~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

17.偽りの使者(1)

そのときより二日前、和平使節団は魔界へ向けて出発していた。
魔族の攻撃はそれまで間断なく続き、天界から無事出られるかも危ぶまれていたのだが、その朝、なぜかぴたりと止んで、不気味なほどの静寂の中、難なく旅立つことが出来たのだった。

各自、小結界で身を包み、宇宙空間を進んでいく。
もうすぐ小惑星帯が見えて来るという頃、彼らは休憩を取った。

「怖いか?」
携帯食料を口にしながら、ラジエルは尋ねた。
「いいえ」
アスベエルは首を振った。
「虚勢を張らずともよいのだぞ」

「本当ですよ。和平使節に、無体なことはしないでしょう……」
「……ぜひとも、そう願いたいものだが……。
タナトスは、傲岸不遜(ごうがんふそん)で冷酷無残な王だと聞く。
逆らう者は問答無用で手打ちにし、魔界の少数部族を、気紛れに殺戮(さつりく)したこともあるという……」

「……天界にも似たようなお方が一人、いらっしゃいますからね」
アスベエルが肩をすくめたとき、突如、魔族の大群が現れて、彼らを取り囲んだ。
「天使どもめ、覚悟しろ!」

「待て、我らは和平使節だ! 魔界王タナトス陛下に取次ぎを願おう!」
ラジエルは声を張り上げた。
「和平だと!?」
「嘘をつけ!」

「偽りではない!
これこの通り、天帝様のご親書もある、ぜひとも取次ぎを願いたい!」
ラジエルが巻物を差し上げる。
「そんな物!」
「いや、待て。念のため、タナトス様にお伺いを立てる」
リーダー格の者が言うと、魔物達は静かになり、天使達も黙って待った。

ややあって、リーダーは口を開いた。
「タナトス様は、お前達と話をしてもよいと仰っている、そら!」
彼が手を振った途端、十二人の天使達は、一つの透明な泡に包み込まれた。

「うわ!?」
「何をする、出せ!」
「無礼だぞ!」
アスベエルとラジエルを除く天使達は拳を振るい、泡を突き破ろうとしたが、出来なかった。

「我慢しろ、危害を加える気はない。
それに入らねば、貴様らは、我らの結界を通過出来ないのだ」
魔物が言った。
それを受けて、ラジエルが天使達をなだめた。
「落ち着け、皆。左様な仕組みになっているのでは、仕方あるまい」

彼らは、そのまま小惑星の一つへ連行された。
リーダーが呪文を唱え、現れた魔法陣に、天使達を内包した泡はふわりと乗る。
「ぐっ……!?」
「うっ!」
途端に魔法陣が輝きを増し、すさまじい重力が伸しかかって、天使の中には気分を悪くする者も出た。
しかし、それも一瞬のこと、直後、彼らは重厚な建物の内部に移送されていた。

「ふん、その人数で敵陣に乗り込んで来るとは、いい度胸だな」
そこには、豪奢な衣装をまとった魔物が、腕組みをして立っていた。
「く……タナトス」
ラジエルが、口の中でつぶやいたのをアスベエルは聞き取リ、眼を見張った。

髪は漆黒、頭頂部から角が二本生え、サマエルと同じ紅い瞳をしているが、その精悍(せいかん)な顔立ちは、それほど弟には似ていない。
あっけないほど簡単に、彼らは、魔界王タナトスと対面出来たのだった。

「……、失礼致しました。
魔界王陛下、わたしはラジエル、和平交渉の使者として、天界より(まか)り越しましてございます」
気を取り直したラジエルが、片膝をつき、頭を下げる。
アスベエル以下、天使達は全員、さっと彼に(なら)った。

(おもて)を上げてよいぞ、貴様ら。
今さら和解もくそもないと俺は思うが、使者の口上を聞いてから判断しても遅くはないと、皆が言うものでな」
『左様、汝は物事を、一刀両断で片付け過ぎる』
威厳のある声が響き、火炎のたてがみを持つ、黄金の獅子が現れた。

たてがみから炎がはぜ、大理石の床に散る。
その美しさに天使達は息を呑み、アスベエルは、サマエルがペンダントを取り戻したときに、このライオンが光の檻に現れたことを思い出した。

「ち、余計な世話だ」
タナトスは顔をしかめながら、泡の中を覗き込んだ。
「貴様は? 初めて見る顔だな」
『アスベエルであろう』
シンハが間髪(かんはつ)()れず言う。
「は、はい、お見知りおきを……」
天使は再び頭を下げた。

「タナトス陛下、天帝ゼデキア陛下よりのご親書でございます……」
ラジエルが差し出すが、泡の結界に阻まれて渡せない。
「場所を変えるぞ。危険を冒して敵地に(おもむ)いた、肝の据わった者どもだ、一応は歓待してやる。
──紅水晶の間へ!」
タナトスが声をかけると、床が白く輝き、体が前に向かって進み始めた。
シンハも、その後を滑るように進み、天使達を囲む結界も後に続く。

“きょろきょろするな、お前達”
“あ、申し訳ありません……”
ラジエルにたしなめられたアスベエルだけでなく、他の天使達も、城内を見回すことをやめられなかった。

魔族のことを、洗練された文化も持たぬ野蛮な種族と見なしていたことが、いかに誤った認識なのかを思い知らされる、荘厳(そうごん)なたたずまいの城だったのだ。

かつて汎魔殿は、手をかたどった彫刻が壁龕(へきがん)にずらりと並び、それらが持つ燭台を灯りとしていた。
だが、タナトスが即位後、『辛気臭(しんきくさ)い、もっと明るくしろ』と命じて、地味な彫刻を絢爛(けんらん)豪華なシャンデリアに変えたことで、雰囲気が一気に華やぎ、家臣達にも歓迎されていた。

(みやび)な衣装をまとい、様々な装身具をつけた、美しい顔立ちの王侯貴族達、付き従う女官や召使、使い魔……様々な姿の魔族達が、上質な絨毯(じゅうたん)を敷き詰めた広い回廊を行き交う。
物珍しげに天使達を眺めたり、立ち止まって、ひそひそと話している者達もいる。

「陛下。失礼ながら、結界に閉じ込めたままの移動とは、やはり、信用頂けておらぬのでしょうな?」
ラジエルが話しかけると、タナトスは振り返り、じろりと見た。
「ふん、無論、それもあるが……」

「覚悟しろ、天使ども!」
その刹那、攻撃魔法が放たれ、泡は炎に包まれた。
周囲の魔族達は浮き足立ち、悲鳴も上がる。
天使達も当然ひるんだが、結界の内部は熱くさえならず、一瞬で炎は消えた。

「静まれ、皆の者!」
タナトスが一喝した。
『かような血気に(はや)(やから)より、汝らを守るためにも、結界はあるのだ』
シンハは、すでに襲撃者を捕らえ、前足で押さえ込んでいた。

アスベエルより少し若く見える少年は、手足をばたつかせ、叫ぶ。
「タナトス様! 和睦などと、正気の沙汰とは思えません!
サマエル様のことをお忘れなのですか、シンハ様も!」
 
「この俺が、忘れると思うのか!」
魔界の王は怒りも(あらわ)に、襲撃者に近づく。
「俺だとて、はらわたは煮え繰り返っておるわ!
それを忍び、犠牲をなるべく少なく出来ればと思ったまでのことだ!」
「で、ですが……!」
「黙れ!」
タナトスはいきなり、少年の首根っこをつかんで持ち上げ、唇を奪った。

天使達は、あっけにとられた。
だが、それは、ただの口づけではなかった。
手足をばたつかせていた襲撃者の体から、力が抜けていく。
魔界王は、少年貴族の精気を吸い取っていたのだ。
「あ……あ、死んでしまう、」
思わず、アスベエルは声を上げる。

「ふん、俺は同胞は殺さん、謀反(むほん)でも起こさん限りはな。
少々、頭を冷やしてやっただけだ」
タナトスは、失神してしまった少年を、召使の腕の中に放り投げた。
「こやつが目覚めたら、俺の部屋へ連れて来い。
たっぷりと仕置きしてくれるわ」

『それは仕置きとは呼べまい、むしろ褒美(ほうび)であろう。
左様なことを申すと、数多(あまた)の者が寝所に押しかけようぞ、罰を受けようとな』
魔界のライオンは体を揺する。笑いをこらえているようだった。

「ふん、二番(せん)じをするような間抜けは、片っ端から魔封じの塔へ放り込むからな!」
タナトスは、周囲を睥睨(へいげい)した。
今の一幕を立ち止まって見ていたり、柱の陰やドアの隙間から、こっそり(うかが)っていた魔物達は、慌てて眼を逸らし、その場を去っていく。

彼らは、ばつが悪そうではあるが、恐怖は感じていない様子だった。
それどころか、『うらやましい』だの『うまくやったな』などのつぶやきが、方々から聞こえて来て、天使達はさらに面食らった。

数分後、暗紅色に塗られた、大きな観音扉の前で床が停止し、タナトスは指を鳴らす。
扉が開き、紅水晶の間が姿を現した。
五十人ほどで舞踏会が開けそうな広さの部屋には、深紅の絨毯が敷き詰められ、中央に置かれたガラステーブルの内部には、室名の由来となった巨大な鮮紅色の水晶が埋め込まれて、シャンデリアの光に煌いていた。

扉が閉められると同時に、結界は解かれ、天使達も席に着くことが許された。
「魔界王陛下、改めまして、天帝ゼデキア陛下よりのご親書でございます」
ラジエルが立ち上がり、うやうやしく巻物を差し出す。
「エルピダ、持って来い」
その声に応じてテーブルに現れた紫色の蛇が、口にくわえた黒塗りの盆に書を乗せ、魔界王の前までしずしずと運んでいく。

「ご苦労」
タナトスは親書を手に取った。
ざっと眼を通し、隣のシンハにも見せる。
彼が読み終えたと見るや、魔界王は指を鳴らし、刹那、巻物は消え失せた。
「な、何をなさいます!?」
ラジエルを始め、天使達はぎょっとした。

「案ずるな、別室に控えさせている家臣どものところへ送っただけだ」
「え……?」
「どうせ、連中を同席させても、興奮して無闇に吼え立てるだけで、貴様らとまともに話が出来るはずもないからな。
ああでもない、こうでもないと、散々言い合った挙句、結局は、俺に一任すると言うに決まっているが、それでも、一応、自分の頭でも考えたという名目が欲しいのだろう、それに付き合ってやらねばならん、面倒だがな」
タナトスは、あけすけに言い放ち、肩をすくめる。

「さ、左様で……」
ラジエルは度肝(どぎも)を抜かれ、額の汗をぬぐった。
「そんなわけだ、連中が結論を出すには数日はかかろう、それまでゆるりと、逗留(とうりゅう)していくがいい」
タナトスは、ぱんぱんと手を叩いた。

召使達が入って来て、手際よく、様々な料理や酒とグラスをテーブルに並べた。
「さあ、好きなだけ食え」
魔界王は、食卓を示したが、天使達は顔を見合わせた。
「ふん、心配なら、使い魔にでも毒見をさせろ。
俺が天界に行ったとしても、同じことをするはずだからな」

「それでは、お言葉に甘えまして……」
「頂きます」
使い魔が呼び出される前に、アスベエルはパンを千切り、口に入れた。
「お、おい、アスベエル……」

「大丈夫ですよ、ラジエル様。
殺すんなら、もっと簡単で、手早い方法がありますしね」
サマエルの記憶を垣間見た限りでは、魔界王は、回りくどい手段を取るような性格ではなかった。
彼は、さらにスープを飲み、タナトスに笑顔を向けた。
「とても美味しいです、陛下」

「……、失礼致しました」
ラジエルは頭を下げ、パンを取る。
他の天使達も、それを見習って食事を始めた。
「ふん……」
興味深そうに、タナトスはアスベエルを見つめた。
シンハも同様に、彼を凝視していた。

ごうがんふそん【傲岸不遜】

自分を偉い人間と考えて、相手を見下した態度をとるさま。

まかりこす【罷り越す】

「越す」(行く、来るの意)の謙譲語。参上する。参る。

壁龕(へきがん=ニッチniche)

西洋建築で、厚みのある壁をえぐって作ったくぼみ部分。彫像や花瓶などを置く。

しんきくさい【辛気臭い】

思うようにならず、いらいらするさま。また、気がめいるさま。