~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

15.魔天戦役(2)

一方、亜空間への魔法陣が設置してある小惑星に着いたタナトス達は、以前の(てつ)を踏むまいと、周囲の安全を確認していた。
そこへ、斥候の一人が現れ、片膝をついた。
「タナトス様、今回、敵は、ここへは足を踏み入れておりません」

ほぼ同時に、朱龍と碧龍の念話が届く。
“こっちは異常ないです、伯父上”
“うん、罠みたいなのはないわ、伯父様”
“よし、お前達は戻れ。斥候は、引き続き見張りを”
「は!」

戻った二人が人型になるのを見届けた黔龍は、白い息を吐き出し、陣の周囲に半透明の帷幄(いあく)を張った。
これは、結界であると同時に、亜空間の様子を映し出すスクリーンを兼ねている。
前回の戦いのとき、この幕を張ったのは紅龍で、サマエルの不在を、改めて強く印象付けることとなった。

(ふん、思った通り、軍団を引き連れて来ているな、ミカエルめ)
帷幄に映し出された情景を見てつぶやき、魔界王は人型へ戻った。
それを待ちかねていたように、“紅龍軍”の副総帥ゼパルが、さっと片膝をつき、頭を下げた。
「タナトス様、紅龍軍を代表致しまして、わたくしをご一緒させて頂きたく存じます。
我ら、サマエル様が人界へ参られてより、まったくお役に立てず……しかも、亡くなられたとあっては……」

タナトスは、じろりと家臣を見た。
おそらく怒鳴りつけられ、殴られるか、あるいは魔法で思い切り吹き飛ばされるものと、ゼパルは覚悟を決めていた。
それでも、言わずにはおれなかった。
これは、彼だけではなく、後ろに整列している、紅龍軍の兵士全員の思いでもあったのだから。

魔界王は、険しい面持ちではあったものの、相手の肩にぽんと手を置いた。
「ゼパル。貴様の気持ちはよく分かる。
だが、連中を不用意に警戒させるのはまずい。ここで大人しく待っていろ、必ず、貴様らの出番は来る」

そうして、タナトスは、待機している部隊に向き直った。
「──皆の者!
それぞれ思うところはあるだろうが、天界へ攻め入る折には、こやつらの顔を立て、先陣を切らせてやれ、いいか!」
「は!」
間髪を要れず、兵士達は声を揃える。

「ありがたき幸せ!」
副総帥は、くずおれるように平伏した。
「では、行って来るぞ」
「はは! ご武運を!」
ゼパル並びに家臣達は皆、頭を下げた。

タナトスはマントを(ひるがえ)して向きを変え、リオンとシュネ、そして黄金のライオンを従えて、魔法陣に乗る。

亜空間では、天使の大軍団が待ち構えていた。
「遅かったな、魔物ども。
されど、貴様も様々未練もあろう、魔界の王から、我らの虜囚へと堕ちねばならぬのだからな、我は寛大ゆえ、貴様の心持ちを考慮し……」
ミカエルの饒舌(じょうぜつ)を、タナトスは厳しくさえぎった。
「うるさい、黙れ! それより弟はどこだ、さっさと返せ、愚天使!」

「そんな態度を取っていいのか、貴様。
……まあいい、サマエルをここへ」
むっとしたように彼を睨みつけたものの、大天使はすぐに我に返り、合図を送った。
すぐに、さるぐつわと手枷で縛められた銀髪の男が、後方から引っ立てられて来た。

「サマエル!」
「「お父さん!」」
『サマエル!』
偽者だと分かっていても、タナトス達は、思わず声を上げてしまう。
「さあ、こちらへ来い、タナトス。人質交換だ」

魔界王が歩み出そうとしたとき、黄金のライオンが念話で言った。
“我に確かめさせてくれ、前に言ったろう、我なら確実だ”
“む……だがな、貴様も、その身で感じたろう、あいつの死を……。
それに、複製といっても、何もかも本体と同じなのだぞ、どうやって……”

“遺伝子は同一でも、偽者はカオスの力を持たぬ、すぐに分かるはずだ。
心の整理をつけたいのだ……頼む、魔界の王よ……”
ライオンはうなだれた。
その心境は、タナトスにも痛いほど分かった。
“……好きにしろ”

「どうした、怖気(おじけ)づいたか」
ミカエルは腕組みをする。
「その前に、そいつが本物かどうか、シンハに確認させろ。そちらとこちらの中間でな。
俺の首をくれてやるのに、偽者を引いたとしたら眼も当てられんわ」

「構わぬぞ、我は寛大なるがゆえにな、くくく」
その言葉を予期していたかのように、ミカエルは嫌な笑い方をし、捕虜を押し出すように歩き出す。
「よし、貴様は下がれ」
ライオンと共に中間地点で二人と会ったタナトスは、大天使を遠ざけ、銀髪の男のさるぐつわを外した。

「大丈夫か、サマエル」
タナトスは、一応、声をかけてみた。
「く、タナトス、シンハ……逃げろ、これは罠だ……」
姿形はもちろん、かすれたその声も、弟にそっくりだった。

『……やはり偽者だ、タナトス王』
絞り出すような、ライオンの言葉を聞くまでもなかった。
弟の身体を常に覆っていた禍々しい力が、この男からはまったく感じられない。

「それは分かっている、だが、くそ忌々しい、この……!」
死んでしまった弟そっくりの面差し、すがるような眼……それに促されるようにタナトスは、いつの間にか手枷を外してしまっていた。
『よせ、タナトス!』
シンハが叫んだ刹那、偽のサマエルは懐から短剣を取り出し、彼目がけて突き出した……ように見えた。

だが、次の瞬間、短剣の鋭い切っ先は、複製自身の胸元に、ざっくりと食い込んでいたのだ。
「貴様……!?」
どっとあふれ出す血しぶきを浴びたタナトスは、面食らった。

「私、の前に……創り、出された、複製達、は……記憶、を……注入、されると……皆、自害、した……。
天使達、は……自殺、防止に、私を縛り……私も、これ以上……複製が……創られる、のを、良しとしなかった……から、わざと……死なずに、いた……そう、すれば、……」

「もういい、口を利くな、早まったことをしおって。
俺達は、罠と知りつつここに来た、サマエルが命を落としたことを、感じ取っていたのだ」
「わ、分かって、いながら、来た、……?」
ホムンクルスは、血まみれの手で、魔界の王にしがみついた。

「ああ。敵が連れて来る複製、つまり、お前だけでも助けてやろうと思ってな。
さ、癒してやる」
「わ、私を……!?」
男の、見開いた紅い眼から、涙が流れ出た。
それは、この男が複製だということを如実(にょじつ)に物語っていた……本物のサマエルは、決して泣くことが出来なかったのだから。

「そうだ、さあ……」
呪文を唱えようとしたタナトスを、複製はさえぎった。
「よせ、無駄だ……!
こ、この体は……す、数日しか、い、生きられない、ように……創られて、いる、のだから……」
「何!?」

「父さん!」
「サマエル父さん!」
思わず駆け寄るリオンとシュネ。
「ああ、お前達……」
ホムンクルスは、蒼白な顔に笑みを浮かべ、タナトスに支えられながら二人に触れる。
そして、悲しげなライオンにも手を差し伸べた。
「“焔の眸”……」

『いや、我は……』
シンハは、ぶるんと首を振る。
「分かっ、ている、よ……化身達に、伝え、てくれ……本、物の、サマエルは……最後、まで、お前達を、愛して、いた、と……。
ああ……私も、一目、ダイア、デムに……会いた、かった、な……」
刹那、ライオンの姿が輝き、紅毛の少年の姿になった。
『これでいいか?』
「あ、あり、がとう……。
タナ、トス……もう、楽に、してくれ……どうせ、すぐ、散る命、だ……」

「分かった、本体の後を追え、ホムンクルス!
そして、伝えろ、俺達は全員、お前を愛していたと!」
魔界王は、複製の胸に刺さったままの短剣の柄を握り、力任せに押し込んだ。
「ぐ、うっ!」
ホムンクルスは、くぐもった叫びを上げ、魔界王の腕の中で事切れた。

「父さん!」
「わあん!」
『サマエル!』
リオンとシュネ、そして、紅毛の少年は、思わず、その体に取りすがる。

「ふん、役立たずめ、もうくたばったか」
それを見ていたミカエルが、冷ややかに言い捨てた。
複製の死体をそっと地面に横たえ、タナトスは、大天使を睨みつけた。
「貴様! もう一度言ってみろ!」

大天使は、どうでもよさげに肩をすくめた。
「茶番だな。
サマエルの死が気づかれていたのは予想外だが、複製と分かっておるのに、何ゆえ、左様に騒ぎ立てるものやら」
「貴様!」

「何だって!?」
「ひどい!」
『待て、落ち着け、お前達』
詰め寄ろうとするリオンとシュネを、紅毛の少年が制した。
そんな彼らを尻目に、ミカエルは、憎々しげに続ける。
「ふ、そんなこともあろうかと手を打っておいたゆえ、戦況には何の影響もないわ!」

「ち、負け惜しみを! 俺達だけで来たとでも思っているのか!
皆の者、出番だぞ!」
タナトスは眼を怒らせ、腰に帯びた剣で空間を切り裂く。
途端に、待ちかねていた魔界の軍勢は、続々と出撃して来た。

「負け惜しみなどではない、前回同様、貴様らが援軍を連れて来ることなど、百も承知よ」
ミカエルは、動揺を見せるどころか、にやりとした。
「さても、今回は、さらに大勢の兵を引き連れて来ておるのであろう、今度こそ、我らとの決着をつけねばならぬと意気込んでな。
されど、人員をこちらに裂けば、魔界の守備が手薄になるは必定……さても、今頃魔界では、何事出来(しゅったい)しておることやら?」

「ふん、貴様らが魔界付近に伏兵を潜ませていることなど、先刻お見通しだ!
結界がある限り、蚊トンボどもが何匹騒ごうが、魔界には到達出来んわ! 
まったく学習せんようだな!」
タナトスが吼えても、大天使は、いやらしい笑いを消すことはなかった。
「くくく、では、その大事な結界が、消滅したとしたらどうだ?」
「な、何!?」

タナトスは、一瞬、顔色を変えたものの、すぐに気を取り直した。
「ふん、こけおどしも大概にしろ。
あの結界が破られるはずがない、我が妃、“黯黒の眸”がいる限りはな!」
だが、大天使は嫌な笑いを浮かべたまま、さらに言い続ける。
「ふ、ではその、妃とやらに何かあったとしたら?」
「何だと!? 貴様、何が言いたい!?」

「くく、魔界で何が出来しようとも、貴様ら全員、すぐにこやつの後を追うことになるゆえ、関わりあるまいが!
──カンジュア!
ミカエルは呪文で桶を出すと、蓋を開け、中に手を突っ込んで持ち上げた。
「とくと見よ、魔物ども!」

「──!」
魔族達は全員、息を呑んだ。
それは、唇から一筋血を流した生首だった。
閉じられた目蓋は落ちくぼみ、銀髪は血に汚れ……たった今(たお)れたホムンクルスと瓜二つの、土気色をした顔……。

「サマエル!」
「父さん!」
『サマエル!』
「ああ、……」
「シュネ、しっかり!」
倒れかかる義妹を、慌ててリオンが支える。
「くそ、貴様……俺の弟を……!」
ぎりぎりと、タナトスは歯を噛み鳴らした。

「ふん、こんなもの、家畜の餌にでもしようと思ったが、毒があるゆえ、豚も食わぬわ」
銀髪をわしづかみにし、大天使は、生首をゆらゆらと揺らして見せた。
「返して欲しいか? ならば戦って取り戻すがよい。
結界の保持にそれほど自信があるのならば、何も問題なかろう?
……くくく」

「上等だ!
皆の者、戦闘開始!」
「──おう!」
魔界王の命令一下、魔界の軍勢は(とき)の声を上げ、たちまち、敵味方入り乱れての大混戦となった。
タナトス、リオンが龍に変化し、気を取り直したシュネも龍となり、戦場へとなだれ込む。

いあく【帷幄】

[1] 垂れ幕(帷)と引き幕(幄)。幕。[2] 陣営に幕をめぐらしたことから、作戦をねる場所。大将の陣営。