~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

15.魔天戦役(1)

天界と魔界では、一日の長さが違う。
人質交換に応じると返答してから、魔族はじりじりしながら待ち、ようやく神族が指定した日がやって来た。
昨日の段階ですでに、斥候(せっこう)から、敵の部隊は二手に別れ、一方は亜空間へ、他方は魔界近くの小惑星に潜んだとの報告が入っていたが、魔軍は、朝に出発する予定を組んでいた。

「ふん、神族め、以前の失敗も忘れ、俺達がまたも無防備にやって来るとでも思っているのか!
まったく、なめられたものだ!」
まだ暗いうちから魔界王は目覚め、自室の中を行き来しながら息巻いていた。

炎の瞳を紅く燃え上がらせた、眠らない宝石の化身、シンハが応じる。
『偽者が露見したなら、ルキフェルの処刑を宣言して我らを動揺させ、その隙に乗じて新たに人質を取り、結界を解かせようという魂胆(こんたん)やも知れぬ……ルキフェルの死が、我らに感知されているとは、微塵(みじん)も思わずにな』

「ふん。何を企んでいるか知らんが、手痛いしっぺ返しをくれてやる!
覚悟しろよ、神族ども!」
武者震いを抑えかねて、タナトスが拳を掌へたたきつけているうち、窓の外が徐々に白み始めた。

『いよいよ払暁(ふつぎょう)、か』
黄金の獅子がつぶやく。
黎明(れいめい)だな」
きらりと眼を光らせて、魔界の王が応じる。

空がどんどん明るくなり、ついに曙光(しょこう)が差したその刹那、合図の鐘が鳴るより早く、タナトスは城中に響き渡る念を送り、汎魔殿に居住する全員をたたき起こした。
“──全軍起床!
各自朝食後、上級貴族、並びに堕天使の代表は大会議室へ、残りは前庭へ集合せよ!”

たちまち、汎魔殿は、蜂の巣を突ついたような騒ぎになった。
ベッドから転げ落ちる慌て者、素早く着替える者、中には、すでに準備万端(おこた)りなく、すぐに部屋を出る者もいる。
物が倒れる音、割れる音、ぶつかる音、叫び声、ののしる声、使い魔を呼び立てる声などが交錯し、広い城内に反響した。

女官や召使、使い魔達は、固唾(かたず)を呑んでその様子を見守った。
「ついに決戦ね!」
「神族なんて、龍の方々が討ち取って下さるわ!」
「サマエル様も、きっと、タナトス様が救出して下さるさ!」

慌しい朝食の後、広い会議室に(つど)った魔界の重鎮(じゅうちん)達、堕天使の代表達を見渡し、開口一番、魔界王は言った。
「偽者を立てる作戦は中止だ、サマエルが処刑されてしまったからな」
虚を突かれ、皆がぽかんと口を開けているところへ、畳みかけるように、タナトスは続けた。

「敵の伏兵は、すでに、魔界近くの小惑星に潜んでいる。
亜空間で俺達を撃破し、その勢いで、魔界に攻め入る気だろう、小ざかしい。
だが、すぐに連中も気づくはずだ、自身の愚かさにな。
安易に人質を処刑するとは、あきれ返った稚拙(ちせつ)な戦術、まったくたわけた者どもだ」
口調こそ抑えていたが、タナトスの眼は、強烈な光を帯びていた。

そこまで話が進むと、ようやく事態が飲み込めて、皆は口々に叫び始めた。
「処刑ですと!? サマエル殿下を!?」
「そんな馬鹿な!」
「何を仰る! まだ交渉さえ始まっておらぬのに、処刑などと!」
「サマエル殿下は魔界の王子、これ以上の取り引き材料はありませぬぞ、それを、処刑とは!」

喧騒(けんそう)の中、前魔界王ベルゼブルが、力任せにテーブルをたたき、椅子を蹴って立ち上がった。
「ルキフェルが死んだじゃとっ!? 
()(ごと)を申すな、サタナエル!」
最近は足腰がめっきり弱り、寝たきりに近かったはずなのだが、それを感じさせない勢いだった。

会議室は、一瞬で静まり返り、タナトスは、顔をしかめて父親を見た。
「冗談などではない。
俺も、まさか命は取るまいと高をくくっていたのだが、考えの甘さを思い知らされたわ。
実は、すでに数日前、俺達は、サマエルの死を感じ取っていたのだ。
士気を考え、黙っていたのだがな」
魔界王は、自分と“焔の眸”、リオンとシュネ、それに叔母を手で示した。

「な、何としたこと……」
頭を抱えた異母兄を、イシュタルは優しく支えて座らせた。
「そなたも感じておったのか? ルキフェルのこと……」
すがるような視線から眼を逸らし、彼女は、そっと目頭を押さえた。
「はい、カードが教えてくれました……」

『バアル・ゼブルよ。
我は、ルキフェルの血が流され、大地に滴るのを感じた……鋭い首の痛みと共に……』
そう言うと、シンハは声を詰らせた。
こぼれた涙が紅い宝石となって床に滴り、豪華な金の毛並みまでも、心なしか色褪せて感じられた。
涙にむせぶ彼に、リオンとシュネが声もなく、寄り添う。
それを見た前魔界王は、言葉を失ってしまった。

「疑念ある者は、おのれの耳目(じもく)で、事実を確かめるがいい!
神族どもめ、我が弟を手に掛けるとは、許せん! 生かしてはおかんわ!
さあ、皆の者、出陣だ!」
「──は!」
気を取り直した部下達は、一斉に立ち上がり、出口へ向かった。

その後、勢揃いした魔族と堕天使の軍団を前に、タナトスは、沈痛な面持ちで口を開いた。
「──皆の者、落ち着いて聞け!
サマエルは死んだ、神族に処刑されたのだ!
俺や“焔の眸”、碧龍シュネに朱龍リオン、イシュタル叔母上もそれを感じ取った!
ヤツらは、初めから、人質交換などする気がなかったのだ!」

当然、兵士の間からは、驚きと怒りの声が上がった。
手を上げてそれを制し、タナトスは続けた。
「サマエルは“紅龍”だ! 天帝は、処刑した方が得策と判断したのだろう!
だが、無論、このまま黙って引き下がりはせん、ヤツらには、地獄で後悔させてやる!
魔族の王子を、我が弟を、その薄汚い手に掛けたことをな!」
またも怒号が飛び交うが、それを制するように、シュネとリオンが龍へと変化を始め、タナトスは、さらに声を張り上げた。

「今から、小惑星帯へと向かう! 貴様らは、そこで一旦待機!
まずは、俺達が先発し、亜空間で連中の化けの皮を剥ぐ、その後に貴様らも、思う存分暴れさせてやる!
行くぞ、サマエルの(とむら)い合戦だ!」
「おお──っ!」
タナトスも黔龍(けんりゅう)となり、二頭の龍を従え、魔法陣へ入って行く。
残りの兵士達も後に続いた。

彼らの出立を汎魔殿の中から見送る、一対の青い眼があった。
堕天使の長の一人、アザゼルだった。
蘇生された後遺症か、記憶の混乱があり、体調もすぐれず静養しており、今回の作戦にも参加しないことになったのだ。

昨日のこと、アザゼルは、朋友に頭を下げていた。
「こんな大事なときに、済まない、シェミハザ。
タナトス様にも、お役に立てず申し訳ありませんとお詫びして来たよ……」

シェミハザは、しょげている彼を慰めるように、肩にぽんと手を置いた。
「気にするな、アザゼル。お前が魔界にいてくれれば、心強い。
今回は総力戦、残られるのは、ベルゼブル様とイシュタル様だけだからな。
留守を守るのも、立派な役目だぞ」

「そう言ってもらえると、少し気が休まるよ。
こうなったら、わたしが、結界を張る装置を死守しなければな」
「装置……ああ、お前、記憶が……魔界の結界を創り出しているのはな、この下にある、要石という大岩だぞ」
汎魔殿の床を、朋友は指差す。

「あ、そうそう、要石だったな……で、それはどこにある?」
彼が改めて尋ねると、相手は、けげんそうな顔になった。
「わざわざ、要石の間に行って守る気か?
魔界の強固な結界を突破しなければ、天界の連中も、石にはたどり着けないのに」
「う、いや、その、侵入された場合を想定してだな……そ、それに、念のため、その岩も調べておけば安心出来るだろうと……いけないか?」
口ごもりながら、アザゼルは言った。

シェミハザは首を振った。
「いやいや、仕事熱心はいいことだとも。
石のある場所に行くには、汎魔殿の階段を降り切ったところにある魔法陣に乗り、『要石の間へ』と言えばいい、帰りは『汎魔殿へ』と……あ、それと、中では魔法が使えないそうだから、注意しろよ」
「そうか、ありがとう。武運を祈るよ、シェミハザ」

出陣を見届けたアザゼルは、自室のドアをそっと開けた。
魔界にはまだ、危険はないはずなのだが、(おび)えて部屋にこもっているとみえて、汎魔殿の広い回廊には女官や召使の影もなく、話し声はおろか、物音一つ聞こえなかった。

彼は静かに扉を閉め、小走りに回廊を渡って行った。
長く続く汎魔殿の階段を、教えられた通りに、どんどん降りていく。
そうして、行き止まりになったところに、一人がやっと乗れるくらいの魔法陣が輝いていた。
彼は早速、足を踏み入れた。
「要石の間へ!」

「うっ……!?」
一瞬で行き着いたその空間は、無明(むみょう)の闇のただ中にあった。
湿っぽく(よど)んだ空気が彼を包み、生きるものの気配もまるでない。

(……ここが要石の間か。暗いな、石がどこにあるのか、さっぱりだ。
灯りを……あ、魔法が使えないのだったか。
仕方ない、取りに戻……む、魔法陣の光が消えているが、戻れるのか?)
彼が周囲を見回した、そのときだった。

“誰ぞ。そこに参ったは”
不意に、声が脳内に響き、同時に眩い輝きが周囲にあふれた。
(しまった!)
とっさに、アザゼルは手をかざし、攻撃に備えて身を固くした。

しかし、何も起こらない。
恐る恐る、堕天使は光の方へ眼をやった。
右前方に、巨大な魔法陣が青白い光を発しており、その中央に、大人の頭ほどもある漆黒の宝石が浮かび上がり、ゆっくりと回転していた。

“……おぬし、アザゼルとか申したな。何ゆえ、ここに参った?”
暗い光を発し、宝石は黒衣の美女へと変化する。
予想外の出来事の連続に、アザゼルは、心臓が口から飛び出しそうになっていた。

「こ、これは王妃殿下、ご無礼を……!
宝石であらせられるときのお姿を、お(はつ)に拝見致しましたので……」
堕天使は動揺を抑え、震える足で魔法陣に歩み寄り、一礼した。
「今回、留守居役を仰せつかり、汎魔殿を見回らねばと思い……特に、要石が、結界の源と聞き及びましたので、まず、手初めにと……」

どうにか答えて顔を上げると、“黯黒の眸”の化身、王妃ニュクスは、黒曜石(こくようせき)の瞳で彼を見つめた。
「役目ご苦労。タナトス達はすでに、出立致したな」
何もかも見透かすような眼に射すくめられて、またも堕天使はどきりとしたが、呼吸を整え、答えた。
「は。ご無事に、ご出陣あそばされましてございます」

「左様か……勝ってくれればよいが。(わらわ)は結界守護のため、ここより動けぬ。
戦に同道(どうどう)出来ぬとは、何とも歯がゆいことよ」
「いやいや、結界は守護の要、共に戦われているも同然でございますとも」
「ふむ、そうとも言えようかの」

自分を味方と信じて疑わないその態度に後押しされて、堕天使は意を決し、隠し持っていた剣の柄に手をかけた。
「ええ。これは、こたびの戦の帰趨(きすう)を決める最大の戦いです、わたしとのね! 
王妃ニュクス、お覚悟! お命、頂戴仕(ちょうだいつかまつ)る!」
アザゼルは、剣をすらりと抜き放ち、宝石の化身に襲いかかった。

【魂胆】

1 心に持っているたくらみ。策略。

ふつぎょう【払暁】

明けがた。あかつき。

れいめい【黎明】

1 夜が明けて朝になろうとする頃。明け方。よあけ。2 新しい事柄が始まろうとすること。また、その時。

しょこう【曙光】

夜明けに、東の空にさしてくる太陽の光。暁光(ぎょうこう)。

ざれごと【戯れ言】

《「ざれこと」とも》ふざけて言う言葉。冗談。

どうどう【同道】

連れ立って行くこと。連れて行くこと。同行。