~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

16.汎神殿の悪夢(4)

「かくなる上は、アスベエルを罪には問えぬじゃろう。
されど、虚偽(きょぎ)の自白も看過(かんか)は出来ぬゆえ、和平使節として(つか)わすのじゃ。
元より、名目上の和睦は、当人が言い出したことでもあるしの。
無事に役目を果たせば、両親の罪をも合わせて赦免(しゃめん)致し、晴れて七大天使の一員と認め……」

「お、お待ち下さい、天帝様!
こやつは敵と(かん)を通ずるに決まっております、最悪、戻って来ぬやも知れませぬぞ!」
焦ったミカエルは、彼を指差し、唾を飛ばしてまくし立てた。

「左様なことにはなるまい、サリエルもおるゆえな。
のう、アスベエル?」
義弟よりも、フレイアのことがあるからだと彼は直感し、答えた。
「……はい。わたしは決して、裏切りなどは致しません……」
「よしよし」
天帝は笑みを浮かべた。

「されど、天帝様……」
口を挟んだラファエルを、天帝は睨みつけた。
「何じゃ、そちもか」
「いえ、異議を唱えるつもりは。
ただ、彼は若輩(じゃくはい)ゆえ、一人では、少々荷が勝ち過ぎるのではと」

「ふむ、ならば……」
天帝は、ちらりと、リピーダに視線を走らせた。
「ラジエルを同道させよう。七大天使の一人が正使ならば、怪しまれることもあるまい。
しこうして三日、時を稼ぐことが出来れば七大天使に取り立て、さもなくば、一月の入牢(じゅろう)を申し付ける、よいな、アスベエル」

御心(みこころ)のままに……」
アスベエルは、頭を下げるしかなかった。
「ミカエルも、目付け役がおればよかろう?」
「……は」
天使長は不承不承(ふしょうぶしょう)、うなずく。

「よし、出立は明後日じゃ。
ラファエル、使者としての作法等を仕込んでやるがよい。
リピーダはラジエルに趣意を伝えよ、また、随行者(ずいこうしゃ)として、十人選ぶがよいと」

礼をして、三人が退室すると、ミカエルは片ひざをついた。
「天帝様、我は猛省(もうせい)致しました、今後二度と、無作法な振る舞いは致しませぬ!」
天帝は肩をすくめた。
「同じ台詞を幾度聞いたことやら。牢にてもう少々、頭を冷やせ」

冷たい態度にもめげず、ミカエルは天帝ににじり寄った。
「……禁忌の子供には名誉挽回の機会を与え、我に下さらぬとは、何ゆえでございしょうや?」
天帝は、あごひげをなでつけた。
「……アスベエルは、神族最後の純血の子ゆえ、大した失態もなしに葬り去るは惜しいゆえな」

「なれど、ラジエルまでもが出向致せば、人手は足らなくなりましょう。
何とぞ、我に夢魔退治をお命じ下さいませ、必ずや、仕留めてご覧に入れましょうぞ。
かねてより仰っておいでではございませぬか、武勲を立てさえすれば、何事も叶えて遣わすと」
ミカエルは、ねちっこく言い募る。

「……そこまで申すか。
ならば、アスベエル達が戻るまでに、仕留めて見せよ」
根負けしたように、天帝は答えた。
「はは。一命を賭しまして!」

勇んで飛び出したミカエルは、愕然とした。
執務室周辺にこそ、近衛兵が詰めていたものの、少し離れただけで、回廊は無人と化していたのだ。

相手は神出鬼没(しんしゅつきぼつ)の幽霊、広い汎神殿の中を、たった一人で捜索するのは無理がある。
回廊を通る天使達を片っ端から捕まえ、手伝わせるつもりだったのに。
街路は(さび)れていると聞いたが、城中までもとは。

「おい、誰かおらぬか!」
呼びかけにも応えはなく、窓から差し込む夕日に長く伸びた自分の影さえ、何とはなしに不気味に思えて来る。
大理石の床を、ひたひたと歩く足音もまた、自分のものだけ……。

天使達を部屋から引きずり出そうかとも思ったが、無作法なことはしないと確約した手前、騒ぎになってはまずい。
仕方なく、朝まで待ったミカエルは、大天使達を集め、大捜索網を敷いた。
自分の手柄にするため、亡霊を見つけても手出しせずに知らせよと命じたが、それは、びくびくものの天使達にとっても、ありがたいことだった。

翌日旅立った、偽りの和平使節には眼もくれず、天使達を叱咤(しった)し、ミカエルは自分も、単独で巡回を続けた。
そして、捜索を開始してから三日目の夜明け近く、ついに、影を見つけ出すことができた。

「ようやく出おったな、サマエル! 我が成敗してくれよう!
──奈落の底より現れ()でし醜き蛇よ、疾く()()に還るがよい!
母と子と精霊の御名(みな)(おい)て、大天使ミカエルが命ず!
退け、悪霊ー!」

勢い込んで、声高らかに悪魔払いの呪文を唱え、印を切る。
だが、不吉な影は、散るどころかゆっくりと集まり始め、魔物の王子の姿となった。
端正な顔は血の気が引いて一層白く、その中にあって異様に紅い唇の端が持ち上がり、冷ややかな笑みを結ぶ。

“ふ、私には聖句など効かないぞ、ミカエル。牢に入れられてボケたのか?
何にせよ、近頃は悪さも出来なくて、天使達は大喜びだろう”
「うるさい! 貴様、神々に何をした!」
大天使は、亡霊に指を突きつけた。

“何をって……毎晩、腕によりをかけて、極上の夢を紡いでやっているが?
死人には骨の折れる仕事だし、こうして形を成すのにも必要だから、精気は少々、分けてもらっているがね”
「ふざけるな!
神々をもてあそぶのはやめ、今すぐ解放しろ!」

“……もてあそぶ? 人聞きが悪いな、私は、夢を提供しているに過ぎない。
神々は、みずから進んで眠りについているのだよ、理想が具現化した世界を享受(きょうじゅ)するためにね”
「嘘をつけ、貴様が惑わしておるのだろうが!」

“当然だ。憑依(ひょうい)している女神の精気を使うわけにはいかないからな。
眠る女神がやせこけたら、怪しまれてしまう”
ミカエルは眼を剥いた。
「ひ、憑依だとぉ!? どの女神にだ!」

“誰が言うか、愚か者。いくら調べても分かりはしまいさ。
『血の契約』で、女神の意志をも乗っ取っているのだから。
私を追い出したいなら、女神を殺せばいい。それが、契約を解く唯一の方法だ”
亡霊は、血をなすりつけたような色の唇で、にたりと笑った。
「な、何だとっ!?」

“だが、殺したところで無駄だよ、憑く相手を変えればいいだけの話だ。
私という夢魔に、皆、大喜びで魂を売るだろう、憑代(よりしろ)には事欠かないさ”
「貴様!」
ミカエルが拳を繰り出すと同時に、悪霊の紅い眼が暗く燃え上がり、白銀の蛇と化した髪が襲いかかって来た。
首や腕に、無数の蛇が幾重にも巻きつき、ぎりぎりと締め上げる。

「ぐっ……く、く、!」
必死に外そうとするも、蛇が鋭い牙を剥き出し、所構わず噛みつき始めると、手が出せなくなり、さすがのミカエルも意識が遠いていく。
(こ、ここまでか……)

息が止まる寸前、誰かが彼を揺さぶった。
「ミカエル様、手をお放しなさい!」
「う、あ、あ……?」
「自害なさるおつもりか、ミカエル様!」
「な、に……?」

我に返ったミカエルは、首を絞めているのが、蛇などではなく、自分の手だと気づいた。
慌てて外し、激しく咳き込む。
「うっ、げほ、げほ、げぼっ……」
「だ、大丈夫ですか?
天帝様が、単独行動は危険と仰り、お捜ししていたのですよ」
目の前にいるのも悪霊ではなく、心配そうなラグエルだった。

「はぁ、はぁ……ど、どういうことだ……?」
荒い呼吸を整えながら、ミカエルは、くっきりと手形がついた首をさする。
「こちらがお訊きしたいですよ。うめき声が聞こえたので、来てみた……!?」
話の途中に、突然、サマエルが現れて、ラジエルは飛びのいた。

“くすくす……残念、もう少しだったのに”
亡霊は、生前よりもさらに(なまめ)かしい仕草で、青白い顔にかかる銀髪をかき上げた。
「き、貴様……!」
ぎりぎりと、ミカエルは歯噛みする。

“いかがかな? 私の夢の味は。
この通り、私は完全なる自由を手に入れた。礼を言うよ、ミカエル、私を殺してくれて。
『メネ・メネ・テケル・ウパルシン』……この呪いも、すぐに成就(じょうじゅ)することだろうよ。
くっくっく……あっはっはっはー!”

笑いながら、魔物の姿は薄らいでいく。
直後、日が昇り、窓から朝の光が差し込んで、闇を葬り去った。

「待て……くそ、悪霊め、女神に憑依したなどとほざきおって……!」
ミカエルは、拳を握り締める。
「そ、それは一大事、天帝様にご報告を!」
彼らは急ぎ、執務室へと走った。

彼らの話を聞いた天帝は、非番のラファエルとメタトロンを呼ぶよう命じた。
七大天使の四人は、ミカエルの複製と共に、昼夜交代で結界を守っている。
彼らの奮闘のお陰で、今のところ、破られた結界は二つで済んでいた。

「何ということ……どなたを憑代(よりしろ)にしているやら」
やって来たメタトロンは、天を仰いだ。
「ともかく、女神様方からお話を。それで分かるやも知れませぬ」
ラファエルも険しい顔だった。

「そうは言っても、三百五十人以上もおいでになるのですよ……」
弱音を吐くラグエルに、ミカエルは噛み付いた。
「左様な弱腰でいかがする、手分けをすればよいことだ!」
「落ち着け、ミカエル」
天帝がたしなめたとき、ドアがノックされた。

「お早うございます、ひいお祖父様」
いつも通り、フレイアが、朝のあいさつにやって来たのだ。
「どうしたのですか、皆揃って……あ」
ミカエルを見つけ、女神は顔をしかめた。
「お前、なぜここにいるの!?
ひいお祖父様、もう、牢から出したのですか!?」
「いや、これには仔細(しさい)があっての。サマエルの亡霊が悪さを……」

詳しい話を聞いた女神は、深刻な顔になった。
「まあ……一体、どなたに取り憑いているのかしら」
「それが分かれば、苦労はせぬのじゃが……」
天帝は、ため息混じりに首を振った。

「ところで、フレイア様は、夢をご覧になりますかな?」
ミカエルが不意に訊いた。
「え? ええ、見るわよ、夢くらい」
「内容をお聞かせ願いたい」
「嫌よ」
口も利きたくなかった女神は、ぷいと横を向いた。

「……困りましたな。
天帝様、いずれにせよ、すべての女神様にお話を伺わねばなりませぬ。
まずはフレイア様に、と思ったのですが……」
「フレイア、話してはくれぬか?」
(さと)すように言われた女神は、一呼吸置いて答えた。
「はい……でも、よく覚えておりませんのよ、前にも申し上げましたけれど。
素敵な夢を見た、という気分が残っているだけで」

ミカエルは、難しい顔で尋ねた。
「まったく思い出せぬのですかな?」
「少しは覚えてるわよ」
つっけんどんに言い、フレイアは、記憶を探るように眉を寄せた。

「ええと……とっても綺麗なところに、誰かと一緒にいるの……でも、誰かは分からない……よく知っている人みたいなのに……。
何かささやいてる……聞き取れないわ……何て言ってるの? あなたは、誰……?」
話すうちに目蓋が閉じ、声もつぶやきになり、女神は倒れた。

「危ない!」
とっさに、ラファエルは彼女を抱き止めた。
「フレイア!」
天帝は顔色を変え、ひ孫に駆け寄る。
「魔法医を呼べ! ラファエル、小宮殿に運ぶのじゃ!」
「は!」

款(かん)を通ずる

《「北史」盧柔伝から》交わりを親しくする。転じて、敵に内通する。

しこうして【而して】

そうして。しかして。「しかくして」の転、また「しかして」の転とも。漢文訓読に用いられた語。

もうせい【猛省】

強く反省すること。

しんしゅつきぼつ【神出鬼没】

《鬼神のようにたちまち現れたり消えたりする意から》行動が自由自在で、居所などの予測がつかないこと。

しった【叱咤】

大声を張り上げてしかりつけること。また、しかりつけるようにして励ますこと。

きょうじゅ【享受】

受け入れて自分のものとすること。受け入れて、味わい楽しむこと。