~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

16.汎神殿の悪夢(1)

アスベエルとラファエルは、天使長の屋敷に直行した。
案の(じょう)、ミカエルは、縛り上げたホムンクルスの衣服を剥ぎ取っているところだった。
リナーシタの顔には(あざ)があり、体にも鞭の痕が痛々しかったが、それほどひどい傷ではなかった。

「よかった、間に合って……!」
恐怖から解放され、泣きじゃくる少年を抱きしめながら、アスベエルは心からほっとしていた。
生きていたことがうれしいのは当然として、命に関わる酷い仕打ちを受けることで、この複製までもが、アルファのように大蛇に変化してしまうのではと、彼は恐れていたのだ。
そうなれば、サリエル本人も危険とされ、幽閉、もしくは処刑されることさえあり得ただろう。

「何だ、貴様ら! 無礼であろう!」
怒りをぶちまけるミカエルに、ラファエルは、嫌悪感も(あらわ)に命令書を突きつけた。
「ご覧下さい、天使長様!
天帝様は、ホムンクルスを解放し、出頭せよと仰せでございます!」

しかし、それを見ても、ミカエルは平然としていた。
「ふん、こんな夜更けにか?
天帝様には、お体に(さわ)りますゆえ、明朝一番にお伺い致しますと申し上げろ。
……くそ、(きょう)がそがれた、我はもう寝る」
あくびをしながら、部屋を出て行く。

その姿を、ラファエルは忌々しそうに見送った。
「ち……仕方ない、夜中に騒ぎを起こしたくはないゆえな。
わたしが天帝様に報告する、お前達は帰って、サリエルを安心させてやれ」
「分かりました」
アスベエルは複製の傷を癒し、部屋に戻った。

再会を喜び合った三人は、その後眠りについたが、リナーシタはうなされ、悲鳴を上げて何度も飛び起きた。
アスベエルも、うとうとするたび、女神の言動や表情を思い出して、はっと目覚めてしまうのだった。

そうこうするうち朝になり、セリンが寝室のドアをノックした。
「お早うございます、看守長殿、執務室にて天帝様がお呼びです」
「わ、分かった」
彼は慌てて飛び起き、顔を洗って執務室に向かった。

「天帝様、お呼びで……」
おずおずと入室すると、そこには、七大天使の残り五人が勢揃いしていた。
「喜べ、アスベエル。天帝様はお前に、二親の罪を(すす)ぐ機会を与えると仰っておいでだ。
功あらば、七大天使に昇格させることも考えておられると」
声をかけて来たのは、ラファエルだった。

「え、ええっ……?」
予想もしていなかった話に、アスベエルは眼を白黒させた。
(俺に、両親の名誉回復の機会を……その上、七大天使の仲間入り……!?
一体、どういう風の吹き回しなんだ……!?)

いぶかしく思いつつも、とりあえず膝をつき、彼は深く(こうべ)を垂れた。
「ありがたき幸せ、このアスベエル、必ずや、親の罪を(あがな)うに足る働きをしてご覧に入れます。
天帝様のおんため、さらに(いそ)しませて頂きます、皆様方も、よろしくお願い致します」

「よくぞ申した、アスベエル。心して励むがよいぞ」
天帝は重々しくうなずいた。
ラファエルはうれしさを隠そうともせず、メタトロンとラグエル、ラジエルもにこやかに……ミカエル一人だけが、苦々しい顔をしていた。

「さて、これより戦術会議を行う。
ミカエル、アスベエルにも分かるよう、改めて戦況を報告せよ」
(おごそ)かに天帝は言った。
「は」
天使長は会釈(えしゃく)し、説明を始めた。

「まず、魔界王タナトスの暗殺は、偽サマエルの自刃(じじん)により不首尾(ふしゅび)に終わり、わたしの複製も戦死致しました。
複製を投降させ、魔界の結界を内部より破壊する作戦も、失敗の公算が高いと存じます。
また、十二ある天界の結界のうち、外側の二つが破壊され、魔軍の攻撃は、現在も、断続的に続いており……」

(そっか。負け続きでむしゃくしゃしてたから、ミカエルは、リナーシタで憂さ晴らししようとしたんだな)
アスベエルはうなずき、尋ねた。
「なるほど。次はどのような作戦を?」

「今のところは篭城(ろうじょう)じゃ。
されど、万が一、転移門にまで侵入を許した(みぎり)には、天界を爆破致し、魔物共を殲滅(せんめつ)致してくれよう」
天帝は、重々しく宣した。

「ええっ!?」
これにはアスベエルだけでなく、ミカエル以外の天使が、一斉に驚きの声を上げた。
「て、天帝様、それは……」
「い、いくら何でも自爆とは……!」
「お考え直しを……!」

「自爆じゃと? たわけたことを。
我が父祖は、爆発の莫大なエネルギーを利用しては宇宙を渡り、天界へ降臨致したのじゃぞ、忘れたと申すか。
今回も、パンテオンごと移住致せばよいのじゃ」
その言葉に天使達は安堵し、代表するようにラファエルが尋ねた。
「では、移住先はどちらに?」
「人界じゃ。未開の広大な土地が、方々にあるようじゃからな」

「さすがは天帝様、まことに深きお考え」
ミカエルが()びるように言い、残りの天使達は思わず眉をしかめた。
「されど、市街をも含めての次元転移には、様々準備が必要じゃ。
転移場所の選定などもあり、今少し時間が欲しい。
有用な案を持つ者は、忌憚(きたん)なく述べよ」

天帝が命じた途端、皆、押し黙ってしまった。
サマエルを楯にして魔族の優位に立つことは出来なくなったし、複製を使うのも二度は無理、かと言って、正攻法では龍には勝てそうもない。

「そうだ、今度はサリエルを楯にすればよいのだ!」
不意にミカエルが言った。
「だ、駄目ですよ、考えれば分かることでしょう!」
「その通りです! マトゥタ様方の複製が、瞬殺されたことをお忘れですか!?」
当然、アスベエルはラファエルと共に反対した。
「……やれやれ、意味をなさないことは明白でしょうに」
メタトロンがあきれたようにつぶやき、ラグエルとラジエルは顔を見合わせ、肩をすくめた。

反論されたミカエルはむっとし、立場の弱い彼に食ってかかった。
「く……ならば、アスベエル、貴様の考えを述べてみよ。
おのれ自身の意見も持たず、反対反対と吼えておるだけでは、浅はかと言う外あるまいぞ!」

「彼は、たった今戦況を知ったばかり、有効な案など、すぐに考え付くわけが……」
自分をかばうラファエルに、看守長は言った。
「いえ、ないこともないんですが……どなたのご意見も出ないうちに、わたしごときが、と思いまして……」
「何と?」
大天使は眼を丸くする。

「ほう、では、聞かせてもらおうではないか」
ミカエルは尊大な口調で言い、腕組みをした。
「うむ、腹蔵なき意見を申してみよ、アスベエル」
天帝も話を促す。

看守長は軽く頭を下げた。
「……は。では、申し上げます……。
その……魔界と……和平交渉、をしてはいかがなものかと……」

「な、何じゃと!?」
天帝は叫び、ミカエルはぎくりとしたのを始め、その場の全員が凍りついた。
それは、皆の頭に一度は浮かんだ考えではあったが、君主の怒りを恐れ、口に出せずにいた提案だったのだ。

「き、貴様、どういうつもりだ、一体!
天帝様、こやつは魔界と通じておるのです、それゆえ、かような戯言(たわごと)を!」
顔色を変えて詰め寄ろうとする天使長を、天帝は制した。
「まあ、待て。中々興味深い、アスベエル、続けよ」

「……はい。もちろん、真に、和睦に至る必要は、ございません……。
魔物の士気も、その……今は高いようなので、冷却期間を置く方がいいかと……」
魔族と本当に和解した方がいいと彼は思っていたが、この状況ではさすがに言えない。

「それと、天使だけではもう、勝ち目が薄いように、感じられます……。
かくなる上は、神々のご出座(しゅつざ)を願いたく……ですが、やはり危険ですし……ホムンクルスを、出撃させては、いかがかと……。
交渉は……複製を創るための、時間稼ぎにも、なるのではないか、と……」

たどたどしい話し振りだったが、天帝は大きくうなずき、破顔一笑(はがんいっしょう)した。
「和睦を持ち出して時を稼ぎ、かつ、彼奴(きゃつら)の高揚を静めるか。
……ふむ、今し方考えついたにしては、中々筋が通っておるぞ。
ラファエル、そちの申す通り、アスベエルは利発じゃの。
かねてより、複製は創ってあるのじゃが、記憶の注入など調整にも時がかかるでな」

「て、天帝様!
いくら有利に事を運ぶためと申しても、魔物どもと和睦の振りなど!
神族の誇りを捨てた左様な振る舞い、我は容認出来かねます!」
たまりかねたように、ミカエルは大声を張り上げた。
天帝は、冷たい眼差しを天使長に向けた。
「では、ミカエル。そちに代替案があるのか」

「え、いや、ですから……もっと、皆で考えるべきだと……」
言葉に詰まった相手に、天帝は軽蔑し切った視線を投げた。
「先刻、そちがアスベエルに申した言葉を、そっくり返してやったがよさそうじゃな。
反対反対と吼えるだけなら、犬にでも出来ようぞ」
「くっ!」
ミカエルは顔を真っ赤にした。

「もうよい、ミカエル。
近頃、そちの行動は眼に余る、戦は複製に任せておくゆえ、牢中にて頭を冷やすがよい、この会議に出席させたは、そちの顔を立ててのことじゃ」
「そ、そんな、……!」
呆然としている天使長に近づき、天帝みすからが、魔封じの手枷をはめた。

「ラファエル、これより、そちが天使長代理を(つと)めよ」
「は、(つつし)んで(うけたまわ)ります」
ラファエルは膝をつき、頭を下げた。
「近衛兵、ミカエルを牢へ!」
「は!」
「て、天帝様、お考え直しを、天帝様……!」
ミカエルは悲痛な声を上げながら、近衛兵に引っ立てられて行った。

それは、ひそやかに始まっていた。
神々の間に、奇怪な噂が流れ始めたのだ。
汎神殿の隅や建物の陰など、闇がわだかまっているところに、怪しい影が現れると。
それに遭遇した者は高熱を発して倒れ、悪夢にうなされながら、数日のうちに息を引き取る、と……。

(かすみ)のように淡く、形も定かでないその影を眼にした瞬間、金縛りに遭い、眼を閉じることも出来なくなる。
もがくうち、影は徐々に寄り集まって、しまいに闇色の瞳を持つ長髪の人物となり、ささやくように告げるのだ、『メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン』と……。

それは、遙かなる太古、栄華を極めたとある王宮に、突如現れた幻の手によって、壁に刻み込まれた言葉だった。
預言者がその意味を読み解いたとき、かの王と王国は最期の時を迎えた……。

真偽のほどは判然としなかったが、神々は震え上がり、昨日はどこに出た、今日はあそこに出た、魔界の王子の呪いだ、(たた)りだと(おび)え、外出を避けるようになった。

戦時中のこと、舞踏会などが禁止されたことも相まって、汎神殿は火が消えたように淋しくなり、街路も人通りが途絶え、廃墟のようになっていった。

そして、彼らの間に、恐怖がしっかりと根付いた頃合いを見計らったように、夢は様相を一変させた。
神々は、相変わらずこもり切りだったが、それはもう、恐怖から逃れるためではなかった。
眠りの時間を増やすため、ベッドから出なくなったのだ。

彼らが(むさぼ)る夢の世界の中では、心に秘める欲望がすべて満たされ、目覚めても、皆、すぐ夢に戻ることを望んだ……そのため、気づく者は誰もいなかった。
彼らの枕元に、黒い影が、湧き出すように現れることに。
意識のない神々、特に女神の体に、凄艶(せいえん)な笑みを浮かべ、冷たい唇を押し当てる、銀髪の夢魔の存在に。

じじん【自刃】

刀物で自分の生命を絶つこと。

【忌憚】

2 遠慮すること。多く、否定の語を伴って用いられる。

はがんいっしょう【破顔一笑】

顔をほころばせて、にっこり笑うこと。