~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

16.汎神殿の悪夢(5)

ラファエルと一緒に、天帝もグルヴェイグ宮に移動した。
直後、魔法医五人と看護人四人からなる医師団が到着し、隣の控えの間で診察を待つ間、ラファエルは黙って立ち尽くし、天帝は落ち着かず、行ったり来たりしていた。

ややあってノックがあり、ドアが開いた。
「終わりました、天帝様」
天帝とラファエルは、医師長アナトリオスに駆け寄った。
「何ゆえ、倒れたのじゃ?」
「フレイア様のお加減は?」

「は。それが、……」
「いかがしたのじゃ、疾く申せ!」
「いえ……フレイア様は、ただ、お眠りになっておられるのみ……なのでございますが……」
当惑したようにアナトリオスは言った。

「眠っておるのみ、じゃと?」
天帝はぽかんとした。
「それはいかなることだ、ちゃんと調べたのだろうな!」
ラファエルは詰問口調で尋ねた。

「無論、しっかりとお調べ致しました。
ですが、よくお眠りになられているということ以外、格別変わったところはございませんので……。
フレイア様が、お倒れになられたときの詳細をご教授願えませんでしょうか、何か、手がかりがございますやも知れませぬゆえ……」
そこで天帝は、詳しく語って聞かせた。

アナトリオスは、納得したようにうなずく。
「……ふうむ。あの噂も、あながち荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなかったのでございますな」
「そちも聞いておったか」
「は。このところ、かの噂で持ちきりでございましたゆえ。
何とも不吉な話で……悪霊に魅入られた者は高熱を発し、数日で死に至る、などと……」
「何、死に至るじゃと!?」
天帝は眼を剥く。

「あ、いえいえ、左様な患者や、ましてや死者が出た、などという実例は一切ございませぬ。
もし、ございましたなら、無論、率先してご報告申し上げておりましたはず。
フレイア様にも、当然ながら、発熱の症状はまったく見られませぬゆえ」
慌てて、アナトリオスは否定し、額から噴き出す汗をぬぐった。
「……左様か」
天帝だけでなく、ラファエルもほっとした。

「ですが、やはり、ただの眠りとは思えませぬ……。
夢魔との関連性が疑われるのでございますれば、フレイア様を結界でお囲みした上、我ら医師団以外にも、警護の者を置いた方がよろしいのでは。
彼奴(きゃつ)との接続を断ち切れば、お目覚めになられる可能性もございましょうし……」
「よし。ならば、アナトリオス、早速、結界を張るがよい。
ラファエル、警護の兵を手配せよ」
「は」

ラファエルは、すぐに数名の大天使を連れて来た。
元々、グルヴェイグ宮を守っている兵達である。
その間にアナトリオスは、部下に命じて女神の眠るベッド周りに大きな魔法陣を描かせ、夢魔除けの結界を張った。

そうしておいて、天帝とラファエルは、ひとまず執務室に戻ることとし、居残っていた二人に経緯を語った。

「間違いなく、サマエルめの仕業じゃ。
……とにもかくも、フレイアの身が案じられてならぬ……」
天帝は、額に手を当て嘆息した。
「困ったことになりましたな。夢魔に憑かれたのが、こともあろうに、フレイア様とは……」
ミカエルは腕組みした。

「ですが、フレイア様は、お眠りになっておられるのみ。
取り憑かれているとは限らぬのでは……」
「この期に及んで責任逃れか、ラファエル!
貴様の警護がなっておらぬゆえ、かような事態に陥ってしまったのだぞ!」
ミカエルが大声を出すと、ラファエルは膝をつき、天帝に向かって深々と頭を下げた。
「天帝様、天使長代理たるわたしの責任でございます。いかようにもご処分を……」

「左様なことは後でよい、今は、憑いておる悪霊めを、いかに引き剥がすか考えるが先決じゃ。
ミカエル、彼奴(きゃつ)は、宿主(しゅくしゅ)を殺さねば(はら)えぬと申したのじゃな」
「……は。なれど、悪霊ごときの申すことを、そのまま鵜呑(うの)みにされるのも、いかがなものかと」

「ふむ。改めて申すまでもなく、まことか否かは調べねばならぬが……。
むう……天界の者が、悪魔に憑かれるなど前代未聞のこと……いかにすれば祓えるものやらな……。
メタトロン、そちは業務上、魔物どもに関する文献を眼にする機会も多いじゃろう、何か心当たりなどはあるまいか?」
天帝は書記長に尋ねた。

「ずっと考えておりましたが、特に思い当たることは……あ、お待ち下さい、左様、サリエルなら!」
メタトロンは、ぽんと手を打った。
「以前より、自分の血筋である魔物や魔界に興味を持ち、天界の蔵書を様々調べておりましたぞ、何か存じておるやも知れませぬ」

「サリエルだと!? ヤツはサマエルの息子だぞ、信用出来ぬわ!」
ミカエルは吼えたが、天帝はきっぱりと言った。
「本人はともかく、同じ記憶を持つホムンクルスがおる、偽るなど不可能じゃ。
よし、近衛兵、疾く、両名とも呼んで参れ」

連れて来られた二人に、大天使達は概要を話して聞かせた。
「……父上が……」
サリエルは青ざめ、絶句した。
「ショックなのは分かるが、フレイア様が危ないのだ。
この憑依について、何か思い当たることはないか、サリエル。
ホムンクルス、お前でもいい」
ラファエルが、優しく声をかける。

「うーん……」
少しの間、考えて、サリエルはつぶやいた。
「……もしかしたら」
リナーシタがうなずく。
「きっとそうだよ」
「何じゃ? 心当たりがあるのならば申してみよ」
天帝が促す。

「えっとですね……」
サリエルは小首をかしげ、懸命に思い出そうとした。
たしか、“イン・プロープリア・ペルソナ”だったと思います……意味は、“みずから進んで”だったかな……」
「そうそう、“血の契約”とも呼ばれてる、あれかも」
複製の少年も口を添える。
「血の契約!? おお、サマエルはたしかに、左様に申しておったぞ!」
ミカエルが叫んだ。

「ふむ。(しか)らば、その契約とやらは、いかなるものぞ?
やはり、胡乱(うろん)黒呪術(くろじゅじゅつ)(たぐい)か?」
天帝は説明を求めた。
「あ……そ、そうとも言えますが、その……」
サリエルとホムンクルスは顔を見合わせ、ためらう。

「もったいぶらずに、疾く申せ!
フレイア様のお命がかかっておるのだぞ!」
ミカエルは、いきなり二人につかみかかった。
「嫌ぁっ!」
以前拷問を受けたリナーシタは、悲鳴を上げて頭を抱え、それをサリエルがかばう。
「やめて下さい!」

「ミカエル様、おやめ下さい!」
間に入ったラファエルとメタトロンを、ミカエルは眼を血走らせて、突き飛ばした。
「うるさい、邪魔をするな!」
「うわっ!」
「あっ!」
二人の天使は尻餅をついた。

「いい加減にせぬか、ミカエル! (ましら)のごとく暴れおって!
これ以上騒ぎ立てるならば、牢に戻すぞ!」
荒れ狂う元・天使長を、一喝したのは天帝だった。
「も、申し訳ございませぬ、天帝様……」
ミカエルは、叱られた子供のように、しお垂れた。

「……さて、サリエル。急がずともよいゆえ、続けよ」
天帝は促す。
「は、はい……」
サリエルは、ぶるぶる震えるリナーシタを抱いたまま、ほっと息を吐き出し、それから続けた。

「僕が読んだ本には……“血の契約”について、人界では、悪魔に魂を売り渡す行為と言われている……みたいに、書かれてありました……。
人間が、儀式を行って、魔物を呼び出して、契約するとき……自分の血を……少しですけど、魔物に、与えなきゃいけない、そうなんです……」
「おのれの血を? 気味の悪いことじゃな」
天帝は眉をしかめた。

「……はい。人界では、“最悪の禁じ手”とも、言われてるみたいです。
……っていうのも、召喚された悪魔は……初めのうちは、大人しくしてるし、願いも、色々叶えてくれるんです、が……そのうち、本性を現して、言うことも聞かなくなって……最後には……呼び出した人間の、肉体も、意志も全部、乗っ取ってしまうので……。
そして……契約を解く方法は……一つだけで……」

「憑かれた者を、殺すしかない、と……?」
天帝の問いかけに、サリエルは無言でうなだれた。
「ホムンクルス、今のは真実なのだな?」
ラファエルは確認をとったが、複製はまだべそをかいており、涙目でうなずくのみだった。

「……むう……」
天帝は、そう言ったきり押し黙った。
その場にいた全員が頭を抱えてしまう、八方塞(はっぽうふさがり)の状況だった。

そのとき、再び、サリエルが口を開いた。
「でも、あの……ちょっとお待ち下さい、天帝様……」
「何じゃ」
「一つ、確認しておきたいんです、けど……。
フレイア様は……そのぉ……本当に、父の……亡霊? に、取り憑かれておいでなのかな、って……」

「……おそらくはな。
そちにとっては、おのれの父親の、不埒(ふらち)な悪業を認めるに忍びない心持ちであろうが」
「あ、いえ、そういうことじゃなくて、ですね……。
フレイア様は……夢のことを、お話ししてる途中で、いきなり、眠ってしまわれたそうですけど……それだけで、決めつけるのは、どうなのかな……って思って……」

「余とて、大事なひ孫娘が、夢魔に憑かれておるなどと思いとうはないわ。
 なれど、この状況下では、それ以外に考えられぬでな……」
天帝は、気が重そうに答えた。

「そうですか……でも、あの……フレイア様が、本当に取り憑かれているかどうか、確かめる方法が……あるんじゃないか、って思うんですが……」
「何!? 確認の手立てがあるじゃと、疾く、申せ!」
天帝は身を乗り出す。
それは、他の天使達も同様だった。

「えっと……つまり、僕らのようにすれば、いいんですよ、ね」
二人のサリエルは、うなずき合った。
「フレイア様の記憶を、ホムンクルスに移して、話を訊いてみればいいんです。
複製なら、寝てしまうこともないはずで、嘘もつけませんから……フレイア様が、本当に父上と……契約をしたかどうかも、これで、はっきりするんじゃないでしょうか」

メタトロンはひざを打つ。
「なるほど。それまでは、女神様に魔法陣の中にいらして頂けば、夢魔めも、これ以上の悪さは出来まいしな」
「ふむ、まことによき考えじゃ。サリエル、礼を申すぞ。
誰ぞ、リピーダに伝えよ、大至急、フレイアのホムンクルスを創るようにと。
他はすべて、後回しにして構わぬとな」
天帝は命じた。

「では、わたしが伝えて参ります」
ラファエルは会釈し、急いで部屋を後にする。
「ミカエル、そちは亡霊狩りに戻れ。今度こそ、夢魔めを退治致すのじゃ。
元をたたくことさえ出来れば、(うれ)いはすべて消えようゆえな」
「かしこまりました、必ずや」
ミカエルも礼をして退室した。

「よし、サリエル、ホムンクルスも戻ってよいぞ。
また何か気づいたことがあれば知らせよ」
「はい、天帝様」
「では、わたしは、他に文献がないか、探しに参ります」
メタトロンは、図書館へ向かった。

だが、一から複製を作るには、どれほど急いでも、十日ほどかかってしまう。
天使達の必死の捜索にも、それ以降、サマエルが網にかかることはなく、フレイアは眠り続けたままで、手の打ちようがなかった。

こうとうむけい 【荒唐無稽】

根拠がなく、現実性のない・こと(さま)。でたらめ。

しゅくしゅ【宿主】

寄生生物に寄生される側の動物や植物。やどぬし。

うろん【胡乱】

1 正体の怪しく疑わしいこと。また、そのさま。