17.偽りの使者(1)
そのときより二日前、和平使節団は魔界へ向けて出発していた。
魔族の攻撃はそれまで間断なく続き、天界から無事出られるかも危ぶまれていたのだが、その朝、なぜかぴたりと止んで、不気味なほどの静寂の中、難なく旅立つことが出来たのだった。
各自、小結界で身を包み、宇宙空間を進んでいく。
もうすぐ小惑星帯が見えて来るという頃、彼らは休憩を取った。
「怖いか?」
携帯食料を口にしながら、ラジエルは尋ねた。
「いいえ」
アスベエルは首を振った。
「虚勢を張らずともよいのだぞ」
「本当ですよ。和平使節に、無体なことはしないでしょう……」
「……ぜひとも、そう願いたいものだが……。
タナトスは、
逆らう者は問答無用で手打ちにし、魔界の少数部族を、気紛れに
「……天界にも似たようなお方が一人、いらっしゃいますからね」
アスベエルが肩をすくめたとき、突如、魔族の大群が現れて、彼らを取り囲んだ。
「天使どもめ、覚悟しろ!」
「待て、我らは和平使節だ! 魔界王タナトス陛下に取次ぎを願おう!」
ラジエルは声を張り上げた。
「和平だと!?」
「嘘をつけ!」
「偽りではない!
これこの通り、天帝様のご親書もある、ぜひとも取次ぎを願いたい!」
ラジエルが巻物を差し上げる。
「そんな物!」
「いや、待て。念のため、タナトス様にお伺いを立てる」
リーダー格の者が言うと、魔物達は静かになり、天使達も黙って待った。
ややあって、リーダーは口を開いた。
「タナトス様は、お前達と話をしてもよいと仰っている、そら!」
彼が手を振った途端、十二人の天使達は、一つの透明な泡に包み込まれた。
「うわ!?」
「何をする、出せ!」
「無礼だぞ!」
アスベエルとラジエルを除く天使達は拳を振るい、泡を突き破ろうとしたが、出来なかった。
「我慢しろ、危害を加える気はない。
それに入らねば、貴様らは、我らの結界を通過出来ないのだ」
魔物が言った。
それを受けて、ラジエルが天使達をなだめた。
「落ち着け、皆。左様な仕組みになっているのでは、仕方あるまい」
彼らは、そのまま小惑星の一つへ連行された。
リーダーが呪文を唱え、現れた魔法陣に、天使達を内包した泡はふわりと乗る。
「ぐっ……!?」
「うっ!」
途端に魔法陣が輝きを増し、すさまじい重力が伸しかかって、天使の中には気分を悪くする者も出た。
しかし、それも一瞬のこと、直後、彼らは重厚な建物の内部に移送されていた。
「ふん、その人数で敵陣に乗り込んで来るとは、いい度胸だな」
そこには、豪奢な衣装をまとった魔物が、腕組みをして立っていた。
「く……タナトス」
ラジエルが、口の中でつぶやいたのをアスベエルは聞き取リ、眼を見張った。
髪は漆黒、頭頂部から角が二本生え、サマエルと同じ紅い瞳をしているが、その
あっけないほど簡単に、彼らは、魔界王タナトスと対面出来たのだった。
「……、失礼致しました。
魔界王陛下、わたしはラジエル、和平交渉の使者として、天界より
気を取り直したラジエルが、片膝をつき、頭を下げる。
アスベエル以下、天使達は全員、さっと彼に
「
今さら和解もくそもないと俺は思うが、使者の口上を聞いてから判断しても遅くはないと、皆が言うものでな」
『左様、汝は物事を、一刀両断で片付け過ぎる』
威厳のある声が響き、火炎のたてがみを持つ、黄金の獅子が現れた。
たてがみから炎がはぜ、大理石の床に散る。
その美しさに天使達は息を呑み、アスベエルは、サマエルがペンダントを取り戻したときに、このライオンが光の檻に現れたことを思い出した。
「ち、余計な世話だ」
タナトスは顔をしかめながら、泡の中を覗き込んだ。
「貴様は? 初めて見る顔だな」
『アスベエルであろう』
シンハが
「は、はい、お見知りおきを……」
天使は再び頭を下げた。
「タナトス陛下、天帝ゼデキア陛下よりのご親書でございます……」
ラジエルが差し出すが、泡の結界に阻まれて渡せない。
「場所を変えるぞ。危険を冒して敵地に
──紅水晶の間へ!」
タナトスが声をかけると、床が白く輝き、体が前に向かって進み始めた。
シンハも、その後を滑るように進み、天使達を囲む結界も後に続く。
“きょろきょろするな、お前達”
“あ、申し訳ありません……”
ラジエルにたしなめられたアスベエルだけでなく、他の天使達も、城内を見回すことをやめられなかった。
魔族のことを、洗練された文化も持たぬ野蛮な種族と見なしていたことが、いかに誤った認識なのかを思い知らされる、
かつて汎魔殿は、手をかたどった彫刻が
だが、タナトスが即位後、『
物珍しげに天使達を眺めたり、立ち止まって、ひそひそと話している者達もいる。
「陛下。失礼ながら、結界に閉じ込めたままの移動とは、やはり、信用頂けておらぬのでしょうな?」
ラジエルが話しかけると、タナトスは振り返り、じろりと見た。
「ふん、無論、それもあるが……」
「覚悟しろ、天使ども!」
その刹那、攻撃魔法が放たれ、泡は炎に包まれた。
周囲の魔族達は浮き足立ち、悲鳴も上がる。
天使達も当然ひるんだが、結界の内部は熱くさえならず、一瞬で炎は消えた。
「静まれ、皆の者!」
タナトスが一喝した。
『かような血気に
シンハは、すでに襲撃者を捕らえ、前足で押さえ込んでいた。
アスベエルより少し若く見える少年は、手足をばたつかせ、叫ぶ。
「タナトス様! 和睦などと、正気の沙汰とは思えません!
サマエル様のことをお忘れなのですか、シンハ様も!」
「この俺が、忘れると思うのか!」
魔界の王は怒りも
「俺だとて、はらわたは煮え繰り返っておるわ!
それを忍び、犠牲をなるべく少なく出来ればと思ったまでのことだ!」
「で、ですが……!」
「黙れ!」
タナトスはいきなり、少年の首根っこをつかんで持ち上げ、唇を奪った。
天使達は、あっけにとられた。
だが、それは、ただの口づけではなかった。
手足をばたつかせていた襲撃者の体から、力が抜けていく。
魔界王は、少年貴族の精気を吸い取っていたのだ。
「あ……あ、死んでしまう、」
思わず、アスベエルは声を上げる。
「ふん、俺は同胞は殺さん、
少々、頭を冷やしてやっただけだ」
タナトスは、失神してしまった少年を、召使の腕の中に放り投げた。
「こやつが目覚めたら、俺の部屋へ連れて来い。
たっぷりと仕置きしてくれるわ」
『それは仕置きとは呼べまい、むしろ
左様なことを申すと、
魔界のライオンは体を揺する。笑いをこらえているようだった。
「ふん、二番
タナトスは、周囲を
今の一幕を立ち止まって見ていたり、柱の陰やドアの隙間から、こっそり
彼らは、ばつが悪そうではあるが、恐怖は感じていない様子だった。
それどころか、『うらやましい』だの『うまくやったな』などのつぶやきが、方々から聞こえて来て、天使達はさらに面食らった。
数分後、暗紅色に塗られた、大きな観音扉の前で床が停止し、タナトスは指を鳴らす。
扉が開き、紅水晶の間が姿を現した。
五十人ほどで舞踏会が開けそうな広さの部屋には、深紅の絨毯が敷き詰められ、中央に置かれたガラステーブルの内部には、室名の由来となった巨大な鮮紅色の水晶が埋め込まれて、シャンデリアの光に煌いていた。
扉が閉められると同時に、結界は解かれ、天使達も席に着くことが許された。
「魔界王陛下、改めまして、天帝ゼデキア陛下よりのご親書でございます」
ラジエルが立ち上がり、うやうやしく巻物を差し出す。
「エルピダ、持って来い」
その声に応じてテーブルに現れた紫色の蛇が、口にくわえた黒塗りの盆に書を乗せ、魔界王の前までしずしずと運んでいく。
「ご苦労」
タナトスは親書を手に取った。
ざっと眼を通し、隣のシンハにも見せる。
彼が読み終えたと見るや、魔界王は指を鳴らし、刹那、巻物は消え失せた。
「な、何をなさいます!?」
ラジエルを始め、天使達はぎょっとした。
「案ずるな、別室に控えさせている家臣どものところへ送っただけだ」
「え……?」
「どうせ、連中を同席させても、興奮して無闇に吼え立てるだけで、貴様らとまともに話が出来るはずもないからな。
ああでもない、こうでもないと、散々言い合った挙句、結局は、俺に一任すると言うに決まっているが、それでも、一応、自分の頭でも考えたという名目が欲しいのだろう、それに付き合ってやらねばならん、面倒だがな」
タナトスは、あけすけに言い放ち、肩をすくめる。
「さ、左様で……」
ラジエルは
「そんなわけだ、連中が結論を出すには数日はかかろう、それまでゆるりと、
タナトスは、ぱんぱんと手を叩いた。
召使達が入って来て、手際よく、様々な料理や酒とグラスをテーブルに並べた。
「さあ、好きなだけ食え」
魔界王は、食卓を示したが、天使達は顔を見合わせた。
「ふん、心配なら、使い魔にでも毒見をさせろ。
俺が天界に行ったとしても、同じことをするはずだからな」
「それでは、お言葉に甘えまして……」
「頂きます」
使い魔が呼び出される前に、アスベエルはパンを千切り、口に入れた。
「お、おい、アスベエル……」
「大丈夫ですよ、ラジエル様。
殺すんなら、もっと簡単で、手早い方法がありますしね」
サマエルの記憶を垣間見た限りでは、魔界王は、回りくどい手段を取るような性格ではなかった。
彼は、さらにスープを飲み、タナトスに笑顔を向けた。
「とても美味しいです、陛下」
「……、失礼致しました」
ラジエルは頭を下げ、パンを取る。
他の天使達も、それを見習って食事を始めた。
「ふん……」
興味深そうに、タナトスはアスベエルを見つめた。
シンハも同様に、彼を凝視していた。
ごうがんふそん【傲岸不遜】
自分を偉い人間と考えて、相手を見下した態度をとるさま。
まかりこす【罷り越す】
「越す」(行く、来るの意)の謙譲語。参上する。参る。
壁龕(へきがん=ニッチniche)
西洋建築で、厚みのある壁をえぐって作ったくぼみ部分。彫像や花瓶などを置く。
しんきくさい【辛気臭い】
思うようにならず、いらいらするさま。また、気がめいるさま。