16.汎神殿の悪夢(1)
アスベエルとラファエルは、天使長の屋敷に直行した。
案の
リナーシタの顔には
「よかった、間に合って……!」
恐怖から解放され、泣きじゃくる少年を抱きしめながら、アスベエルは心からほっとしていた。
生きていたことがうれしいのは当然として、命に関わる酷い仕打ちを受けることで、この複製までもが、アルファのように大蛇に変化してしまうのではと、彼は恐れていたのだ。
そうなれば、サリエル本人も危険とされ、幽閉、もしくは処刑されることさえあり得ただろう。
「何だ、貴様ら! 無礼であろう!」
怒りをぶちまけるミカエルに、ラファエルは、嫌悪感も
「ご覧下さい、天使長様!
天帝様は、ホムンクルスを解放し、出頭せよと仰せでございます!」
しかし、それを見ても、ミカエルは平然としていた。
「ふん、こんな夜更けにか?
天帝様には、お体に
……くそ、
あくびをしながら、部屋を出て行く。
その姿を、ラファエルは忌々しそうに見送った。
「ち……仕方ない、夜中に騒ぎを起こしたくはないゆえな。
わたしが天帝様に報告する、お前達は帰って、サリエルを安心させてやれ」
「分かりました」
アスベエルは複製の傷を癒し、部屋に戻った。
再会を喜び合った三人は、その後眠りについたが、リナーシタはうなされ、悲鳴を上げて何度も飛び起きた。
アスベエルも、うとうとするたび、女神の言動や表情を思い出して、はっと目覚めてしまうのだった。
そうこうするうち朝になり、セリンが寝室のドアをノックした。
「お早うございます、看守長殿、執務室にて天帝様がお呼びです」
「わ、分かった」
彼は慌てて飛び起き、顔を洗って執務室に向かった。
「天帝様、お呼びで……」
おずおずと入室すると、そこには、七大天使の残り五人が勢揃いしていた。
「喜べ、アスベエル。天帝様はお前に、二親の罪を
功あらば、七大天使に昇格させることも考えておられると」
声をかけて来たのは、ラファエルだった。
「え、ええっ……?」
予想もしていなかった話に、アスベエルは眼を白黒させた。
(俺に、両親の名誉回復の機会を……その上、七大天使の仲間入り……!?
一体、どういう風の吹き回しなんだ……!?)
いぶかしく思いつつも、とりあえず膝をつき、彼は深く
「ありがたき幸せ、このアスベエル、必ずや、親の罪を
天帝様のおんため、さらに
「よくぞ申した、アスベエル。心して励むがよいぞ」
天帝は重々しくうなずいた。
ラファエルはうれしさを隠そうともせず、メタトロンとラグエル、ラジエルもにこやかに……ミカエル一人だけが、苦々しい顔をしていた。
「さて、これより戦術会議を行う。
ミカエル、アスベエルにも分かるよう、改めて戦況を報告せよ」
「は」
天使長は
「まず、魔界王タナトスの暗殺は、偽サマエルの
複製を投降させ、魔界の結界を内部より破壊する作戦も、失敗の公算が高いと存じます。
また、十二ある天界の結界のうち、外側の二つが破壊され、魔軍の攻撃は、現在も、断続的に続いており……」
(そっか。負け続きでむしゃくしゃしてたから、ミカエルは、リナーシタで憂さ晴らししようとしたんだな)
アスベエルはうなずき、尋ねた。
「なるほど。次はどのような作戦を?」
「今のところは
されど、万が一、転移門にまで侵入を許した
天帝は、重々しく宣した。
「ええっ!?」
これにはアスベエルだけでなく、ミカエル以外の天使が、一斉に驚きの声を上げた。
「て、天帝様、それは……」
「い、いくら何でも自爆とは……!」
「お考え直しを……!」
「自爆じゃと? たわけたことを。
我が父祖は、爆発の莫大なエネルギーを利用しては宇宙を渡り、天界へ降臨致したのじゃぞ、忘れたと申すか。
今回も、パンテオンごと移住致せばよいのじゃ」
その言葉に天使達は安堵し、代表するようにラファエルが尋ねた。
「では、移住先はどちらに?」
「人界じゃ。未開の広大な土地が、方々にあるようじゃからな」
「さすがは天帝様、まことに深きお考え」
ミカエルが
「されど、市街をも含めての次元転移には、様々準備が必要じゃ。
転移場所の選定などもあり、今少し時間が欲しい。
有用な案を持つ者は、
天帝が命じた途端、皆、押し黙ってしまった。
サマエルを楯にして魔族の優位に立つことは出来なくなったし、複製を使うのも二度は無理、かと言って、正攻法では龍には勝てそうもない。
「そうだ、今度はサリエルを楯にすればよいのだ!」
不意にミカエルが言った。
「だ、駄目ですよ、考えれば分かることでしょう!」
「その通りです! マトゥタ様方の複製が、瞬殺されたことをお忘れですか!?」
当然、アスベエルはラファエルと共に反対した。
「……やれやれ、意味をなさないことは明白でしょうに」
メタトロンがあきれたようにつぶやき、ラグエルとラジエルは顔を見合わせ、肩をすくめた。
反論されたミカエルはむっとし、立場の弱い彼に食ってかかった。
「く……ならば、アスベエル、貴様の考えを述べてみよ。
おのれ自身の意見も持たず、反対反対と吼えておるだけでは、浅はかと言う外あるまいぞ!」
「彼は、たった今戦況を知ったばかり、有効な案など、すぐに考え付くわけが……」
自分をかばうラファエルに、看守長は言った。
「いえ、ないこともないんですが……どなたのご意見も出ないうちに、わたしごときが、と思いまして……」
「何と?」
大天使は眼を丸くする。
「ほう、では、聞かせてもらおうではないか」
ミカエルは尊大な口調で言い、腕組みをした。
「うむ、腹蔵なき意見を申してみよ、アスベエル」
天帝も話を促す。
看守長は軽く頭を下げた。
「……は。では、申し上げます……。
その……魔界と……和平交渉、をしてはいかがなものかと……」
「な、何じゃと!?」
天帝は叫び、ミカエルはぎくりとしたのを始め、その場の全員が凍りついた。
それは、皆の頭に一度は浮かんだ考えではあったが、君主の怒りを恐れ、口に出せずにいた提案だったのだ。
「き、貴様、どういうつもりだ、一体!
天帝様、こやつは魔界と通じておるのです、それゆえ、かような
顔色を変えて詰め寄ろうとする天使長を、天帝は制した。
「まあ、待て。中々興味深い、アスベエル、続けよ」
「……はい。もちろん、真に、和睦に至る必要は、ございません……。
魔物の士気も、その……今は高いようなので、冷却期間を置く方がいいかと……」
魔族と本当に和解した方がいいと彼は思っていたが、この状況ではさすがに言えない。
「それと、天使だけではもう、勝ち目が薄いように、感じられます……。
かくなる上は、神々のご
交渉は……複製を創るための、時間稼ぎにも、なるのではないか、と……」
たどたどしい話し振りだったが、天帝は大きくうなずき、
「和睦を持ち出して時を稼ぎ、かつ、
……ふむ、今し方考えついたにしては、中々筋が通っておるぞ。
ラファエル、そちの申す通り、アスベエルは利発じゃの。
かねてより、複製は創ってあるのじゃが、記憶の注入など調整にも時がかかるでな」
「て、天帝様!
いくら有利に事を運ぶためと申しても、魔物どもと和睦の振りなど!
神族の誇りを捨てた左様な振る舞い、我は容認出来かねます!」
たまりかねたように、ミカエルは大声を張り上げた。
天帝は、冷たい眼差しを天使長に向けた。
「では、ミカエル。そちに代替案があるのか」
「え、いや、ですから……もっと、皆で考えるべきだと……」
言葉に詰まった相手に、天帝は軽蔑し切った視線を投げた。
「先刻、そちがアスベエルに申した言葉を、そっくり返してやったがよさそうじゃな。
反対反対と吼えるだけなら、犬にでも出来ようぞ」
「くっ!」
ミカエルは顔を真っ赤にした。
「もうよい、ミカエル。
近頃、そちの行動は眼に余る、戦は複製に任せておくゆえ、牢中にて頭を冷やすがよい、この会議に出席させたは、そちの顔を立ててのことじゃ」
「そ、そんな、……!」
呆然としている天使長に近づき、天帝みすからが、魔封じの手枷をはめた。
「ラファエル、これより、そちが天使長代理を
「は、
ラファエルは膝をつき、頭を下げた。
「近衛兵、ミカエルを牢へ!」
「は!」
「て、天帝様、お考え直しを、天帝様……!」
ミカエルは悲痛な声を上げながら、近衛兵に引っ立てられて行った。
それは、ひそやかに始まっていた。
神々の間に、奇怪な噂が流れ始めたのだ。
汎神殿の隅や建物の陰など、闇がわだかまっているところに、怪しい影が現れると。
それに遭遇した者は高熱を発して倒れ、悪夢にうなされながら、数日のうちに息を引き取る、と……。
もがくうち、影は徐々に寄り集まって、しまいに闇色の瞳を持つ長髪の人物となり、ささやくように告げるのだ、『メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン』と……。
それは、遙かなる太古、栄華を極めたとある王宮に、突如現れた幻の手によって、壁に刻み込まれた言葉だった。
預言者がその意味を読み解いたとき、かの王と王国は最期の時を迎えた……。
真偽のほどは判然としなかったが、神々は震え上がり、昨日はどこに出た、今日はあそこに出た、魔界の王子の呪いだ、
戦時中のこと、舞踏会などが禁止されたことも相まって、汎神殿は火が消えたように淋しくなり、街路も人通りが途絶え、廃墟のようになっていった。
そして、彼らの間に、恐怖がしっかりと根付いた頃合いを見計らったように、夢は様相を一変させた。
神々は、相変わらずこもり切りだったが、それはもう、恐怖から逃れるためではなかった。
眠りの時間を増やすため、ベッドから出なくなったのだ。
彼らが
彼らの枕元に、黒い影が、湧き出すように現れることに。
意識のない神々、特に女神の体に、
じじん【自刃】
刀物で自分の生命を絶つこと。
【忌憚】
2 遠慮すること。多く、否定の語を伴って用いられる。
はがんいっしょう【破顔一笑】
顔をほころばせて、にっこり笑うこと。