15.魔天戦役(1)
天界と魔界では、一日の長さが違う。
人質交換に応じると返答してから、魔族はじりじりしながら待ち、ようやく神族が指定した日がやって来た。
昨日の段階ですでに、
「ふん、神族め、以前の失敗も忘れ、俺達がまたも無防備にやって来るとでも思っているのか!
まったく、なめられたものだ!」
まだ暗いうちから魔界王は目覚め、自室の中を行き来しながら息巻いていた。
炎の瞳を紅く燃え上がらせた、眠らない宝石の化身、シンハが応じる。
『偽者が露見したなら、ルキフェルの処刑を宣言して我らを動揺させ、その隙に乗じて新たに人質を取り、結界を解かせようという
「ふん。何を企んでいるか知らんが、手痛いしっぺ返しをくれてやる!
覚悟しろよ、神族ども!」
武者震いを抑えかねて、タナトスが拳を掌へたたきつけているうち、窓の外が徐々に白み始めた。
『いよいよ
黄金の獅子がつぶやく。
「
きらりと眼を光らせて、魔界の王が応じる。
空がどんどん明るくなり、ついに
“──全軍起床!
各自朝食後、上級貴族、並びに堕天使の代表は大会議室へ、残りは前庭へ集合せよ!”
たちまち、汎魔殿は、蜂の巣を突ついたような騒ぎになった。
ベッドから転げ落ちる慌て者、素早く着替える者、中には、すでに準備万端
物が倒れる音、割れる音、ぶつかる音、叫び声、ののしる声、使い魔を呼び立てる声などが交錯し、広い城内に反響した。
女官や召使、使い魔達は、
「ついに決戦ね!」
「神族なんて、龍の方々が討ち取って下さるわ!」
「サマエル様も、きっと、タナトス様が救出して下さるさ!」
慌しい朝食の後、広い会議室に
「偽者を立てる作戦は中止だ、サマエルが処刑されてしまったからな」
虚を突かれ、皆がぽかんと口を開けているところへ、畳みかけるように、タナトスは続けた。
「敵の伏兵は、すでに、魔界近くの小惑星に潜んでいる。
亜空間で俺達を撃破し、その勢いで、魔界に攻め入る気だろう、小ざかしい。
だが、すぐに連中も気づくはずだ、自身の愚かさにな。
安易に人質を処刑するとは、あきれ返った
口調こそ抑えていたが、タナトスの眼は、強烈な光を帯びていた。
そこまで話が進むと、ようやく事態が飲み込めて、皆は口々に叫び始めた。
「処刑ですと!? サマエル殿下を!?」
「そんな馬鹿な!」
「何を仰る! まだ交渉さえ始まっておらぬのに、処刑などと!」
「サマエル殿下は魔界の王子、これ以上の取り引き材料はありませぬぞ、それを、処刑とは!」
「ルキフェルが死んだじゃとっ!?
最近は足腰がめっきり弱り、寝たきりに近かったはずなのだが、それを感じさせない勢いだった。
会議室は、一瞬で静まり返り、タナトスは、顔をしかめて父親を見た。
「冗談などではない。
俺も、まさか命は取るまいと高をくくっていたのだが、考えの甘さを思い知らされたわ。
実は、すでに数日前、俺達は、サマエルの死を感じ取っていたのだ。
士気を考え、黙っていたのだがな」
魔界王は、自分と“焔の眸”、リオンとシュネ、それに叔母を手で示した。
「な、何としたこと……」
頭を抱えた異母兄を、イシュタルは優しく支えて座らせた。
「そなたも感じておったのか? ルキフェルのこと……」
すがるような視線から眼を逸らし、彼女は、そっと目頭を押さえた。
「はい、カードが教えてくれました……」
『バアル・ゼブルよ。
我は、ルキフェルの血が流され、大地に滴るのを感じた……鋭い首の痛みと共に……』
そう言うと、シンハは声を詰らせた。
こぼれた涙が紅い宝石となって床に滴り、豪華な金の毛並みまでも、心なしか色褪せて感じられた。
涙にむせぶ彼に、リオンとシュネが声もなく、寄り添う。
それを見た前魔界王は、言葉を失ってしまった。
「疑念ある者は、おのれの
神族どもめ、我が弟を手に掛けるとは、許せん! 生かしてはおかんわ!
さあ、皆の者、出陣だ!」
「──は!」
気を取り直した部下達は、一斉に立ち上がり、出口へ向かった。
その後、勢揃いした魔族と堕天使の軍団を前に、タナトスは、沈痛な面持ちで口を開いた。
「──皆の者、落ち着いて聞け!
サマエルは死んだ、神族に処刑されたのだ!
俺や“焔の眸”、碧龍シュネに朱龍リオン、イシュタル叔母上もそれを感じ取った!
ヤツらは、初めから、人質交換などする気がなかったのだ!」
当然、兵士の間からは、驚きと怒りの声が上がった。
手を上げてそれを制し、タナトスは続けた。
「サマエルは“紅龍”だ! 天帝は、処刑した方が得策と判断したのだろう!
だが、無論、このまま黙って引き下がりはせん、ヤツらには、地獄で後悔させてやる!
魔族の王子を、我が弟を、その薄汚い手に掛けたことをな!」
またも怒号が飛び交うが、それを制するように、シュネとリオンが龍へと変化を始め、タナトスは、さらに声を張り上げた。
「今から、小惑星帯へと向かう! 貴様らは、そこで一旦待機!
まずは、俺達が先発し、亜空間で連中の化けの皮を剥ぐ、その後に貴様らも、思う存分暴れさせてやる!
行くぞ、サマエルの
「おお──っ!」
タナトスも
残りの兵士達も後に続いた。
彼らの出立を汎魔殿の中から見送る、一対の青い眼があった。
堕天使の長の一人、アザゼルだった。
蘇生された後遺症か、記憶の混乱があり、体調もすぐれず静養しており、今回の作戦にも参加しないことになったのだ。
昨日のこと、アザゼルは、朋友に頭を下げていた。
「こんな大事なときに、済まない、シェミハザ。
タナトス様にも、お役に立てず申し訳ありませんとお詫びして来たよ……」
シェミハザは、しょげている彼を慰めるように、肩にぽんと手を置いた。
「気にするな、アザゼル。お前が魔界にいてくれれば、心強い。
今回は総力戦、残られるのは、ベルゼブル様とイシュタル様だけだからな。
留守を守るのも、立派な役目だぞ」
「そう言ってもらえると、少し気が休まるよ。
こうなったら、わたしが、結界を張る装置を死守しなければな」
「装置……ああ、お前、記憶が……魔界の結界を創り出しているのはな、この下にある、要石という大岩だぞ」
汎魔殿の床を、朋友は指差す。
「あ、そうそう、要石だったな……で、それはどこにある?」
彼が改めて尋ねると、相手は、けげんそうな顔になった。
「わざわざ、要石の間に行って守る気か?
魔界の強固な結界を突破しなければ、天界の連中も、石にはたどり着けないのに」
「う、いや、その、侵入された場合を想定してだな……そ、それに、念のため、その岩も調べておけば安心出来るだろうと……いけないか?」
口ごもりながら、アザゼルは言った。
シェミハザは首を振った。
「いやいや、仕事熱心はいいことだとも。
石のある場所に行くには、汎魔殿の階段を降り切ったところにある魔法陣に乗り、『要石の間へ』と言えばいい、帰りは『汎魔殿へ』と……あ、それと、中では魔法が使えないそうだから、注意しろよ」
「そうか、ありがとう。武運を祈るよ、シェミハザ」
出陣を見届けたアザゼルは、自室のドアをそっと開けた。
魔界にはまだ、危険はないはずなのだが、
彼は静かに扉を閉め、小走りに回廊を渡って行った。
長く続く汎魔殿の階段を、教えられた通りに、どんどん降りていく。
そうして、行き止まりになったところに、一人がやっと乗れるくらいの魔法陣が輝いていた。
彼は早速、足を踏み入れた。
「要石の間へ!」
「うっ……!?」
一瞬で行き着いたその空間は、
湿っぽく
(……ここが要石の間か。暗いな、石がどこにあるのか、さっぱりだ。
灯りを……あ、魔法が使えないのだったか。
仕方ない、取りに戻……む、魔法陣の光が消えているが、戻れるのか?)
彼が周囲を見回した、そのときだった。
“誰ぞ。そこに参ったは”
不意に、声が脳内に響き、同時に眩い輝きが周囲にあふれた。
(しまった!)
とっさに、アザゼルは手をかざし、攻撃に備えて身を固くした。
しかし、何も起こらない。
恐る恐る、堕天使は光の方へ眼をやった。
右前方に、巨大な魔法陣が青白い光を発しており、その中央に、大人の頭ほどもある漆黒の宝石が浮かび上がり、ゆっくりと回転していた。
“……おぬし、アザゼルとか申したな。何ゆえ、ここに参った?”
暗い光を発し、宝石は黒衣の美女へと変化する。
予想外の出来事の連続に、アザゼルは、心臓が口から飛び出しそうになっていた。
「こ、これは王妃殿下、ご無礼を……!
宝石であらせられるときのお姿を、お
堕天使は動揺を抑え、震える足で魔法陣に歩み寄り、一礼した。
「今回、留守居役を仰せつかり、汎魔殿を見回らねばと思い……特に、要石が、結界の源と聞き及びましたので、まず、手初めにと……」
どうにか答えて顔を上げると、“黯黒の眸”の化身、王妃ニュクスは、
「役目ご苦労。タナトス達はすでに、出立致したな」
何もかも見透かすような眼に射すくめられて、またも堕天使はどきりとしたが、呼吸を整え、答えた。
「は。ご無事に、ご出陣あそばされましてございます」
「左様か……勝ってくれればよいが。
戦に
「いやいや、結界は守護の要、共に戦われているも同然でございますとも」
「ふむ、そうとも言えようかの」
自分を味方と信じて疑わないその態度に後押しされて、堕天使は意を決し、隠し持っていた剣の柄に手をかけた。
「ええ。これは、こたびの戦の
王妃ニュクス、お覚悟! お命、
アザゼルは、剣をすらりと抜き放ち、宝石の化身に襲いかかった。
【魂胆】
1 心に持っているたくらみ。策略。
ふつぎょう【払暁】
明けがた。あかつき。
れいめい【黎明】
1 夜が明けて朝になろうとする頃。明け方。よあけ。2 新しい事柄が始まろうとすること。また、その時。
しょこう【曙光】
夜明けに、東の空にさしてくる太陽の光。暁光(ぎょうこう)。
ざれごと【戯れ言】
《「ざれこと」とも》ふざけて言う言葉。冗談。
どうどう【同道】
連れ立って行くこと。連れて行くこと。同行。