17.偽りの使者(5)
血まみれの首が地面に転がって、恨めしそうに自分を見上げていた。
(サマエル様……違う、サリエルだ!?)
「裏切り者! 皆、お前のせいよ!」
首のない義弟の体を抱き、涙にくれる少女が、彼を見て叫ぶ。
(ち、違う、フレイア、俺は、……!)
必死に言い返そうとするが、声は出ない。
もがいたとき、リーンという音が響き渡り、アスベエルは飛び起きた。
「ゆ、夢か、よかった……!」
ほっとして、汗で濡れた額をぬぐう。
シルクのバスローブが肌に張りつき、心臓はまだばくばくしている。
そこは、昨夜案内された、元は小姓用だという部屋だった。
『どうした?』
そのとき、紫色の蛇が枕元に現れた。
『ベルが聞こえたから来たのだが……何かの弾みで落ちたか』
蛇は、床に転がった卓上ベルに尾を巻きつけ、サイドテーブルに戻した。
それは、用事があったら鳴らすようにと、シンハが置いて行ったものだった。
「俺は弱虫だ……今頃、裏切りが怖くなって……だから、あんな夢を……。
酷い目に遭ってばかりで……未練なんてないはず、だったのに……」
アスベエルは、拳を握り締めた。
『それでも、お前にとって天界は故郷、見知った人々を裏切るとなれば、動揺するのも当然だ。
それに、悪いことばかりでもなかったのだろう?』
静かなその声には覚えがあった、その紅い眼も、また。
「……サマエル様とそっくりだ? お前、彼の使い魔なのか?」
蛇は首を横に振った。
『いや、我は彼の髪から創られ、声や口調が似ていると言われるが、使い魔だったことはない』
「ふうん」
覗き込むと、蛇は眼をぱちぱちさせた。
天使は首をかしげた。
「あれ? 蛇の
たしか透明だったような……」
『我を創ったタナトス王は、蛇のことなど、よく知らなかったのだろう。
……変か?』
悲しげに訊かれて、アスベエルは慌てて否定した。
「あ、い、いいんじゃないかな、まつげも長いし、
蛇は首をかしげた。
『可愛い……愛嬌がある、などと言われたのは、初めてだな』
「えっと、ほら、おもちゃとか、実物より可愛いくなってるじゃない、それとおんなじさ、本物の蛇は、ちょっと怖い感じがするし」
『……そうか。
だが、本体が死んでしまったのに、髪の一本である我が生き延びているのは、どうにも肩身が狭くてね……』
蛇は眼を伏せた。
「そ、そんなことないってば。
俺もさ、大天使ウリエルに言われたんだ。
両親の仲はいずれ露見し、処刑されただろう、だが、お前という忘れ形見をこの世に残すことが出来て、幸せだったに違いない、って……」
『……お前は愛の結晶だろうが、我は、気まぐれで創り出された魔法生物に過ぎない。
それに、我の存在は、否応なく本体を思い出させてしまう……。
サマエルの養母、イシュタル様は、心痛のあまり体調を崩されて、命の危険があったほどだ……なるべく顔を合わせないよう、気をつけているが……』
「そうなの? 昨日見たときは、ぴんぴんしてたけど」
『タナトス王が、つきっ切りで看病して、ようやくお元気になられたのだよ。
彼にとっても養母だからね』
「ふうん。魔界王様って、態度や口調は乱暴だけど、本当は優しい人でしょ。
使い魔の小人も殺さなかったし」
『ああ、愛情表現が下手なだけだと思う。
当人は、わざと悪ぶっているけれどね』
そのとき、回廊に面したドアがノックされた。
「シェミハザです。入ってもよろしいですか?」
『どうぞ』
蛇が答える。
「あ、待って……」
アスベエルが言ったときには、もうドアは開かれて、元熾天使が立っていた。
「久しぶりだね、アスベエル」
「シェミハザ……」
アスベエルの顔から血の気が引く。
シェミハザは、にこにこしながら歩み寄って来る。
「キミが使節の一員として来たと聞いた時は、驚いたよ。
ずっと、お礼を言いたいと思っていたから、うれしい驚きだったけれど」
「え……!?」
アスベエルは眼を丸くした。
「わたしが闇の塔に入れられたとき、キミはわたしをかばったばかりに、ミカエルに殴り倒されたろう?
その後、自室に監禁されたと聞いた。
心配したマトゥタ様が会いにいらした時には、キミはろくに食事ももらえず、死にかけていたそうだね……。
そのとき、わたしの酷い扱いにも女神様は気づいて下さって、それで……おや、どうした?」
ぽかんとしているアスベエルに、シェミハザは問いかけた。
「そ、そうだったのか……?
俺、看守長になった直後のことは、記憶があいまいで……」
アスベエルは、額に手を当てた。
「……無理もない、キミはまだ子供だったのに、ミカエルは容赦なかったからね」
気の毒そうに堕天使は言った。
「じゃあ……俺、キミのこと、見て見ぬ振りしたわけじゃないんだな……?」
念を押すように、アスベエルは尋ねた。
「もちろんだとも。
それどころか、救い出されるきっかけを作ってくれた、そのお礼が言いたかったのだよ、ありがとう!」
シェミハザは、彼の手をぎゅっと握った。
「……そう……」
肩の荷を降ろしたように、アスベエルは深く息を吐いた。
「堕天を決めたとき、キミも誘おうとしたのだが。
サリエル殿の義兄弟だからか、キミは常に見張られていてね、話も出来ずじまいで……」
済まなそうな堕天使に、アスベエルは首を振って見せた。
「気にしなくていいよ。
天界に残ったお陰で、サマエル様と知り合うことが出来て、フレイア様の命も保障してもらえることになったんだ、ありがたいくらいさ」
シェミハザは、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「それならいいが。
以前、わたしは死ぬことばかり考えていたが、生きていたからこそ、今の幸せもある。
キミも、うまくいくといいね」
アスベエルは眼を伏せた。
「……俺は、フレイア様が生きていてくれるなら、それで……」
「諦めないでいれば、きっと何とかなるよ。わたしがそうだったように」
シェミハザは、力強く請合った。
「……サマエル様も、そんなこと言ってた、かな……」
『我が本体の言葉なら、間違いないぞ』
すかさず、蛇が口を添える。
「その通りだね、エルピダ」
シェミハザは、蛇に微笑みかけた。
「エルピダ……意味は、たしか……希望、だっけ……」
『よく知っているな、希望を持て、アスベエル』
「サマエル様に言われてるみたいだ……頑張ってみようかな、俺も……」
アスベエルはつぶやいた。
「その意気だ」
堕天使が、彼の肩をぽんとたたく。
そのとき、不意に、エルピダが宙を見上げた。
『タナトス王からだ。
アスベエル、朝食が済んだら居間に来るように、と仰っている』
「では、わたしはこれで失礼しよう。会えてうれしかったよ、また後で」
「うん。俺の方こそ、心の重しが取れたみたいだよ」
二人は再び、握手を交わした。
堕天使と入れ違いに、女官が朝食を運んで来た。
汎魔殿の料理番が腕を振るったという、簡素だが美味な食事を手早く摂り、アスベエルは顔を洗って、純白のローブに着替えた。
無人の寝室を通り抜け、居間の扉をノックする。
「タナトス様、アスベエルです」
「入れ」
「失礼します……あ、皆様、お早うございます」
そこには、タナトスとイシュタル、シンハ、ラジエルだけでなく、見知らぬ
笑みを浮かべたイシュタルが、真っ先に口を開いた。
「お早う、アスベエル。ラジエルの虫は退治できたわよ」
「え!?」
「アスベエル、皆様方のお陰で、わたしは自由の身になれたのだよ……!」
ラジエルのホムンクルスは、感極まったように眼をうるませていた。
「そ、そうですか、よかったですね」
「ただ、問題が一つ、あるのよねぇ」
イシュタルは、困ったように首を振った。
「え、問題……?」
「わたしの記憶は処理されているらしく、特に、重要な戦略事項などは、読み取り出来なくされていてね……」
複製の天使は、悲しげに言った。
「というより、こいつの頭には、必要最低限の記憶しか入っていないと言った方が正確だな」
タナトスは、天使を指差す。
「……お役に立てず、残念至極でございます」
ラジエルは頭を下げた。
黄金のライオンが、のそりと進み出て来たのはその時だった。
『そこでだ、アスベエル、汝の記憶を読ませてはもらえまいか』
「お、俺の記憶……ですか?」
思わず、彼は自分の胸に手を当てる。
「駄目かしら? 心を読まれるなんて嫌よねぇ、やっぱり」
そう言ったイシュタルと、それからシンハに、アスベエルは視線を走らせた。
「いえ、あの、嫌とか、そんなんじゃなくて……。
俺の中には、サマエル様がミカエルに……そのぉ……酷い目に遭わされてる記憶とかもあったりするんで、……」
「ふん、ならば、俺が見てやる。
二人には、後で必要なことを話してやる、それでよかろう」
タナトスが言った。
「仰せのままに。今すぐですか?」
「いや、まだいい。貴様が寝てから、夢を通じて読む。
意識がない方が、抵抗が少ないからな」
「はい」
天使は
「ところで、どうやって虫を?」
「ふ、聞きたいか、こうやったのだ!」
言うなりタナトスは剣を抜き、アスベエルの胸に突きつけた。
「うわっ!?」
天使はのけぞり、その拍子に尻もちをついた。
すると、それまで黙っていた男が、口を開いた。
「タナトス様もお人が悪い。
アスベエル殿、本当は、これを使ったのですよ」
男が出して見せたのは、長い金の針に持ち手がついたような器具だった。
「アスベエル、大丈夫? 彼はエッカルト、魔法医ギルドの長よ。
もう、タナトスったら、おふざけも大概になさいな」
「あ、す、すみません」
助け起こされたアスベエルは、魔法医に頭を下げた。
「は、初めまして、どうぞよろしく……」
「こちらこそ、よろしくお頼み申し上げます、アスべエル殿。
ラジエル殿の胸に、中空になっておるこの針を刺してですな、柄に入った魔族の
「な、なるほど……」
「ですが、いきなりタナトス様に、胸を一突きされた時には、もう命はないものと覚悟致しましたよ」
ラジエルは苦笑した。
「本当にねぇ。
エッカルトに任せなさいと、散々言ったのだけれど」
イシュタルは眉をしかめた。
「ふん、成功したのだ、誰にも文句は言わせん。
それよりも、これで終わったと思ったら大間違いだぞ、貴様らには、これを埋め込んでやる」
タナトスが広げた
「……!?」
アスベエルは息を呑み、ラジエルのホムンクルスの顔は引きつった。