやつはサマエルと密通し、それに気づいた我を刺したのだぞ!
天帝様のご裁定など待つまでもなく、死罪だ!」
ミカエルは、眼を血走らせて吼えた。
ラジエルは、ミカエルの剣を払いのけ、答えた。
「お
わたしは、この眼で、一部始終を拝見致しておりましたゆえ」
「な、見ておっただと!? 口から出任せを……」
「出任せなどではございませぬ。
あなた様が、彼を尾行しているのを見かけ、その後をついて参ったのですからな。
いやはや、驚きましたよ、いきなり石像を爆破……その後に続く一幕も、しかと拝見させて頂きました。
たしかに、斬りつけたアスベエルは極刑ものでしょうが、天帝様が正当防衛とご判断なされば……」
「ええい、黙れ、黙れ! ならば、貴様もここで、剣の
貴様ら二人、つるんで我を陥れようとしたことにしてやるわ!」
再び剣を振りかざし、ミカエルはラジエルに
「何をなさいます!」
ラジエルは身をかわすが、ローブが切り裂かれ、刃が腕をかすめた。
「ラジエル様!」
「く……アスベエル、今のうちに逃げよ!」
ラジエルは腕を押さえ、言った。
「いえ、俺も戦います!」
アスベエルはその場に踏み止まり、床から自分の短剣を拾って、震える手で構えた。
「ふん、左様な玩具で、我と闘うと申すか。
敵意に満ちた眼差しで、ミカエルは柄を握り直し、じりじりと近づく。
「何をしておる、早く行け!」
「危ない!」
彼をかばうラジエル目がけ、再び剣が振り下ろさた、そのとき。
「やめよ、ミカエル!」
聞き慣れた重々しい声が、剣の動きを止めさせ、声の主を眼にしたミカエルは、べそをかくような顔で、崩れるように膝をついた。
「て、天帝様……」
ラジエルも、さっとひざまずき、慌ててアスベエルも二人に
威厳ある足取りで中庭に入って来たのは、天界の君主、ゼデキアその人だった。
「何事じゃ、この騒ぎは」
「……は。挙動不審のアスベエルを見張っておりましたところ、この屋敷にて、サマエルの悪霊と密談致しておりました。
しかも、こともあろうにフレイア様を、おのが手中にせんと……思わず飛び出し、問い
「もうよい、余はすべて把握しておる」
天帝は、ミカエルの説明を途中でさえぎった。
「天帝様……?」
「おのが欲望を満たそうと、フレイアの拉致を図ったはそちであろう。
アスべエル、並びにラジエルの念話にて、委細承知しておるわ」
天帝は、つかつかとミカエルに近づき、呪文を唱えた。
「──リーゴゥ!」
「こはいかに……!?」
即座に、魔封じの手枷がはめられ、ミカエルは呆然とした。
「わ、我は無実でございます、天帝様、こやつらは共謀して……」
「黙るがよい!
このラジエルは複製、偽りは申せぬ、すなわち、虚偽の申し立てをしておるはそちじゃ、ミカエル!」
天帝は厳しい声で、元天使長に指を突きつけた。
「誰かある! こやつを牢へ!」
命令に答えて、衛兵がバラバラと中庭に入って来て、ミカエルの腕を左右からつかんだ。
「て、天帝様! お聞き下さい、我は……!」
ミカエルは激しくもがき、その拍子に、きらりと光る何かが芝生に落ちた。
「おお、天帝様、それをご覧下さい!
アスベエルは、かような物にて、あのセリンを買収しようとしておったのですぞ!」
「あ……!」
アスベエルは駆け寄り、それをばっと拾い上げた。
「何を致す、返せ!」
ほっとしたことに、腕輪には何もついていなかった。
取り上げられる前に、セリンは、手回しよくベルを外していたのだろう。
(よかった……!)
ミカエルは、大事そうに腕輪を持つ彼を睨みつけた。
「やはり、何かあるのだな!?
天帝様、詳しくお調べ下さい!」
彼は首を振った。
「……何もありませんよ、ただの腕輪です。
拾ったんで、妹にって、セリンにあげただけで……」
「嘘をつけ! 放せ、我が取り戻す!」
ミカエルは自由になろうと暴れた。
「お静かに、ミカエル様。
それを見せてくれぬか、アスベエル」
ラジエルのホムンクルスが、穏やかに声をかけた。
「はい……」
彼は、大人しく腕輪を渡す。
複製は、それをうやうやしく天帝に差し出し、それから尋ねた。
「正直に申せ、本当に拾ったのか?」
「そのぉ……実は、それ、元々わたしの物なんです」
仕方なく、アスベエルは答えた。
「お前のだと? 女物のようだが」
彼は頬を赤らめた。
「えっと……あの……もうすぐ、フレイア様のお誕生日ですから……何か、差し上げたいと思って……」
「なるほど、左様であったか」
それを聞いた複製だけでなく、天帝もまた、納得したようにうなずいた。
「はい……土台だけ、ウリエル様の使い魔に創ってもらって……あ、使い魔はウリエル様が亡くなった後、ラファエル様が思い出して辛いからって……わたしが預かることになって……」
「それは知っている、続けなさい」
「ええと……それで、模様は、自力で彫るつもりでいたんですけど、急に魔界に行くことになって……どうにか戻って来たら、フレイア様は、お眠りに……。
けど、たとえお目覚めになっても、受け取って頂くのは無理そうで……なら、誰かに使ってもらえばいいと思って……」
「で、セリンに譲ったと?」
「……そうです」
ベル型をした虫のダミーについては当然話さなかったが、それ以外は、完全に本当のことだった。
「馬鹿馬鹿しい、よくもまあ、左様なでたらめを!
ならば、何ゆえ、それには、魔物どもの力の残り
ミカエルは吼えた。
「当然でございましょう、アスベエルは、我と共に幾日も、魔物どもの根城に滞在しておったのですぞ!?
持ち物に、
ラジエルのホムンクルスは、心底立腹したように反論した。
天帝は、腕輪をじっくりと観察した。
「……ふむ。たしかに、彼奴らの魔力は感じる……されど、ごくわずかじゃな。
アスベエル、これを返して欲しいか?」
彼は首を横に振った。
「……いいえ。それはもう、わたしには用がないものです」
「左様か」
言うなり、天帝は腕輪を真上に放り、ぱちんと指を鳴らす。
刹那、それは空中で消滅した。
アスベエルはその一部始終を、悲しげな眼差しで見送った。
「天帝様、ご覧になりましたか、あの、物欲しげな目つき!
やはりあれは、魔物との取引の証!
こやつこそは、
ぜひとも、極刑に処すべきでございます!」
ミカエルは、口からつばを飛ばして、わめき立てた。
「……左様なことはあるまい、別れを告げる眼じゃ。
仮に、証だとするならば、証拠隠滅が図れて喜ぶじゃろうが。
アスべエルに、そこまでの演技力はないわ」
天帝は静かに言い、衛兵に手を振った。
「もうよい、連れてゆけ」
「は」
「は、放せ! 天帝様、お考え直し下さい! 天帝様、天帝様……!」
哀れっぽいミカエルの声が、尾を引いて遠くなってゆく。
「さて、今度は、そちの処遇じゃな」
天帝は、アスベエルに向き直った。
彼は
「は。念をお送りしたときから、覚悟は出来ております」
「お待ち下さい、天帝様、彼の行為は、正当防衛当たると思われますぞ」
複製は彼をかばったが、天帝は顔をしかめた。
「いいや、先ほどは、明確に殺意があると申しておった。
それゆえ、
天帝は冷酷な宣告を下し、複製は青ざめた。
「そんな……天帝様、どうぞ、彼にお慈悲を……」
アスベエルは、うつむいたまま眼を閉じ、言った。
「いえ、いいんです、フレイア様をお守り出来ただけで、わたしは幸せです。
これ以上、何も望みません」
「……よき心がけじゃ。されど、そちは先ほど申したな、余が、ミカエルに対して甘いと」
天帝は
「はい。もっと早く、厳正に対処して下さっていたら、ミカエル様も反省して、ウリエル様を殺すなんてこと、しなかったかも知れません。
ウリエル様も弁明する機会がもらえたはずですし、それでも、やっぱり死刑に決まったとしても、天帝様のご決定なら諦めもつくし、ラファエル様やわたし、サリエルもお別れが言えたでしょう、なのに……。
ミカエル様に対して、天帝様は少し……というより、かなり甘いと思いますが」
アスベエルは、眼を開けることなく、だが、はっきりと言ってのけた。
「ふむ……面を上げよ」
「……は」
頬を張り飛ばされることを覚悟して顔を上げると、天帝は、彼をぶったりはせず、代わりにじっと見詰めた。
あまりに強い眼差しで凝視し続けられ、たじたじとなった彼は、つい声を上げた。
「あ、あのぉ……天帝様、わたしの顔に何か……?」
天帝は、はっと我に返った。
「あ……いや、何でもないわ。
……ところでじゃ。そちは、天使の成り立ちを存じておるかの?」
意外なことを訊かれて、彼は小首をかしげた。
「え? いえ、知りませんが」
「左様か……」
なぜか遠い眼をした天帝は、すぐに気を取り直して話し始めた。
「されば、冥土の土産に教えて進ぜよう、いかにして、使徒が生まれたかを」
「はい」
ゆうじょ【宥恕】
寛大な心で罪を許すこと。
けいりく【刑戮】
刑罰に処すること。死刑に処すること。
ふぐたいてん【不倶戴天】
《「礼記」曲礼の「父の讐(あだ)は倶(とも)に天を戴(いただ)かず」から》
ともにこの世に生きられない、また、生かしてはおけないと思うほど恨み・怒りの深いこと。また、その間柄。