15.魔天戦役(3)
場所は再び、魔界。要石の間にて。
アザゼルの振りかざす鋭い刃が、よける間もなく、ニュクスの体に食い込んだと見えた、その時!
紅と金の輝きが天使に飛びつき、剣を跳ね飛ばした。
「だ、誰だっ!?」
アザゼルは手を押さえ、叫んだ。
『我が兄弟に
深い響きの声が答えた。
「お、お前は、シンハ!?」
巨大な黄金のライオンは、紅い炎のたてがみを波打たせ、剣を足下に踏みつけて、アザゼルを睨みつけていた。
「わたしもいるぞ」
いつの間にか、堕天使シェミハザが、その背後に立っていた。
「お、お前達……さっき出立したのでは……?」
自分の眼が信じられずに、アザゼルは、二人を見比べる。
「わたしは熾天使を身代わりに立て、シンハ様には、使い魔アルピダが化けていたのさ。
お前を罠にはめると聞いたときには、正直、いい気持ちはしなかったが。
やはり偽者だったか……」
少し悲しげに、シェミハザは答えた。
「く、泳がされていたのか……!」
偽のアザゼルは、口惜しげに顔をゆがめた。
「初戦はともかく、魔界に攻めて来た天使までが、続々と投降するなんておかしいだろう、投降防止の策を講じないなんて、天界らしくもない。
それに、お前の記憶障害も、少々不自然だったぞ、偽アザゼル。
もっとも、シンハ様に注意を喚起して頂かなければ、気づけなかったかも知れないが」
「お陰で、わたしが氷漬けにされてしまった……うう、まだぞくぞくするぞ」
偽天使とすっかり同じ声がした。
「だから、寝ていろと言ったろう、アザゼル」
シェミハザが振り向く。
「何を言う、自分の偽者が悪さを働いているときに、寝てなどいられるか!」
本物のアザゼルがそこにいて、寒そうに腕をこすっていた。
「わたしの複製よ、堕天使が寝返った理由は知っているだろう。
連中の命令など聞くな、お前も仲間になれ」
「……それが出来たら、とっくにやっている!
わたしはお前が妬ましい……!
自由を手にし、ガブリエルまで手に入れようとしているお前が……!」
悔しげに偽アザゼルが言ったそのとき、鋭い声が飛んで来た。
「お前達、こいつの命が惜しかったら、結界を解きなさい!」
はっとした皆の眼をやると、大天使ガブリエルが、ニュクスを捕らえ、炎の短剣を突きつけているところだった。
『ガブリエル!? 何ゆえここに!?』
シンハが叫ぶ。
「そこのホムンクルスの後をつけて来ただけよ。
ああ、何て幸運かしら、大人しくなった振りをして、脱出の機会を
さあ、お前達、早く結界を解除しなさい、さもないと……!」
ガブリエルは、王妃の顔に、じりじりと短剣を近づけた。
「
「お黙り! ミカエル様は生きておられた、わたしは天界に帰るわ!
さあ、早く結界を解き、わたしとそいつを解放するのよ!」
すると、ホムンクルスの表情が曇った。
「残念ですが、ガブリエル様。天界にはお戻りになれませんよ……」
「まあ、お前、何を言うの!?」
偽者は、暗い目つきで答えた。
「……わたしが受けた指令は、次の通りです。
投降した振りをして汎魔殿に入り込み、本物のアザゼルを殺してすり替わり、結界を破壊せよ。
同時に、魔界にいる天使は皆、裏切り者とみなして抹殺せよ、とも……」
「どうして!? わ、わたしは寝返ってなんかないわ!」
ガブリエルは血の気が引いた顔で、胸に手を当てた。
「わたしもそう思い、ガブリエル様のように、意に反して捕らえられた場合はいかがしますかと、お尋ねしたのですが。
天帝様は仰いました……
処刑するもおこがましい、欲しいなら、お前が奴隷として飼えばよい、と……。
──うぐっ、し、心臓が……!」
話の途中で、突如、偽アザゼルは胸を押さえ、苦しみ出した。
「どうした、ホムンクルス!?」
アザゼルが駆け寄り、自分の複製を抱き止めた。
「こ、ここに……む、虫が、埋め込まれて、いる……め、命令に、背いたら……生きながら、内臓を、食い、尽され……死ぬ、のだ……くっ、ぐあっ……」
複製は冷や汗を流し、もがきながら答えた。
「惨いことを! わたしが取ってやる!」
「も、もう遅い、離せ!」
「あっ!」
アザゼルを突き飛ばしたホムンクルスは、よろめきながらガブリエルの元へ向かう。
「わ、たし……あなた、を……逃がした、くて、来ま、した……でも、もう、手遅れ、です……虫に、食い、殺され、前に……その、短剣で……あ、なたの手で、殺し、て、下さ、い……!」
「え……!?」
怯えたように、大天使は後ずさる。
「は、早く……痛、苦し、……!」
複製は、必死の面持ちで、手を差し伸べた。
「で、出来ないわ、そんなこと……」
ガブリエルが首を振ると、偽アザゼルは眼をうるませ、弱々しく微笑んだ。
それから、短剣を持つ彼女の手を包み込むように握り締め、そのまま、自分の胸に突き刺した。
「きゃあ!」
大天使は悲鳴を上げる。
「さよ、なら……本物の、アザ、ゼル、を……う、受け入れ、て、やって……下さ……」
次の瞬間、ホムンクルスは激しい炎に飲み込まれ、残されたのは、わずかな灰だけだった。
『……哀れとしか申せぬな。
さて、ガブリエルよ、剣を渡してはもらえぬか?』
シンハが穏やかに声をかけると、大天使は焦げた床の上に、からりと短剣を投げ出した。
シェミハザがそれを拾う。
ガブリエルは乾いた声で言った。
「わたくしは……もう、帰るところがないのね。
……お前、わたくしを、奴隷として飼うの?」
呆然としていたアザゼルは、声をかけられて正気づき、きっぱりと答えた。
「そんなことは致しません。
妻になるのがお嫌なら、それでも構いませんから、わたしがお仕えすることをお許し下さい」
「……好きにすればいいわ」
静かにガブリエルは答え、姿を消した。
『大事無いか、“黯黒の眸”』
シンハは、ニュクスに声をかけた。
「いかほどの
黒衣の美女はしゃがみ込み、ホムンクルスの遺灰をすくい上げた。
「あなた様に危害を加えた不届き者を、哀れと
アザゼルがおずおずと尋ねる。
「好んで
ニュクスは、遺灰を堕天使の掌へと落とした。
「は。お礼の言葉もございません」
受け取ったアザゼルは、深々と頭を下げた。
シンハは、念話で、魔界王に事の次第を報告した。
“……かような仕儀にて落着、魔界にては、もはや何事も起こらぬであろう”
“だといいがな”
タナトスは、あえて人質交換の件には触れず、シンハも尋ねなかった。
“よし、では、加勢に来てくれ。
たわけミカエルの胸糞悪い態度のせいで、シュネとリオンがぶち切れ、手がつけられん状態に……むっ!”
魔界王は、急に言葉を切った。
“いかがいたした、黔龍”
“シュネがミカエルを捕えた。翼をもぎ取っているところだ。
止めに行かねば。俺の楽しみを取られてなるか!”
“……我も疾く参る、生かしておいてもらいたいが”
“努力はしてやる、早く来い!”
『我は亜空間へ参る。後始末並びに留守居役、申し渡したぞ、シェミハザ、アザゼル。
──ムーヴ!』
返事も待たず、化身は移動呪文を唱えた。
彼の心は、すでに戦場へと
サマエルの生首を見て、魔族がひるむと天帝が考えていたなら、誤算もいいところだった。
哀れなホムンクルスの死と、サマエルの無惨な生首は、強大な力を持て余し、恐る恐る戦っていたリオンと、ほとんど回復役に徹していたシュネ、彼らの怒りに火を着けてしまったのだ。
いつも先陣を切る黔龍をさて置いて、朱龍と碧龍に変化した二人は、真っ先に敵陣の中に飛び込み、
激しい戦いが続き、やがて、碧龍は鋭敏な視力で、遥か後方で指揮を取る、天使長の姿を捉えた。
群がる敵をなぎ倒してシュネは突進し、リオンが後を追う。
ミカエルが気づいたときには、すでに遅く、碧龍の前足にしっかりと捕縛されていた。
敵の血にまみれ、戦いの陶酔の中にあったシュネは、何のためらいもなく、大天使の翼に鋭い牙を食い込ませ、千切り取った。
「ぎゃああああ!」
大天使の絶叫が辺りに響き渡ったそのとき、タナトスが到着した。
“待て、シュネ。落ち着け、シンハが来るまで、生かしておけ!”
しかし、その頃には、龍達の様相は一変していた。
「グルルルル……!」
シュネは、血の滴る翼をくわえたまま、獣のようなうなり声を上げ、彼を
太陽を浴びてすくすく育つ若葉のように明るく澄んでいた彼女の瞳が、今は濁って、狂気の色を帯びていることに、魔界の王は気づいた。
“おい、シュネ、しっかりしろ!”
黔龍は鋭い尾で、碧龍の体をぴしりと打った。
「──グヮア!」
碧龍は苦痛の叫びを上げ、地団駄を踏んだ。
“駄目か……リオン、貴様はどうだ!”
彼は、朱龍も正気に返らせようとしたが、リオンは身をかわし、黔龍の尾に噛みついた。
“こ、こら、正気に戻れ、二人とも!”
タナトスの叫びも虚しく、二頭の龍は、あっと言う間に天使の体を引き裂き、食い千切って、四散した肉片や骨を、粉々に踏みつぶしてしまった。
やれやれと、タナトスが首を振ったとき、やっとシンハが到着した。
“済まん、一応は止めたのだが。狂戦士状態から引き戻せなかった”
まだ足らぬと言いたげに、天使の残党狩りをしている二頭に向かって、黔龍は前足を振った。
『……構わぬ。どうせ、あれも本体ではなかろう。
どの道、天帝が生きておるうちは、我らが復讐は終わらぬぞ、黔龍王よ』
シンハの紅い眼の中で、黄金色をした炎が、めらめらと燃え立っていた。
こうして、勝敗は決した。
ミカエルが隠した首桶を、シンハが鋭敏な嗅覚で探し出し、ホムンクルスの遺体を埋葬した後、魔軍は帰還した。
取り戻された第二王子の首は、かすかに微笑んでおり、一見すると眠っているようだった……首元の
生前は、酷い態度を取り続けたベルゼブルも、さすがに神妙な面持ちで、王子の首を見つめていた。
イシュタルは、
シュネとリオンは抱き合い、声を上げて泣いた。
夫の首を抱きしめ、ダイアデムは声もなく、ただ静かに涙を流す。
そんな兄弟の肩を抱き、ケテルは
澄んだ音を立てて大理石の床に散らばる至高の宝石の群れが、皆の涙をさらに誘う。
「く……ダメだ、オレもう……」
不意に紅い輝きが部屋に満ちて、紅毛の少年は消え失せた。
後には、紅い宝石が、魔界の王子の首と並んで、無心に輝いているばかりだった。
つうよう【痛痒/痛癢】
精神的、肉体的な苦痛や、物質的な損害。さしさわり。