16.汎神殿の悪夢(4)
「かくなる上は、アスベエルを罪には問えぬじゃろう。
されど、
元より、名目上の和睦は、当人が言い出したことでもあるしの。
無事に役目を果たせば、両親の罪をも合わせて
「お、お待ち下さい、天帝様!
こやつは敵と
焦ったミカエルは、彼を指差し、唾を飛ばしてまくし立てた。
「左様なことにはなるまい、サリエルもおるゆえな。
のう、アスベエル?」
義弟よりも、フレイアのことがあるからだと彼は直感し、答えた。
「……はい。わたしは決して、裏切りなどは致しません……」
「よしよし」
天帝は笑みを浮かべた。
「されど、天帝様……」
口を挟んだラファエルを、天帝は睨みつけた。
「何じゃ、そちもか」
「いえ、異議を唱えるつもりは。
ただ、彼は
「ふむ、ならば……」
天帝は、ちらりと、リピーダに視線を走らせた。
「ラジエルを同道させよう。七大天使の一人が正使ならば、怪しまれることもあるまい。
しこうして三日、時を稼ぐことが出来れば七大天使に取り立て、さもなくば、一月の
「
アスベエルは、頭を下げるしかなかった。
「ミカエルも、目付け役がおればよかろう?」
「……は」
天使長は
「よし、出立は明後日じゃ。
ラファエル、使者としての作法等を仕込んでやるがよい。
リピーダはラジエルに趣意を伝えよ、また、
礼をして、三人が退室すると、ミカエルは片ひざをついた。
「天帝様、我は
天帝は肩をすくめた。
「同じ台詞を幾度聞いたことやら。牢にてもう少々、頭を冷やせ」
冷たい態度にもめげず、ミカエルは天帝ににじり寄った。
「……禁忌の子供には名誉挽回の機会を与え、我に下さらぬとは、何ゆえでございしょうや?」
天帝は、あごひげをなでつけた。
「……アスベエルは、神族最後の純血の子ゆえ、大した失態もなしに葬り去るは惜しいゆえな」
「なれど、ラジエルまでもが出向致せば、人手は足らなくなりましょう。
何とぞ、我に夢魔退治をお命じ下さいませ、必ずや、仕留めてご覧に入れましょうぞ。
かねてより仰っておいでではございませぬか、武勲を立てさえすれば、何事も叶えて遣わすと」
ミカエルは、ねちっこく言い募る。
「……そこまで申すか。
ならば、アスベエル達が戻るまでに、仕留めて見せよ」
根負けしたように、天帝は答えた。
「はは。一命を賭しまして!」
勇んで飛び出したミカエルは、愕然とした。
執務室周辺にこそ、近衛兵が詰めていたものの、少し離れただけで、回廊は無人と化していたのだ。
相手は
回廊を通る天使達を片っ端から捕まえ、手伝わせるつもりだったのに。
街路は
「おい、誰かおらぬか!」
呼びかけにも応えはなく、窓から差し込む夕日に長く伸びた自分の影さえ、何とはなしに不気味に思えて来る。
大理石の床を、ひたひたと歩く足音もまた、自分のものだけ……。
天使達を部屋から引きずり出そうかとも思ったが、無作法なことはしないと確約した手前、騒ぎになってはまずい。
仕方なく、朝まで待ったミカエルは、大天使達を集め、大捜索網を敷いた。
自分の手柄にするため、亡霊を見つけても手出しせずに知らせよと命じたが、それは、びくびくものの天使達にとっても、ありがたいことだった。
翌日旅立った、偽りの和平使節には眼もくれず、天使達を
そして、捜索を開始してから三日目の夜明け近く、ついに、影を見つけ出すことができた。
「ようやく出おったな、サマエル! 我が成敗してくれよう!
──奈落の底より現れ
母と子と精霊の
退け、悪霊ー!」
勢い込んで、声高らかに悪魔払いの呪文を唱え、印を切る。
だが、不吉な影は、散るどころかゆっくりと集まり始め、魔物の王子の姿となった。
端正な顔は血の気が引いて一層白く、その中にあって異様に紅い唇の端が持ち上がり、冷ややかな笑みを結ぶ。
“ふ、私には聖句など効かないぞ、ミカエル。牢に入れられてボケたのか?
何にせよ、近頃は悪さも出来なくて、天使達は大喜びだろう”
「うるさい! 貴様、神々に何をした!」
大天使は、亡霊に指を突きつけた。
“何をって……毎晩、腕によりをかけて、極上の夢を紡いでやっているが?
死人には骨の折れる仕事だし、こうして形を成すのにも必要だから、精気は少々、分けてもらっているがね”
「ふざけるな!
神々をもてあそぶのはやめ、今すぐ解放しろ!」
“……もてあそぶ? 人聞きが悪いな、私は、夢を提供しているに過ぎない。
神々は、みずから進んで眠りについているのだよ、理想が具現化した世界を
「嘘をつけ、貴様が惑わしておるのだろうが!」
“当然だ。
眠る女神がやせこけたら、怪しまれてしまう”
ミカエルは眼を剥いた。
「ひ、憑依だとぉ!? どの女神にだ!」
“誰が言うか、愚か者。いくら調べても分かりはしまいさ。
『血の契約』で、女神の意志をも乗っ取っているのだから。
私を追い出したいなら、女神を殺せばいい。それが、契約を解く唯一の方法だ”
亡霊は、血をなすりつけたような色の唇で、にたりと笑った。
「な、何だとっ!?」
“だが、殺したところで無駄だよ、憑く相手を変えればいいだけの話だ。
私という夢魔に、皆、大喜びで魂を売るだろう、
「貴様!」
ミカエルが拳を繰り出すと同時に、悪霊の紅い眼が暗く燃え上がり、白銀の蛇と化した髪が襲いかかって来た。
首や腕に、無数の蛇が幾重にも巻きつき、ぎりぎりと締め上げる。
「ぐっ……く、く、!」
必死に外そうとするも、蛇が鋭い牙を剥き出し、所構わず噛みつき始めると、手が出せなくなり、さすがのミカエルも意識が遠いていく。
(こ、ここまでか……)
息が止まる寸前、誰かが彼を揺さぶった。
「ミカエル様、手をお放しなさい!」
「う、あ、あ……?」
「自害なさるおつもりか、ミカエル様!」
「な、に……?」
我に返ったミカエルは、首を絞めているのが、蛇などではなく、自分の手だと気づいた。
慌てて外し、激しく咳き込む。
「うっ、げほ、げほ、げぼっ……」
「だ、大丈夫ですか?
天帝様が、単独行動は危険と仰り、お捜ししていたのですよ」
目の前にいるのも悪霊ではなく、心配そうなラグエルだった。
「はぁ、はぁ……ど、どういうことだ……?」
荒い呼吸を整えながら、ミカエルは、くっきりと手形がついた首をさする。
「こちらがお訊きしたいですよ。うめき声が聞こえたので、来てみた……!?」
話の途中に、突然、サマエルが現れて、ラジエルは飛びのいた。
“くすくす……残念、もう少しだったのに”
亡霊は、生前よりもさらに
「き、貴様……!」
ぎりぎりと、ミカエルは歯噛みする。
“いかがかな? 私の夢の味は。
この通り、私は完全なる自由を手に入れた。礼を言うよ、ミカエル、私を殺してくれて。
『メネ・メネ・テケル・ウパルシン』……この呪いも、すぐに
くっくっく……あっはっはっはー!”
笑いながら、魔物の姿は薄らいでいく。
直後、日が昇り、窓から朝の光が差し込んで、闇を葬り去った。
「待て……くそ、悪霊め、女神に憑依したなどとほざきおって……!」
ミカエルは、拳を握り締める。
「そ、それは一大事、天帝様にご報告を!」
彼らは急ぎ、執務室へと走った。
彼らの話を聞いた天帝は、非番のラファエルとメタトロンを呼ぶよう命じた。
七大天使の四人は、ミカエルの複製と共に、昼夜交代で結界を守っている。
彼らの奮闘のお陰で、今のところ、破られた結界は二つで済んでいた。
「何ということ……どなたを
やって来たメタトロンは、天を仰いだ。
「ともかく、女神様方からお話を。それで分かるやも知れませぬ」
ラファエルも険しい顔だった。
「そうは言っても、三百五十人以上もおいでになるのですよ……」
弱音を吐くラグエルに、ミカエルは噛み付いた。
「左様な弱腰でいかがする、手分けをすればよいことだ!」
「落ち着け、ミカエル」
天帝がたしなめたとき、ドアがノックされた。
「お早うございます、ひいお祖父様」
いつも通り、フレイアが、朝のあいさつにやって来たのだ。
「どうしたのですか、皆揃って……あ」
ミカエルを見つけ、女神は顔をしかめた。
「お前、なぜここにいるの!?
ひいお祖父様、もう、牢から出したのですか!?」
「いや、これには
詳しい話を聞いた女神は、深刻な顔になった。
「まあ……一体、どなたに取り憑いているのかしら」
「それが分かれば、苦労はせぬのじゃが……」
天帝は、ため息混じりに首を振った。
「ところで、フレイア様は、夢をご覧になりますかな?」
ミカエルが不意に訊いた。
「え? ええ、見るわよ、夢くらい」
「内容をお聞かせ願いたい」
「嫌よ」
口も利きたくなかった女神は、ぷいと横を向いた。
「……困りましたな。
天帝様、いずれにせよ、すべての女神様にお話を伺わねばなりませぬ。
まずはフレイア様に、と思ったのですが……」
「フレイア、話してはくれぬか?」
「はい……でも、よく覚えておりませんのよ、前にも申し上げましたけれど。
素敵な夢を見た、という気分が残っているだけで」
ミカエルは、難しい顔で尋ねた。
「まったく思い出せぬのですかな?」
「少しは覚えてるわよ」
つっけんどんに言い、フレイアは、記憶を探るように眉を寄せた。
「ええと……とっても綺麗なところに、誰かと一緒にいるの……でも、誰かは分からない……よく知っている人みたいなのに……。
何かささやいてる……聞き取れないわ……何て言ってるの? あなたは、誰……?」
話すうちに目蓋が閉じ、声もつぶやきになり、女神は倒れた。
「危ない!」
とっさに、ラファエルは彼女を抱き止めた。
「フレイア!」
天帝は顔色を変え、ひ孫に駆け寄る。
「魔法医を呼べ! ラファエル、小宮殿に運ぶのじゃ!」
「は!」
款(かん)を通ずる
《「北史」盧柔伝から》交わりを親しくする。転じて、敵に内通する。
しこうして【而して】
そうして。しかして。「しかくして」の転、また「しかして」の転とも。漢文訓読に用いられた語。
もうせい【猛省】
強く反省すること。
しんしゅつきぼつ【神出鬼没】
《鬼神のようにたちまち現れたり消えたりする意から》行動が自由自在で、居所などの予測がつかないこと。
しった【叱咤】
大声を張り上げてしかりつけること。また、しかりつけるようにして励ますこと。
きょうじゅ【享受】
受け入れて自分のものとすること。受け入れて、味わい楽しむこと。