15.魔天戦役(5)
義弟達には強気に言ったものの、天帝の部屋の前にやって来たアスベエルの体は、はた目にも分かるほど震えていた。
「天帝様にお目通りを……て、天使長様のことで、ぜひとも、ご報告申し上げたいことが……」
蚊の鳴くような声で、
槍を手にした天使達は顔を見合わせ、ざわついた。
「何、天使長様?」
「またやらかしたのか、あの方は?」
「あんなことがあったばかりで……」
「お前達、声が大きいぞ。しばし待たれよ、看守長殿。取り次ぎをして参るゆえ」
一人がたしなめ、くるりと
「し、失礼致します……」
すぐに許可が下り、入室したアスベエルは、その場に平伏した。
「て、天帝様、や、夜分遅く、も、申し訳、ございません……」
「ミカエルが、またも、何やら仕出かしおったのか?
もそっと近こう寄れ。そこでは声もよう聞こえぬ」
「……は」
アスベエルは、力の入らない足を踏ん張って何とか立ち上がり、ソファでくつろぐ天帝の前に進み出て、膝を着く。
灰色の眼に冷たく観察されながら、彼は、つい先ほどの出来事を、たどたどしくはあったが、詳細に申し述べた。
「……なるほどの。余に報告したその足で、左様なことを……」
天帝は、灰白のあごひげをなでた。
「……はい。
サリエルも、ようやく、落ち着きを、見せ始めたところで、ございましたのに……自分の分身が、手荒に扱われた、ことから……再び、心を乱し始めて、おります……。
ど、どうか……天帝様の、お慈悲をもちまして……ホムンクルスを、戻して頂きたく……お願いに、参上致した、次第で、ございます、何とぞ……」
アスベエルは、頭を床にすりつけた。
「……ふうむ。ミカエルめにも困ったものじゃ……」
顔をしかめ、天帝は腕組みをした。
ここぞとばかり、アスベエルは言った。
「実は、天使長様の、サリエルへの執着は……並々ならぬものが、ございますようで……どうやら、いずれは……本人に、
つ、ついでに申し上げれば……わたしのことも、ご
その時。
「ひいお祖父様、失礼します」
ノックの音がして、フレイアが天帝の部屋に入って来た。
「おう、フレイア、……」
「お休みのごあいさつに参りましたの。
……で、アスベエル、ミカエルがどうかして?」
「フ、フレイア様……いえ、あの……」
予想外の女神の登場に、アスベエルはうろたえて口ごもり、君主に視線を走らせた。
天帝は渋い顔でうなずく。
そこで、アスベエルは、事の
「まあ、勝手にホムンクルスを!?
せっかく、一緒に住まわせてあげたのに!」
「はい……サリエルが言うには、体目当てではないかと……」
「アスベエル、余計なことを申すな!」
天帝は声を
「は、申し訳……」
アスベエルは焦り、頭を下げた。
「体目当てですって!? 何ていやらしいの!」
「フレイア。憶測に過ぎぬ、真に受けるでないわ」
女神は、激しく首を振った。
「いいえ、ミカエルならやりかねませんわ、内通なんて、こじつけに決まってます!
そういえば、さっき、お前のことを所望とか言ってたわね、まさか……」
「お察しの通りで……」
「アスベエル!」
再び、天帝の
彼は、もう何も言えず、這いつくばって、床に頭をすりつけた。
「分かったわ。なら、お前が行って身代わりになりなさい、アスベエル。
そしたら、ミカエルも、大人しくホムンクルスを返すでしょ?」
「え!?」
その台詞に、アスベエルが凍りついたのは当然としても、天帝もぎょっとして、ひ孫娘に視線を送った。
アスベエルは、奈落の底に落ちていくような絶望感に囚われていた。
もう子供でもなく、身分の違いもあって、親しくすることは、当然許されない。
それでも、友人か、
天帝の曾孫である彼女にとって、自分は、ホムンクルス以下の存在なのだ……。
初めて触れたフレイアの心に、彼は打ちのめされていた。
「どうしたの、アスベエル。返事は?」
そんな彼の心中を知ってか知らずか、見下すように女神は尋ねた。
「……め、女神様の、ご命令と、あらば、……。
か、看守長アスベエル、命に代えましても、遂行、致します……」
どもりながらも、彼は、そう答えるしかなかった。
「そう。よく言ったわ、じゃあ、急ぎなさい。
ホムンクルスを取り上げられて、また、サリエルは泣いているんでしょ、可哀想に」
「は、はい……」
アスベエルは、がくがく震える膝に手をかけ、足を踏ん張ってどうにか立ち上がる。
「で、では、失礼、致します……」
やっとのことで頭を下げると、向きを変え、歩き出す。
こんなことなら、サマエルに、何もかも捧げてしまえばよかった……今さらながら、彼は思った。
たとえ、狂ってしまったとしても……いや、何も分からなくなって、その方が、よほど楽だったろうに。
部屋の外へ出るまでは泣くまいと、歯を食い縛り、重い足取りで前に進む。
出口までの距離が異様に長く感じられ、それでも、ようやく扉に手の届くところまで来たとき、またもドアがノックされた。
「失礼致します、ラファエル様がおいでになりました」
扉が開き、近衛兵が頭を下げると同時に、大天使が息せき切って駆け込んで来て、
「夜分遅くに失礼致します、アスベエルがこちらへ……」
「ラファエル様? どうし……」
後見人の顔を見た途端、看守長の体から力が抜けた。
「しっかりしろ、アスベエル」
前のめりに倒れかかる彼を、ラファエルが抱き留める。
「す、済みませ……」
「ルクバトが知らせてくれたのだ。
……お前がホムンクルスの代わりに、天使長様の所へ行くことになった、ともな」
ラファエルはそう言うと、天界の君主を見た。
「天帝様。いくら禁忌の子供とて、後見人のわたしを差し置いて、身柄を自由になさるのは……」
「いや、余は、必要あるまいと思うたのじゃが……」
「ひいお祖父様は関係ないわ、わたくしが命じたのよ、身代わりになるようにと」
女神が胸に手を当てると、大天使は眼を見開いた。
「何ですと!?」
「……いいんです、ラファエル様。俺、行きますよ。
女神様の、ご命令なら……命も惜しくない、ですから……」
後見人に支えられたまま、アスベエルは弱々しく微笑んだ。
涙をこらえながら。
ミカエルの元に行けば、散々
だが、どうせ赤ん坊のときに死んでいた身、義弟と愛する人のために死ねるなら、本望だった。
「フレイア様……」
ラファエルは、とがめるような視線を送ったが、女神は
「さっさと行きなさい、アスベエル! サリエルが可哀想じゃないの!?」
「お待ち下さい、彼が身代わりになったと知ったら、複製が戻って来ても、サリエルは喜びませんよ」
「知らないわよ、そんなの」
女神は、つんと横を向いた。
「フレイア様……!」
「二人共、もうよい」
大天使の気勢をそぐように、天帝が話に割って入った。
「アスベエルよ、そちの忠誠、しかと見届けた。
ホムンクルスを取り返すこと、許可する。
──カンジュア!」
天帝は、空中から羊皮紙を取り出し、現れた羽ペンは自動で文字を書き始める。
「ラファエル様、俺、もう大丈夫ですから」
その隙に、アスベエルは眼をこすり、どうにか体を起こした。
「ひいお祖父様……」
「何じゃ、不服かの? フレイア」
困った顔の女神を見上げ、天帝は尋ねた。
「いえ、素直に、ミカエルが返すかしらと思いまして……」
「問題なかろう。
ハニエルの件で呼び出したときには、余の命令書がないゆえ、ごねたようじゃからな」
「それならいいですけど……」
「ハニエル……あ、そういえば……」
女神は、はっと身を乗り出す。
「お前、何か知ってるの、彼女のこと?」
「いえ……直接関係はないのですが、ご報告し忘れていたことが。
……女天使達は、パニックになりかけているようなのです、エレアのこともあるので……」
「エレアって?」
女神が小首をかしげると、天帝は再び苦々しい顔つきになった。
「アスベエル、余計なことは……」
「思い出したわ、あの、人界から兄妹で来た天使ね。まさか、あの娘も……?」
問われた看守長は、君主の顔色を
天帝は、不快極まりない表情をした。
「……セリンじゃな、他言無用と申し付けておいたに」
「い、いえ、彼に聞いたわけでは……」
とっさに、アスベエルはセリンをかばった。
お前達になら話してもいいと彼は言った……つまり、他者には話していないということで、あながち嘘でもない。
「ほう。ならば、何ゆえ、そちの耳に入ったのじゃ?」
「そ、それは……目撃した者が……おりまして……それで、その……」
もぐもぐと弁解する彼に、助け舟を出したのはラファエルだった。
「天帝様、白昼の屋外でのことゆえ、目撃者も複数おりましたようで、噂が広まったのでございましょう。
たしかに、神々との婚姻の機会を奪われるのみならず、命まで……となれば、女天使ならずとも、
「え、命って、まさか、殺されたの!?」
女神は息を呑んだ。
「
ラファエルは軽く頭を下げた。
「何てこと……可哀想に……」
金の瞳をうるませると、フレイアは曽祖父に詰め寄った。
「ひいお祖父様、ミカエルは以前、ハニエルの部下をそそのかして
そのときから、女天使達を狙っていたに違いありませんわ!」
天帝は
「左様な
「噂などではございません、メタトロンが、その部下の調書もちゃんと取っておりますのよ。
そして、その企みを阻止したのがウリエルでしたの、ミカエルは、逆恨みして彼を殺したのですわ!」
「何じゃと!?」
天帝は眼を剥いた。
「あんな最低で危険な男を、なぜ天使長にしておくのですか、ひいお祖父様!
あいつに感化されて風紀が乱れ、女天使達は身の危険を感じるようになっている、メタトロンは、そうも申しておりましたわ!
女神達も、サマエルが処刑前に言ったことには一理ある、敵ではあるけれど、拍手を贈りたいと、申しているほどですのよ!」
女神は、胸のつかえを下ろすようにまくし立てた。
「……むう。知らなんだわ、左様な事態に至っておったとはな」
ようやく事の重大さを理解した天帝は、険しい顔で指を鳴らす。
羽ペンが文字を書き終えると、羊皮紙をアスベエルに渡した。
「看守長、
ホムンクルスを取り返し、
「御意」
アスベエルは頭を下げた。
「今後もミカエルに限らず、何かあらば余に知らせるのじゃ、よいな」
「……ご命令のままに。では、これにて……」
「失礼致します、天帝様、女神様」
深々と礼をし、二人の大天使は共に部屋を出た。
せんせんきょうきょう【戦戦恐恐/戦戦兢兢】
おそれて、びくびくするさま。おそれつつしむさま。
じゅうめん【渋面】
しぶい表情。不愉快そうなにがにがしい顔つき。しかめっつら。
いわれ【謂れ】
《動詞「い(言)う」の未然形+受身の助動詞「る」の連用形から》1 物事が起こったわけ。理由。
たれびと【誰人】
不定称の人代名詞。なんという人。なんぴと。
ふいちょう【吹聴】
言いふらすこと。言い広めること。