~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

16.汎神殿の悪夢(3)

一方、昼なお暗い監獄に収監されたミカエルは、冷たい鉄格子をつかみ、あらん限りの大声でののしり続けていた。
看守達はあきれ、食事を差し入れるとき以外は近寄らなくなり、そのことが一層、天使長の苛立ちを強めて行った。

「くそ、出せ、我をここから出せーっ!
一際大きく叫んだとき、風もないのに、ロウソクの炎が激しく揺れ、消えた。
「うわ!? おい、灯りが消えたぞ!
看守、疾く点けよ!」
たった一人、闇中に突き落とされた大天使は、声を振り絞るが、誰も来ない。

次の瞬間、炎が戻り、ほっとしたのも束の間、暖かいオレンジだったその色は、冷たい青に染められていた。
同時に、どこからともなく、霧のようなものが湧き出し始める。
「な、何だ……?」
大天使が眼を凝らす間に、霧は寄せ集まって、人の形になっていった。

“……くくく、誰が騒いでいるのと思えば、お前か。
天使長『殿』ともあろう者が、なぜ、牢獄などに入っているのだ?”
その人影は、聞き覚えのある声で、尊称の『殿』を蔑称(べっしょう)のように言ってのけた。

ミカエルは眼を疑った。
「ま、まさか……お前は死んだはず……!?」
そこにいたのは、自分の手で処刑した、魔界の第二王子だったのだ。
“ふふ、そう、私は死人だよ”
サマエルは、青ざめた顔で妖艶に笑う。

「ば、化けて出おったな、この、悪霊め!」
“恨みを呑んで死んだのだから、亡霊にもなるさ”
「悪霊でも亡霊でも何でもよい、今こそ我が退治てくれる……う、くそ!」
呪文を唱えようとしたミカエルは、魔封じの手枷をはめられていて、魔法が使えないことに思い至った。

“くく、無様だな、ミカエル。
さて、もう行かなくては。天界中に悪夢をばらまきにね”
「待て! だ、誰かおらぬか! こやつを退治せよ!」
鉄格子をがたつかせる大天使を尻目に、王子の姿は壁に吸い込まれ、炎の色も元に戻る。

入れ違いに食事を運んで来た看守を、大天使はどやしつけた。
「貴様ー! 何をぼやぼやしていた、サマエルの悪霊が出たのだぞ!」
「あ、悪霊!?」
ミカエルから話を聞いたルクバトは、ともかく指示を仰ごうと、大急ぎで看守長の元へ走った。

「えっ、父上の幽霊……?」
サリエルが眼を丸くする。
「何かの見間違いじゃないか? それとも、檻出たさに嘘を……」
アスベエルが言うと、ルクバトは否定の身振りをした。
「いえ、さすがにそれはないと思います、今までとは明らかに違いますから」

「分かった。俺も気になることがあって、天帝様にご報告しようと思ってたから、ちょうどいい」
「神々のこと?」
サリエルが口を挟む。
「うん。あ、ルクバト、お前最近、神々に会ったか?」
「……そういえば、お見かけしていませんね」
「やっぱりか。じゃ、俺、行って来るから」

執務室には先客がいた。ラファエルだった。
アスベエルが話を切り出すと、天帝は顔をしかめた。
「またか。どうせ解放されたい一心で、左様なでたらめを……」
「いえ、今回はどうも違うようで……ご本人から直接、お話をお聞きになった方がよろしいかと……。
それと近頃、神々のご様子が、妙というか何というか……」

ラファエルも渋い顔になっていた。
「お前もか、アスベエル。
あらぬ噂が流れていてな。神々はサマエルに(たた)られ、魂を抜かれている、などという」
「昼食の折、フレイアからも話を聞いておる。
誰か、ミカエルを牢より出して参れ」

連れて来られた天使長の話を聞いた天帝は、念を押すように言った。
「しかと相違あるまいな」
「はい、サマエルに違いございませんでした」
ミカエルはきっぱりと答えた。

天帝は、あごひげをなでつけた。
「ふむう……されど、死人の仕業とは考え(がた)い、やはり一度、サマエルめの墓を(あば)いてみねばな」
「左様でございますな。
この怪異も、あやつが生きており、天界の撹乱(かくらん)(はか)ってのことなら、合点(がてん)がいきます」
ミカエルも同意した。

アスベエルは、墓を暴くという行為にぞっとした。
「でも、もし、死体が埋められたままでしたら……?」
「ふん、ホムンクルスを替え玉にしたのに決まっている!」
ミカエルは吼えた。

アスベエルは眼を丸くした。
「ホムンクルスを!?
ですが、どうやって……そもそも、複製が残っているのですか?」
「皆、死んだはずじゃが。
念のため、ラファエル、地下へ行き、確かめて参れ」
「は」
ラファエルは会釈し、執務室を出る。

「すり替わったのは、サリエルと二人きりで過ごした夜でございましょう、となれば、怪しいのは、ヤツと看守どもだ!
アスベエル、貴様が偽者とすり替えたのだな!」
ミカエルは勝手に断定し、彼に指を突きつけた。
「そ、そんな、言いがかりです!」

「静まれ、ミカエル。
看守どもは余が取り調べる、そちは死体を(あらた)めるのじゃ」
「かしこまりました、疾く行って参ります」
ミカエルもまた、急ぎ出て行った。

天帝は、まずは看守達を呼んで来させた。
しかし、彼らはただ恐れ入るばかり、まともに口が利けたのはベリアス一人で、サマエルが偽者だったとしても、いつ入れ替わったのか、皆目分からないと述べた。
天帝は彼らの心を読んでみたが、サマエルの記憶処理のお陰で、責められるべきことは何一つ、見つからなかった。

彼らを帰した天帝は、サリエルと複製を呼び寄せた。
本物のサリエルは答えた。
たしかに、父親と二人きりで一晩過ごしたが、塔の出入り口を、ラファエルやアスベエル達看守が見張っており、すり替えなど不可能だと。
さらに彼は、研究所の正確な場所も知らないと言った。

ホムンクルスもまた、別の部屋で創られたため、サマエルの複製を見たこともなく、地下研究所の場所を、本体に教えたこともないと述べた。
念のため、天帝は二人の記憶を読んだが、サマエルの記憶処理は完璧で、彼らも潔白と判断され、帰された。

義弟達が去り、ほっとしているアスベエルに、天帝は向き直った。
「残るはそちじゃな、アスベエル」
「え、わ、わたし……!?」
「そちが一番怪しいぞ、心は読めぬし、看守長の地位を使えば、様々画策できよう。
……そちには期待しておったが、残念じゃ」

彼は真っ青になった。
「わ、わたしは、無実です……!」
何とか声を絞り出したものの、握り締めた手が震えていた。
まったく身に覚えのないことでも、それを証明出来ない。
彼の心には、いまだカオスの力が残り、心を読まれるのを拒んでいた。

「ふむ。たとえそちが、真実裏切っておったとしても、今ここで白状致せば、楽に死なせてやるゆえ、正直に申すがよい」
天帝は、優しくなくもなく、言った。

彼は否定の仕草をした。
「いいえ、何と仰られましても、わたしには覚えがございません。
わたしは潔白でございます……信じて頂けなくとも。
そして、ミカエル様に拷問されるのは、ご容赦願います……それくらいなら、いっそ、天帝様のお手で、……」

「意外と強情じゃな、そちは。されど、よい心がけじゃ」
天帝は、腰に帯びた宝剣を、すらりと抜いた。
「……これで、わたしも、ようやく父母の元へ参れます。
ありがとうございます……」
アスベエルはひざまずき、深々と頭を下げた。

生きていても何もいいことはなく、これからもないだろう。
心残りはサリエルだが、短い寿命が尽きるまでフレイアが守ってくれる。
斬られる苦痛も一瞬のことだ。
彼は眼を閉じた。

「て、天帝様、いかがなさいました!?」
そのとき、戻って来たのはミカエルだった。
「おう、ミカエルか、墓はいかがじゃ」
「は。たしかに、サマエルそっくりの死体が埋まっておりましたな、
どうせ、ホムンクルスに決まっておりますが。
それより、アスベエルが何か粗相(そそう)でも?」

「いや、看守どもやサリエル達を尋問してみたが、怪しき仕儀は見つからぬ。
ならばと、これを問いただしたところ……」
天帝は、アスベエルを手で示す。
「自白致したのですな?」
「いや、潔白じゃと申して譲らぬ」
「ならば、お任せ下さいませ、必ずや吐かせてご覧に入れます」
ずかずかとミカエルは近づいて来る。

「……っ!」
無慈悲な宣言を聞いたアスベエルは、声なき悲鳴を上げ、天帝の衣の裾に取りすがった。
「お、お助けを、天帝様、お慈悲を……!」
「されば、自白せよと申したのじゃ」
「わ、分かりました、わたしがやりました」

「ふん、ようやく吐いたか。いかにして複製とすり替えた?」
ミカエルは、彼の顔を覗き込む。
「分かりません……」
アスベエルは、うなだれた。
「今さら隠し立てするか、吐け!」
天使長は彼の胸倉をつかみ、揺さぶる。

「ほ、本当に分からないんです、サマエルに聞いて下さい……」
「何をふざけたことを!」
「つまり、サマエルに操られていたのじゃな?」
取り成すように天帝が言うが、彼は(かぶり)を振るだけだった。
「そう、かも知れません、分かりません、何も……」

「くそ、天帝様、やはり拷問にかけ、洗いざらい吐かせましょう!」
「い、嫌です、それだけはご勘弁を!
わ、わたしが犯人なんです、それでいいじゃないですか!
今すぐ処刑して下さい、すべてはわたしがやったことです、どうか、その剣で、お早く……!」
アスベエルは床にひれ伏した。

「一体、何の騒ぎです?」
そのとき、ラファエルが戻って来た。
「ふん、遅いぞ、ラファエル。たった今、アスベエルが吐いた」
「な、何ですと!? お前、何ゆえ……!?」

「だ、だって、……天帝様とミカエル様が、そう仰って……わたしを責めて……それなら、わたしが犯人なのです、きっと……」
「気をたしかに持て」
ラファエルは、うずくまったままの彼の背を軽くたたき、君主を仰ぎ見た。
「天帝様、アスベエルが犯人である訳がございません、なぜなら……」

「ホムンクルスは、一体も無くなってはいないからです」
ラファエルの後ろから声がして、一人の女天使が入室して来た。
「まことか、リピーダ」
天帝は、地下研究所の所長を見た。

「はい。以前、ご報告申し上げましたが、サマエルは人族との混血、複製も難しいもので、四体目にしてようやく完成を見ました。
亜空間にて死んだ一体を除き、死体はすべて保存されており、紛失したものもございません」
「むう……」

「それで、墓の方はいかがでしたか?」
ラファエルが尋ねる。
「腐乱しておったが、たしかにサマエルであった……よくよく検分致したのだが……」
ミカエルの口調は、いかにも口惜しそうだった。
「ならば、やはり、アスベエルは無実でございますな」

「さ、されど、こやつは罪を認めたのだぞ!」
天使長は、アスベエルに指を突きつけた。
「拷問を受けるより、一思いに処刑された方がましだと思ったに過ぎませぬよ、そうであろう、アスベエル」
「は、はい……」

詭弁(きべん)(ろう)すな!
天帝様もお聞きになられた、たしかにこやつは……!」
「待つがよい、ミカエル。よきことを思いついた。
和睦の使者として、アスベエルを(つか)わすこととする」
天帝の宣告に、室内は静まり返った。

きべん【詭弁/詭辯】

1 道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論。こじつけ。