17.偽りの使者(4)
次の瞬間、アスベエルは、ぱちりと眼を開けた。
「気分はどうだ?」
声をかけられ、跳ね起きた彼は、自分の手を見、体にも触れた。
「お、俺、もう生き返った、のか……!?」
「いや、貴様は死んではおらん」
タナトスは剣を拾い上げ、鞘に収めてテーブルに戻した。
「何だ、失敗したのか……」
うなだれる天使のそばに、魔界王は、どっかと腰を降ろした。
「貴様の自決を阻止した、サマエルに感謝するのだな」
「え!?」
アスベエルは、眼を真ん丸くした。
「貴様の心に、ヤツは、メッセージを植え込んでいたのだ。
フレイアの命を助けてやると言えば、貴様が味方につくとな」
「……たしかに、そういう約束でしたけど、いつの間に?」
『左様なことより、アスベエルよ、汝はルキフェルの処刑に関わったのか?』
そのとき、シンハが話に割り込んで来た。
「え、ルキフェルって……?」
天使は小首をかしげた。
「サマエルの真の名だ」
タナトスが苛々と教える。
「そんな簡単に、大事な名前を教えちゃって、大丈夫なんですか?」
アスベエルは、少し心配そうに訊いた。
『真の名の寸分狂いなき発声は、神族には手に余る
さらには、
シンハが重々しく答えた。
「そうなんですか……あ、俺、処刑の日は、サリエルと部屋にいるよう命じられてました。
看守長といっても肩書きだけで、拷問とか処刑の執行役はミカエルでしたから……もちろん、サマエル様のときもです」
『左様か。されど、ルキフェルは、何の手立てもなく、
再度の問いに、アスベエルは否定の身振りをした。
「いえ、俺も含めた看守達は、何度も逃げて下さいって言ったんですけど、あの方は、俺達に迷惑がかかるし、考えがあると仰ってて……でも、そのまま処刑の日が来てしまって……」
『……ふむ。しからば、ルキフェルは昇天致してなどおるまい。
「あり得るな、ヤツなら。悪霊化して、最大級の呪いをばら撒いていることだろうさ」
タナトスが肩をすくめた。
アスベエルはうなずいた。
「その通りです。サマエル様の幽霊が出る、見た者は呪われるって、皆、震え上がってますよ」
『されど、いかに紅龍とて、霊魂のみでの行動には限界があろう、神族の
それゆえ、汝が
さすれば、戦に勝利し時、
「ふん、それはいいな。
貴様も、サマエルを身の内に飼っておれば、俺達が約束を
タナトスも口を添えた。
「……つまり、俺がサマエル様の憑代になれば、フレイア様のお命は保障して頂ける、っていうことですね?」
アスベエルは、念を押した。
『左様、“
ライオンは、重々しくうなずく。
「分かりました。
サマエル様の憑代となり、お手伝いするとお誓いします、フレイア様の身の安全と引き換えに」
天使は胸に手を当て、うやうやしく一礼した。
「よーし、契約成立だな。
では、貴様が知っている天界の戦略を、洗いざらい吐け」
タナトスは、待ちかねたように身を乗り出す。
「はい。では、まず、一番重要なことから言います。
天界の結界は十二あって、二つはあなた方が破壊しましたが、残りを突破しても、転移門に入ったら駄目です、危険な罠が……」
「ふん、危険は承知の上だ」
タナトスは、自信満々に話をさえぎる。
アスベエルは慌てて続けた。
「あ、いえ、それが、普通の罠じゃないんです。
転移門にあなた方が到達したら、天界は爆破されてしまうんですよ。
俺達は、その準備が出来るまで、最低三日は時間を稼ぐよう、命じられて来たんです」
「な、何ぃ、ウィリディスを爆破するだとぉ!?」
さすがにタナトスも眼を剥いた。
『それはゼデキアの算段か!?』
シンハも、叱責するように声を上げる。
「は、はい……」
「くそ、忌々しい……!」
魔界の王は拳を握り締め、歯噛みした。
『むう……されど、自爆とはゼデキアらしくもない。
左様に追い詰められておるのか、神族は』
気を落ち着けて、シンハは尋ねた。
「いえ、あの、自爆じゃなくてですね。
そのエネルギーを利用して、パンテオン宮を市街ごと、人界に転移するって話でした」
「ち、その手があったか」
タナトスは眉をしかめた。
『ふむ……何となれば、人界も無事では済むまいな』
シンハは沈痛な面持ちだった。
「え? でも、砂漠とか無人島とか、人のいないとこなら……」
『
ライオンは大きく頭を振った。
たてがみから火の粉が飛び、ぱちぱちと音を立て弾ける。
『莫大な質量を、
最悪、地軸が狂えば気候が激変致し、三つの大陸が没せしとき以上の厄災が、人界に降りかかるやも知れぬな』
「そ、そんな……」
アスベエルは青ざめた。
「くそめが、今度は、人界の生物を絶滅させて居座るつもりか、図々しい!
母上の故郷までも、あやつの好きにはさせん!」
魔界の王が拳を掌にたたきつけたそのとき、心に話しかけて来る者があった。
“タナトス、無事? 大丈夫?”
“何だ? 叔母上、つまみ食いは断ったはずだぞ”
そっけなく魔界王は言ったが、イシュタルの心の声は切迫していた。
“違うの、大変なことが分かったのよ、入れて、早く!”
“何が分かったのだ?”
問い返しながらも、タナトスは指を鳴らす。
扉が開くのももどかしく、イシュタルは居間を抜け、寝室に飛び込んで来た。
「タナトス、大変よ、お前が連れ込んだ天使はね……!」
「こいつがどうかしたのか?」
タナトスは天使を手で示した。
「驚かないでね、使節は皆、ホムンクルスなのよ、だから、その天使も……」
「え?」
指差されたアスベエルは、ぽかんとする。
『何と!?』
見開く瞳の中に宿る炎が激しく揺れ、獅子は天使を凝視したが、タナトスは動じた様子もなく断言した。
「いいや、このアスベエルは本物だ、さっき触れたときに確認した。
あの忌々しい虫は、こやつの中にはおらん」
「まあ、この子だけ本物……?」
イシュタルは、当惑したように首をかしげ、続けた。
「ともかくね、わたし、ラジエルを酔い潰して、心を覗いてみようとしたのよ。
でも、何も見えなくて。それで、体内を透視したら、あのおぞましい虫が……。
慌てて、他の天使も調べてみたら、やっぱり……」
口を押さえ、彼女は身震いした。
「ふん、くそゼデキアのやりそうなことだ。それで、連中はどうした?」
タナトスが尋ねた。
「術でさらに深く眠らせたけど、心配だから、兵士達に見張らせておいたわ」
「さすがに叔母上、手回しがいいな」
タナトスはにやりとした。
「あら、ありがと」
釣られたようにイシュタルも、青ざめた顔に、かすかな笑みを浮かべた。
「お、俺も前に、命令を聞かないと虫を入れるぞって脅されました……。
でも、ラジエル様までが……?
そ、そうか、あのとき、天帝とリピーダ所長が目配せしてたのは……きっと、準備が終わってたのが、彼の複製だけだったから……!
俺だけだなんて……、俺なんか死んでもいいって思われて……ああ、もうおしまいだ、複製が、俺をかばってくれるわけない……!」
ようやく事態を把握したアスベエルは、ショックのあまり頭を抱えた。
「貢物になったなんて知れたら、ミカエルに拷問されて、白状しなくても俺は殺される……だったら、タナトス様、今ここで俺を殺して下さい……!
ラジエルをたたき起こして俺の死体を投げつけ、『これが魔界の答だ』と、言ってやって下さい……!
その代わり、フレイア様の命を……!」
天使はベッドに突っ伏し、すすり泣いた。
ライオンは後ろ足で伸び上がり、あやすように、前足で天使の翼を揺すった。
『早まるでない、アスベエル。皆で考えれば、妙案が浮かぶやも知れぬ』
「その通りだ、貴様が死ねば、サマエルの遺言も無駄になるのだぞ」
タナトスも言葉を添える。
「サマエルの遺言ですって?」
イシュタルは眼を見開いた。
「ああ。叔母上にも見せておこう」
タナトスは、叔母の手を取った。
すべてを見たイシュタルは、ふうと息をついた。
「……よほど気に入ってたのね、この天使のこと。
いいわ、わたしには異存はないわよ。
でも、家臣達には黙っていた方がよさそうね」
「当然だ。あやつらの耳に入ったら、さらにうるさく騒ぎ立てるに決まっているからな」
肩をすくめたタナトスは、
「貴様、いつまでめそめそしている!
絶望している暇があったら、方策を考えろ!」
「は、はい、すみません……」
アスベエルは涙をぬぐい、顔を上げた。
「でも、本物のラジエルだったら、色仕掛けで味方に出来たでしょうに、残念ねぇ……」
イシュタルがため息混じりに言った。
「あの虫は、容易に取り出せんからな。
だからこそ、ゼデキアは使節をホムンクルスで固めたのだろう」
「え? 取り出せない?」
思わず声を上げたアスベエルを、タナトスはじろりと見た。
「貴様、本当に何も知らんのだな。
魔法で取り除こうとすると、心臓を食い破ってしまうのだ、それで、一人、死なせてしまったわ」
魔界王は険しい顔つきになった。
「え、でも……あ、聞いて下さい」
アスベエルは、義弟の複製から取り出した虫がサマエルの指に噛みつき、その後で溶けてしまった話をした。
サマエルが、虫は、魔族の血に耐性がないと言ったことも。
タナトスは腕組みをした。
「ヤツの血で溶けた、か……」
『魔族の体内では
魔界のライオンは考え込んだ。
「どうやら、方向性が見えて来たようね。
でも、もう日付が変わるわ、明日また、改めて策を練りましょう。
特にアスベエル、お前、疲れた顔をしてるわよ」
イシュタルは、優しく彼の頬に触れる。
「え、でも……」
「どうせ、
タナトスは、戸口に向けて手を振った。
『されど、貢物が、一晩も経たぬうちに寝所を出れば、怪しまれよう』
シンハが言い、イシュタルもうなずく、
「そうね、皆、興味津々で、まだ部屋の周りをうろうろしてるわよ」
「……ち。では、隣で寝かせろ、シンハ。俺は叔母上に用がある」
『心得た。アスベエル、こちらへ』
ライオンは、寝室の奥、二つ並んだドアに向かって歩き出す。
「あ、はい」
天使は脱がされたローブを床から拾い上げ、その後に続いた。
あいみたがい【相身互い】
《「相身互い身」の略》
同じ境遇にある者どうしが同情し、助け合うこと。また、その間柄。