~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

14.白い形見(5)

部屋を出たフレイアは、白い翼を羽ばたかせて飛び上がった。
メタトロンに追いつこうとするも、涙でぼやけて、景色がよく見えない。
「フレイア様、お待ち下さい!」
その叫びに、はっと我に返った彼女は、涙をぬぐい、地上に降りた。
「エノク……」

「そ、その名で呼ばないで下さいと、いつも……!」
大天使は、きょろきょろ周囲を見回す。
「大丈夫よ、ひいお祖父様は、ここにはいないもの」
彼女が言うと、メタトロンは胸を押さえ、大きく息をついた。
「と、ともかく、人間だったときの名で呼ぶのはおやめ下さい、心臓に悪いですよ」

「どうして? わたくしが子供の頃は……」
「いやいや、わたしが天界に来てから、すでに二万年は経っておりますし、
この名は、天帝様より(たまわ)ったものですから……」
あたふたと弁解する大天使に、フレイアは命じた。
「そんなことより、お前は、ハニエル捜しを手伝いなさい。
ミカエルなんて、他の連中に任せればいいわ」
「承知しました」

メタトロンは躊躇(ちゅうちょ)なく答え、七大天使の残り三人に、念話で事の経緯を伝えた。
“また天使長様か……”
ラファエルは、うんざりしたような思念を返して来た。
“相分かった”
“致し方あるまい、ご命とあらば”
ラグエルとラジエルの念は、諦めの色が濃かった。

「お待たせしました、では、参りましょう」
うれしそうに歩き出した大天使は、ふと思い出したように話し始めた。
「そういえば、前に、彼女と料理長ベリアスが男女の仲になっている、との密告がありましてね……」
「知ってるわ、嘘だったんでしょ?」
フレイアは即答した。

「ご存知でしたか。
では、その密告者……副料理長ラミュロスが、天使長様にそそのかされたと自白したことは?」
彼女は眼を真ん丸くした。
「本当なの、それ!」

「はい。わたしが調書を取りましたので。
天使長様は、無論、きっぱりと否定されましたが、おそらくあのときから、ハニエルを狙っていたものと……」
「嫌ねぇ、開いた口がふさがらないわ」
顔をしかめる女神同様、眉を寄せながら大天使は続けた。
「それだけならばまだよいのですが、天使長様に感化されたのか、一部の天使に風紀の乱れがあり、身の危険を感じる女天使達も、ちらほらと……」

「そんなことにまでなってるの!?」
女神の声が思わず上ずる。
「はい。
不公平感を(つの)らせた結果、恋愛感情さえなければ、天使同士で関係を持ってもいいのではないか、などと過激な発言をする(やから)まで出て来る始末で、我らも憂慮(ゆうりょ)致している次第で……」

フレイアは額に手を当て、首を振った。
「はあ、なげかわしいこと。
まるで病原菌ね、ミカエルは。自分のいやらしさを、皆に感染させてるなんて。
サマエルの方がよっぽどましだわ、インキュバスなのに、わたくしが近づいたら後ずさったのよ、お前も見たでしょう?」

「はい……ですが、鎖につながれておらねば、あの魔物も、どう振舞ったかは分かりませんよ」
「それはそうだけど。今の話、ひいお祖父様には?」
メタトロンは、否定の身振りをした。
「いえ、このようなこと、お耳に入れてよいものか、逡巡(しゅんじゅん)致しておりまして……」

「お前はお母様の従兄(いとこ)でしょ、そこまで遠慮しなくてもいいのに。
いいわ、わたくしからお話しておくから」
「は。お願い致します」
大天使は深々と頭を下げた。

「そうだわ、書記官のお前なら分かるかしら。
よく、魔物は女性をたぶらかすって言うでしょ、でも、マトゥタ様以外には聞いたことがないわ。
サマエルは、女性を騙したことはないって言ったし、サリエルは、両親は本気で愛し合ってたって言うのよ。
本当かしら?」

大天使は肩をすくめた。
「たしかに、騙す必要はないですな。
あの美貌で微笑みかけられ、甘い言葉の一つもささやかれた日には、男のわたしでも……」
「……まあ」
フレイアは眉をひそめた。

途端に顔を引き締め、メタトロンは言った。
「……冗談はさて置き、サマエルは基本、嘘をつかないですからね。
だからこそ、その言葉には真実味があり、聞く者の心をつかんでしまうのだと、ラファエルや、ウリエルも申しておりました。
それに、サリエル殿以外に混血児がいないということも、ヤツの言葉を裏付けているかも知れません」

「え、どういうこと、それ?」
女神は小首をかしげた。
「要するに、魔族は、他種族との間に子を作ることが得手なのでございますよ。
たとえば、サマエルの場合、マトゥタ様との間にサリエル殿……しかも、恋仲だったのは、三月にも満たなかったそうですし、さらにその後、人族の女性に、四、五人も子を産ませておりますし……」

「へえ、サマエル一人でそんなに?
なら、もっと混血の子がいてもよさそうね。昔の記録には書いてないの?」
「いえ、まったく。
万一、そのような事例がありましたなら、たとえ表立たなくとも、必ず記録には残されるはずですが、そもそも、女神様方が天界をお出になること自体、まれですから……」

「そう……」
女神は少し考え、言った。
「じゃあ、人界と魔界との戦はどう?
魔物が、いきなり人界を滅ぼしたんでしょ、悪いのは、やっぱり魔物よね?」

すると、メタトロンは再び周囲を(うかが)い、念話に切り替えた。
“実は、あの戦の原因は、人界側にあったそうで。
わたしと同じく人族出身の者の話ですと、実際は、人界が、先に魔物を人質を取り、宣戦布告したとか”

“えっ!? じゃあ、魔物は……”
“売られたけんかを買っただけ、ですね。
戦が起こる前は、いくら、天帝様が人と魔物との交流の弊害(へいがい)を訴えられても、三つの大陸の王達は聞く耳を持ちませんでした。
それどころか、天界人が女神候補を大陸内から探すことを認めず、大陸出身ではないタルペイア様が、スプリウス様に見初(みそ)められ、お妃となられたのです”
“……そうだったの”

“はい。その後も、人と魔とは親密でした。
ですが、突如、戦が勃発(ぼっぱつ)し……驚いてわたしが人界へ向かうと、大陸は跡形もなく、いくつか島が残っているばかり……。
そんなの中、たった一人で、生き残った人々を懸命に助けている者がおりました。
何者か、お分かりになられますか?”
“いいえ。誰なの?”

“サマエルですよ”
“えっ!?”
“彼は、人族の敵……魔族であることで人々に恐れられたり、(うと)まれたりしながらも、必死に人間を助けようとしていたのです”
“どうしてサマエルが?”

“分かりません。
ともかく、わたしもじっとしていられず救助を始めましたが、彼は、わき目も振らず人々の手当てをし続け……。
感服しつつも、わたしは聞こえよがしに、天使の振りをすれば、恐れられずに、救助もはかどるぞと言ってやりました……”

“ま、意地悪ね。魔物が天使の振りなんて、するわけないじゃない”
“わたしもそう思ったのです。
ところが、サマエルは、例の悲しげな笑みを浮かべて、それはいい考えだと言い、角を隠して翼まで白くし、眼も青く染めて、人々を救い始めたのですよ”
“ええっ……!?”
フレイアは耳を疑った。

“神族が、人族からの信頼を得やすくなったのも、彼のお陰と言っていいかも知れません。
しかし、そのせいで、裏切り者扱いされて魔界にいづらくなり、人界に入り浸るようになったそうで、そこでマトゥタ様と出会い……。
後年、人間達から、『賢者』と呼ばれるようになるのですが……”

“ふう……初めて聞くことだらけだわ。
サリエルのホムンクルスに言われたのよ、自分の耳で聞き、自分で判断することが大切だと……本当にそうね。
その話、誰かにした?”
“フレイア様のご両親だけです。さすがに、天帝様には……”
言いかけたメタトロンは、急に背筋を伸ばし、話し始めた。

「ラファエルからです、天使長様はお屋敷に戻っておられ、ハニエルは一緒ではなかったとのことです」
「そう、よかった。あいつに捕まったんじゃないかしらって心配してたのよ」
胸をなで下ろす女神に、大天使は声をかけた。
「ところで、フレイア様。彼女は無事のようですから、少々寄り道をしてもよろしいでしょうか?」

「寄り道? どこに?」
「小宮殿の、ご両親様のお部屋です。
実は、タルペイア様から、言づかっていた物がございまして。
フレイア様がご成人されたら、との仰せでしたが……このご時世です、早くお渡ししておいた方が、心置きなく戦えると存じまして」
「分かったわ」
二人は方向を変え、小宮殿に向かった。

グルヴェイグ宮にあるフレイアの両親の部屋は、亡くなった当時のままにされており、幼い頃の彼女は、母が恋しくなると両親のベッドで眠ったりもしたが、最近では、滅多に部屋に入ることもなくなっていた。

「わあ、久しぶりだわ!」
扉を開けたフレイアは、歓声を上げた。
天帝の孫夫妻の私室だけあって、室内は豪奢(ごうしゃ)を極めていた。
「こちらです」
はしゃぐ女神を導き、大天使は奥に進んで、衣裳部屋のドアを開けた。
大量の衣装の間を通って奥の壁際に、純白のクローゼットが一つ、置いてあった。

「この中です」
「……こんなところに? 気づかなかったわ」
大天使が扉を開けた刹那、眼に飛び込んで来たのは、(きら)びやかな宝石とレースとで飾られた、美しい純白のドレスだった。
「まあ、これは……!?」

「ご婚礼の際に、お母上様が身につけられたウエディングドレスです……。
これを着た姿を一目見たかった、そう言い残されて、タルペイア様は……」
「ああ、お母様!」
フレイアは、母の形見に顔を埋めた。
絹の滑らかな感触と、ふわりと立ち昇る甘い香り……そうしていると、まるで、母の胸に(いだ)かれているようだった。

ややあって、我に返ると、かたわらに大天使の姿はなかった。
「……メタトロン? どこ?」
ドレスをしまって衣裳部屋を出ると、黒衣の天使が待っていた。
「メタトロン様は、ラファエル様方の加勢に行かれました。天使長様が、出頭を拒まれたそうで。
ちょうど、わたしが来合わせましたので、代わりに警護をするようにと……」

「お前、ベリアスね!? 大変よ、ハニエルが行方不明なの!」
女神は勢い込んで言った。
「あ、いえ、あの方は大丈夫です。
少し身を隠すだけで、心配はいりませんとのことでした、それをお伝えしようとやって来たところで……」
「なーんだ、お前、彼女に会ったのね。今、どこにいるの?」
安堵した女神は尋ねた。

ベリアスは、首を横に振った。
「いえ、念でお話しただけですので。巻き込みたくないからと、居場所は教えては頂けませんでした」
「そう。ミカエルに知れたら大変だし、その方がいいかもね」
ベリアスは、にっこりした。
「はい。天使長様に拷問されても、知りませんと叫びながら死んでいくことが出来ますから」

女神は、はっと息を呑んだ。
「……いいわね、ハニエルがうらやましいわ。そうやって、命を賭けてくれる人がいるんだもの」
天使は、頬を赤らめた。
「そ、そんな、それに、女神様をお守りする天使は大勢……」
「いいえ、皆、わたくしが天帝のひ孫だから、仕方なくやってるのよ。
本気で守ろうと思ってる人なんて……」
フレイアは淋しげな笑みを浮かべ、首を振った。

ざんげん【讒言】

事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。

しゅんじゅん【逡巡】

決断できないで、ぐずぐずすること。しりごみすること。ためらい。