14.白い形見(4)
翌日、うきうきと朝食に現れたフレイアとは対照的に、天帝の機嫌は極めて悪く、
「フレイアよ。そちはこの頃、少々浮かれているようじゃが、戦況は厳しい。
いつまでも、童子のごとき気分でおるようでは、末が思いやられる。
やはり、ミカエルとの縁談を進め……」
「嫌です、それだけはお断りしますわ! 人殺しの妻なんて、ごめんこうむります!」
女神は、つっぱねるように答えた。
天帝は眉を上げる。
「人殺し……ウリエルのことか?」
「そうですわ、独断専行し、夫となるべきお方の命を奪った憎い
「夫となるべき……? じゃが、ウリエルは、そちとの縁談を断ったではないか」
「あ、あのとき彼は、若いうちからわたくしを縛るのはよくないと思って、断ったのだそうですわ。
あの後、直接お話しましたの。
それで、わたくしが成人しても意中の男性がいなければ、必ず求婚するというお約束を……」
フレイアは頬を染めた。
「……ほう、左様なことを申しておったのか」
「はい。
それで、わたくし、彼に見合う
女神の黄金の瞳がうるむ。
「突然、亡くなった、なんて。それも戦の傷で……今頃?
魔法医を問い詰めても、急に傷が悪化したとか、でたらめを繰り返すばかりで……そのうち、噂が耳に入ってきましたの、本当は、ミカエルに殺されたのだと……」
フレイアはハンカチを取り出し、眼に押し当てた。
「いやいや、フレイア、それは根も葉もない……」
「いいえ!」
女神は勢いよく顔を上げ、きっと曽祖父を睨みつけた。
「サマエルが言ってましたわ、その現場を見てしまったアスベエルは、夜も眠れず、自分もミカエルに殺される夢を見ると!
アスベエルに尋ねると、やつれた顔で、もう平気だと答えました……これでも噂だなんて仰るの、ひいお祖父様?
そんな人殺しと、わたくしを、結婚させようとなさるなんて……!」
フレイアは、わあっと泣き崩れ、慌てた天帝は食卓から立ち上がり、ひ孫に駆け寄った。
「
こともあろうに、敵の、しかも男……そのサマエルに
それを知ったミカエルが
女神は顔を覆ったまま、いやいやと首を振った。
「ミカエルは、サマエルが欲しかったから、彼を殺したんですわ……それも体目当てで」
「な、何じゃと、まさか……」
天帝は絶句した。
「その証拠に、看守達の前で一晩中、サマエルをおもちゃにしてたんですって……それで、体を壊して、静養を……」
「何と、あの体調不良は、淫魔を相手にしたせいと申すか……?」
天帝は耳を疑い、彼女は、こくりとうなずいた。
「ええ。それに当時は、サマエルを捕まえられるなんて、想像もできませんでしたし。
ウリエルだってそう思ったからこそ、気持ちの整理をつけ、わたくしとの結婚を望んだんですわ、それを、食わせ者だなんて……」
そこまで言うと、再び、フレイアは顔を上げた。
「ウリエルに、想い人がいることは分かっていました……お相手は、マトゥタ様だとばかり思っていましたけれど……多分、サマエルのことを知りたくて、お屋敷に通っていたんですわね。
でも、わたくし、ウリエルと結婚出来るなら、サマエルを引き取ってもよかったのにと思います……」
それを聞いた天帝は、うろたえた。
「な、何を申すか、そちまでも、あの魔物の魔力にかかったか!」
「ひどい、そんなわけないですわ」
女神は口を尖らせた。
「サリエルのためですわよ。
地下牢暮らしの父親でも、いれば、孤児にならずに済みますでしょ?
もちろん、ウリエルも、サマエルを自分のものに出来れば喜ぶでしょうし、わたくし一人が、ちょっと我慢すればいいのですから……」
「おう、何とけなげな……!」
天帝は、彼女をひしと抱き締めて、頭をなでた。
「ウリエル……惜しい男を亡くしたものよ……我がひ孫にこれだけ想われて。
のう、フレイア、そちさえよければ、ウリエルのホムンクルスを……」
「いいえ、複製なんていりません!」
フレイアは、曽祖父を押しのけて体を起こした。
「あれほど大々的にお葬式をした後で、ですの?
それに、ミカエルは、きっとまた殺しますわよ、そのたびに、わたくしは悲しい思いを……」
「むうう……たしかにそうじゃな……」
「わたくし、ミカエルを見ていると、大事にしてはもらえそうもないわって、どうしても思ってしまうんですの。
きっと、あいつが愛しているのは、サマエルの母親だけなんでしょう……とっくに死んでしまったのに。
他の男や女は、欲望のはけ口に過ぎないのねって思います……ウリエルとは大違いですわ」
「むむ……」
「それと、ガブリエルも多分、ミカエルに……。
彼女も、一時期、泣いてばかりいましたもの、ハニエルと同じように……。
でも、わたくしには理由を教えてはくれず……そのうちに、様子がどんどんおかしくなって……マトゥタ様に相談したときにはすでに手遅れで、彼女はもう、ミカエルのことしか見えないように……。
わたくし、姉のように思っていました……
そんな彼女の心を壊したのが、ミカエルなんですわ……」
「ガブリエルまでも……!? いや、それはあるまい、そちの勘違いじゃ」
天帝は、きっぱりと断言した。
「そうでしょうか。ですが……」
「さもあればあれ……わしも、ウリエルはマトゥタに惚れており、それゆえ、他の女神には見向きもせぬのだと思うておったわ……。
それが、実の相手は敵の男、さらには、我がひ孫と言い交わしておったとはのぉ……」
天帝は、額に手を当ててため息をつき、頭を振った。
「ウリエルは、マトゥタ様以外の女神達が、少し苦手なのだと言ってましたわ。
わたくしに対しては、小さな頃から見知っているからか、そんな苦手意識はないそうですけれど」
「むう、左様であったか。
されどのぉ、あのミカエルだとて、妻を
そのとき、激しくノックの音が響き、七大天使の一人、メタトロンが、
「お食事中、失礼致します、天帝様。
フレイア様、一大事でございます」
「何事じゃ、メタトロン、騒々しい。無礼であろう」
「お待ち下さい、ひいお祖父様。
メタトロンには、ミカエルがわたくしの宮に押し入ろうとしたら、すぐに知らせるように言っておいたのです」
フレイアは大天使をかばった。
「何、グルヴェイグ宮にか? まさか……」
「いいえ、目的のためには手段を選ばない男です、何をするか分かったものではありませんから」
「
天使長様は、許可なくグルヴェイグ宮に侵入、ハニエルを連れ出そうとして
「な、何じゃと!?」
さすがの天帝も、顔色を変えた。
「しかも、衛士の話では、ミカエル様の目的は、ハニエルではなく、フレイア様だったのではないか、と」
「何ですって、わたくしが目的……!?」
フレイアは眼を丸くした。
「はい。
女神様がいらっしゃらないと知ると、仕方ない、女一人で我慢すると仰って、ハニエルを連れて行こうとなさったそうで」
「まああ……! 既成事実を作ろうとしたんだわ、わたくしが、あいつとの縁談を嫌っていたから……!」
フレイアは自分の肩を抱き、身を震わせた。
「
ガブリエル、ハニエルに続き、今度はフレイア様を……」
「ああ、本当におぞましいわ……!
これでも、まだ縁談を進めると仰るのですか、ひいお祖父様……!?」
女神の視線を受けた天帝は顔をしかめ、尋ねた。
「むうう……今、いずこにおるのじゃ、ミカエルは?」
「は、衛士に斬り付けた後、剣を振り回しながら走り出て行かれたそうですが、行き先までは」
「そんなことより、ハニエルは無事なの!?」
女神は勢い込んで
「は。無事だったのですが……いつの間にか姿を消しまして……この書置きが……」
メタトロンは口ごもりながら、懐から一枚の紙を出し、女神に渡した。
「『フレイア様、お世話になりました。
このままわたしがいたら、天使長様は、何度でも小宮殿に押しかけて来るでしょう、これ以上、ご迷惑はかけられません。
本当にありがとうございました。
ハニエル』」
震える文字の走り書きをフレイアが読み上げると、天帝は眉をしかめた。
「むう、何としたこと。敵前逃亡は重罪じゃぞ」
「いえ、天帝様。
ハニエルは、まだ天界から出てはおりませんので、逃亡罪にはあたらないと思われます」
「そ、そうよ、そうよね、メタトロン!」
必死の面持ちで、フレイアは叫ぶ。
「はい。
転移門は厳重に守られ、天帝様のお許しなくば、なんぴとも出入りすることは叶いませんし、また、守衛達も、彼女の姿を見てはおりません。
おそらく、怯えて身を隠しているだけでございましょう、市街のどこかに」
「ええ、ええ、きっとそうに違いないわ、よっぽどショックだったんでしょう、可哀想に。
それと、ひいお祖父様、ハニエルは、敵から逃げたわけではありませんわ、ミカエルが“敵”だと仰るのなら別ですけれど」
「むう……ともかく、ミカエルを連れて参れ、メタトロン」
「
「何じゃと、何ゆえじゃ」
「大天使が五人がかりで、敵わなかったのでございますよ? わたし一人では到底……」
「ならば、七大天使を召集せよ、そして、
天帝は勢いよく腕を振り、戸口を差した。
「は!」
メタトロンは、頭を下げると立ち上がり、ドアに向かった。
「わたくしも行きます、ハニエルを捜さなくては!」
その後を追おうとするひ孫の腕を、天帝はつかんで引き止めた。
「行ってはならぬ、そちは部屋で大人しくしておれ!」
フレイアは振り向き、うるんだ眼差しを曽祖父に据えた。
「ずっと思っていたのですけど……ひいお祖父様は、わたくしより、ミカエルの方が大事なんですのね?
わたくしは男ではありませんから、ひいお祖父様のご政務のお手伝いも出来ず……かといって、女帝の器でもありませんし、仕方ないですけれど」
思わず天帝は腕を放し、それから慌てて言った。
「い、いや、フレイア、左様なことは……」
「誤解なさらないで、ひいお祖父様。
わたくし、政略結婚を嫌っているわけではないんですの。
ただ、せめて、優しい殿方との結婚をと……そんなささやかな願いさえ、許されないんですのね。
では、失礼します、ミカエルより早く、ハニエルを見つけなければいけませんから」
ドレスの裾を持ち上げ、軽く
どくだんせんこう【独断専行】
物事を独断で勝手に推し進めること。
にんじょうざた【刃傷沙汰】
刃物で人を傷つけるような争いや、騒ぎ。
えいし【衛士】
宮殿・貴人などの警備、護衛にあたる兵士。衛士(えじ)
けしきばむ【気色ばむ】
1 怒ったようすを表情に現す。むっとして顔色を変える。