14.白い形見(5)
部屋を出たフレイアは、白い翼を羽ばたかせて飛び上がった。
メタトロンに追いつこうとするも、涙でぼやけて、景色がよく見えない。
「フレイア様、お待ち下さい!」
その叫びに、はっと我に返った彼女は、涙をぬぐい、地上に降りた。
「エノク……」
「そ、その名で呼ばないで下さいと、いつも……!」
大天使は、きょろきょろ周囲を見回す。
「大丈夫よ、ひいお祖父様は、ここにはいないもの」
彼女が言うと、メタトロンは胸を押さえ、大きく息をついた。
「と、ともかく、人間だったときの名で呼ぶのはおやめ下さい、心臓に悪いですよ」
「どうして? わたくしが子供の頃は……」
「いやいや、わたしが天界に来てから、すでに二万年は経っておりますし、
この名は、天帝様より
あたふたと弁解する大天使に、フレイアは命じた。
「そんなことより、お前は、ハニエル捜しを手伝いなさい。
ミカエルなんて、他の連中に任せればいいわ」
「承知しました」
メタトロンは
“また天使長様か……”
ラファエルは、うんざりしたような思念を返して来た。
“相分かった”
“致し方あるまい、ご命とあらば”
ラグエルとラジエルの念は、諦めの色が濃かった。
「お待たせしました、では、参りましょう」
うれしそうに歩き出した大天使は、ふと思い出したように話し始めた。
「そういえば、前に、彼女と料理長ベリアスが男女の仲になっている、との密告がありましてね……」
「知ってるわ、嘘だったんでしょ?」
フレイアは即答した。
「ご存知でしたか。
では、その密告者……副料理長ラミュロスが、天使長様にそそのかされたと自白したことは?」
彼女は眼を真ん丸くした。
「本当なの、それ!」
「はい。わたしが調書を取りましたので。
天使長様は、無論、きっぱりと否定されましたが、おそらくあのときから、ハニエルを狙っていたものと……」
「嫌ねぇ、開いた口がふさがらないわ」
顔をしかめる女神同様、眉を寄せながら大天使は続けた。
「それだけならばまだよいのですが、天使長様に感化されたのか、一部の天使に風紀の乱れがあり、身の危険を感じる女天使達も、ちらほらと……」
「そんなことにまでなってるの!?」
女神の声が思わず上ずる。
「はい。
不公平感を
フレイアは額に手を当て、首を振った。
「はあ、なげかわしいこと。
まるで病原菌ね、ミカエルは。自分のいやらしさを、皆に感染させてるなんて。
サマエルの方がよっぽどましだわ、インキュバスなのに、わたくしが近づいたら後ずさったのよ、お前も見たでしょう?」
「はい……ですが、鎖につながれておらねば、あの魔物も、どう振舞ったかは分かりませんよ」
「それはそうだけど。今の話、ひいお祖父様には?」
メタトロンは、否定の身振りをした。
「いえ、このようなこと、お耳に入れてよいものか、
「お前はお母様の
いいわ、わたくしからお話しておくから」
「は。お願い致します」
大天使は深々と頭を下げた。
「そうだわ、書記官のお前なら分かるかしら。
よく、魔物は女性をたぶらかすって言うでしょ、でも、マトゥタ様以外には聞いたことがないわ。
サマエルは、女性を騙したことはないって言ったし、サリエルは、両親は本気で愛し合ってたって言うのよ。
本当かしら?」
大天使は肩をすくめた。
「たしかに、騙す必要はないですな。
あの美貌で微笑みかけられ、甘い言葉の一つもささやかれた日には、男のわたしでも……」
「……まあ」
フレイアは眉をひそめた。
途端に顔を引き締め、メタトロンは言った。
「……冗談はさて置き、サマエルは基本、嘘をつかないですからね。
だからこそ、その言葉には真実味があり、聞く者の心をつかんでしまうのだと、ラファエルや、ウリエルも申しておりました。
それに、サリエル殿以外に混血児がいないということも、ヤツの言葉を裏付けているかも知れません」
「え、どういうこと、それ?」
女神は小首をかしげた。
「要するに、魔族は、他種族との間に子を作ることが得手なのでございますよ。
たとえば、サマエルの場合、マトゥタ様との間にサリエル殿……しかも、恋仲だったのは、三月にも満たなかったそうですし、さらにその後、人族の女性に、四、五人も子を産ませておりますし……」
「へえ、サマエル一人でそんなに?
なら、もっと混血の子がいてもよさそうね。昔の記録には書いてないの?」
「いえ、まったく。
万一、そのような事例がありましたなら、たとえ表立たなくとも、必ず記録には残されるはずですが、そもそも、女神様方が天界をお出になること自体、まれですから……」
「そう……」
女神は少し考え、言った。
「じゃあ、人界と魔界との戦はどう?
魔物が、いきなり人界を滅ぼしたんでしょ、悪いのは、やっぱり魔物よね?」
すると、メタトロンは再び周囲を
“実は、あの戦の原因は、人界側にあったそうで。
わたしと同じく人族出身の者の話ですと、実際は、人界が、先に魔物を人質を取り、宣戦布告したとか”
“えっ!? じゃあ、魔物は……”
“売られたけんかを買っただけ、ですね。
戦が起こる前は、いくら、天帝様が人と魔物との交流の
それどころか、天界人が女神候補を大陸内から探すことを認めず、大陸出身ではないタルペイア様が、スプリウス様に
“……そうだったの”
“はい。その後も、人と魔とは親密でした。
ですが、突如、戦が
そんなの中、たった一人で、生き残った人々を懸命に助けている者がおりました。
何者か、お分かりになられますか?”
“いいえ。誰なの?”
“サマエルですよ”
“えっ!?”
“彼は、人族の敵……魔族であることで人々に恐れられたり、
“どうしてサマエルが?”
“分かりません。
ともかく、わたしもじっとしていられず救助を始めましたが、彼は、わき目も振らず人々の手当てをし続け……。
感服しつつも、わたしは聞こえよがしに、天使の振りをすれば、恐れられずに、救助もはかどるぞと言ってやりました……”
“ま、意地悪ね。魔物が天使の振りなんて、するわけないじゃない”
“わたしもそう思ったのです。
ところが、サマエルは、例の悲しげな笑みを浮かべて、それはいい考えだと言い、角を隠して翼まで白くし、眼も青く染めて、人々を救い始めたのですよ”
“ええっ……!?”
フレイアは耳を疑った。
“神族が、人族からの信頼を得やすくなったのも、彼のお陰と言っていいかも知れません。
しかし、そのせいで、裏切り者扱いされて魔界にいづらくなり、人界に入り浸るようになったそうで、そこでマトゥタ様と出会い……。
後年、人間達から、『賢者』と呼ばれるようになるのですが……”
“ふう……初めて聞くことだらけだわ。
サリエルのホムンクルスに言われたのよ、自分の耳で聞き、自分で判断することが大切だと……本当にそうね。
その話、誰かにした?”
“フレイア様のご両親だけです。さすがに、天帝様には……”
言いかけたメタトロンは、急に背筋を伸ばし、話し始めた。
「ラファエルからです、天使長様はお屋敷に戻っておられ、ハニエルは一緒ではなかったとのことです」
「そう、よかった。あいつに捕まったんじゃないかしらって心配してたのよ」
胸をなで下ろす女神に、大天使は声をかけた。
「ところで、フレイア様。彼女は無事のようですから、少々寄り道をしてもよろしいでしょうか?」
「寄り道? どこに?」
「小宮殿の、ご両親様のお部屋です。
実は、タルペイア様から、言づかっていた物がございまして。
フレイア様がご成人されたら、との仰せでしたが……このご時世です、早くお渡ししておいた方が、心置きなく戦えると存じまして」
「分かったわ」
二人は方向を変え、小宮殿に向かった。
グルヴェイグ宮にあるフレイアの両親の部屋は、亡くなった当時のままにされており、幼い頃の彼女は、母が恋しくなると両親のベッドで眠ったりもしたが、最近では、滅多に部屋に入ることもなくなっていた。
「わあ、久しぶりだわ!」
扉を開けたフレイアは、歓声を上げた。
天帝の孫夫妻の私室だけあって、室内は
「こちらです」
はしゃぐ女神を導き、大天使は奥に進んで、衣裳部屋のドアを開けた。
大量の衣装の間を通って奥の壁際に、純白のクローゼットが一つ、置いてあった。
「この中です」
「……こんなところに? 気づかなかったわ」
大天使が扉を開けた刹那、眼に飛び込んで来たのは、
「まあ、これは……!?」
「ご婚礼の際に、お母上様が身につけられたウエディングドレスです……。
これを着た姿を一目見たかった、そう言い残されて、タルペイア様は……」
「ああ、お母様!」
フレイアは、母の形見に顔を埋めた。
絹の滑らかな感触と、ふわりと立ち昇る甘い香り……そうしていると、まるで、母の胸に
ややあって、我に返ると、かたわらに大天使の姿はなかった。
「……メタトロン? どこ?」
ドレスをしまって衣裳部屋を出ると、黒衣の天使が待っていた。
「メタトロン様は、ラファエル様方の加勢に行かれました。天使長様が、出頭を拒まれたそうで。
ちょうど、わたしが来合わせましたので、代わりに警護をするようにと……」
「お前、ベリアスね!? 大変よ、ハニエルが行方不明なの!」
女神は勢い込んで言った。
「あ、いえ、あの方は大丈夫です。
少し身を隠すだけで、心配はいりませんとのことでした、それをお伝えしようとやって来たところで……」
「なーんだ、お前、彼女に会ったのね。今、どこにいるの?」
安堵した女神は尋ねた。
ベリアスは、首を横に振った。
「いえ、念でお話しただけですので。巻き込みたくないからと、居場所は教えては頂けませんでした」
「そう。ミカエルに知れたら大変だし、その方がいいかもね」
ベリアスは、にっこりした。
「はい。天使長様に拷問されても、知りませんと叫びながら死んでいくことが出来ますから」
女神は、はっと息を呑んだ。
「……いいわね、ハニエルがうらやましいわ。そうやって、命を賭けてくれる人がいるんだもの」
天使は、頬を赤らめた。
「そ、そんな、それに、女神様をお守りする天使は大勢……」
「いいえ、皆、わたくしが天帝のひ孫だから、仕方なくやってるのよ。
本気で守ろうと思ってる人なんて……」
フレイアは淋しげな笑みを浮かべ、首を振った。
ざんげん【讒言】
事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。
しゅんじゅん【逡巡】
決断できないで、ぐずぐずすること。しりごみすること。ためらい。