~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

15.魔天戦役(5)

義弟達には強気に言ったものの、天帝の部屋の前にやって来たアスベエルの体は、はた目にも分かるほど震えていた。
「天帝様にお目通りを……て、天使長様のことで、ぜひとも、ご報告申し上げたいことが……」
蚊の鳴くような声で、近衛(このえ)兵に用件を告げる。

槍を手にした天使達は顔を見合わせ、ざわついた。
「何、天使長様?」
「またやらかしたのか、あの方は?」
「あんなことがあったばかりで……」
「お前達、声が大きいぞ。しばし待たれよ、看守長殿。取り次ぎをして参るゆえ」
一人がたしなめ、くるりと(きびす)を返す。

「し、失礼致します……」
すぐに許可が下り、入室したアスベエルは、その場に平伏した。
「て、天帝様、や、夜分遅く、も、申し訳、ございません……」
「ミカエルが、またも、何やら仕出かしおったのか?
もそっと近こう寄れ。そこでは声もよう聞こえぬ」

「……は」
アスベエルは、力の入らない足を踏ん張って何とか立ち上がり、ソファでくつろぐ天帝の前に進み出て、膝を着く。
灰色の眼に冷たく観察されながら、彼は、つい先ほどの出来事を、たどたどしくはあったが、詳細に申し述べた。

「……なるほどの。余に報告したその足で、左様なことを……」
天帝は、灰白のあごひげをなでた。
「……はい。
サリエルも、ようやく、落ち着きを、見せ始めたところで、ございましたのに……自分の分身が、手荒に扱われた、ことから……再び、心を乱し始めて、おります……。
ど、どうか……天帝様の、お慈悲をもちまして……ホムンクルスを、戻して頂きたく……お願いに、参上致した、次第で、ございます、何とぞ……」
アスベエルは、頭を床にすりつけた。

「……ふうむ。ミカエルめにも困ったものじゃ……」
顔をしかめ、天帝は腕組みをした。
ここぞとばかり、アスベエルは言った。
「実は、天使長様の、サリエルへの執着は……並々ならぬものが、ございますようで……どうやら、いずれは……本人に、夜伽(よとぎ)をさせる、おつもりのご様子……。
つ、ついでに申し上げれば……わたしのことも、ご所望(しょもう)とか……」

その時。
「ひいお祖父様、失礼します」
ノックの音がして、フレイアが天帝の部屋に入って来た。
「おう、フレイア、……」
「お休みのごあいさつに参りましたの。
……で、アスベエル、ミカエルがどうかして?」
「フ、フレイア様……いえ、あの……」
予想外の女神の登場に、アスベエルはうろたえて口ごもり、君主に視線を走らせた。

天帝は渋い顔でうなずく。
そこで、アスベエルは、事の顛末(てんまつ)をざっと説明した。
「まあ、勝手にホムンクルスを!?
せっかく、一緒に住まわせてあげたのに!」
「はい……サリエルが言うには、体目当てではないかと……」

「アスベエル、余計なことを申すな!」
天帝は声を(あら)らげた。
「は、申し訳……」
アスベエルは焦り、頭を下げた。
「体目当てですって!? 何ていやらしいの!」
「フレイア。憶測に過ぎぬ、真に受けるでないわ」

女神は、激しく首を振った。
「いいえ、ミカエルならやりかねませんわ、内通なんて、こじつけに決まってます!
そういえば、さっき、お前のことを所望とか言ってたわね、まさか……」
「お察しの通りで……」
「アスベエル!」
再び、天帝の叱責(しっせき)が飛ぶ。

彼は、もう何も言えず、這いつくばって、床に頭をすりつけた。
「分かったわ。なら、お前が行って身代わりになりなさい、アスベエル。
そしたら、ミカエルも、大人しくホムンクルスを返すでしょ?」
「え!?」
その台詞に、アスベエルが凍りついたのは当然としても、天帝もぎょっとして、ひ孫娘に視線を送った。

アスベエルは、奈落の底に落ちていくような絶望感に囚われていた。
もう子供でもなく、身分の違いもあって、親しくすることは、当然許されない。
それでも、友人か、幼馴染(おさななじみ)くらいには思っていてくれるものと思い込んでいた……なのに。
天帝の曾孫である彼女にとって、自分は、ホムンクルス以下の存在なのだ……。
初めて触れたフレイアの心に、彼は打ちのめされていた。

「どうしたの、アスベエル。返事は?」
そんな彼の心中を知ってか知らずか、見下すように女神は尋ねた。
「……め、女神様の、ご命令と、あらば、……。
か、看守長アスベエル、命に代えましても、遂行、致します……」
どもりながらも、彼は、そう答えるしかなかった。

「そう。よく言ったわ、じゃあ、急ぎなさい。
ホムンクルスを取り上げられて、また、サリエルは泣いているんでしょ、可哀想に」
「は、はい……」
アスベエルは、がくがく震える膝に手をかけ、足を踏ん張ってどうにか立ち上がる。

「で、では、失礼、致します……」
やっとのことで頭を下げると、向きを変え、歩き出す。
こんなことなら、サマエルに、何もかも捧げてしまえばよかった……今さらながら、彼は思った。
たとえ、狂ってしまったとしても……いや、何も分からなくなって、その方が、よほど楽だったろうに。

部屋の外へ出るまでは泣くまいと、歯を食い縛り、重い足取りで前に進む。
出口までの距離が異様に長く感じられ、それでも、ようやく扉に手の届くところまで来たとき、またもドアがノックされた。

「失礼致します、ラファエル様がおいでになりました」
扉が開き、近衛兵が頭を下げると同時に、大天使が息せき切って駆け込んで来て、(あわただ)しく礼をした。
「夜分遅くに失礼致します、アスベエルがこちらへ……」

「ラファエル様? どうし……」
後見人の顔を見た途端、看守長の体から力が抜けた。
「しっかりしろ、アスベエル」
前のめりに倒れかかる彼を、ラファエルが抱き留める。
「す、済みませ……」

「ルクバトが知らせてくれたのだ。
……お前がホムンクルスの代わりに、天使長様の所へ行くことになった、ともな」
ラファエルはそう言うと、天界の君主を見た。
「天帝様。いくら禁忌の子供とて、後見人のわたしを差し置いて、身柄を自由になさるのは……」

「いや、余は、必要あるまいと思うたのじゃが……」
「ひいお祖父様は関係ないわ、わたくしが命じたのよ、身代わりになるようにと」
女神が胸に手を当てると、大天使は眼を見開いた。
「何ですと!?」

「……いいんです、ラファエル様。俺、行きますよ。
女神様の、ご命令なら……命も惜しくない、ですから……」
後見人に支えられたまま、アスベエルは弱々しく微笑んだ。
涙をこらえながら。
ミカエルの元に行けば、散々(なぶ)られ、しまいには殺されるだろう。
だが、どうせ赤ん坊のときに死んでいた身、義弟と愛する人のために死ねるなら、本望だった。

「フレイア様……」
ラファエルは、とがめるような視線を送ったが、女神は居丈高(いたけだか)に言い放った。
「さっさと行きなさい、アスベエル! サリエルが可哀想じゃないの!?」
「お待ち下さい、彼が身代わりになったと知ったら、複製が戻って来ても、サリエルは喜びませんよ」
「知らないわよ、そんなの」
女神は、つんと横を向いた。
「フレイア様……!」

「二人共、もうよい」
大天使の気勢をそぐように、天帝が話に割って入った。
「アスベエルよ、そちの忠誠、しかと見届けた。
ホムンクルスを取り返すこと、許可する。
──カンジュア!」
天帝は、空中から羊皮紙を取り出し、現れた羽ペンは自動で文字を書き始める。
「ラファエル様、俺、もう大丈夫ですから」
その隙に、アスベエルは眼をこすり、どうにか体を起こした。

「ひいお祖父様……」
「何じゃ、不服かの? フレイア」
困った顔の女神を見上げ、天帝は尋ねた。
「いえ、素直に、ミカエルが返すかしらと思いまして……」
「問題なかろう。
ハニエルの件で呼び出したときには、余の命令書がないゆえ、ごねたようじゃからな」
「それならいいですけど……」

「ハニエル……あ、そういえば……」
失踪(しっそう)した女天使の名を聞いたアスベエルは、思わず口走っていた。
女神は、はっと身を乗り出す。
「お前、何か知ってるの、彼女のこと?」

「いえ……直接関係はないのですが、ご報告し忘れていたことが。
……女天使達は、パニックになりかけているようなのです、エレアのこともあるので……」
「エレアって?」
女神が小首をかしげると、天帝は再び苦々しい顔つきになった。
「アスベエル、余計なことは……」

「思い出したわ、あの、人界から兄妹で来た天使ね。まさか、あの娘も……?」
問われた看守長は、君主の顔色を(うかが)う。
天帝は、不快極まりない表情をした。
「……セリンじゃな、他言無用と申し付けておいたに」

「い、いえ、彼に聞いたわけでは……」
とっさに、アスベエルはセリンをかばった。
お前達になら話してもいいと彼は言った……つまり、他者には話していないということで、あながち嘘でもない。
「ほう。ならば、何ゆえ、そちの耳に入ったのじゃ?」

「そ、それは……目撃した者が……おりまして……それで、その……」
もぐもぐと弁解する彼に、助け舟を出したのはラファエルだった。
「天帝様、白昼の屋外でのことゆえ、目撃者も複数おりましたようで、噂が広まったのでございましょう。
たしかに、神々との婚姻の機会を奪われるのみならず、命まで……となれば、女天使ならずとも、戦々恐々(せんせんきょうきょう)致し、寄ると触るとその話を持ち出しますのも、無理からぬことと存じますが」

「え、命って、まさか、殺されたの!?」
女神は息を呑んだ。
御意(ぎょい)……」
ラファエルは軽く頭を下げた。
「何てこと……可哀想に……」
金の瞳をうるませると、フレイアは曽祖父に詰め寄った。
「ひいお祖父様、ミカエルは以前、ハニエルの部下をそそのかして誣告(ぶこく)させ、彼女を陥れようとした前科があるのです!
そのときから、女天使達を狙っていたに違いありませんわ!」

天帝は渋面(じゅうめん)を作った。
「左様な(いわ)れなきことを、誰人(たれびと)吹聴(ふいちょう)しておるのじゃ?」
「噂などではございません、メタトロンが、その部下の調書もちゃんと取っておりますのよ。
そして、その企みを阻止したのがウリエルでしたの、ミカエルは、逆恨みして彼を殺したのですわ!」
「何じゃと!?」
天帝は眼を剥いた。

「あんな最低で危険な男を、なぜ天使長にしておくのですか、ひいお祖父様!
あいつに感化されて風紀が乱れ、女天使達は身の危険を感じるようになっている、メタトロンは、そうも申しておりましたわ!
女神達も、サマエルが処刑前に言ったことには一理ある、敵ではあるけれど、拍手を贈りたいと、申しているほどですのよ!」
女神は、胸のつかえを下ろすようにまくし立てた。

「……むう。知らなんだわ、左様な事態に至っておったとはな」
ようやく事の重大さを理解した天帝は、険しい顔で指を鳴らす。
羽ペンが文字を書き終えると、羊皮紙をアスベエルに渡した。
「看守長、()くミカエルの元へ参れ。
ホムンクルスを取り返し、彼奴(きゃつ)に出頭を命じよ」
「御意」
アスベエルは頭を下げた。

「今後もミカエルに限らず、何かあらば余に知らせるのじゃ、よいな」
「……ご命令のままに。では、これにて……」
「失礼致します、天帝様、女神様」
深々と礼をし、二人の大天使は共に部屋を出た。

せんせんきょうきょう【戦戦恐恐/戦戦兢兢】

おそれて、びくびくするさま。おそれつつしむさま。

じゅうめん【渋面】

しぶい表情。不愉快そうなにがにがしい顔つき。しかめっつら。

いわれ【謂れ】

《動詞「い(言)う」の未然形+受身の助動詞「る」の連用形から》1 物事が起こったわけ。理由。

たれびと【誰人】

不定称の人代名詞。なんという人。なんぴと。

ふいちょう【吹聴】

言いふらすこと。言い広めること。