16.汎神殿の悪夢(2)
ミカエルの投獄を機に、サリエルは軟禁を解かれることとなった。
フレイアの嘆願だけでなく、魔族にマトゥタと彼の複製が殺されたこと(当時複製とは知られていなかったのに)、さらには彼自身の大人しい性格も相まって、裏切りは考えられないとされたのだ。
しかし、サリエルと複製は、相変わらず部屋にこもったままで、見かねたアスベエルは提案した。
「なあ、お前達、今日はいい天気だし、たまには外出しないか?」
「そんな気分になれないよ」
「僕も……」
ソファで本を読んでいた義弟達は、元気なく答えた。
「んー……じゃあ、お墓参りは?
色々あって、俺はウリエル様のお墓に行けてないし、リナーシタも、女神様のお墓参りは出来てないだろ」
「え……でも、僕が行っていいのかな……」
ホムンクルスは眼を伏せた。
「いいに決まってる、母上も喜ぶよ」
サリエルは即答した。
「よし、決まりだな」
こうして出かけた三人は、市街に入ったところで、ベリアスとセリンを従えたフレイアと行き会った。
「これは、女神様、お早うございます」
彼女の顔を見ないように、看守長は急いで頭を下げた。
「「フレイア様、お早うございます」」
サリエルは、複製と声を揃え、おじぎをした。
女神は、にっこりした。
「お早う、皆。お散歩?」
「いいえ、母上と、ウリエルさんの……」
「お墓参りに行くところなんです」
サリエル達は、交互に答える。
「そう、やっと自由になれて、その報告に行くのね、ミカエルは檻の中だし、いい気味だわ。
……ね、話は変わるけど、全然人がいないと思わない?
最近、いつもこうなのよ。たまに誰か見つけて話しかけても、何かぼんやりしてて、返事も上の空なの」
女神は、神々の異変に気づいていた。
「そういえば、誰もいませんね……」
「ホントだ……」
サリエル達は、改めて辺りを見回した。
「ね、変でしょう? お前もそう思わない、アスベエル?」
「わたしは、久しぶりに市街に出ましたので……ですが、子供の頃よりも、
看守長は眼を伏せたまま、うやうやしく答えた。
彼はもう、上司や天帝の前でなくとも、フレイアには最上級の敬語を使い、一人称も、“俺”ではなく、“わたし”で通すことに決めたのだった。
「そう。じゃ、ベリアスはどう思う? セリンは?」
彼のよそよそしさに気づいているのかどうか、女神は表情も変えず、お付きの天使達に尋ねた。
おずおずと、ベリアスが口を開く。
「……はい、わたしも、少し妙だとは感じておりました……。
それに、このご時世で、いくら
天使が手で示す空っぽの街路には、彼らの話し声だけが、異様に大きく響いていた。
「……本当に。大昔に滅びた、都市の遺跡にでもいるかのようです……」
セリンの声はかすれ、不安そうに周囲を見回す。
妹エレアは、フレイアの助力により蘇生はされたものの、ショックのために、天界へ来てからの記憶を、ほとんど失ってしまっていた。
しかし、セリンは、かえってよかったとアスベエルに言った。
ミカエルに殺され、縁談も壊れた……そんな記憶なら、ない方がいいと。
自分から言い出しておきながら、気味が悪くなったフレイアは、気を取り直すように頭を振った。
「あ、そうだわ。サリエル、わたくしも最近、お参りしてないのよ、一緒に行ってもいいかしら?」
「はい、もちろんです」
少年は微笑んだ。
「よかった。さ、行きましょ」
女神は、すたすたと歩き出す。
サリエルと複製、アスベエル、お付きの天使達の順で、彼女の後についていった。
彼らは白い石畳の道をそのまま進み、無人の市街を抜けた先の、なだらかな丘陵地帯へと向う。
丘のふもと近くに、大天使達の墓地はあった。
一面に芝生が敷き詰められ、直方体の大理石の墓石が、整然と並んでいる。
四人は、魔法で出した花束を真新しい墓に供え、お付きの二人も
それから、丘の中腹にある、神々の墓所を目指す。
「母上、今日は皆で来ました。
あ、フレイア様もいらして下さったんですよ」
女神の横顔が浮き彫りされている墓石に、少年は話しかけた。
そして花束を供え、一行は再び祈りを捧げた。
「じゃ、わたくしもお参りして来るわね、お前達はここで待ってて」
「はい、お待ちしてます」
女神は手を振り、お供を連れて、
丘の頂上に建つ、ドーム型をした大理石の
「あー、ホント、気持ちがいいねー」
女神の姿が見えなくなると、サリエルが思い切り伸びをした。
母の墓を前にして、また涙にくれるのではないかと案じていたアスベエルは、ほっとした。
「ここんトコ、ずっと、中にばっかいたからな。外も、たまにはいいだろ?」
「うん、とってもいい気分……!」
ホムンクルスの少年も、サリエルそっくりの仕草で両腕を伸ばす。
空は澄み渡って、日差しは暖かい。
丘にはまばらに木々も生え、さえずりの声が盛んに聞こえる。
眼下に広がる、整然と建物が並んだ市街地、遠くには、汎神殿が威風堂々とそびえている。
ここは天界でも指折りの
「でも、やっぱり、誰もいないねー」
「貸切りみたいだよねー」
双子のような少年達は顔を見合わせ、くすくす笑った。
「ねえ、アスベエル、僕らしかいないから、かけっこしてもいい?」
いたずらっ子のように眼を輝かせ、サリエルが
「む……ちょっとだけだぞ。誰か来たら、すぐやめろよ」
アスベエルは答えた。
「分かってるよー。
じゃ、いくぞ、リナーシタ。よーい、ドン!」
二人は一緒に走り出す。
(勝負がつくのか……? ま、いいか。
元気な二人を見たら、マトゥタ様も安心するよな……あ)
たわむれる義弟達を微笑ましく見守っているうちに、彼は、初めてフレイアと墓地に来たときのことを思い出してしまった。
短かった幸福な時間……フレイアだけでなく、マトゥタやサリエルからも引き離され、看守の長として、一人ぼっちで暗い地下に住むことになる、ほんの数日前の出来事、だった……。
鼻の奥が、つんと痛くなる。
(あの白亜の
よせ、もう終わったんだ。
何も知らない子供だった、それだけのこと……フレイア様も、バカなことしたって後悔してるさ……だから、もう、忘れちまえって!)
彼は、ぬぐってもぬぐってもにじみ出て来る涙を払うように、来た方とは逆に歩き出した。
そのまま進んでいくと、切り立った崖に出た。
下方には、荒れ果てた地が広がっている。
彼は、衝動的に身を投げようとして、思い留まった。
眼には見えないが、ここにも結界は張られており、意味のない行為だったのだ。
(……サマエル様のお墓は……やっぱ見えないか。
ああ……父上と母上は、どこに眠っているんだろう……)
涙にかすむ眼で、
だが、一心不乱に
足元の影が、音もなく伸縮を繰り返したかと思うと、ぬうっと伸び上がったことに。
そして、影はどんどん巨大化して行き、今にも彼を飲み込もうとするかのように身構え……。
「おーい、アスベエルー!」
「どこにいるのー!」
だが、義弟達の声が届いた途端、影は、するりと元の位置に収まった。
「やっと見つけたー」
「捜したよー、フレイア様、戻って来たのに」
息
「悪い。ちょっと、一人になりたかったんだ……」
「あれ、荒野だ」
彼の後ろの景色に気づいて、サリエルが眼を丸くした。
「そっか、お祈りしてたんだね?」
「ずるいよ、僕らだって、父上にお祈りしたかったのに」
二人は口々に言い、揃って彼の隣にひざまずくと、追悼の祈りを捧げた。
「まあ、お前達、何してるの?」
不意に声がして、アスベエルは、ぎくっと振り向いた。
そこには、美の女神が立っていた。
「フレイア様、僕らは父上に、アスベエルは、ご両親にお祈りをしてたんですよ」
立ち上がりながらサリエルが言うと、女神は眼を見開いた。
「え? アスベエルの?」
「はい。父上と同じく、荒野に埋葬されてるんですよ。ね、アスベエル」
「……ええ。研究所送りは
それでも、さすがに墓石を建てるお許しは出ず、場所はもう、正確には分からないそうですが。
最近、この形見を頂きまして……」
アスベエルは懐から遺髪を出して見せた。
「僕も、頂いた父上の髪がありますから、お揃いです。
彼にも分けようとしたんだけど、遠慮するんだもの」
サリエルは、複製を指差す。
「だ、だって、僕はホムンクルスだし……」
「でも、お前に、リナーシタって名前をつけたのは、父上だよ?」
「リナーシタ? 変わった名ね、それに、いつ、つけたの?
ホムンクルスだって、サマエルは知らなかったはずなのに」
フレイアは小首をかしげた。
「そ、それは……えっと、最初のホムンクルスが……死んじゃったときに、ウリエルさんが、うっかり、偽者だってばらしちゃったんです。
その後で、父上に会ったときに、もしも、他にも複製がいるんなら、この名前をつけてやってくれ、って言われたんです……」
サリエルが説明した。
「そう。ウリエルも、あわてん坊ね。
……でも、リナーシタって、どういう意味?」
好奇心旺盛な女神に改めて問われ、少年は小首をかしげる。
「さあ……?」
「“復活”ですよ」
後ろから声がして、セリンとベリアスが追いついて来た。
女神は、ぱっと振り向く。
「そうなの?」
「はい、わたしの故郷では、“リナーシタ”は復活を意味する言葉ですが……?」
続きを促すように、人界から来た大天使は言った。
「あ、父上がつけた、彼の名前なんです」
サリエルが複製を手で示すと、セリンは眉を上げる。
「サマエルが? ……意味深ですね」
「処刑されるのが分かってたから、父上は、生き返りたいって思ったんですよ、きっと」
無邪気にサリエルは答えた。
「そうなのかしらね。
……あ、サリエル、今日、一緒にいたこと、ひいお祖父様には内緒よ、お目玉食らっちゃうわ。
別々に参りして、お墓では会わなかったことにしましょ、お前達もね?」
女神は、全員をぐるりと見回す。
「はい」
「分かりました」
「御意」
サリエル達とアスベエル以下の天使達は答え、一行は丘を下りた。
赤(紅)珊瑚(コーラル)
パワーストーンとしての意味
自制心、自己統御、愛情、生命力、セルフコントロール、忍耐、鍛錬、掌握、最善、端整、躍動、静けさ、熱を帯びた冷静、悠久、安定感、健全健康、母性、子守、安産。
かぶおんぎょく【歌舞音曲】
歌と踊りと音楽。華美な遊芸を総称していう語。
けいしょう【景勝】
景色のすぐれていること。また、その土地。形勝。
ごびょう【御廟】
霊廟を敬(うやま)っていう語。おたまや。みたまや。