18.天界の堕天使(2)
二日後、アスベエルは仕事始めとして、天帝に謁見した。
とっくに元気になっていたのだが、
それでも、血色のいい彼を眼にした天帝は、驚いた様子だった。
「これはまた、随分と早い回復じゃのぉ」
その左右に居並ぶ天使のうち、ミカエルは彼を睨みつけ、ラファエルは複雑な面持ちで、メタトロンは心配そうな表情をしており、ラジエルとラグエルは、何か会話でもしているのか、視線を絡ませていた。
「若いですから。
それに、せっかく取り立てて頂いた上は、早くお役に立ちたくて、居ても立ってもいられませんでしたので」
アスベエルは、胸に手を当ておじぎをした。
「それは
「はい、大丈夫です」
「ふん、攻撃魔法の一つも知らぬ癖に!」
ミカエルは吐き捨てた。
「ええ、たしかに知りませんが。
使徒の取り柄は戦うだけではないでしょう、わたしは、力ではなく頭を使うことで、天帝様のお役に立つつもりでおりますから!」
にこやかにアスベエルは答え、ミカエル以外の天使達は
「何を生意気な!」
青筋を立てて怒鳴るミカエルとは対照的に、天帝は口元をゆるめていた。
「よいよい、その達者な口で、我が役に立つがよい」
「天帝様、何ごとも、最初が肝心でござりまするぞ!
青二才を甘やかしては、後々為になりませぬ!」
むかっ腹を立てたミカエルは、アスベエルに指を突きつけた。
天帝は、さっと険しい顔つきになった。
「何を申すか、使命感に燃える
そもそも、汎神殿におれば攻撃魔法なぞ不要じゃ、魔物どもは早晩、滅びようしな」
「お言葉ではございますが、天帝様!
七大天使ともあろう者が、魔法で攻撃も出来ぬなどと、皆に示しがつきませぬぞ!」
ミカエルは、つばを飛ばしてわめき立てる。
天帝は、うんざりしたように手を振った。
「ならば、今から仕込めばよいのじゃ。
誰ぞ、アスベエルに教授せよ」
「は、わたしが」
ラジエルが手を上げると、ラファエルも前に出た。
「いえ、後見人ですし、わたしが」
「いやいや、ラファエル、もはや、アスベエルには後見人など不要であろうよ。
いかがでございましょうか、天帝様」
「相分かった。アスベエル、明日よりラジエルに師事し、攻撃魔法を覚えよ、そちの初仕事じゃ」
「かしこまりました」
翌朝、アスベエルは、魔法を習いに行く途中で、人族出身の天使と会った。
「あ、セリン、久し振りだね……って、前に会ってから、そんなに経ってないか」
「アスベエル殿……いえ、もう、アスベエル様とお呼びしなければいけませんね。
このたびは、七大天使にご昇進、おめでとうございます」
セリンは、深々と頭を下げた。
「ありがとう。でも、何か照れるな。
誰もいない時は、前と同じでいいのに」
アスベエルは頭をかいた。回廊はがらんとして、人の気配もなかっのだ。
セリンは苦笑した。
「いえ、それはいけませんよ、どこで誰が聞いているか、分かりませんし」
「……そっか。あ、そうだ、エレアは元気? 記憶は?」
「いえ、戻ってはおりません、ありがたいことに。
体調の方は、お陰様で、徐々によくなって来てはおりますが」
「よかった、お大事にね」
「お心遣い、痛みいります、それでは」
セリンは再び頭を下げ、二人はすれ違った。
歩き続けながら、アスベエルは念で話しかけた。
“ちょうどよかった、お前に話したいことがあってさ。
あ、そのまま聞いてくれ、俺は、ミカエル様に監視されてるみたいだから”
“何でしょう”
“……怒らないでくれよ。実は、エレアのことなんだけど。
魔界で、お前達のことが話に出たとき、シンハが言ったんだ。
もしかしたら、今のエレアは、以前の彼女を蘇生したんじゃなく、新しく創った複製じゃないのか、って。
天界に来たときに保存した記憶しかなかったから、記憶喪失ってことにして、……”
憤慨するかと思いきや、セリンは冷静に答えを返して来た。
“『焔の眸』の化身がそう言うのなら、間違いないでしょう……”
“お前、分かってたのか?”
“……薄々とは。それに、エレアの心臓には、虫が埋め込まれています。
元々ホムンクルスゆえ、致し方ないと言われ、納得するしかありませんでしたが”
“……そうだったのか”
“わたしからも、お知らせしておきましょう……ミカエル様から、あなたを監視するよう仰せつかっています。
ですから、うっかりしたことを仰らないようにして下さい”
そう言うと、セリンは
“……何で、それを俺に言うわけ? 知られたら、まずいんだろうに”
“こんなこと、本当はしたくないからに決まっているでしょう!
あなたを見張れば、エレアには手を出さないと言われていなければ!”
その心の声は、鋭かった。
“……なるほどな。
お前、ホントはもう、天界に嫌気が差してるんだろ?”
“よしんばそうだとしても、わたしは……わたし達にはもはや、天界以外に居場所はありませんから……”
セリンの思念は、悲哀に満ちていた。
“そんなことなさいさ、タナトスが言ってたぞ、お前に寝返る気があるんなら、歓迎するって。
もちろん、エレアも一緒にさ。魔族は、あの虫、退治出来るんだぜ”
“虫を退治……? む、無理です、あれは魔法では取り除けない……”
“んじゃあ、何で俺は、こんな話が出来ると思う?
虫を埋められてるってのに、さ”
セリンは、ぎくりと足を止めた。
“……! で、ですが、魔族が、わたしを許すわけが……”
“昔とはもう、事情が変わってんだよ。
お前を操った『黯黒の眸』は、今、タナトスのお妃になってる。
元凶を許して、操られただけのお前を許さないはず、ないだろ。
それにさ、あのミカエル様が、女性に手を出さないなんて約束、守ると思うかい?”
“……”
“じゃあさ、これから俺が落とす腕輪を拾って、声をかけてくれ。虫の退治法を教えるから。
それ聞いてから、寝返るかどうか決めればいい”
“で、ですが……”
“いいから。さ、行くぞ”
アスベエルは、懐からハンカチを取り出して額をふき、同時に金の腕輪を落とす。
床に転がった拍子に、輪に通されたベルがかすかな音を立てたが、彼は気づかぬふりで、歩き続けた。
セリンはそれを拾い上げ、しばし、食い入るように凝視していた。
それから、意を決したように顔を上げる。
「アスべエル様、何か落とされましたよ」
「え?」
彼は振り向く。
「これです」
セリンは駆け寄り、腕輪を差し出す。
アスベエルは、首を横に振った。
「あ、それ、俺んじゃない、さっき拾ったんだ。
そうだ、お前にやるよ。エレアにあげたら、喜ぶんじゃないかな?」
「はあ……ですが、落とし主を探さなくてよろしいので……?」
「そんなの、魔法で、すぐまた創れるだろ。
じゃ、また」
素っ気なく言い、アスベエルは手を上げて見せて、再び歩き出す。
「はい、では、頂いて行きます」
セリンも
“それ、腕輪は飾りさ。ついてるベルが、体内で虫を殺して本物そっくりに化ける、ダミーなんだよ。
一つはエレアに飲ませて、もう一個は、お前が持ってればいい、敵味方の識別信号が出てるから”
“ダミー、ですか……識別信号……?”
腕輪を見つめるセリンの眼差しは、まだ懐疑的に揺らいでいた。
“魔族と、それを入れてるヤツだけ分かる信号なんだ。便利だろ?
俺ん中にも入ってるんだぜ”
“あ、あなたの体内に……!?”
セリンは眼を見開く。
“シンハがさ、虫を入れろってミカエル様が言い張りそうだから、前もって飲んでた方がいいって言うから”
“そ、それで、大丈夫でしたか?”
“飲んだ直後は平気だったな。
虫を埋められた後で、胸がすごく痛くなったけど、ダミーが虫を殺してるせいだったんだろ、半日でもう、この通りさ”
“それはようございました”
天使は、胸をなで下ろした。
“うん。……で、あの虫って、神族以外の体ん内じゃ、うまく
エレアの体内でも、卵のままか、もし
だから、ダミーでも十分殺せるはずだって、シンハが言ってた。
あ、もし、成虫になってても、心配いらないぜ。
ラジエル様の複製の虫は、別のやり方で退治したんだ”
“……分かりました。
わたしは魔族に付きます、エレアを助けて頂けるなら。
アスべエル様、これから、どうぞよしなに”
セリンは、拝むように手を合わせてから、腕輪を布に包み、大事そうに懐へしまい込んだ。
そして、一呼吸置き、尾行を再開した。
“うん、こちらこそよろしく。
でもな、セリン。俺だってホントは、裏切りたくはないんだ。
けど、ミカエル様は、もう疑わないって言ったのに、俺達の部屋を監視してるし、お前にまで見張らせて……。
俺はいいけど、サリエルや複製達が、酷いことされたらって……二人は、体も弱いし、無事に大人になれるかどうかも怪しいのに……。
いつ襲われるか、ハラハラしながら暮らさなきゃいけないなんて……”
“……分かりますよ、わたしもです”
“それじゃ、また後で連絡するから、力を貸してくれ。
どーんと大きな手柄を立てれば、気兼ねせず魔界に来れるだろって、シンハが言ってたぞ”
“……なるほど、そうですね”
話している間に、目的の部屋に着き、彼はドアをノックした。
「お早うございます、ラジエル様、アスベエルです」
「お早う。まずは、体にさほど負担のない魔法から始めるとしよう」
扉を開けたラジエルは、にこやかに彼を迎えた。
「はい、よろしくお願いします」
彼は頭を下げ、入室した。
「よし、今日はここまでにするとしよう、無理は禁物だ」
昼近くになって、ラジエルは言った。
「はい」
「ところで、折り入って話がある。
ミカエル様が、お前を狙っているようなのだが」
「……そのようですね、サリエルから聞いたことあります」
彼は顔をしかめた。
「左様か。されど、ハニエルが姿を消してより、さらに言動が過激になって来ておるようでな。
特に、夜は危険性が高まるようだ、このままでは、いつか、寝込みを襲われるやも知れぬ。
そこで、提案なのだが。
ラグエルと話し、ラファエルやメタトロンも賛成してくれた……夜は順番に、わたし達四人の部屋に来てはどうかな」
「え……?」
アスベエルはきょとんとした。
「もちろん、
わたし達相手なら、気心も知れているだろう?
ミカエル様よりも、遥かに優しく扱うと誓うぞ」
「ええ!? な、何を仰って……!?」
混乱するアスベエルの手を、ラジエルはつかみ、引き寄せた。
「お前、淫魔の王にまで口説かれたそうではないか」
「あ、いえ、俺は何も、……」
「無論、何もなかったことは知っている。
だが、改めて見るとお前は美しい、ハニエルと比べても
童子の頃は、やんちゃで、真っ黒に日焼けして、何も感じなかったが」
「は、離して下さい……!」
ラジエルに顔を覗き込まれ、アスベエルはもがく。
ちょうじょう【重畳】
2 この上もなく満足なこと。大変喜ばしいこと。感動詞的にも用いる。頂上。
愁眉(しゅうび)を開(ひら)く
心配がなくなって、ほっとした顔つきになる。
あんそく‐にち【安息日】sabbath (英語)
① ユダヤ教での聖日。神が天地を創造し終えて第七日めに休息したという「旧約聖書‐創世記」の記述に基づいて、一週の第七日に与えた名称。金曜日の日没から土曜日の日没まで。仕事を休み、宗教的儀式を行なう。あんそくび。
② キリスト教徒が聖日として、仕事を休み、儀式を行なう日。キリストが復活した日曜と、その他定められた日。〔和英語林集成(初版)(1867)〕