18.天界の堕天使(1)
天界の時間で三日が過ぎた。
魔界を出て、汎神殿へと戻ったアスべエル達は、すぐに天帝の執務室へ出頭した。
「天帝様、ただ今戻りましてございます」
代表してラジエルが言い、十二人の天使達は、一斉に
「……ふむ」
天帝は、椅子に腰かけたままで表情も変えず、ねぎらう素振りさえ見せなかった。
「貴様らにしては粘った方だな。
即刻、たたき出されるものと思っていたが」
その脇に、仁王立ちしていたミカエルの口調も、そっけなかった。
「は。タナトスは、天帝様のご信書を受け取り、我らを使節として遇しましたが、和平はならず……」
「笑止」
ラジエルの言葉を、ミカエルは荒っぽくさえぎった。
「
ラジエル、いや、ホムンクルス、貴様は培養槽に戻れ、残りも各自、持ち場へ……」
「えっ、ホムンクルス? ラジエル様が?」
そのことはもうとっくに知っていたのだが、まるで初めて聞いたかのように、アスベエルは眼を丸くして見せた。
「ふん、気づかなかったか、間抜けめが。
嘘で固めた使節団に、本物など使えぬわ」
ミカエルは、平然と言い捨てた。
「なるほど、それであのとき、天帝様は、ルピーダ室長に目配せしておいでだったのですね……」
アスベエルのつぶやきを耳にした天帝の表情が、初めて動いた。
「ほう、気づいておったか、アスベエル。
「それでは……わたしを、七大天使に昇格させて頂くお約束は……」
彼はおずおずと訊いた。
天帝は顔をしかめた。
「そうじゃったな……されど、そちはもはや、左様な必要を感じぬやも知れぬぞ」
「えっ、それは、どういう意味でしょうか?」
彼の問いかけに、渋い顔で答えたのはミカエルだった。
「フレイア様が、夢魔の術中にはまってしまわれたのだ。
いまだ、お目覚めになっておられぬ」
「えええっ!?」
アスベエルは、今度こそ、のけぞらんばかりに驚いた。
「そ、そんな……、せ、せっかく、わたしが……」
「せっかく、何だ? 魔物共との闇取引が、白紙になったとでも申すか!」
頭を抱えたアスベエルは、ミカエルにどやしつけられて、冷水を浴びせられたように我に返った。
「な、何を仰ってるんですか……?
わたしは、ただ……女神様に再びお会いすることだけを、心の支えに、せっかく頑張って来ましたのに……と、そう言いたかっただけですよ……」
ともかくも、彼は抗弁した。
「左様、彼は潔白でございますとも」
ラジエルの複製も、彼に加勢した。
「嘘をつけ! こやつは淫魔に身を売り、自己保身を図ったに決まっておるわ、汚らわしい!」
自分のことは棚に上げ、ミカエルは、憎々しげに言い放った。
「いいえ、わたしの記憶をご覧になれば、すぐにも疑念は晴れましょう!」
複製が叫んだそのとき。
「あいやしばらく、ホムンクルスの件は、わたしにお任せ願いたい!」
間に割って入ったのは、執務室に駆け込んで来た、本物のラジエルだった。
「何だ、貴様! 案内も請わず!」
怒鳴るミカエルには構わず、ラジエルは天帝の前に進み出、うやうやし礼をした。
「無礼をお許し下さいませ、天帝様、声が聞こえましたゆえ、矢も盾もたまらず……。
「何を馬鹿な!」
「よし、そちに任せる」
天帝もまたミカエルを無視し、許可を与えた。
「有難き幸せ」
ラジエルは、再び頭を下げた。
「ですが、天帝様!」
ミカエルが食い下がると、天帝は眉をしかめた。
「疑り深いのぉ、そちは。少しは、味方を信ずることも覚えよ」
「いえ、疑惑を晴らす確実な方法は、ただ一つのみにてございます!
こやつに、虫を植えつければよい!」
ミカエルは、アスベエルに指を突きつけた。
「何じゃと!?」
天帝は眼を剥いた。
「何と理不尽な……!」
「本物に虫ですと……!?」
ラジエルと彼のホムンクルスも、開いた口がふさがらないといった顔つきだった。
しかし、アスベエルはきっぱりと答えた。
「分かりました。それで、わたしの潔白が証明出来るのでしたら。
ただし、ミカエル様、以降、わたしやサリエル達に、不要な嫌疑をかけるのはおやめ頂きます」
「ふん、虫を入れて生き延びたなら、その願い、叶えてやるわ」
ミカエルは尊大に答えた。
虫を埋め込む痛みに失神するのはまだましな方で、最悪、耐え切れず死んでしまう者も、ホムンクルスの中には出ていたのだ。
「では、天帝様、まずは、わたしを七大天使に任命して頂きたく……。
その後、虫を入れるということで、いかがでしょうか」
アスベエルは、君主に
「相分かった」
天帝はうなずくと、魔法で羊皮紙を出し、自動書記でペンを走らせた。
「アスベエル、そちを七大天使の一員に任ずる」
彼はひざまずき、任命書をうやうやしく押し頂いた。
「有難き幸せ。
このアスベエル、
「よし、これで文句はなかろう、覚悟はよいか、アスベエル」
ずいと、ミカエルは進み出た。
「はい」
ひざまずいたままアスベエルが開いたローブの胸元に、ミカエルは手を当て、呪文を唱える。
「──ベスティオーラ!」
その刹那、すさまじい痛みが彼の全身を貫いた。
「う、うわあああっ!」
彼は絶叫し、あまりの痛さに床を転がり回った。
天帝は表情も変えず、ラジエル達は痛ましげに眉根を寄せて、その様子を見ていた。
(くっそー、せっかく帰って来たんだ、死んでたまるか!)
アスベエルは歯を食いしばり、激烈な苦痛に耐え続けた。
「う、っく、……」
数分後、ようやく痛みがどうにか耐えられる程度になり、よろめきながら立ち上がろうとする彼を、二人のラジエルが左右からさっと支えた。
「大丈夫か」
「しっかり致せ」
「す、済み、ません、ラジエル、様……」
「ち、
ミカエルは舌打ちした。
「よくやった、アスベエル。虫が落ち着くまで数日はかかろう、その間、ゆるりと休むがよいぞ」
帰還後初めて、天帝は、ねぎらいの言葉を発した。
「ラジエル、部屋まで運んでやれ」
「は」
ラジエル達は、歩けない彼を魔法で運び、ベッドに寝かせてくれた。
話を聞いたサリエル達は、我が事のように
「ひどい、ど、どうして虫なんか……!」
「ホムンクルスじゃないのに……!」
「ともかく、落ち着くまで数日休んでよいと、天帝様は仰った。
魔界より無事生還し、七大天使の位にも
ラジエルは二人をなだめた。
「そんな……」
「いいさ、サリエル。ミカエル様も、もう俺達を疑わないって、約束してくれたしな」
取りすがる義弟達の肩に、アスベエルが手を置いたそのとき、不意に頭の中で声が響いた。
“アスベエル、ここは監視下にある、会話には留意するのだぞ、ミカエル様に
はっと視線を上げると、本物のラジエルと眼が合った。
“虫の件は、わたしも腹に据えかねているのだ。
何かあれば申し出るがよい、力になるぞ”
“は、はい、ありがとうございます……”
「ラファエルも、番が終われば戻って来よう、詳細はわたしから話しておくゆえ。よく体をいとえよ。
ではな」
ラジエル達は去って行った。
「アスベエル、大丈夫?」
「痛い……?」
「いや、もう平気だよ」
心配そうな義弟達に笑みを向けたアスベエルは、すぐに真顔になった。
「それよか、本当なのか、フレイア様が眠ったままって」
「あ、うん……」
サリエルは顔を曇らせた。
「でも、父上が、そんなことするなんて、信じられなくて……」
「だから、ホムンクルスに、フレイア様の記憶を入れてみたらどうでしょう、って、お話したの」
「でも、複製を創るのに、あと七日くらいかかるから、まだフレイア様は……」
サリエル達は、代わる代わる、いきさつを話した。
「……そうだったのか」
「あ、疲れてるでしょ、アスベエル。寝た方がいいよ」
「僕ら、自分の部屋に戻るから」
「いや、行かなくていい、そばにいてくれよ」
「そう」
「分かった」
アスベエルは、疲れた振りを装って眼をつむり、念話に切り替えた。
“二人共、黙って聞いてくれ、ここは監視されてるって、ラジエル様が言ってたぞ”
すると、サリエルが、驚く様子もなく答えた。
“うん、知ってる、ラファエル様が教えてくれたよ。
やっぱりミカエルが、どうしてもって言い張ったみたい”
“……そうか”
“うん。だから、僕ら、アスベエルが無事に帰って来ますようにって、毎日、お祈りだけしてたよ。
それより、ホントに平気?”
“せっかく帰って来れたのに、ひどいことするよね、ミカエルのヤツ……!”
“そうだな。まだ少し痛いけど、大丈夫だ。
実は……”
アスベエルは、二人に、魔界での出来事を話した。
“……それで、タナトス様に金の虫を見せられたとき、俺、びっくりして頭が真っ白になったんだけど、魔法医のエッカルトって人が言ったんだ。
心配いらない、これはダミーだ、虫の代わりに入れる偽物だ、って”
“え、ダミー?”
“虫の代わりに入れる!?”
サリエル達は、揃って眼を真ん丸くした。
“ああ。目を白黒させてたら、シンハ様が説明してくれたよ。
疑り深いミカエルが、お前にも虫を入れろと言い出すかも知れないから、ラジエルだけじゃなく、お前もあらかじめ入れておけばいい、卵や幼虫なら殺せる仕掛けがある、って。
さらに、魔族と、体中に入れた者だけが感知出来る、敵味方を識別する信号も、ダミーは出してるってさ”
“えっ、じゃあ……?”
“うん、多分、今のこれ、ダミーが虫を殺してくれてる痛みだと思う”
“そっか、よかったね”
“あ、そうだ、お前達にも渡しとかなきゃな”
アスベエルは、外から分からないように布団の中で手を動かし、懐の守り袋から、二つの小さな物を取り出した。
「悪いけど、お前達、手を握っててくれないか、その方がよく寝れそうだ」
「うん」
「いいよ」
二人が布団の中に手を差し入れると、アスベエルは、その一つを、まずはホムンクルスに渡した。
“リナーシタ、これはお前用のダミーだ、ただ飲むだけで、虫とすり替わってくれる。
卵なら、殺すときもそんなに痛みはないはずだって、エッカルトが言ってたよ”
“ありがと、アスベエル。
僕、ホントは、虫が
リナーシタは、にこりとした。
“サリエルにはこれ。お守り袋に入れとけばいい、これも信号を出してる。
見た目は、ただのベルだけど、体内に入るとダミーに変化するんだって。
だから、虫を入れられるようなことになったら、飲めばいいよ。
……魔族って、すごい頭いいよな”
“うん、ホントだね”
サリエルは神妙な面持ちで、小指の爪ほどのベルを受け取った。
“それと、お前達の髪は、サマエル様の叔母……イシュタル様が、サマエル様のお墓に供えて下さるって。
タナトス様は、一刻も早く戦に勝って、お前達が魔界に来れるようにしてやるって仰ってたぞ。
お前達に会えるのを、皆、楽しみにしてるってさ”
“そう、よかった”
“僕らも楽しみだよ、ね”
サリエル達は、顔を見合わせて微笑んだ。
彼らは、自分達の寿命が短いと知っている。
戦が長引けば、たとえ魔族が勝っても、生きているうちに魔界へ行くのは無理かも知れない。
だから、せめて、髪を自分達の代わりに持って行ってくれと彼に頼んだのだ。
地面にでも撒いてくれれば、父親の故郷に同化出来る気がすると……。
その話を聞いたイシュタルは、眼をうるませ、髪を受け取ってくれたのだった。
(よし、後は、早く元気にならなきゃ。
サマエル様と、それから……に会わなくちゃ……)
ほっとしたアスベエルは、思いの外疲れていたのだろう、知らぬ間に眠りに落ちていた。
ふんこつ-さいしん【粉骨砕身】
力の限り努力すること。また、骨身を惜しまず一生懸命に働くこと。骨を粉にし、身を砕くほど努力する意から。
▽「砕身粉骨さいしんふんこつ」ともいう。
きょっかい【曲解】
物事や相手の言動などを素直に受け取らないで、ねじまげて解釈すること。また、その解釈。
いのちみょうが【命冥加】
神や仏の守りによって命拾いすること。思いがけない幸運で災難を免れること。命冥利。
げんち【言質】
《「ち」は人質や抵当の意》 のちの証拠となる言葉。ことばじち。
いとう【厭う】
2 かばう。大事にする。いたわる。現代では多く健康についていう。
例「おからだをおいといください」