~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

18.天界の堕天使(1)

天界の時間で三日が過ぎた。
魔界を出て、汎神殿へと戻ったアスべエル達は、すぐに天帝の執務室へ出頭した。
「天帝様、ただ今戻りましてございます」
代表してラジエルが言い、十二人の天使達は、一斉に(ぬか)づく。

「……ふむ」
天帝は、椅子に腰かけたままで表情も変えず、ねぎらう素振りさえ見せなかった。
「貴様らにしては粘った方だな。
即刻、たたき出されるものと思っていたが」
その脇に、仁王立ちしていたミカエルの口調も、そっけなかった。

「は。タナトスは、天帝様のご信書を受け取り、我らを使節として遇しましたが、和平はならず……」
「笑止」
ラジエルの言葉を、ミカエルは荒っぽくさえぎった。
彼奴(きゃつ)らを迎え撃つ準備は整った、下らぬ報告など必要ない。
ラジエル、いや、ホムンクルス、貴様は培養槽に戻れ、残りも各自、持ち場へ……」

「えっ、ホムンクルス? ラジエル様が?」
そのことはもうとっくに知っていたのだが、まるで初めて聞いたかのように、アスベエルは眼を丸くして見せた。
「ふん、気づかなかったか、間抜けめが。
嘘で固めた使節団に、本物など使えぬわ」
ミカエルは、平然と言い捨てた。

「なるほど、それであのとき、天帝様は、ルピーダ室長に目配せしておいでだったのですね……」
アスベエルのつぶやきを耳にした天帝の表情が、初めて動いた。
「ほう、気づいておったか、アスベエル。目端(めはし)が利くのぉ」
「それでは……わたしを、七大天使に昇格させて頂くお約束は……」
彼はおずおずと訊いた。

天帝は顔をしかめた。
「そうじゃったな……されど、そちはもはや、左様な必要を感じぬやも知れぬぞ」
「えっ、それは、どういう意味でしょうか?」
彼の問いかけに、渋い顔で答えたのはミカエルだった。
「フレイア様が、夢魔の術中にはまってしまわれたのだ。
いまだ、お目覚めになっておられぬ」

「えええっ!?」
アスベエルは、今度こそ、のけぞらんばかりに驚いた。
「そ、そんな……、せ、せっかく、わたしが……」
「せっかく、何だ? 魔物共との闇取引が、白紙になったとでも申すか!」
頭を抱えたアスベエルは、ミカエルにどやしつけられて、冷水を浴びせられたように我に返った。

「な、何を仰ってるんですか……?
わたしは、ただ……女神様に再びお会いすることだけを、心の支えに、せっかく頑張って来ましたのに……と、そう言いたかっただけですよ……」
ともかくも、彼は抗弁した。

「左様、彼は潔白でございますとも」
ラジエルの複製も、彼に加勢した。
「嘘をつけ! こやつは淫魔に身を売り、自己保身を図ったに決まっておるわ、汚らわしい!」
自分のことは棚に上げ、ミカエルは、憎々しげに言い放った。

「いいえ、わたしの記憶をご覧になれば、すぐにも疑念は晴れましょう!」
複製が叫んだそのとき。
「あいやしばらく、ホムンクルスの件は、わたしにお任せ願いたい!」
間に割って入ったのは、執務室に駆け込んで来た、本物のラジエルだった。

「何だ、貴様! 案内も請わず!」
怒鳴るミカエルには構わず、ラジエルは天帝の前に進み出、うやうやし礼をした。
「無礼をお許し下さいませ、天帝様、声が聞こえましたゆえ、矢も盾もたまらず……。
曲解(きょっかい)を避けるためにも、わたし自身が、複製の記憶を読み取ることをお許し願いたく……」

「何を馬鹿な!」
「よし、そちに任せる」
天帝もまたミカエルを無視し、許可を与えた。
「有難き幸せ」
ラジエルは、再び頭を下げた。

「ですが、天帝様!」
ミカエルが食い下がると、天帝は眉をしかめた。
「疑り深いのぉ、そちは。少しは、味方を信ずることも覚えよ」
「いえ、疑惑を晴らす確実な方法は、ただ一つのみにてございます!
こやつに、虫を植えつければよい!」
ミカエルは、アスベエルに指を突きつけた。

「何じゃと!?」
天帝は眼を剥いた。
「何と理不尽な……!」
「本物に虫ですと……!?」
ラジエルと彼のホムンクルスも、開いた口がふさがらないといった顔つきだった。

しかし、アスベエルはきっぱりと答えた。
「分かりました。それで、わたしの潔白が証明出来るのでしたら。
ただし、ミカエル様、以降、わたしやサリエル達に、不要な嫌疑をかけるのはおやめ頂きます」

「ふん、虫を入れて生き延びたなら、その願い、叶えてやるわ」
ミカエルは尊大に答えた。
虫を埋め込む痛みに失神するのはまだましな方で、最悪、耐え切れず死んでしまう者も、ホムンクルスの中には出ていたのだ。

「では、天帝様、まずは、わたしを七大天使に任命して頂きたく……。
その後、虫を入れるということで、いかがでしょうか」
アスベエルは、君主に(うかが)いを立てた。
「相分かった」
天帝はうなずくと、魔法で羊皮紙を出し、自動書記でペンを走らせた。
「アスベエル、そちを七大天使の一員に任ずる」

彼はひざまずき、任命書をうやうやしく押し頂いた。
「有難き幸せ。
このアスベエル、(つつし)んでお受け致し、粉骨砕身(ふんこつさいしん)、天帝様のおん為に働くことをお誓い申し上げます」

「よし、これで文句はなかろう、覚悟はよいか、アスベエル」
ずいと、ミカエルは進み出た。
「はい」
ひざまずいたままアスベエルが開いたローブの胸元に、ミカエルは手を当て、呪文を唱える。
「──ベスティオーラ!」
その刹那、すさまじい痛みが彼の全身を貫いた。

「う、うわあああっ!」
彼は絶叫し、あまりの痛さに床を転がり回った。
天帝は表情も変えず、ラジエル達は痛ましげに眉根を寄せて、その様子を見ていた。
(くっそー、せっかく帰って来たんだ、死んでたまるか!)
アスベエルは歯を食いしばり、激烈な苦痛に耐え続けた。

「う、っく、……」
数分後、ようやく痛みがどうにか耐えられる程度になり、よろめきながら立ち上がろうとする彼を、二人のラジエルが左右からさっと支えた。
「大丈夫か」
「しっかり致せ」
「す、済み、ません、ラジエル、様……」

「ち、命冥加(いのちみょうが)なヤツめ」
ミカエルは舌打ちした。
「よくやった、アスベエル。虫が落ち着くまで数日はかかろう、その間、ゆるりと休むがよいぞ」
帰還後初めて、天帝は、ねぎらいの言葉を発した。
「ラジエル、部屋まで運んでやれ」
「は」

ラジエル達は、歩けない彼を魔法で運び、ベッドに寝かせてくれた。
話を聞いたサリエル達は、我が事のように憤慨(ふんがい)した。
「ひどい、ど、どうして虫なんか……!」
「ホムンクルスじゃないのに……!」

「ともかく、落ち着くまで数日休んでよいと、天帝様は仰った。
魔界より無事生還し、七大天使の位にも()けたことでもある、良しとせねばなるまい」
ラジエルは二人をなだめた。
「そんな……」

「いいさ、サリエル。ミカエル様も、もう俺達を疑わないって、約束してくれたしな」
取りすがる義弟達の肩に、アスベエルが手を置いたそのとき、不意に頭の中で声が響いた。
“アスベエル、ここは監視下にある、会話には留意するのだぞ、ミカエル様に言質(げんち)を取られぬようにな”

はっと視線を上げると、本物のラジエルと眼が合った。
“虫の件は、わたしも腹に据えかねているのだ。
何かあれば申し出るがよい、力になるぞ”
“は、はい、ありがとうございます……”

「ラファエルも、番が終われば戻って来よう、詳細はわたしから話しておくゆえ。よく体をいとえよ。
ではな」
ラジエル達は去って行った。

「アスベエル、大丈夫?」
「痛い……?」
「いや、もう平気だよ」
心配そうな義弟達に笑みを向けたアスベエルは、すぐに真顔になった。
「それよか、本当なのか、フレイア様が眠ったままって」
「あ、うん……」
サリエルは顔を曇らせた。

「でも、父上が、そんなことするなんて、信じられなくて……」
「だから、ホムンクルスに、フレイア様の記憶を入れてみたらどうでしょう、って、お話したの」
「でも、複製を創るのに、あと七日くらいかかるから、まだフレイア様は……」
サリエル達は、代わる代わる、いきさつを話した。
「……そうだったのか」

「あ、疲れてるでしょ、アスベエル。寝た方がいいよ」
「僕ら、自分の部屋に戻るから」
「いや、行かなくていい、そばにいてくれよ」
「そう」
「分かった」

アスベエルは、疲れた振りを装って眼をつむり、念話に切り替えた。
“二人共、黙って聞いてくれ、ここは監視されてるって、ラジエル様が言ってたぞ”
すると、サリエルが、驚く様子もなく答えた。
“うん、知ってる、ラファエル様が教えてくれたよ。
やっぱりミカエルが、どうしてもって言い張ったみたい”

“……そうか”
“うん。だから、僕ら、アスベエルが無事に帰って来ますようにって、毎日、お祈りだけしてたよ。
それより、ホントに平気?”
“せっかく帰って来れたのに、ひどいことするよね、ミカエルのヤツ……!”
“そうだな。まだ少し痛いけど、大丈夫だ。
実は……”
アスベエルは、二人に、魔界での出来事を話した。

“……それで、タナトス様に金の虫を見せられたとき、俺、びっくりして頭が真っ白になったんだけど、魔法医のエッカルトって人が言ったんだ。
心配いらない、これはダミーだ、虫の代わりに入れる偽物だ、って”
“え、ダミー?”
“虫の代わりに入れる!?”
サリエル達は、揃って眼を真ん丸くした。

“ああ。目を白黒させてたら、シンハ様が説明してくれたよ。
疑り深いミカエルが、お前にも虫を入れろと言い出すかも知れないから、ラジエルだけじゃなく、お前もあらかじめ入れておけばいい、卵や幼虫なら殺せる仕掛けがある、って。
さらに、魔族と、体中に入れた者だけが感知出来る、敵味方を識別する信号も、ダミーは出してるってさ”

“えっ、じゃあ……?”
“うん、多分、今のこれ、ダミーが虫を殺してくれてる痛みだと思う”
“そっか、よかったね”
“あ、そうだ、お前達にも渡しとかなきゃな”
アスベエルは、外から分からないように布団の中で手を動かし、懐の守り袋から、二つの小さな物を取り出した。

「悪いけど、お前達、手を握っててくれないか、その方がよく寝れそうだ」
「うん」
「いいよ」
二人が布団の中に手を差し入れると、アスベエルは、その一つを、まずはホムンクルスに渡した。

“リナーシタ、これはお前用のダミーだ、ただ飲むだけで、虫とすり替わってくれる。
卵なら、殺すときもそんなに痛みはないはずだって、エッカルトが言ってたよ”
“ありがと、アスベエル。
僕、ホントは、虫が(かえ)ったらどうしようって、ちょっとハラハラしてたんだ”
リナーシタは、にこりとした。

“サリエルにはこれ。お守り袋に入れとけばいい、これも信号を出してる。
見た目は、ただのベルだけど、体内に入るとダミーに変化するんだって。
だから、虫を入れられるようなことになったら、飲めばいいよ。
……魔族って、すごい頭いいよな”
“うん、ホントだね”
サリエルは神妙な面持ちで、小指の爪ほどのベルを受け取った。

“それと、お前達の髪は、サマエル様の叔母……イシュタル様が、サマエル様のお墓に供えて下さるって。
タナトス様は、一刻も早く戦に勝って、お前達が魔界に来れるようにしてやるって仰ってたぞ。
お前達に会えるのを、皆、楽しみにしてるってさ”
“そう、よかった”
“僕らも楽しみだよ、ね”
サリエル達は、顔を見合わせて微笑んだ。

彼らは、自分達の寿命が短いと知っている。
戦が長引けば、たとえ魔族が勝っても、生きているうちに魔界へ行くのは無理かも知れない。
だから、せめて、髪を自分達の代わりに持って行ってくれと彼に頼んだのだ。
地面にでも撒いてくれれば、父親の故郷に同化出来る気がすると……。
その話を聞いたイシュタルは、眼をうるませ、髪を受け取ってくれたのだった。

(よし、後は、早く元気にならなきゃ。
サマエル様と、それから……に会わなくちゃ……)
ほっとしたアスベエルは、思いの外疲れていたのだろう、知らぬ間に眠りに落ちていた。

ふんこつ-さいしん【粉骨砕身】

力の限り努力すること。また、骨身を惜しまず一生懸命に働くこと。骨を粉にし、身を砕くほど努力する意から。
▽「砕身粉骨さいしんふんこつ」ともいう。

きょっかい【曲解】

物事や相手の言動などを素直に受け取らないで、ねじまげて解釈すること。また、その解釈。

いのちみょうが【命冥加】

神や仏の守りによって命拾いすること。思いがけない幸運で災難を免れること。命冥利。

げんち【言質】

《「ち」は人質や抵当の意》 のちの証拠となる言葉。ことばじち。

いとう【厭う】

2 かばう。大事にする。いたわる。現代では多く健康についていう。
 例「おからだをおいといください」