17.偽りの使者(2)
肌も
「おい、お前達、行儀が悪いぞ……」
寝込んだ部下を揺さぶり、起こそうとするラジエルも、かなり酔いが回っていて、
「構わんぞ、ラジエル。この両隣と向かいに
おい、寝た連中を運んでやれ」
召使達は、タナトスの命令を実行し始めた。
「お恥ずかしいところを……天使は普段、酒や
弁解するラジエルは、穴があったら入りたいような風情だった。
「ふん、天使とは不自由なものだな。
美味い食事や酒、そして女がいなくては、人生もろくに楽しめまいに」
魔界王は肩をすくめ、まるで水を飲むかのようにグラスを干す。
そのたび、女官がワインを注ぐのだった。
結局、お付きの天使十人全員が連れて行かれ、それを見計らったように、タナトスは立ち上がり、アスベエルに歩み寄った。
ぎくりとする天使のあごに手をかけ、その眼を覗き込む。
「あ、あの……?」
戸惑うアスベエルを、いきなり魔界王は押し倒し、ローブを脱がせ始めた。
「な、何、やめ……!?」
訳が分からぬまま、天使は抵抗した。
「じたばたするな!」
「何をなさいます、陛下!」
いっぺんに酔いが
「貴様ら、手土産もなしに、交渉に来たのか?」
天使を床に押し付けたまま、魔界王はラジエルを睨みつけた。
「空手とは妙だと思っていたが、こやつが献上品というなら合点もいく。
女でないのが難点だが、これほどの美形だ、許してやるぞ」
ラジエルは、はっと息を呑んだ。
「あ、い、いえ……たしかに、
「ええ!?」
しどろもどろの上司の言葉に、アスベエルは愕然とした。
目頭が熱くなっていく。
「ち、女子供でもあるまいし!」
「いえいえ、体格こそ良いですが、彼はまだ子供で……さらには、魔界の方々の美しさに、気後れ致してもおり……と、ともかく、言って聞かせますゆえ、少々お時間を、どうか……!」
必死の面持ちで、ラジエルは、魔界の王に取りすがる。
タナトスは、捕らえた天使の眼に浮かぶ涙を、舌先で受けてみた。
「……たしかに未経験だな。しかもガキ、か……」
「は、はい、ですから、一旦お放し下さいませ、陛下……」
『
それに、献上品であろうと使節の一員である以上、正当な手順を踏まねばなるまいぞ』
重々しく声をかけたのはシンハだった。
「……むう、そうだな。天使を食らうのは初めてで、こやつは美味そうで……つい、事を
タナトスは、身を起こした。
「これは異なことを。陛下がご命じになれば、堕天使などいくらでも……」
アスベエルを助け起こしながら、ラジエルは言った。
「ふん、
俺は、家臣には寛容なつもりだ、連中も好きに
「左様で……大丈夫か、アスベエル」
「ラ、ラジエル様ぁ……」
彼は、泣きながら上司にしがみついた。
「落ち着け」
ラジエルは彼の背中をなだめるようにたたき、会話を念に切り替えた。
“済まぬが、お前、タナトスの相手をする気はないか?”
“えっ、ほ、本気で仰ってるんですか!?”
“無論だ。
“そ、それはそうですけど!”
“今、タナトスの機嫌を損ねれば、交渉は決裂……命までは取られまいが、我らは追い返されることとなろう。
されど、三日経たずに天界へ戻ったなら、お前は牢に入れられる……それはよいとしても、恐らくミカエル様が黙ってはおるまい、お前を自白に追い込むために拷問を……そして……”
“……!”
アスベエルは絶句した。
“されど、わたしが命じることは出来ぬ。
酷なことだが、どちらに致すかは、お前が選ぶしかない”
“そ、そんな……”
アスベエルは、目の前が真っ暗になった。
たしかに、ミカエルならやりかねない。
だからと言って、魔物……しかも、淫魔の王に体を売る……。
前門の虎、後門の狼……そんな言葉が心をよぎる。
どちらがましなのだろうか……。
迷った彼は、タナトスに視線を走らせた。
見返す魔界王の瞳は、情欲にぎらついて……はいなかった。
(あれ……?)
タナトスが、熱心に彼を見ているのはたしかだった。
しかし、淫魔の王であるにも関わらず、表情や話し振りには、ミカエルのような度を越した
欲情というよりはむしろ、新しいおもちゃを前にした少年が、期待に胸弾ませ、早く手にとってみたくて、うずうずしているような光がその眼には浮かんでいた。
(あ、どっかで見たと思ったら……サリエルが、新しいいたずらを考えついたときの顔にそっくりだな……。
そっか、サマエル様の兄君だし、血がつながってるんだもんな)
態度こそ荒っぽいが、タナトスは、回廊で襲って来た少年も殺さなかった。
堕天使のことも、家臣として処遇しているようだし、ミカエルを相手にするより、まともに扱ってくれるような気する……。
アスベエルは、ようやく心を決め、ラジエルから離れて頭を下げた。
「し、失礼致しました……不慣れなことで、つい、取り乱しまして……。
こ、このような、ふつつか者でも、構わないとお考えでしたら……どうぞ、ご存分に、ご賞味下さいませ、陛下……」
「陛下、これはまだ未熟者につきますれば、何とぞ、よしなに……。
ただし、貢物と申しましても、差し上げるわけには参りませぬ、帰還の際には、正気でお返し頂けますよう、切にお願い申し上げます……」
ラジエルもまた、深々と礼をした。
「分かっておるわ。
アスベエル、人前では嫌なら、場所を変えてやる、来い」
タナトスは、マントをひるがえし、扉に向かって歩き出す。
「は、はい、ひあっ、……」
慌てて後を追いかけようとしたアスベエルは、くるぶしが埋まるほど長い絨毯に足を取られて、こけてしまった。
「い、痛たた……」
涙目で、ひねった足首を押さえる。
「大丈夫か!?」
『──フィックス』
ラジエルが駆け寄るより早く、シンハが呪文を唱え、痛めた足を癒した。
「あ、ありがとう、ございま……」
「
「も、申し訳……!」
タナトスが険しい顔で戻って来て、殴られると思ったアスベエルは、とっさに頭をかばった。
しかし、殴る代わりに、魔界の王は彼を軽々と抱き上げた。
「ひぇ……!?」
「勘違いするな、さっさと貴様を食いたい、それだけだ」
そっけなく言い、タナトスは、そのままドアに向かう。
回廊に出ると、戸口から中を覗こうとしていたらしい人々が、慌てて散った。
「──見ろ、俺への貢物だ!
これから寝所へ行く、邪魔するヤツは許さんぞ!」
魔界王は天使を高く持ち上げて宣言し、魔族達はざわついた。
「へ、陛下、ご勘弁を、もう、降ろして下さい……!」
アスベエルはもがく。
タナトスは、位置を手元に戻したものの、彼を解放しようとはしなかった。
「その子が献上品ですって、タナトス」
声をかけて来たサマエルそっくりの女性に、アスベエルは眼を奪われた。
「象牙色の肌、黒髪に漆黒の瞳……たしかに綺麗な子だこと。
……、不思議な魅力を持ってるわね、お前」
美女は、たおやかな指先で、彼の頬や髪に触れた。
「あの、あなた様、は……」
「わたしはイシュタル、タナトスの叔母に当たる者よ」
「今は義理の母親でもある、俺の父、ベルゼブルの妃でもあるからな」
タナトスが口を挟む。
「え、ええと……?」
関係性がよく分からずに、アスベエルは眼をぱちくりさせた。
「魔界では、異母なら兄弟姉妹の婚姻も許される。
叔母上は、俺の親父の腹違いの妹なのだ」
「は、はあ、そうなんですか……あ、初めまして、イシュタル様、アスベエルと申します」
魔界王の腕の中で、天使はぺこりと頭を下げた。
「ふふ、可愛いわね、後でわたしも味見しに行くわ」
「えっ!?」
「駄目だ、叔母上では狂ってしまう、正気のままで返さねばならんからな」
「まあ、残念。でも、仕方ないわね」
「それより、中にまだラジエルが残っている、
「ふふ、分かっててよ」
イシュタルは、にっこりした。
「それから、デーモン王達には、何も心配いらんと言っておけ」
「あら、気づいてた?
様子を見て来てくれって泣きつかれたのよ、大丈夫に決まってるのにねぇ。
いいわ、ついでに、少し探りを入れてみるから」
「お手柔らかにな」
「心配ご無用よ」
ころころと笑いながら、イシュタルは紅水晶の間に消えた。
「さて、行くか……俺の私室へ!」
天使を抱いたままタナトスは命じ、魔法の床は、滑るように二人を運んでいく。
来るときは心
そうして、ほどなく床は停止し、タナトスが自室の扉に歩み寄ったそのとき、突如、稲妻のような光と共に、小さな爆発が起きた。
「わっ!?」
まだ攻撃を受けたのかと、天使は魔界王の胸に顔を埋める。
「案ずるな、結界が侵入者に反応しただけだ」
タナトスの声に顔を上げると、小人が床に倒れ、ひくついていた。
衣服は焦げ、全身から煙が出ている。
「あ、ラジエル様の使い魔……」
「ふん、そんなことだろうと思ったわ!」
魔界王は、思い切り小人を踏みつけた。
「ぐえっ!」
「お、お待ちを、陛下!
ラジエル様は、俺を心配して……どうか、命ばかりは……」
アスベエルは手を合わせ、懇願した。
「ち、また見かけたら、今度こそ、消し炭にしてやるからな!」
タナトスは、小人を床の矢印に蹴り飛ばした。
「こいつを紅水晶の間へ!」
床は、ひくついている使い魔を運び始める。
「あ、ありがとう、ございます……」
「ふん、使い魔ごときにかかずらう暇なぞないわ」
魔界王が掌をかざすと、扉は独りでに開いた。
豪華な居間には眼もくれず通り抜け、広い寝室の三分の一を占める巨大なベッドに、天使を無造作に放り出す。
「わっ」
「これで、もう邪魔は入らん」
タナトスは、腰の剣をサイドテーブルに置き、マントと服を脱ぎ捨てた。
「へ、陛下……」
「タナトスと呼べ」
天使が怯えていることなど
生まれたままの姿を魔界の王の前にさらし、アスベエルは、震えながら眼をつむる。
いんわい【淫猥】
性的に下品でみだらな・こと(さま)。卑猥(ひわい)