18.天界の堕天使(3)
「ふ、ふざけないで下さい!」
相手を突き飛ばし、逃げようとしたアスベエルは、翼をつかまれてしまった。
「待ちなさい、わたしは本気だ」
「は、放して!」
もがいても、ラジエルは彼を放さない。
「ミカエル様はさて置き、お前は、まだ、フレイア様のことを想っているのか?
七大天使になったとはいえ、お前ごときが女神様と結ばれることなど、到底無理なのだぞ、諦めが肝心だ」
「分かってますよ、そんなことっ!」
アスベエルは、羽がいくつかむしり取られるのも構わずに全力で振り払い、部屋から飛び出した。
もう一瞬たりとも、汎神殿にはいたくなかった。
回廊を駆け抜け、城門をくぐり、市街地に向かう。
今も無人の街路を、彼は全速力で走り続けた。
やがて脇腹が痛くなってくると、ようやく彼は足を止めた。
膝に手を当て荒い息を整え、汗をぬぐったとき、見覚えのある門が眼に入り、彼は顔を上げた。
「こ、ここは……!」
義弟の軟禁後、久しく訪れることもなかったマトゥタの邸宅に、いつの間にか戻って来てしまっていたのだ。
アラベスク模様が美しい純白の門は、触れると簡単に開き、彼は誘われるように中へと足を踏み入れる。
「……変わってないな」
彼はつぶやき、緑の芝生と花々が咲き乱れる前庭、白い
天井の高いエントランスホールや、磨かれた廊下も、やはり昔のままだった。
今にもマトゥタが、笑顔でお帰りと迎えに出て来る気がして、彼は思わず声をかけた。
「……ただ今」
返事はなく、邸内は静まり返っていた。
廊下をさらに進み、彼は自分の部屋の前に立った。
半年に一度の休日にも触れることさえなかった扉を、大きく息を吸い、勢いよく開く。
そして、思わず吐息を漏らした。
「ああ……」
部屋は、看守長として光の塔の地下に住むことになる前、暮らしていたときのまま、フレイアがくれた雑多な物であふれていた。
綺麗な小石や色とりどりのガラス玉、奇妙な形の枝や美しい紅葉、粘土のオブジェや手縫いの小物、などなど……。
フレイアお手製の花瓶に、今も生き生きと咲いている金色の花を眼にしたとき、もらった花を、ずっと咲かせて欲しいとねだって、マトゥタを困らせたことを彼は思い出した。
花は枯れるからこそ美しいと
輝く花びらはフレイアの瞳を思い起こさせ、彼は飽かずそれを眺めては、時折そっとキスをして、一人、頬を赤らめたものだった。
胸が痛み、彼は部屋を後にした。
さらに進むと、明るい陽光が降り注ぐサンルームに着いて、思わず、彼は手をかざした。
「まぶし……!」
ガラス戸を開け、中庭に出る。
手入れの行き届いた花壇には花が咲き乱れ、庭木は青々と葉を茂らせていた。
幼い頃、樹木の一本から落ちてしまった、苦い思い出が蘇る。
(マトゥタ様にすっごい怒られたっけ……登っちゃ駄目って言われてたのに)
中央には、大きな円形の噴水があり、水しぶきが今も綺麗なアーチを描いて、いくつも虹を作っていた。
マトゥタは、これがお気に入りで、縁に座ってウリエルと話をしたり、水遊びする子供達を、にこにこしながら見守っていたものだった。
しかし、今はもう、誰もいない。
マトゥタもウリエルも死に、フレイアはいつ目覚めるとも知らず、サリエルは……大人になれるのかすらも分からない。
追憶に浸っていた漆黒の瞳から、ついに涙があふれ出し、アスベエルは、こらえ切れずに顔を覆った。
かなりの時が経ち、彼は気を取り直して、冷たい水で顔を洗った。
「サ、サマエ……あ、」
彼は、慌てて左右を見回し、誰もいないのを確認して、ほっと息をついた。
生前のマトゥタからは、像のモデルは息子だと聞かされていた。
たしかに背中の翼は天使のものだし、額にも角はない。
しかし、髪は地を這うほどに長く、瞳に埋め込まれたルビーの輝きもあってか、石像は義弟よりも、遥かに魔界の第二王子に似通っていた。
像の足元には、体をすり寄せ、くちばしを合わせて求愛のダンスを踊る、一対の白鳥の像がある。
見つめ合う二羽のシルエットがハートの形をして見える場所に、いつも女神が座っていたことに、初めて彼は気づいた。
マトゥタとウリエル、同じ男を愛した二人は、この像にサマエルの面影を重ね、密かに
万一
天使の顔をもっとよく見ようと、噴水の縁に足をかけたとき、
「アスベエル、ようやく尻尾をつかんだぞ!」
いきなり声が飛んで来て、驚いた彼は危うく、水の中にころげ落ちそうになった。
「う、うわ、……ふー、危なかった」
どうにか体の平衡を取り戻して振り向くと、ミカエルが、大股に近づいて来るところだった。
「ミカエル様!? なぜここに……?」
「ふん、ここがヤツの根城か。
盲点だったな、まさか女神の邸宅に、魔物が巣食っていたとは」
大天使は、中庭を見回す。
「え、魔物!?」
驚く彼の胸倉を、ミカエルはつかんだ。
「吐け、サマエルはどこだ、どこにいる!?」
「な、何のことかさっぱり……」
「嘘をつけ! ならば、何ゆえ、ヤツの名を呼んだ!」
「え? あ……それは、あの天使が……」
アスベエルは、噴水の像を指差す。
「あれがどうした」
彼を捕らえたまま、ミカエルは石像に視線を送る。
「改めて見たら、サマエルそっくりだったんで、びっくりして……」
「何?」
ミカエルは眼を見開き、天使像の顔を凝視した。
「たしかに……ふん、ならば。
──アフィーゴウ!」
ニヤリと笑い、ミカエルは呪文を唱えた。
刹那、石像は大音響と共に爆発し、四散した。
雨のように、大量の水が降り注ぐ。
「な、何を!?」
「これでよい。
貴様はサマエルの悪霊と密談しておるところを我に見つかり、争った挙句、天界より逃亡したのだ」
「何ですか、それ!?」
「この筋書きならば、貴様が姿を消そうとも、誰も不審に思わぬわ。
来い、我が屋敷にて、たっぷり可愛がってやる」
「そ、そんなのごめんです!
第一、俺がいなくなったら、真っ先に疑われるのはあなたですよ!」
彼が叫ぶと、天使長だった男は、歪んだ笑みを浮かべた。
「ふ、屋敷に押しかけて来たとて無駄なことよ。
未だハニエルも見出しておらぬというに」
「えっ、まさか、……」
「あの女、一度は我が物となったというに、逃亡などしおって。
パンテオンは我が庭、すぐに捕らえ、地下に監禁しておったが、間抜け共は気づきもせなんだ。
されど、近頃は殴っても蹴っても声も上げぬ、まことに詰まらぬわ」
「ど、どうして、そんな酷いことを!」
「ふん、天使はすべて我がしもべ、天使の長たる我がために存在する者共だ、それをいかに扱おうと、我の勝手だ」
「あなたはもう、天使長じゃない!
皆に迷惑かけてる癖に、反省もないんですか!」
「何だと!」
「だって、ミカエル様のせいでシェミハザが
人界への転移の準備だって、もっとじっくり出来たはずだ!
無理に転移して、人界の地軸が狂ったらどうすんです、次の行き場所、考えてるんで……」
「うるさい、いい加減黙らぬと、その達者な口を縫いつけるぞ!」
ミカエルは、腰の剣をスラリと抜き、アスべエルに突きつけた。
「我は、おのが欲望を満たせればそれでよいわ!
左様、趣向を変えればハニエルとて……ふむ、貴様のような男をあてがえば、あの女も、肉欲に溺れるに相違あるまい」
「な、何言ってんですか!?」
アスベエルは、開いた口がふさがらなかった。
「肉の喜びを知れば、貴様も考えが変わろう。
大人しく我につき従え、さすれば、フレイアと
ミカエルは、いやらしい笑みを浮かべた。
「何を馬鹿なことを!
第一、フレイア様がいなくなったら、大騒ぎになりますよ!」
「ふん、あの忌々しい
何、サマエルがさらったことになろうし、ホムンクルスに暗示をかけ、本物と思い込ませてすり替えれば、誰にも感づかれぬわ。
当人は眠っておるのだ、後は
ミカエルは、鉛色の瞳に、濁った油膜のような光をぎらつかせて、舌なめずりした。
(く、狂ってる……)
全身が
「左様、目覚めた時の用心に、虫を埋め込んでやろう。
そもそもフレイアさえ手に入れば、ハニエルごときは不要、千年に一度の
(生贄!? やばい、早く助けないと。
フレイアも危ないし、俺も……けど、四人相手なんて真っ平だし、こいつ殺しても死刑だよな……じゃあ、もう、いっそのこと……)
彼は心を決め、念話を送った。
“天帝様、緊急事態に付き、ご無礼の段、ご容赦願います、アスベエルです。
ハニエルはミカエル様に捕まり、お屋敷の地下に閉じ込められています。
何とぞ、お助けを”
“何じゃと、それはまことか”
“はい。たった今、ご本人から聞きました。
それで、わたしは、ミカエル様と刺し違えて死のうと思います”
アスベエルの決意を聞いた天帝は、驚愕した。
“な、何!? 早まるでない、いかがしたのじゃ!”
“ミカエル様は、フレイア様と複製をすり替えて、幽閉するつもりです。
わたしも連れて行かれそうで、だから、もう、こうするしかないんです”
“待つのじゃ、アスベエル!
“いいえ、待てません。
天帝様は、ミカエル様には甘いご裁定しか下されませんから。
地獄に堕ちるも本望です、フレイア様をお守り出来るなら……最後に一目、お会いしたかったですけどね”
“落ち着くのじゃ、今、いずこにおる?”
“短い間でしたが、お引き立て頂き、ありがとうございました……ご覧下さい、天帝様、これがミカエル様の正体です!”
行きがけの駄賃に、彼は、自分の眼に映る情景を中継して見せた。
彼に剣を突きつけたミカエルは、瞳を情欲にぎらつかせ、口の端に泡を溜めながら、いやらしい妄想を
“こ、これは何としたこと……”
天帝は絶句した。
ミカエルは上手く立ち回り、君主にこんな姿を見せたことはなかったのだ。
その隙に、アスベエルは、ローブに手を滑り込ませた。
七大天使の証として与えられた短剣の柄を握り、鞘をそっと払う。
「ミカエル、覚悟っ!」
そして気合いを込め、相手の胸に突き刺した。
アラベスク【(フランス)arabesque】
1 アラビア風の装飾模様。文字・蔓草(つるくさ)・幾何学図形などを図案化したもの。唐草模様。
あわだつ【粟立つ】
恐怖や寒さなどのため、毛穴が収縮して、皮膚一面に粟粒ができたようになる。鳥肌が立つ。