17.偽りの使者(3)
覆いかぶさって来た体は熱く、アスベエルの
「こうして肌を合わせるとよく分かるな、貴様、サマエルとどういう関わりがあるのだ?」
「え?」
アスベエルは、驚いて眼を開ける。
「ふん、本当に食われるとでも思ったか?
おのれの色欲もまともに抑えられん、たわけミカエルごときと、俺を一緒にするな」
魔界王は起き上がり、きつい光を帯びた紅い眼で、彼を見下ろした。
「貴様には、わずかだが、カオスの闇の気配がある……最初から気になっていた。
先ほども、直接触れて確かめようとしたのだが、邪魔が入った。
それで献上品にでっち上げたのだ、ラジエルがいては、腹を割った話も出来まいしな」
「そ、そうだったんですか」
ほっとしてアスベエルも身を起こし、ラファエルの巻き添えでカオスの闇に囚われてしまい、サマエルに救い出された話をした。
話を聞いたタナトスは、うなずいた。
「……なるほどな。そういえば、貴様はサリエルと義兄弟だったか。
ならば、貴様もここに残り、堕天使となるがいい」
「い、いえ、実は、本物のサリエルは生きてるんです。
そんなことしたら、彼がミカエルに何をされるか……」
慌ててアスベエルは答えた。
「ああ、それは知っていた。
一度だけサマエルと連絡がついたとき、“焔の眸”が姿を見たと言っていたからな。
では、戻るのは仕方ないとして、天界の戦略や結界について、貴様が知っていることを話せ。
俺達が勝利したら、
タナトスは、彼の顔を覗き込んだ。
「いいえ、俺は、寝返ることはしません」
アスベエルは、今度はきっぱりと断った。
「何だと? 黙っていれば誰にも分からん、サリエルも無事だろうが」
「いえ、駄目です……。
俺は……どうしても、天界を裏切ることは出来ないんです……」
涙を呑んで、彼はそう答えた。
魔族が勝てば、フレイアは、天帝の
サマエルは生前、彼女の命を保障してくれたが、今その話をしても、信じてもらえるとは思えなかった。
「どうしてもだと!? ならば、貴様の記憶を読むぞ!」
タナトスの眼に、危険なものが宿った。
「それも無理です、カオスの力が邪魔をして……」
「ふん、神族には出来んだろうが、俺にはたやすいことだ。
カオスの力が荒れ狂う、サマエルの心に入ったこともあるのだからな」
「えっ!?」
「ごちゃごちゃ抜かさず、協力しろ!」
思わずひるむアスベエルに向かい、魔界王は角を振り立て叫んだ。
「い、嫌です!」
「貴様!」
つかみかかるタナトスを交わし、アスベエルは、ベッドを蹴って羽ばたく。
「逃げるな! ──イグニス!」
間髪容れず攻撃が加えられ、白い翼が燃え上がった。
「わあっ!」
彼は墜落するように床へ降り、呪文を唱えた。
「──アクア・ウィータ!」
水が炎を消し、翼の火傷も癒した。
広いベッドを挟み、大天使と魔族王とは睨み合う。
攻撃魔法をまったく習っていないアスベエルには、完全に不利な状況だった。
相手は魔界の王、どうせ太刀打ち出来はしまいが、逃げるための目くらましくらいにはなっただろうに。
焦って周囲を見回す天使を見下すように、魔界の王は腕組みをした。
「無駄だ、貴様ごときでは、この部屋の結界は破れん」
「う……」
後ずさった拍子に、サイドテーブルにぶつかり、剣がガチャリと音を立てる。
アスベエルは思わず剣を取り、鞘を抜き払っていた。
「貴様、震えているぞ、剣を振るったことなどないのだろう」
「ええ、ありません。
でも、これなら……」
天使は、力の入らない手で、刃を自分の方へと向けた。
「待て! 天使は、自殺を禁じられているのだろうが!」
タナトスは、苛立って叫ぶ。
「ここは天界じゃない。魔族がわざわざ、天使を生き返らせたりなんか、しないでしょう」
アスベエルは眼をつぶり、剣の切っ先を胸に当てた。
「どうかな。“焔の眸”は、一度だけなら、リスクなく蘇生が出来る。
そして、死人を“生ける死者”として復活させることも可能だ。
肉体が腐っていく激烈な痛みを止めるためには、かつての同胞を食らわねばならん、さもなくば全身が腐り果て、再び死に至るのだ」
タナトスは、どすの利いた声で言った。
大天使は、ふっと笑みを浮かべた。
「何がおかしい!?」
「つまり、同胞を食べなきゃ死ねるし、二度は生き返らない……そういうことなんですね?」
「待て!」
(さよなら、フレイア……っ)
制止も聞かず、アスベエルは、刃を自分の胸に突き立てた、ように見えた。
しかし、刺さる寸前、剣はぽとりと床に落ち、崩れるように天使も倒れた。
「何だ……?」
タナトスは素早く気配を探るが、室内に何ら異常はない。
「おい、どうした?」
抱き起こすと天使は眼を開けたが、その眼差しは
『タナトス……私だ、分かるか?』
そして、その口から発せられた、聞き覚えのある声は……。
「この声、まさか……」
『そう、私だよ、サマエルだ』
「く……貴様、死んだだろうが! こいつに取り憑いてでもいるのか!」
タナトスは、アスベエルを揺さぶった。
それには答えず、天使はサマエルの声で言った。
『……お前がこの声を聞いているとき、おそらく私は、死んでいるだろう。
これは、どこかでお前がアスベエルと遭遇し、仲間に引き入れようとして、失敗したとき再生されるように、彼の心に仕かけておいたものだ』
「……また、ややこしいことを……」
タナトスは、大きく息をついた。
『アスベエルは頭の回転が早く、信念もあり、簡単には寝返ったりしない。
だからこそ、天帝も彼を殺さず、看守の長とした……。
そして、遠くない将来、彼は認められ、引き立てられることになるだろう。
なぜなら、天界は今、人手不足だからだ。
シェミハザ達は造反、ガブリエルは捕虜、さらに、次期天使長と目されていたウリエルは……こともあろうに、ミカエルの手にかかって果てた……。
アスベエルを味方に出来れば、確実に魔族は優位に立てる……そのためには、魔法の言葉を、たった一言、ささやくだけでいい……』
「魔法の言葉だと……?」
タナトスは、鼻にしわを寄せた。
『ふふ、お前のしかめ面が、眼に見えるようだよ』
アスベエルは、サマエルのような笑みを浮かべた。
「く……」
『その言葉は、“フレイア”さ。
“勝利の暁には、彼女の命は助ける”……そう言えばいい』
「フレイア……!? く、ゼデキアの曾孫のか!?
ふざけるな、真っ先に処刑せねばならん女ではないか!」
相手には聞こえないと分かっていながら、タナトスは吼えた。
その反論を予期していたかのように、サマエルは答えた。
『見せしめのため、処刑すべきだとお前は言うだろう……だが、それは,
天帝と、ミカエルを筆頭とする七大天使の生き残り、だけでよくはないか』
「何を言う、家臣どもが、その程度で納得するか!?
それに、あの女を担ぎ、反乱を起こす者が出るに決まっているぞ!」
『家臣達を説得するのが、お前の役目。
神族の反乱は、起きたら、そのとき考えればいい。
そして、たとえフレイアがアスベエルを好いていなくとも、淫魔の王の
「だがな……」
『さらに、神族同士の婚姻では、子は、もはや生まれないと思われる。
フレイアは人族との混血だが、アスベエルは禁忌の子供……両親は大天使だからね。
つまり、天帝の血筋は彼女で途絶える。そうと分かっていても、フレイアが、お前以外でも、魔族の男を受け入れるとは思えない。
残りの女天使や女神を、すべて魔族の男の妻とすれば、それで、我らの目的は達せられるのではないか』
サマエルの話は、タナトスが反対するという前提で、続けられていた。
「……く、相変わらずぺらぺらと……!」
タナトスが苛ついた声を上げると、天使はいきなり、土下座をした。
『頼む、タナトス、フレイアの命、助けてくれ。
このままでは、アスベエルは裏切りを拒み、最後には自害することだろう、彼はサリエルの義兄……その上、看守の長として、私にもよくしてくれた……どうか、私の遺言だと思って……!』
「くそ、何が遺言だ!」
渋い顔のタナトスが、にべもなく断ろうとしたそのとき、天使が顔を上げた。
その漆黒の瞳からは、涙が流れ落ちていた。
「貴様……」
生きていた頃、弟は泣くことが出来なかった……そう思うと、タナトスは反論が出来なくなった。
「……仕方あるまい、助けてやるわ……」
とうとう、彼は折れた。
『ありがとう、タナトス』
微笑みを浮かべて弟の声で礼を述べ、天使は眼を閉じた。
力が抜けて倒れかかるアスベエルを、タナトスは支えた。
「サマエルめ、俺の行動を全部見越した上で、記憶を植え込んだな。
まったく……死んでからもムカつくヤツだ……!」
ぶつぶつ言いながら天使を抱き上げ、ベッドに寝かせてやる。
そのとき、シンハの念が届いた。
“サタナエル、入ってよいか”
「いいぞ」
タナトスは、ぱちんと指を鳴らした。
扉が開き、炎のたてがみのライオンと一緒に入室して来たのは、回廊で攻撃を仕かけて来た少年で、ベッドに横たわる裸の天使に気づくと、顔色を変えた。
「ど、どうして、こんなヤツをご寝所に……!?
兄は天使に殺され、姉はさらわれて、帰って来た時には……」
「何だ、貴様」
魔界王に睨みつけられた少年は、慌てて頭を下げた。
「し、失礼しました、僕はヴェルマ、サビナス伯爵の次男です」
「ああ、サビナス家の者だったか。
気持ちは分かるが、この天使は敵ではない、俺への貢物兼、サマエルの密使だ」
「えっ!? で、でも、サマエル様は、もう……」
「あいつが、何の策も講じないまま殺されたと思うのか?
こやつは、サマエルの息子サリエルの、義兄なのだ」
タナトスは、天使を指差す。
「ずっと地下に閉じ込められていて、今回、初めて天界の外へ出た、そうシェミハザに聞いた。
少なくとも、貴様の仇はこやつではない。
天帝は、捨て駒としてこいつを使節に選んだのだろう、幸運なことにな」
「そ、そうなのですか……」
「分かったのなら、もう行け、ヴェルマ。
それと、この件は他言無用だぞ。約束が守れたなら、小姓にしてやってもいい」
「わ、分かりました! 決して口外しません、失礼します!」
少年は眼を輝かせ、深々と礼をし、駆けて行った。
『……童子の扱いが大分上手くなったな、サタナエルよ』
シンハが感心したように言った。
「ふん、慣れたわ」
そっけなく答え、タナトスは天使を見た。
「まだ目覚めんか。サマエルが、こやつに記憶を植え込んでいたのだが」
『何と!?』
驚くライオンの頭に手を乗せ、魔界王は、つい先ほどの一幕を見せた。
『……ふうむ。ともあれ、疾く起こし、話をせねばなるまい』
「そうだな」
タナトスは、意識が戻らない天使に口づけ、精気を送り込んだ。