16.汎神殿の悪夢(3)
一方、昼なお暗い監獄に収監されたミカエルは、冷たい鉄格子をつかみ、あらん限りの大声でののしり続けていた。
看守達はあきれ、食事を差し入れるとき以外は近寄らなくなり、そのことが一層、天使長の苛立ちを強めて行った。
「くそ、出せ、我をここから出せーっ!
一際大きく叫んだとき、風もないのに、ロウソクの炎が激しく揺れ、消えた。
「うわ!? おい、灯りが消えたぞ!
看守、疾く点けよ!」
たった一人、闇中に突き落とされた大天使は、声を振り絞るが、誰も来ない。
次の瞬間、炎が戻り、ほっとしたのも束の間、暖かいオレンジだったその色は、冷たい青に染められていた。
同時に、どこからともなく、霧のようなものが湧き出し始める。
「な、何だ……?」
大天使が眼を凝らす間に、霧は寄せ集まって、人の形になっていった。
“……くくく、誰が騒いでいるのと思えば、お前か。
天使長『殿』ともあろう者が、なぜ、牢獄などに入っているのだ?”
その人影は、聞き覚えのある声で、尊称の『殿』を
ミカエルは眼を疑った。
「ま、まさか……お前は死んだはず……!?」
そこにいたのは、自分の手で処刑した、魔界の第二王子だったのだ。
“ふふ、そう、私は死人だよ”
サマエルは、青ざめた顔で妖艶に笑う。
「ば、化けて出おったな、この、悪霊め!」
“恨みを呑んで死んだのだから、亡霊にもなるさ”
「悪霊でも亡霊でも何でもよい、今こそ我が退治てくれる……う、くそ!」
呪文を唱えようとしたミカエルは、魔封じの手枷をはめられていて、魔法が使えないことに思い至った。
“くく、無様だな、ミカエル。
さて、もう行かなくては。天界中に悪夢をばらまきにね”
「待て! だ、誰かおらぬか! こやつを退治せよ!」
鉄格子をがたつかせる大天使を尻目に、王子の姿は壁に吸い込まれ、炎の色も元に戻る。
入れ違いに食事を運んで来た看守を、大天使はどやしつけた。
「貴様ー! 何をぼやぼやしていた、サマエルの悪霊が出たのだぞ!」
「あ、悪霊!?」
ミカエルから話を聞いたルクバトは、ともかく指示を仰ごうと、大急ぎで看守長の元へ走った。
「えっ、父上の幽霊……?」
サリエルが眼を丸くする。
「何かの見間違いじゃないか? それとも、檻出たさに嘘を……」
アスベエルが言うと、ルクバトは否定の身振りをした。
「いえ、さすがにそれはないと思います、今までとは明らかに違いますから」
「分かった。俺も気になることがあって、天帝様にご報告しようと思ってたから、ちょうどいい」
「神々のこと?」
サリエルが口を挟む。
「うん。あ、ルクバト、お前最近、神々に会ったか?」
「……そういえば、お見かけしていませんね」
「やっぱりか。じゃ、俺、行って来るから」
執務室には先客がいた。ラファエルだった。
アスベエルが話を切り出すと、天帝は顔をしかめた。
「またか。どうせ解放されたい一心で、左様なでたらめを……」
「いえ、今回はどうも違うようで……ご本人から直接、お話をお聞きになった方がよろしいかと……。
それと近頃、神々のご様子が、妙というか何というか……」
ラファエルも渋い顔になっていた。
「お前もか、アスベエル。
あらぬ噂が流れていてな。神々はサマエルに
「昼食の折、フレイアからも話を聞いておる。
誰か、ミカエルを牢より出して参れ」
連れて来られた天使長の話を聞いた天帝は、念を押すように言った。
「しかと相違あるまいな」
「はい、サマエルに違いございませんでした」
ミカエルはきっぱりと答えた。
天帝は、あごひげをなでつけた。
「ふむう……されど、死人の仕業とは考え
「左様でございますな。
この怪異も、あやつが生きており、天界の
ミカエルも同意した。
アスベエルは、墓を暴くという行為にぞっとした。
「でも、もし、死体が埋められたままでしたら……?」
「ふん、ホムンクルスを替え玉にしたのに決まっている!」
ミカエルは吼えた。
アスベエルは眼を丸くした。
「ホムンクルスを!?
ですが、どうやって……そもそも、複製が残っているのですか?」
「皆、死んだはずじゃが。
念のため、ラファエル、地下へ行き、確かめて参れ」
「は」
ラファエルは会釈し、執務室を出る。
「すり替わったのは、サリエルと二人きりで過ごした夜でございましょう、となれば、怪しいのは、ヤツと看守どもだ!
アスベエル、貴様が偽者とすり替えたのだな!」
ミカエルは勝手に断定し、彼に指を突きつけた。
「そ、そんな、言いがかりです!」
「静まれ、ミカエル。
看守どもは余が取り調べる、そちは死体を
「かしこまりました、疾く行って参ります」
ミカエルもまた、急ぎ出て行った。
天帝は、まずは看守達を呼んで来させた。
しかし、彼らはただ恐れ入るばかり、まともに口が利けたのはベリアス一人で、サマエルが偽者だったとしても、いつ入れ替わったのか、皆目分からないと述べた。
天帝は彼らの心を読んでみたが、サマエルの記憶処理のお陰で、責められるべきことは何一つ、見つからなかった。
彼らを帰した天帝は、サリエルと複製を呼び寄せた。
本物のサリエルは答えた。
たしかに、父親と二人きりで一晩過ごしたが、塔の出入り口を、ラファエルやアスベエル達看守が見張っており、すり替えなど不可能だと。
さらに彼は、研究所の正確な場所も知らないと言った。
ホムンクルスもまた、別の部屋で創られたため、サマエルの複製を見たこともなく、地下研究所の場所を、本体に教えたこともないと述べた。
念のため、天帝は二人の記憶を読んだが、サマエルの記憶処理は完璧で、彼らも潔白と判断され、帰された。
義弟達が去り、ほっとしているアスベエルに、天帝は向き直った。
「残るはそちじゃな、アスベエル」
「え、わ、わたし……!?」
「そちが一番怪しいぞ、心は読めぬし、看守長の地位を使えば、様々画策できよう。
……そちには期待しておったが、残念じゃ」
彼は真っ青になった。
「わ、わたしは、無実です……!」
何とか声を絞り出したものの、握り締めた手が震えていた。
まったく身に覚えのないことでも、それを証明出来ない。
彼の心には、いまだカオスの力が残り、心を読まれるのを拒んでいた。
「ふむ。たとえそちが、真実裏切っておったとしても、今ここで白状致せば、楽に死なせてやるゆえ、正直に申すがよい」
天帝は、優しくなくもなく、言った。
彼は否定の仕草をした。
「いいえ、何と仰られましても、わたしには覚えがございません。
わたしは潔白でございます……信じて頂けなくとも。
そして、ミカエル様に拷問されるのは、ご容赦願います……それくらいなら、いっそ、天帝様のお手で、……」
「意外と強情じゃな、そちは。されど、よい心がけじゃ」
天帝は、腰に帯びた宝剣を、すらりと抜いた。
「……これで、わたしも、ようやく父母の元へ参れます。
ありがとうございます……」
アスベエルはひざまずき、深々と頭を下げた。
生きていても何もいいことはなく、これからもないだろう。
心残りはサリエルだが、短い寿命が尽きるまでフレイアが守ってくれる。
斬られる苦痛も一瞬のことだ。
彼は眼を閉じた。
「て、天帝様、いかがなさいました!?」
そのとき、戻って来たのはミカエルだった。
「おう、ミカエルか、墓はいかがじゃ」
「は。たしかに、サマエルそっくりの死体が埋まっておりましたな、
どうせ、ホムンクルスに決まっておりますが。
それより、アスベエルが何か
「いや、看守どもやサリエル達を尋問してみたが、怪しき仕儀は見つからぬ。
ならばと、これを問いただしたところ……」
天帝は、アスベエルを手で示す。
「自白致したのですな?」
「いや、潔白じゃと申して譲らぬ」
「ならば、お任せ下さいませ、必ずや吐かせてご覧に入れます」
ずかずかとミカエルは近づいて来る。
「……っ!」
無慈悲な宣言を聞いたアスベエルは、声なき悲鳴を上げ、天帝の衣の裾に取りすがった。
「お、お助けを、天帝様、お慈悲を……!」
「されば、自白せよと申したのじゃ」
「わ、分かりました、わたしがやりました」
「ふん、ようやく吐いたか。いかにして複製とすり替えた?」
ミカエルは、彼の顔を覗き込む。
「分かりません……」
アスベエルは、うなだれた。
「今さら隠し立てするか、吐け!」
天使長は彼の胸倉をつかみ、揺さぶる。
「ほ、本当に分からないんです、サマエルに聞いて下さい……」
「何をふざけたことを!」
「つまり、サマエルに操られていたのじゃな?」
取り成すように天帝が言うが、彼は
「そう、かも知れません、分かりません、何も……」
「くそ、天帝様、やはり拷問にかけ、洗いざらい吐かせましょう!」
「い、嫌です、それだけはご勘弁を!
わ、わたしが犯人なんです、それでいいじゃないですか!
今すぐ処刑して下さい、すべてはわたしがやったことです、どうか、その剣で、お早く……!」
アスベエルは床にひれ伏した。
「一体、何の騒ぎです?」
そのとき、ラファエルが戻って来た。
「ふん、遅いぞ、ラファエル。たった今、アスベエルが吐いた」
「な、何ですと!? お前、何ゆえ……!?」
「だ、だって、……天帝様とミカエル様が、そう仰って……わたしを責めて……それなら、わたしが犯人なのです、きっと……」
「気をたしかに持て」
ラファエルは、うずくまったままの彼の背を軽くたたき、君主を仰ぎ見た。
「天帝様、アスベエルが犯人である訳がございません、なぜなら……」
「ホムンクルスは、一体も無くなってはいないからです」
ラファエルの後ろから声がして、一人の女天使が入室して来た。
「まことか、リピーダ」
天帝は、地下研究所の所長を見た。
「はい。以前、ご報告申し上げましたが、サマエルは人族との混血、複製も難しいもので、四体目にしてようやく完成を見ました。
亜空間にて死んだ一体を除き、死体はすべて保存されており、紛失したものもございません」
「むう……」
「それで、墓の方はいかがでしたか?」
ラファエルが尋ねる。
「腐乱しておったが、たしかにサマエルであった……よくよく検分致したのだが……」
ミカエルの口調は、いかにも口惜しそうだった。
「ならば、やはり、アスベエルは無実でございますな」
「さ、されど、こやつは罪を認めたのだぞ!」
天使長は、アスベエルに指を突きつけた。
「拷問を受けるより、一思いに処刑された方がましだと思ったに過ぎませぬよ、そうであろう、アスベエル」
「は、はい……」
「
天帝様もお聞きになられた、たしかにこやつは……!」
「待つがよい、ミカエル。よきことを思いついた。
和睦の使者として、アスベエルを
天帝の宣告に、室内は静まり返った。
きべん【詭弁/詭辯】
1 道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論。こじつけ。