~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

15.魔天戦役(4)

その夜、天界にて。
沈鬱(ちんうつ)な面持ちで、大天使ミカエルは天帝の部屋に入って行った。
「ご報告致します……。我が軍はほぼ壊滅……わたしのホムンクルスも、討ち死にとのことで……」

天帝は、渋い顔をして、天使長の報告を受けた。
「相わかった。して、結界を解くよう命じておいた工作員どもは、いかが致した?」
大天使は、うなだれた。
「……は。いまだ連絡はなく、……」

「そちらも失敗、か」
「いえ、今少しご猶予(ゆうよ)を頂ければ、必ずや……」
ミカエルの弁解が耳に入った風もなく、天帝は首をひねった。
「むう、何ゆえじゃ?
我が計画は完璧のはず……よもや、内通者でも……」

大天使は顔色を変えた。
「ま、まさか、そのような。
強固な天界の結界越しに、魔界と連絡を取ることが出来る者がいようなどとは思えませぬ」
「……ふむ、たしかにそうじゃ、考え過ぎかの。
では、一晩対策を練るゆえ、明朝一番で会議を召集致すとしよう」
「心得ました」

「ところでじゃ。そちは、サマエルの死体を埋めるに、立ち会ったのであろう?
まこと、彼奴(きゃつ)に相違なかったじゃろうな」
「無論でございます。丸裸にし、隅々まで検分致しました、しかと相違ございませんでしたとも」
ミカエルの声は、いかにも心外だと言う響きを帯びていた。

天帝は額に手を当て、ため息をついた。
「ならばよいが……。
しぶとい夢魔め、我が眠りに()きおって、毎夜悪夢を見せおる。
天界は終焉(しゅうえん)を迎え、すべてが無に帰す、などと申して、せせら笑いおるのじゃ……」
「夢ごときをお気になさるので!?」
ミカエルは思わず大声を出した。

「やめよ、頭に響くわ」
天帝は眉をしかめた。
「も、申し訳ございませぬ」
慌てて、大天使は頭を下げた。
「例の、呪いの言葉があるゆえじゃ。
死に際の念は最も強い……まして、あやつは紅龍、気にもなろうと申すもの」

一瞬首をかしげた後、ミカエルはまくしたて始めた。
「左様なことより、出撃命令を(たまわ)りませ!
必ずや、勝利をもたらしてご覧に入れましょうぞ!」
天帝の表情は苛立たしげになった。
「何を申すか、複製が討ち死にしたのならば、そちが出陣しようとも、結果は同じであろうが。
もうよい、大儀であった」

「は……失礼致します」
ミカエルもまた、不機嫌な顔で退去した。
「くそ、面白くない……お、そうだ」
不意に足を止めた大天使は、ニヤリと笑い、再び歩き出した。

着いたのは、サリエルの部屋だった。
「通るぞ」
「許可なき入室は禁止されております、天使長“様”」
監視役の大天使は、敬称であるはずの“様”を、蔑称(べっしょう)でもあるかのように言い、槍を突きつけた。

「貴様、何だ、その態度は! 天使の長たる我に向かって!」
ミカエルは吼えたが、監視役はひるまない。
「ご自分の胸にお聞きになればよろしいでしょう。
ともかく、許可がなくばお通し出来ません!」
「うるさいわ!」
「ぐあっ」
ミカエルは、天使を思い切り殴り飛ばし、手荒くドアを開けた。

ソファで話していたサリエルと彼の複製、そして、アスベエルは、突然の乱入に息を呑んだ。
「ホムンクルス!」
どちらが本物のサリエルか分からなかったミカエルは、苛立たしげに呼ばわった。

「は、はい、天使長様。わたしですが」
慌てて、リナーシタは立ち上がった。
「貴様、天界に反逆を企てているのであろう、正直に白状しろ!」
「……何のことですか?」
天使長に指を突きつけられたホムンクルスは、きょとんとした。

アスベエルも立ち上がり、かばうように前に出た。
「ミカエル様、何を仰っているんですか。
こいつには、ご自身でマインドコントロールを施し、虫も埋め込んだんでしょうが。
お忘れなんですか?」
そのどちらもが、とうの昔に取り払われていることなどおくびにも出さずに、彼はあきれた風を装った。

大天使は言葉に詰まった。
「む……。だが、天帝様が、内通者がいるのではないかと仰って……」
「ですが、裏切ったら、生きてられませんよ」
「だが、調べる価値はある、こやつは、サマエルめの息子の複製なのだぞ!」
天使長は、憎々しげに複製を揺さぶる。

「そう仰いますが、そもそも、天界の結界越しに、どうやって魔界と連絡を取るんです?」
「黙れ! 天使の長たる我が(げん)を疑うか!」
つい先ほど、天帝と同じ会話を交わしたミカエルは苛々ついて怒鳴ったが、すぐにニヤリと、またも嫌な笑みを浮かべた。

「なぁに、何もなければ返してやる。
さあ、来い!」
「ちょ、ちょっとお待ちを、天使長様……!」
止める看守長を振り切って、大天使は乱暴にドアを開け、引きずるように複製を連れていった。

「まったく……あ」
眉をひそめてそれを見送ったアスベエルは、回廊に倒れている天使に気づき、揺さぶった。
「おい、どうした、大丈夫か?」
「う……入室を断ったら、いきなり殴られて……つっ」
監視役の天使は、顔をしかめて頭を振り、槍を支えに立ち上がろうとして、よろめいた。

「痛むのか? 中で少し休むといい」
「……済まない」
アスベエルは、監視役に肩を貸し、部屋のソファに座らせた。
その天使の顔を、心配そうにサリエルが覗き込む。
「大丈夫?」
「いえ、大したことは。申し訳ない、サリエル殿。監視の役に立てず……」

サリエルは首を振る。
「ううん、僕が逃げないように見張るのがお役目なんだから、仕方ないよ。
でも……内通なんて口実で、ベッドに連れ込む気なんじゃないかな……。
ミカエルはいつも、なめ回すようないやらしい眼で、僕を見てるんだ……」
自分の肩を抱き、少年はぶるっと身を震わせた。

「ええっ、体目当て!?」
アスベエルが眼を剥くと、サリエルは暗い顔になった。
「言っとくけど、お前も狙われてるよ。
毛色が変わってて楽しめそうだとか、舌なめずりしてたことがあるし……」

「げげっ、嘘だろ……!?
それだけはごめんこうむりたいぜ……ああ、もう、誰か、マジに何とかして欲しいよ……!」
看守長は、怖気(おじけ)をふるって頭を抱えた。

「……本当に体目当てなら、生きて帰って来られない、かもな」
監視役の天使はつぶやいた。
「えっ?」
「どういう意味だよ!」
振り返ったサリエルとアスベエルに、天使は別の答えを返した。
「わたしの妹は、あいつに殺された……」

「何だって!?」
アスベエルは息を呑む。
手篭(てご)めにされそうになり、抵抗して……ミカエルなど、長とは名ばかり、(けだもの)のごとき最低の男だよ。
しかも、蘇生をお願いしたら、ホムンクルスは対象外、と来たものだ……!」
天使は歯噛みした。

「何だよ、それ?」
「……わたしは騙されていたのだ。妹だと思っていたのは、ホムンクルスだった……。
魔族と敵対していたわたしを取り込むために、天帝様は妹の複製を創り、……いや、そのことはもういい……だが、」
監視役の天使は、頭を抱えた。

アスベエルは義弟と顔を見合わせ、それから尋ねた。
「なあ、セリン。よかったら、詳しく話してくれないか?
妹って……えと、エレノアだっけ? 彼女が複製だって?」

すると、セリンは、ゆっくりと顔を上げた。
金髪碧眼(へきがん)ではあるが、他の天使達とは少し違う、どこか異国的な美しさを彼は持っていた。
「エレアだ。……そうだな、サリエル殿とお前になら、話してもいい。
わたしは、てっきり、人界で死んだ妹が蘇生されたのだとばかり思っていたのだ。
……あ、わたしが人族出身だと言うことは?」

アスベエルはうなずく。
「ああ、知ってるよ。二人が天界に来たときは、かなり話題になったし」
「女性が、女神じゃなく大天使になった、っていうのも珍しかったもんね」
サリエルも相槌(あいづち)を打つ。

「そう、物珍しさも手伝ってか、妹は、神のお一人に見初められ……とんとん拍子に話は進み、式の日取りも決まって……その矢先だった、ミカエルに襲われたのは……。
偶然、塔の上からそれを見かけた、神のお一人が、助けに向かって下さり……わたしも、妹の念話を聞いて駆けつけた……が、時すでに遅く……ううっ」
セリンは顔を覆った。

「だ、大丈夫?」
「……ごめん、辛い話をさせたな、もういいよ」
サリエルとアスベエルが、両側から天使の背をさする。
「いや、いいのだ。取り乱して済まない」
涙をぬぐい、セリンは再び話し始めた。

「お相手の神は、エレアが複製と知ると、蘇生の嘆願を取り下げてしまった……。
納得出来ず、食い下がったわたしに、天帝様は、こともあろうに、戦で武勲(ぶくん)をあげれば、新たに複製を創ってやると……。
そんなものはいらない……天界で苦楽を共にした“あのエレア”こそが、妹なのに……うう……エレアを返せ、返してくれ……!」
天使は、むせび泣き始めた。

「分かるよ。僕も……リナーシタはもう弟だから。
新しい子をくれるって言われても……うっく」
サリエルも、もらい泣きしていた。
「……くそ、もう我慢できない!」
アスベエルは、すっくと立ち上がった。

「ど、どうしたの、アスベエル?」
驚いて、サリエルが泣きやむ。
「俺、天帝様に報告して、リナーシタを取り戻して頂くよ」
「天帝様に!? 殺されるよ!」
「直訴は死罪だぞ!」
サリエルとセリンは、同時に叫んだ。

「行っちゃダメ! 死なないで、アスベエル!」
ひしと取りすがる義弟の体が、小刻みに震えている。
「そうだ、みすみす殺されに行くなど!」
セリンも体の痛みを忘れて起き上がり、彼を止めにかかった。

「大丈夫だよ、二人共、落ち着いてくれ。
元々、天帝様から、ミカエルの監視を命ぜられてたんだ。
報告なんだから、手討ちにはされないさ」
「そ、そうだったね……」
サリエルは、ほっと息をつく。

セリンも力を抜いた。
「……そうか。気休めになるか分からないが、たとえお前が死ぬことになっても、蘇生はされない、無闇に苦しめられる心配はないと、教えておこう」
「そうだな、俺は禁忌(きんき)の子供だから……」

「いや、そうではなくね。
天帝様が仰ったのだよ、蘇生は命を削る危険な術だ、たかが複製ごときに使えるか、と。
そのとき、悟ったのだ。自殺者を蘇生させ、地下室で切り刻むなどとは真っ赤な嘘、子供をベッドに追いやる(たぐい)の、脅し文句に過ぎないのではないか、とね」
セリンは静かに言った。

「ふうん……それを皆、真に受けてたってわけか。
あ、そういや、俺達が知ってる蘇生の術は、自分の命と引き換えだもんな……何で、今まで誰も気づかなかったんだろう」
「多分、わたしが外の世界の出身だからだよ。
中では見えない事も、視点を変えれば見えて来る……」
「なるほどな……あ、俺、もう行くよ、リナーシタが心配だ」

「あと一つ、ミカエルのせいで、女天使達がパニックを起こしかけている、そう申し上げてくれ」
「え、パニック? 何で?」
「神に見初められれば、玉の輿(こし)も夢ではないが、ミカエルに襲われたらその希望も(つい)える。
まして、抵抗すれば命まで……となったら?
皆、エレアが複製とは知らないし、わたしも口止めされている」
「……そうか、報告しておくよ」

「アスベエル、必ず帰って来てよ」
眼に涙を溜めて、サリエルは彼の手をぎゅっと握る。
「ああ、大丈夫だって」
アスベエルは、無理に笑みを浮かべて華奢(きゃしゃ)な手を握り返し、部屋を出た。

べっしょう【蔑称】

相手や第三者、またはその動作や状態をさげすんでいう言い方。

怖気(おじけ、おぞけ)をふるう

恐怖で体がふるえる。こわがる。
 「ふるう」は「振るう」「震う」両方書く。

(注)久しぶりに登場した『セリン』は、「巻の二/ジュエル・ベアラー/貴石を帯びし者」で、“黯黒の眸”に操られていた、“三つの大陸”の王です。
あの時、天使となって彼を迎えに来たのは、エレア本人ではなく妹の複製だった、ということになるわけです。