~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

18.天界の堕天使(4)

「ぎゃあっ!」
絶叫が、マトゥタの邸内に響き渡った。
(やった!)
アスベエルは、成功を確信したが、それは甘かった。

「貴様ぁ!」
ミカエルは、怒りの形相もものすごく彼を蹴り飛ばし、胸に刺さった短剣を引き抜くと、投げ捨てた。
芝生に倒れ込んだアスベエルのそばに転がったその刃は、紅く濡れてはいたものの、出血は思ったほどはない。
距離が近すぎたせいか、それとも思い切りが悪かったのか、深くは刺さらなかったのだ。

「ふん、こんな飾り物の短剣ごときで、この我を殺せると思ったか、愚か者!
──キリエイ・アレイアサン!」
魔法で傷をふさいだミカエルは、殺意をみなぎらせ、アスベエルに剣を突きつけた。
「貴様、かようなことをして、ただで済むとは思っておるまいな!」

「く……!」
アスベエルは歯噛みしたが、不意打ちが失敗してしまっては、もう何の対抗策もない。
「いかがした、攻撃魔法を使わぬか。と申しても無理だな。
知っておるぞ、今日、貴様が習得したは、ロウソクに火をつけることのみであろう。情けない」
「う……」
彼はうなだれるしかなかった。

「何ゆえ、かような男が、七大天使の役職を頂いたのやら。
ともかく、もはや宥恕(ゆうじょ)はならぬ、連れ帰り、()でてやろうと思っておったが、ここにて刑戮(けいりく)致す外、あるまい。
我が剣の(つゆ)と消えよ、神に見捨てられし者よ!」
ミカエルは剣を振り下ろした。
「わあっ!」
アスベエルは、思わず頭をかばう。

だが、激しく金属がぶつかる音が聞こえて、刃は彼に到達しなかった。
「早まらないで頂きたいですな!
彼の処罰は、天帝様のお裁きを受けた後に願いましょう!」
眼を開けると、大天使ラジエルが、剣で凶刃(きょうじん)を受け止めていた。

「く、ラジエル、何ゆえ邪魔致す!
こやつはサマエルと密通し、それに気づいた我を刺したのだぞ!
天帝様のご裁定など待つまでもなく、死罪だ!」
ミカエルは、眼を血走らせて吼えた。

ラジエルは、ミカエルの剣を払いのけ、答えた。
「お生憎様(あいにくさま)、嘘はいけませぬな、ミカエル様。サマエルの件は捏造(ねつぞう)でございましょう。
わたしは、この眼で、一部始終を拝見致しておりましたゆえ」
「な、見ておっただと!? 口から出任せを……」

「出任せなどではございませぬ。
あなた様が、彼を尾行しているのを見かけ、その後をついて参ったのですからな。
いやはや、驚きましたよ、いきなり石像を爆破……その後に続く一幕も、しかと拝見させて頂きました。
たしかに、斬りつけたアスベエルは極刑ものでしょうが、天帝様が正当防衛とご判断なされば……」

「ええい、黙れ、黙れ! ならば、貴様もここで、剣の(さび)にしてくれる!
貴様ら二人、つるんで我を陥れようとしたことにしてやるわ!」
再び剣を振りかざし、ミカエルはラジエルに(おど)りかかった。
「何をなさいます!」
ラジエルは身をかわすが、ローブが切り裂かれ、刃が腕をかすめた。

「ラジエル様!」
「く……アスベエル、今のうちに逃げよ!」
ラジエルは腕を押さえ、言った。
「いえ、俺も戦います!」
アスベエルはその場に踏み止まり、床から自分の短剣を拾って、震える手で構えた。

「ふん、左様な玩具で、我と闘うと申すか。
()く逃げればよいものを!」
敵意に満ちた眼差しで、ミカエルは柄を握り直し、じりじりと近づく。
「何をしておる、早く行け!」
「危ない!」
彼をかばうラジエル目がけ、再び剣が振り下ろさた、そのとき。

「やめよ、ミカエル!」
聞き慣れた重々しい声が、剣の動きを止めさせ、声の主を眼にしたミカエルは、べそをかくような顔で、崩れるように膝をついた。
「て、天帝様……」

ラジエルも、さっとひざまずき、慌ててアスベエルも二人に(なら)う。
威厳ある足取りで中庭に入って来たのは、天界の君主、ゼデキアその人だった。
「何事じゃ、この騒ぎは」

「……は。挙動不審のアスベエルを見張っておりましたところ、この屋敷にて、サマエルの悪霊と密談致しておりました。
しかも、こともあろうにフレイア様を、おのが手中にせんと……思わず飛び出し、問い(ただ)しましたところ、短剣で襲って参りましたゆえ、やむなく我も剣を抜き……」
「もうよい、余はすべて把握しておる」
天帝は、ミカエルの説明を途中でさえぎった。

「天帝様……?」
「おのが欲望を満たそうと、フレイアの拉致を図ったはそちであろう。
アスべエル、並びにラジエルの念話にて、委細承知しておるわ」
天帝は、つかつかとミカエルに近づき、呪文を唱えた。
「──リーゴゥ!」
「こはいかに……!?」
即座に、魔封じの手枷がはめられ、ミカエルは呆然とした。

「わ、我は無実でございます、天帝様、こやつらは共謀して……」
「黙るがよい!
このラジエルは複製、偽りは申せぬ、すなわち、虚偽の申し立てをしておるはそちじゃ、ミカエル!」
天帝は厳しい声で、元天使長に指を突きつけた。

「誰かある! こやつを牢へ!」
命令に答えて、衛兵がバラバラと中庭に入って来て、ミカエルの腕を左右からつかんだ。
「て、天帝様! お聞き下さい、我は……!」
ミカエルは激しくもがき、その拍子に、きらりと光る何かが芝生に落ちた。

「おお、天帝様、それをご覧下さい!
アスベエルは、かような物にて、あのセリンを買収しようとしておったのですぞ!」
「あ……!」
アスベエルは駆け寄り、それをばっと拾い上げた。
「何を致す、返せ!」

ほっとしたことに、腕輪には何もついていなかった。
取り上げられる前に、セリンは、手回しよくベルを外していたのだろう。
(よかった……!)
ミカエルは、大事そうに腕輪を持つ彼を睨みつけた。
「やはり、何かあるのだな!?
天帝様、詳しくお調べ下さい!」

彼は首を振った。
「……何もありませんよ、ただの腕輪です。
拾ったんで、妹にって、セリンにあげただけで……」
「嘘をつけ! 放せ、我が取り戻す!」
ミカエルは自由になろうと暴れた。

「お静かに、ミカエル様。
それを見せてくれぬか、アスベエル」
ラジエルのホムンクルスが、穏やかに声をかけた。
「はい……」
彼は、大人しく腕輪を渡す。

複製は、それをうやうやしく天帝に差し出し、それから尋ねた。
「正直に申せ、本当に拾ったのか?」
「そのぉ……実は、それ、元々わたしの物なんです」
仕方なく、アスベエルは答えた。
「お前のだと? 女物のようだが」

彼は頬を赤らめた。
「えっと……あの……もうすぐ、フレイア様のお誕生日ですから……何か、差し上げたいと思って……」
「なるほど、左様であったか」
それを聞いた複製だけでなく、天帝もまた、納得したようにうなずいた。

「はい……土台だけ、ウリエル様の使い魔に創ってもらって……あ、使い魔はウリエル様が亡くなった後、ラファエル様が思い出して辛いからって……わたしが預かることになって……」
「それは知っている、続けなさい」

「ええと……それで、模様は、自力で彫るつもりでいたんですけど、急に魔界に行くことになって……どうにか戻って来たら、フレイア様は、お眠りに……。
けど、たとえお目覚めになっても、受け取って頂くのは無理そうで……なら、誰かに使ってもらえばいいと思って……」

「で、セリンに譲ったと?」
「……そうです」
ベル型をした虫のダミーについては当然話さなかったが、それ以外は、完全に本当のことだった。

「馬鹿馬鹿しい、よくもまあ、左様なでたらめを!
ならば、何ゆえ、それには、魔物どもの力の残り()が、へばりついておるのだ!?」
ミカエルは吼えた。

「当然でございましょう、アスベエルは、我と共に幾日も、魔物どもの根城に滞在しておったのですぞ!?
持ち物に、彼奴(きゃつ)らの魔力の残滓(ざんし)が付着致したとしても、何の不思議がございましょうや!」
ラジエルのホムンクルスは、心底立腹したように反論した。

天帝は、腕輪をじっくりと観察した。
「……ふむ。たしかに、彼奴らの魔力は感じる……されど、ごくわずかじゃな。
アスベエル、これを返して欲しいか?」
彼は首を横に振った。
「……いいえ。それはもう、わたしには用がないものです」

「左様か」
言うなり、天帝は腕輪を真上に放り、ぱちんと指を鳴らす。
刹那、それは空中で消滅した。
アスベエルはその一部始終を、悲しげな眼差しで見送った。

「天帝様、ご覧になりましたか、あの、物欲しげな目つき!
やはりあれは、魔物との取引の証!
こやつこそは、不倶戴天(ふぐたいてん)の悪鬼サマエルに手を貸す大悪人、天界に巣食う壁蝨(ダニ)でございますぞ!
ぜひとも、極刑に処すべきでございます!」
ミカエルは、口からつばを飛ばして、わめき立てた。

「……左様なことはあるまい、別れを告げる眼じゃ。
仮に、証だとするならば、証拠隠滅が図れて喜ぶじゃろうが。
アスべエルに、そこまでの演技力はないわ」
天帝は静かに言い、衛兵に手を振った。
「もうよい、連れてゆけ」
「は」
「は、放せ! 天帝様、お考え直し下さい! 天帝様、天帝様……!」
哀れっぽいミカエルの声が、尾を引いて遠くなってゆく。

「さて、今度は、そちの処遇じゃな」
天帝は、アスベエルに向き直った。
彼は(こうべ)を垂れた。
「は。念をお送りしたときから、覚悟は出来ております」

「お待ち下さい、天帝様、彼の行為は、正当防衛当たると思われますぞ」
複製は彼をかばったが、天帝は顔をしかめた。
「いいや、先ほどは、明確に殺意があると申しておった。
それゆえ、両成敗(りょうせいばい)じゃ、アスベエルは、地下研究所送りとする」
天帝は冷酷な宣告を下し、複製は青ざめた。
「そんな……天帝様、どうぞ、彼にお慈悲を……」

アスベエルは、うつむいたまま眼を閉じ、言った。
「いえ、いいんです、フレイア様をお守り出来ただけで、わたしは幸せです。
これ以上、何も望みません」
「……よき心がけじゃ。されど、そちは先ほど申したな、余が、ミカエルに対して甘いと」
天帝は(いかめ)しい顔つきで尋ねた。

「はい。もっと早く、厳正に対処して下さっていたら、ミカエル様も反省して、ウリエル様を殺すなんてこと、しなかったかも知れません。
ウリエル様も弁明する機会がもらえたはずですし、それでも、やっぱり死刑に決まったとしても、天帝様のご決定なら諦めもつくし、ラファエル様やわたし、サリエルもお別れが言えたでしょう、なのに……。
ミカエル様に対して、天帝様は少し……というより、かなり甘いと思いますが」
アスベエルは、眼を開けることなく、だが、はっきりと言ってのけた。

「ふむ……面を上げよ」
「……は」
頬を張り飛ばされることを覚悟して顔を上げると、天帝は、彼をぶったりはせず、代わりにじっと見詰めた。
あまりに強い眼差しで凝視し続けられ、たじたじとなった彼は、つい声を上げた。
「あ、あのぉ……天帝様、わたしの顔に何か……?」

天帝は、はっと我に返った。
「あ……いや、何でもないわ。
……ところでじゃ。そちは、天使の成り立ちを存じておるかの?」
意外なことを訊かれて、彼は小首をかしげた。
「え? いえ、知りませんが」

「左様か……」
なぜか遠い眼をした天帝は、すぐに気を取り直して話し始めた。
「されば、冥土の土産に教えて進ぜよう、いかにして、使徒が生まれたかを」
「はい」

ゆうじょ【宥恕】

寛大な心で罪を許すこと。

けいりく【刑戮】

刑罰に処すること。死刑に処すること。

ふぐたいてん【不倶戴天】

《「礼記」曲礼の「父の讐(あだ)は倶(とも)に天を戴(いただ)かず」から》
ともにこの世に生きられない、また、生かしてはおけないと思うほど恨み・怒りの深いこと。また、その間柄。