~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

18.天界の堕天使(2)

二日後、アスベエルは仕事始めとして、天帝に謁見した。
とっくに元気になっていたのだが、義弟の複製(リナーシタ)が虫を入れられたとき、数日気を失っていたと聞いて、不自然にならないようにと一日休んだのだ。

それでも、血色のいい彼を眼にした天帝は、驚いた様子だった。
「これはまた、随分と早い回復じゃのぉ」
その左右に居並ぶ天使のうち、ミカエルは彼を睨みつけ、ラファエルは複雑な面持ちで、メタトロンは心配そうな表情をしており、ラジエルとラグエルは、何か会話でもしているのか、視線を絡ませていた。

「若いですから。
それに、せっかく取り立てて頂いた上は、早くお役に立ちたくて、居ても立ってもいられませんでしたので」
アスベエルは、胸に手を当ておじぎをした。
「それは重畳(ちょうじょう)、じゃが、無理は禁物じゃぞ」
「はい、大丈夫です」

「ふん、攻撃魔法の一つも知らぬ癖に!」
ミカエルは吐き捨てた。
「ええ、たしかに知りませんが。
使徒の取り柄は戦うだけではないでしょう、わたしは、力ではなく頭を使うことで、天帝様のお役に立つつもりでおりますから!」
にこやかにアスベエルは答え、ミカエル以外の天使達は愁眉(しゅうび)を開き、うなずき合った。

「何を生意気な!」
青筋を立てて怒鳴るミカエルとは対照的に、天帝は口元をゆるめていた。
「よいよい、その達者な口で、我が役に立つがよい」
「天帝様、何ごとも、最初が肝心でござりまするぞ!
青二才を甘やかしては、後々為になりませぬ!」
むかっ腹を立てたミカエルは、アスベエルに指を突きつけた。

天帝は、さっと険しい顔つきになった。
「何を申すか、使命感に燃える若人(わこうど)の、無垢(むく)なる意気込みは買うべきであろうが。
そもそも、汎神殿におれば攻撃魔法なぞ不要じゃ、魔物どもは早晩、滅びようしな」
「お言葉ではございますが、天帝様!
七大天使ともあろう者が、魔法で攻撃も出来ぬなどと、皆に示しがつきませぬぞ!」
ミカエルは、つばを飛ばしてわめき立てる。

天帝は、うんざりしたように手を振った。
「ならば、今から仕込めばよいのじゃ。
誰ぞ、アスベエルに教授せよ」
「は、わたしが」
ラジエルが手を上げると、ラファエルも前に出た。
「いえ、後見人ですし、わたしが」

「いやいや、ラファエル、もはや、アスベエルには後見人など不要であろうよ。
勅命(ちょくめい)とは申せ、彼を騙す形となったゆえ、少々(つぐな)いなどしたくてな。
いかがでございましょうか、天帝様」
「相分かった。アスベエル、明日よりラジエルに師事し、攻撃魔法を覚えよ、そちの初仕事じゃ」
「かしこまりました」

翌朝、アスベエルは、魔法を習いに行く途中で、人族出身の天使と会った。
「あ、セリン、久し振りだね……って、前に会ってから、そんなに経ってないか」
「アスベエル殿……いえ、もう、アスベエル様とお呼びしなければいけませんね。
このたびは、七大天使にご昇進、おめでとうございます」
セリンは、深々と頭を下げた。

「ありがとう。でも、何か照れるな。
誰もいない時は、前と同じでいいのに」
アスベエルは頭をかいた。回廊はがらんとして、人の気配もなかっのだ。
セリンは苦笑した。
「いえ、それはいけませんよ、どこで誰が聞いているか、分かりませんし」

「……そっか。あ、そうだ、エレアは元気? 記憶は?」
「いえ、戻ってはおりません、ありがたいことに。
体調の方は、お陰様で、徐々によくなって来てはおりますが」
「よかった、お大事にね」
「お心遣い、痛みいります、それでは」
セリンは再び頭を下げ、二人はすれ違った。

歩き続けながら、アスベエルは念で話しかけた。
“ちょうどよかった、お前に話したいことがあってさ。
あ、そのまま聞いてくれ、俺は、ミカエル様に監視されてるみたいだから”
“何でしょう”

“……怒らないでくれよ。実は、エレアのことなんだけど。
魔界で、お前達のことが話に出たとき、シンハが言ったんだ。
もしかしたら、今のエレアは、以前の彼女を蘇生したんじゃなく、新しく創った複製じゃないのか、って。
天界に来たときに保存した記憶しかなかったから、記憶喪失ってことにして、……”

憤慨するかと思いきや、セリンは冷静に答えを返して来た。
“『焔の眸』の化身がそう言うのなら、間違いないでしょう……”
“お前、分かってたのか?”
“……薄々とは。それに、エレアの心臓には、虫が埋め込まれています。
元々ホムンクルスゆえ、致し方ないと言われ、納得するしかありませんでしたが”
“……そうだったのか”

“わたしからも、お知らせしておきましょう……ミカエル様から、あなたを監視するよう仰せつかっています。
ですから、うっかりしたことを仰らないようにして下さい”
そう言うと、セリンは(きびす)を返し、アスベエルをそっと追跡し始めた。

“……何で、それを俺に言うわけ? 知られたら、まずいんだろうに”
“こんなこと、本当はしたくないからに決まっているでしょう!
あなたを見張れば、エレアには手を出さないと言われていなければ!”
その心の声は、鋭かった。

“……なるほどな。
お前、ホントはもう、天界に嫌気が差してるんだろ?”
“よしんばそうだとしても、わたしは……わたし達にはもはや、天界以外に居場所はありませんから……”
セリンの思念は、悲哀に満ちていた。

“そんなことなさいさ、タナトスが言ってたぞ、お前に寝返る気があるんなら、歓迎するって。
もちろん、エレアも一緒にさ。魔族は、あの虫、退治出来るんだぜ”
“虫を退治……? む、無理です、あれは魔法では取り除けない……”
“んじゃあ、何で俺は、こんな話が出来ると思う?
虫を埋められてるってのに、さ”

セリンは、ぎくりと足を止めた。
“……! で、ですが、魔族が、わたしを許すわけが……”
“昔とはもう、事情が変わってんだよ。
お前を操った『黯黒の眸』は、今、タナトスのお妃になってる。
元凶を許して、操られただけのお前を許さないはず、ないだろ。
それにさ、あのミカエル様が、女性に手を出さないなんて約束、守ると思うかい?”
“……”

“じゃあさ、これから俺が落とす腕輪を拾って、声をかけてくれ。虫の退治法を教えるから。
それ聞いてから、寝返るかどうか決めればいい”
“で、ですが……”
“いいから。さ、行くぞ”

アスベエルは、懐からハンカチを取り出して額をふき、同時に金の腕輪を落とす。
床に転がった拍子に、輪に通されたベルがかすかな音を立てたが、彼は気づかぬふりで、歩き続けた。

セリンはそれを拾い上げ、しばし、食い入るように凝視していた。
それから、意を決したように顔を上げる。
「アスべエル様、何か落とされましたよ」
「え?」
彼は振り向く。

「これです」
セリンは駆け寄り、腕輪を差し出す。
アスベエルは、首を横に振った。
「あ、それ、俺んじゃない、さっき拾ったんだ。
そうだ、お前にやるよ。エレアにあげたら、喜ぶんじゃないかな?」

「はあ……ですが、落とし主を探さなくてよろしいので……?」
「そんなの、魔法で、すぐまた創れるだろ。
じゃ、また」
素っ気なく言い、アスベエルは手を上げて見せて、再び歩き出す。
「はい、では、頂いて行きます」
セリンも会釈(えしゃく)をし、反対方向へ歩き始めた。

“それ、腕輪は飾りさ。ついてるベルが、体内で虫を殺して本物そっくりに化ける、ダミーなんだよ。
一つはエレアに飲ませて、もう一個は、お前が持ってればいい、敵味方の識別信号が出てるから”

“ダミー、ですか……識別信号……?”
腕輪を見つめるセリンの眼差しは、まだ懐疑的に揺らいでいた。
“魔族と、それを入れてるヤツだけ分かる信号なんだ。便利だろ?
俺ん中にも入ってるんだぜ”
“あ、あなたの体内に……!?”
セリンは眼を見開く。
“シンハがさ、虫を入れろってミカエル様が言い張りそうだから、前もって飲んでた方がいいって言うから”

“そ、それで、大丈夫でしたか?”
“飲んだ直後は平気だったな。
虫を埋められた後で、胸がすごく痛くなったけど、ダミーが虫を殺してるせいだったんだろ、半日でもう、この通りさ”
“それはようございました”
天使は、胸をなで下ろした。

“うん。……で、あの虫って、神族以外の体ん内じゃ、うまく孵化(ふか)とか成長出来ないみたいでさ。
エレアの体内でも、卵のままか、もし(かえ)ってても、まだ幼虫でいるはずなんだ。
だから、ダミーでも十分殺せるはずだって、シンハが言ってた。
あ、もし、成虫になってても、心配いらないぜ。
ラジエル様の複製の虫は、別のやり方で退治したんだ”

“……分かりました。
わたしは魔族に付きます、エレアを助けて頂けるなら。
アスべエル様、これから、どうぞよしなに”
セリンは、拝むように手を合わせてから、腕輪を布に包み、大事そうに懐へしまい込んだ。
そして、一呼吸置き、尾行を再開した。

“うん、こちらこそよろしく。
でもな、セリン。俺だってホントは、裏切りたくはないんだ。
けど、ミカエル様は、もう疑わないって言ったのに、俺達の部屋を監視してるし、お前にまで見張らせて……。
俺はいいけど、サリエルや複製達が、酷いことされたらって……二人は、体も弱いし、無事に大人になれるかどうかも怪しいのに……。
いつ襲われるか、ハラハラしながら暮らさなきゃいけないなんて……”

“……分かりますよ、わたしもです”
“それじゃ、また後で連絡するから、力を貸してくれ。
どーんと大きな手柄を立てれば、気兼ねせず魔界に来れるだろって、シンハが言ってたぞ”
“……なるほど、そうですね”

話している間に、目的の部屋に着き、彼はドアをノックした。
「お早うございます、ラジエル様、アスベエルです」
「お早う。まずは、体にさほど負担のない魔法から始めるとしよう」
扉を開けたラジエルは、にこやかに彼を迎えた。
「はい、よろしくお願いします」
彼は頭を下げ、入室した。

「よし、今日はここまでにするとしよう、無理は禁物だ」
昼近くになって、ラジエルは言った。
「はい」
「ところで、折り入って話がある。
ミカエル様が、お前を狙っているようなのだが」
「……そのようですね、サリエルから聞いたことあります」
彼は顔をしかめた。

「左様か。されど、ハニエルが姿を消してより、さらに言動が過激になって来ておるようでな。
特に、夜は危険性が高まるようだ、このままでは、いつか、寝込みを襲われるやも知れぬ。
そこで、提案なのだが。
ラグエルと話し、ラファエルやメタトロンも賛成してくれた……夜は順番に、わたし達四人の部屋に来てはどうかな」

「え……?」
アスベエルはきょとんとした。
「もちろん、安息日(あんそくにち)も設ける。
わたし達相手なら、気心も知れているだろう?
ミカエル様よりも、遥かに優しく扱うと誓うぞ」

「ええ!? な、何を仰って……!?」
混乱するアスベエルの手を、ラジエルはつかみ、引き寄せた。
「お前、淫魔の王にまで口説かれたそうではないか」
「あ、いえ、俺は何も、……」

「無論、何もなかったことは知っている。
だが、改めて見るとお前は美しい、ハニエルと比べても遜色(そんしょく)がないほどだ……ミカエル様や、タナトスが執心(しゅうしん)するほどのことはある。
童子の頃は、やんちゃで、真っ黒に日焼けして、何も感じなかったが」
「は、離して下さい……!」
ラジエルに顔を覗き込まれ、アスベエルはもがく。

ちょうじょう【重畳】

2 この上もなく満足なこと。大変喜ばしいこと。感動詞的にも用いる。頂上。

愁眉(しゅうび)を開(ひら)く

心配がなくなって、ほっとした顔つきになる。

あんそく‐にち【安息日】sabbath (英語)

① ユダヤ教での聖日。神が天地を創造し終えて第七日めに休息したという「旧約聖書‐創世記」の記述に基づいて、一週の第七日に与えた名称。金曜日の日没から土曜日の日没まで。仕事を休み、宗教的儀式を行なう。あんそくび。
② キリスト教徒が聖日として、仕事を休み、儀式を行なう日。キリストが復活した日曜と、その他定められた日。〔和英語林集成(初版)(1867)〕