~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

16.汎神殿の悪夢(2)

ミカエルの投獄を機に、サリエルは軟禁を解かれることとなった。
フレイアの嘆願だけでなく、魔族にマトゥタと彼の複製が殺されたこと(当時複製とは知られていなかったのに)、さらには彼自身の大人しい性格も相まって、裏切りは考えられないとされたのだ。

しかし、サリエルと複製は、相変わらず部屋にこもったままで、見かねたアスベエルは提案した。
「なあ、お前達、今日はいい天気だし、たまには外出しないか?」
「そんな気分になれないよ」
「僕も……」
ソファで本を読んでいた義弟達は、元気なく答えた。

「んー……じゃあ、お墓参りは?
色々あって、俺はウリエル様のお墓に行けてないし、リナーシタも、女神様のお墓参りは出来てないだろ」
「え……でも、僕が行っていいのかな……」
ホムンクルスは眼を伏せた。
「いいに決まってる、母上も喜ぶよ」
サリエルは即答した。
「よし、決まりだな」

こうして出かけた三人は、市街に入ったところで、ベリアスとセリンを従えたフレイアと行き会った。
「これは、女神様、お早うございます」
彼女の顔を見ないように、看守長は急いで頭を下げた。
「「フレイア様、お早うございます」」
サリエルは、複製と声を揃え、おじぎをした。

女神は、にっこりした。
「お早う、皆。お散歩?」
「いいえ、母上と、ウリエルさんの……」
「お墓参りに行くところなんです」
サリエル達は、交互に答える。

「そう、やっと自由になれて、その報告に行くのね、ミカエルは檻の中だし、いい気味だわ。
……ね、話は変わるけど、全然人がいないと思わない?
最近、いつもこうなのよ。たまに誰か見つけて話しかけても、何かぼんやりしてて、返事も上の空なの」
女神は、神々の異変に気づいていた。

「そういえば、誰もいませんね……」
「ホントだ……」
サリエル達は、改めて辺りを見回した。
「ね、変でしょう? お前もそう思わない、アスベエル?」
「わたしは、久しぶりに市街に出ましたので……ですが、子供の頃よりも、閑散(かんさん)としているように見受けられますね」
看守長は眼を伏せたまま、うやうやしく答えた。

彼はもう、上司や天帝の前でなくとも、フレイアには最上級の敬語を使い、一人称も、“俺”ではなく、“わたし”で通すことに決めたのだった。
「そう。じゃ、ベリアスはどう思う? セリンは?」
彼のよそよそしさに気づいているのかどうか、女神は表情も変えず、お付きの天使達に尋ねた。

おずおずと、ベリアスが口を開く。
「……はい、わたしも、少し妙だとは感じておりました……。
それに、このご時世で、いくら歌舞音曲(かぶおんぎょく)が控えられていると申しましても、ここまで静かですと……」
天使が手で示す空っぽの街路には、彼らの話し声だけが、異様に大きく響いていた。

「……本当に。大昔に滅びた、都市の遺跡にでもいるかのようです……」
セリンの声はかすれ、不安そうに周囲を見回す。
妹エレアは、フレイアの助力により蘇生はされたものの、ショックのために、天界へ来てからの記憶を、ほとんど失ってしまっていた。
しかし、セリンは、かえってよかったとアスベエルに言った。
ミカエルに殺され、縁談も壊れた……そんな記憶なら、ない方がいいと。

自分から言い出しておきながら、気味が悪くなったフレイアは、気を取り直すように頭を振った。
「あ、そうだわ。サリエル、わたくしも最近、お参りしてないのよ、一緒に行ってもいいかしら?」
「はい、もちろんです」
少年は微笑んだ。
「よかった。さ、行きましょ」
女神は、すたすたと歩き出す。
サリエルと複製、アスベエル、お付きの天使達の順で、彼女の後についていった。
彼らは白い石畳の道をそのまま進み、無人の市街を抜けた先の、なだらかな丘陵地帯へと向う。

丘のふもと近くに、大天使達の墓地はあった。
一面に芝生が敷き詰められ、直方体の大理石の墓石が、整然と並んでいる。
四人は、魔法で出した花束を真新しい墓に供え、お付きの二人も(こうべ)を垂れて、ウリエルの冥福を祈った。
それから、丘の中腹にある、神々の墓所を目指す。

「母上、今日は皆で来ました。
あ、フレイア様もいらして下さったんですよ」
女神の横顔が浮き彫りされている墓石に、少年は話しかけた。
そして花束を供え、一行は再び祈りを捧げた。

「じゃ、わたくしもお参りして来るわね、お前達はここで待ってて」
「はい、お待ちしてます」
女神は手を振り、お供を連れて、(ゆる)勾配(こうばい)の坂をさらに登っていく。
丘の頂上に建つ、ドーム型をした大理石の霊廟(れいびょう)に入れるのは、天帝一族だけだった。

「あー、ホント、気持ちがいいねー」
女神の姿が見えなくなると、サリエルが思い切り伸びをした。
母の墓を前にして、また涙にくれるのではないかと案じていたアスベエルは、ほっとした。
「ここんトコ、ずっと、中にばっかいたからな。外も、たまにはいいだろ?」
「うん、とってもいい気分……!」
ホムンクルスの少年も、サリエルそっくりの仕草で両腕を伸ばす。

空は澄み渡って、日差しは暖かい。
丘にはまばらに木々も生え、さえずりの声が盛んに聞こえる。
眼下に広がる、整然と建物が並んだ市街地、遠くには、汎神殿が威風堂々とそびえている。
ここは天界でも指折りの景勝地(けいしょうち)と言われ、日頃、多くの神々が、墓参を口実にハイキング気分でやって来ていたが、今日は、彼ら以外に人っ子一人いなかった。

「でも、やっぱり、誰もいないねー」
「貸切りみたいだよねー」
双子のような少年達は顔を見合わせ、くすくす笑った。
「ねえ、アスベエル、僕らしかいないから、かけっこしてもいい?」
いたずらっ子のように眼を輝かせ、サリエルが()いて来る。

「む……ちょっとだけだぞ。誰か来たら、すぐやめろよ」
アスベエルは答えた。
「分かってるよー。
じゃ、いくぞ、リナーシタ。よーい、ドン!」
二人は一緒に走り出す。

(勝負がつくのか……? ま、いいか。
元気な二人を見たら、マトゥタ様も安心するよな……あ)
たわむれる義弟達を微笑ましく見守っているうちに、彼は、初めてフレイアと墓地に来たときのことを思い出してしまった。

短かった幸福な時間……フレイアだけでなく、マトゥタやサリエルからも引き離され、看守の長として、一人ぼっちで暗い地下に住むことになる、ほんの数日前の出来事、だった……。
鼻の奥が、つんと痛くなる。

(あの白亜の御廟(ごびょう)の前で……俺達は……永遠の愛を誓ったのに……。
よせ、もう終わったんだ。
何も知らない子供だった、それだけのこと……フレイア様も、バカなことしたって後悔してるさ……だから、もう、忘れちまえって!)
彼は、ぬぐってもぬぐってもにじみ出て来る涙を払うように、来た方とは逆に歩き出した。

そのまま進んでいくと、切り立った崖に出た。
下方には、荒れ果てた地が広がっている。
彼は、衝動的に身を投げようとして、思い留まった。
眼には見えないが、ここにも結界は張られており、意味のない行為だったのだ。

(……サマエル様のお墓は……やっぱ見えないか。
ああ……父上と母上は、どこに眠っているんだろう……)
涙にかすむ眼で、荒涼(こうりょう)とした風景を見つめていた彼は、やがて片膝をつき、(こうべ)を垂れて祈り始めた。

だが、一心不乱に黙祷(もくとう)を捧げる彼は、気づかずにいた。
足元の影が、音もなく伸縮を繰り返したかと思うと、ぬうっと伸び上がったことに。
そして、影はどんどん巨大化して行き、今にも彼を飲み込もうとするかのように身構え……。

「おーい、アスベエルー!」
「どこにいるのー!」
だが、義弟達の声が届いた途端、影は、するりと元の位置に収まった。

「やっと見つけたー」
「捜したよー、フレイア様、戻って来たのに」
()き切って駆け寄って来た二人に、彼は立ち上がって謝った。
「悪い。ちょっと、一人になりたかったんだ……」

「あれ、荒野だ」
彼の後ろの景色に気づいて、サリエルが眼を丸くした。
「そっか、お祈りしてたんだね?」
「ずるいよ、僕らだって、父上にお祈りしたかったのに」
二人は口々に言い、揃って彼の隣にひざまずくと、追悼の祈りを捧げた。

「まあ、お前達、何してるの?」
不意に声がして、アスベエルは、ぎくっと振り向いた。
そこには、美の女神が立っていた。
(まばゆ)い陽射しを受けて燃え立つ髪と、(きらめ)く瞳、通った鼻筋、たった一度口づけたことのある唇は、()やかな紅珊瑚(べにさんご)色……それ以上見ていられずに、アスベエルは眼を()らした。

「フレイア様、僕らは父上に、アスベエルは、ご両親にお祈りをしてたんですよ」
立ち上がりながらサリエルが言うと、女神は眼を見開いた。
「え? アスベエルの?」
「はい。父上と同じく、荒野に埋葬されてるんですよ。ね、アスベエル」

「……ええ。研究所送りは不憫(ふびん)だと、ラファエル様が手配して下さって。
それでも、さすがに墓石を建てるお許しは出ず、場所はもう、正確には分からないそうですが。
最近、この形見を頂きまして……」
アスベエルは懐から遺髪を出して見せた。

「僕も、頂いた父上の髪がありますから、お揃いです。
彼にも分けようとしたんだけど、遠慮するんだもの」
サリエルは、複製を指差す。
「だ、だって、僕はホムンクルスだし……」

「でも、お前に、リナーシタって名前をつけたのは、父上だよ?」
「リナーシタ? 変わった名ね、それに、いつ、つけたの?
ホムンクルスだって、サマエルは知らなかったはずなのに」
フレイアは小首をかしげた。

「そ、それは……えっと、最初のホムンクルスが……死んじゃったときに、ウリエルさんが、うっかり、偽者だってばらしちゃったんです。
その後で、父上に会ったときに、もしも、他にも複製がいるんなら、この名前をつけてやってくれ、って言われたんです……」
サリエルが説明した。

「そう。ウリエルも、あわてん坊ね。
……でも、リナーシタって、どういう意味?」
好奇心旺盛な女神に改めて問われ、少年は小首をかしげる。
「さあ……?」

「“復活”ですよ」
後ろから声がして、セリンとベリアスが追いついて来た。
女神は、ぱっと振り向く。
「そうなの?」
「はい、わたしの故郷では、“リナーシタ”は復活を意味する言葉ですが……?」
続きを促すように、人界から来た大天使は言った。

「あ、父上がつけた、彼の名前なんです」
サリエルが複製を手で示すと、セリンは眉を上げる。
「サマエルが? ……意味深ですね」
「処刑されるのが分かってたから、父上は、生き返りたいって思ったんですよ、きっと」
無邪気にサリエルは答えた。

「そうなのかしらね。
……あ、サリエル、今日、一緒にいたこと、ひいお祖父様には内緒よ、お目玉食らっちゃうわ。
別々に参りして、お墓では会わなかったことにしましょ、お前達もね?」
女神は、全員をぐるりと見回す。

「はい」
「分かりました」
「御意」
サリエル達とアスベエル以下の天使達は答え、一行は丘を下りた。

赤(紅)珊瑚(コーラル)

パワーストーンとしての意味
自制心、自己統御、愛情、生命力、セルフコントロール、忍耐、鍛錬、掌握、最善、端整、躍動、静けさ、熱を帯びた冷静、悠久、安定感、健全健康、母性、子守、安産。

かぶおんぎょく【歌舞音曲】

歌と踊りと音楽。華美な遊芸を総称していう語。

けいしょう【景勝】

景色のすぐれていること。また、その土地。形勝。

ごびょう【御廟】

霊廟を敬(うやま)っていう語。おたまや。みたまや。