~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

14.白い形見(3)

“ひ、ひいお祖父様!? ど、どうなさったの……!?”
女神は青ざめ、思わず扇を落としてしまった。
「あの、女神様……?」
扇を拾って差し出すホムンクルスに、彼女は唇に指を当てて見せ、それを受け取った。

“何じゃ? 左様に驚いて。いかがしたのじゃ?”
天帝の思念が、不審の色を帯びた。
“いえ、あの、……念話をお使いになられるなんて、滅多にないことですし。
それに、お声も緊迫しておられたので、つい……”

“左様じゃったかの。何せ、こたびの作戦には天界の命運がかかっておる。
必ずや、悪鬼どもを殲滅(せんめつ)せんと、皆も意気込んでおってな、その勢いが、我が念にも現れてしもうたのじゃろう”
“そ、それで、何のご用でしょうか……?”
女神は震える手で、額の汗をぬぐった。

“いや、何、大したことではない。
今宵(こよい)夕餉(ゆうげ)は、会議中に済ませるゆえ、一緒に食せぬと知らせたかっただけじゃよ。
そちはまだ、市街におるようじゃとラファエルが申したゆえ、使いを送るより、念話が早かろうと思うてな”

それを聞いて、ようやく、フレイアは胸をなで下ろした。
“まあ、そうでしたの。わたくし、てっきり、何か緊急事態でも起きたのかと思って……”
“いやいや、左様なことはない、驚かせて済まなんだな”
“いえ、わたくしの早とちりでよかったですわ”

“それはさておき、サマエルの埋葬に立ち会うことなど、もっての外じゃぞ。
死体は、荒野に埋めるとラファエルは申しておるし、安全な市街を出ることはまかりならぬ。
よいか、フレイア、そちの体は、そち一人のものではないのじゃ”

“分かっておりますわ”
予期していたので、女神はさほど落胆はしない。
そして、彼女はまだ、すべてを諦めたわけではなかった。
“あの……ひいお祖父様、でも、一人でのお食事は淋しいですわ、今夜だけ、サリエルのお部屋で、お夕食をとるお許しを頂けませんこと?
わたくし、あの子が、新しいお部屋をどう使っているか見てみたいと、ずっと思っておりましたのよ”

“何? されど……むう、たしか、今、アスベエルも共におるのじゃろう……”
“え? アスベエルが何か?”
彼女は眼を見開いた。
“そちはまだ、あれとの約束を覚えておるかの?”
天帝の念は探るようだった。

フレイアは、小首をかしげた。
“何のことでしょう。わたくしが、アスベエルと?”
“いや、覚えておらぬならよいのじゃ、されど、……”
“ご心配でしたら、お目付け役として、誰かを同席させますわ。
そうだわ、最近侍女にした、大天使ハニエルはいかがでしょう。
あとは、光の塔からついて来ている看守のベリアス、それから……”

“もうよい、相分かった。サリエルを監視している者に命じておくゆえ、皆で会食致せ”
根負けしたように、天帝は許可を与えた。
“ありがごうございます、ひいお祖父様! うれしいですわ!”
思わず、フレイアの声は弾む。
しかし、同時に、監視という言葉が心に引っかかった。

“でも、サリエルには、また、監視がついたのですか?。
あんな幼い子が一人で、何が出来ると仰いまして?”
“わしも左様に思うたが、ミカエルが、どうしてもと申すのでな”
“まあ、またミカエルですの……!?”
女神は顔をしかめた。

“致し方あるまい。敵の血を引くサリエルを、無用な誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)より、保護するための措置じゃからな。
父親が処刑され、あまつさえ、魔界の回し者などと(そし)られては、あれも立つ瀬がなかろう”
天帝の念は、なだめるようだった。

“ええ……仕方ないですわね”
“よい子じゃ。今宵は先に休むようにな”
“分かりました。お仕事も大事ですけれど、あまりご無理をなさらないで”
“うむうむ、ではの、フレイア”
“はい”

念話を切ると、待ちかねていたベリアスが尋ねた。
「女神様、まさか、このことが天帝様に!?」
「いいえ、違うわ、安心して。
ひいお祖父様は、会議をしながら夕食をおとりになると知らせて下さっただけよ」
その言葉に、固唾(かたず)を呑んで様子を見守っていた、一同の力が抜ける。

「それでね、わたくし、サリエルと一緒のお夕食を、お許し頂いたの。
だから、もう、大っぴらに、ここにいられるのよ!」
女神は、両手を広げ、くるりと一回転した。
淡い桜色のドレスが、花のように広がった。

不意に回転を止めて、彼女は付け加える。
「そうそう、ベリアス、お前も一緒によ」
「え、わたしがご相伴(しょうばん)を?」
ベリアスは眼を丸くし、自分を指差す。
「そうよ。お目付け役として、誰かいなくちゃいけないの。だから、お前の他に……」

そのとき、ドアがノックされ、監視役の天使が顔を出した。
「失礼致します。たった今、天帝様から、このようなご命令が……」
天使は、命令書を差し出す。
「あ、今さっき、ひいお祖父様とお話をして、ここでお食事をしてもよいとお許しを頂いたのよ。
ごめんなさいね、無理を頼んだのに」
「い、いえ、そんなことは」
天使は、明らかにほっとしていた。

「ちょうどいいわ、お前、ハニエルを呼んで来てちょうだい、わたくしの部屋にいるはずだから。
ひいお祖父様のご命令で、お夕食に付き添うようにって。
今は、会議の真っ最中で、ミカエルに出くわすこともないから、って言えば喜んで来ると思うわ」
「かしこまりました!」
ぺこりとお辞儀をし、天使は急いで出て行った。

いそいそとやって来たハニエルは、ベリアスを見て驚いた。
「まあ、お前、どうしてここに!?」
「ハニエル様、お久しぶりです」
ベリアスは、込み上げるうれしさを、頭を下げることで隠した。
「あら、二人は知り合いだったの?」
「はい、ベリアスは以前、わたしの部下でした」

そして、ハニエルは念話で付け加えた。
“実は、女神様に、ミカエル様のことを相談しては、と助言してくれたのは、彼なのです。
たまたま、わたしが一人で涙にくれているところを、見られてしまいまして。
誰にも言えず悩んでいたところでしたので、つい、彼に話を……”

女神は微笑む。
「まあ、そうだったの。ちょうどよかったわね。じゃあ、二人は、隣同士に座るといいわ」
「えっ、ですが……」
「そうです、万一、妙な噂を立てられたりしたら、またハニエル様のご迷惑に……」
ベリアスも慌てて口を挟む。

「大丈夫よ、そんな噂を流すような者は、ここにはいないから」
女神は、居並ぶ全員に視線を送った。
「そうだぞ、ベリアス。俺の両親は、天使同士なのに愛し合って、俺が生まれたんだからな」
口火を切ったのは、アスベエルだった。

「僕だって同じような立場だよ、そして、このリナーシタは、双子の弟みたいなものだし」
サリエルは、ホムンクルスの肩に手を置く。
女神は、監視役の天使を見た。
「あとはお前だけね。……名前は?」
「は、ルクバトと申します」

「そう、ルクバト、ベリアスの同僚なんだし、そんなことしないわよ、ね?
お約束出来るなら、お前も、お夕食に付き合わせてあげる」
フレイアは、天使に微笑みかけた。
監視役の(ごん)天使は、顔を真っ赤にした。
「はい、お約束致します、女神様!」

「じゃあ、わたくし、アスベエルの隣に座りたいわ、これも内緒、いいでしょ、皆?」
女神は満面の笑みを浮かべ、看守長は顔を赤らめた。
大きなテーブルを囲んで皆が席に着くと、次々に豪華な料理が現れた。

今日の晩餐は、この場の皆にとって、忘れられないひとときとなった。
特に、フレイアにとっては。
幼くして両親を亡くした彼女にとっては、マトゥタが実質的な養母と言ってよく、アスベエルとサリエルは、義兄弟も同然だった。
一万五千歳で、アスベエルが看守長に就くと、彼女にも世継ぎとしての教育が始まり、二人にも会えなくなって、ずっと淋しい思いをしていたのだ。

「ねぇ、アスベエル、光の檻って、すごく眩しいわよね、眼が痛くならない?
あと、看守の暮らしはどう? 光の塔の地下に住んでいるんでしょ?
どんなお部屋? マトゥタ様のお屋敷と比べて?」
矢継ぎ早に質問を浴びせられて、アスベエルはどもりながら答えた。
「あ、あの、そりゃ、お屋敷とは、比べられませんよ、簡素……っていうか。
ベッドと、テーブル、あと、椅子がある……くらいで」
「そうなの。部屋に何か飾っていて?」

「いえ、何も。子供の頃は、フレイア様が、花などを飾って下さいましたけど」
「そうだったわね、迷惑だったでしょう、お構いなしに、いろんなものを持ち込んだから」
「迷惑だなんて、とんでもない。うれしかったですよ、俺。
フレイア様が下さったものを、部屋にも持って行きたかったんですけど、許されませんでした……」
「まあ、ひどいわね、せっかく、わたくしがあげたのに」

そんな二人を、サリエルは、にこにこと見ていた。
時折、隣にいるホムンクルスと眼を合わせ、微笑む。
記憶を共有し、考えることも同じ彼らには、言葉は必要なかったのだ。

そして、ハニエルとベリアスは、黙々と食事をしていた。
“あの、ハニエル様。その後、いかがお過ごしで……?”
他人には聞かせたくない内容のため、ベリアスは念話で尋ねた。
“ええ、ありがとう。
フレイア様にお仕えするようになって、気持ちもかなり落ち着いたわ”
“それは、ようございました”

“女神様はね、天使長様に、グルヴェイグ宮には決して立ち入らないよう、きつく命じて下さったのよ。
その上、室内ばかりでは退屈だからと、わたしを毎日、小宮殿の中庭や、汎神殿のあちこちに連れ出して下さるの。
たとえ、ミカエル様と行き会うことがあっても、自分と一緒なら、心配いらないでしょうと……お優しい方よ、フレイア様は”

“本当ですね。女神様にご相談することを思いついて、心からよかったと思います”
サマエルに教えられたという自覚がないベリアスは、そう答えた。
“それとね、魔法医の診察を受けたの……妊娠はしていなかった……わたし、安心して気が遠くなったわ……”
ナイフとフォークを皿に置き、ハニエルは目頭を押さえた。
“もし、そうなっていたら……わたし、天界を出奔(しゅっぱん)していたでしょうね……”

“その……ハニエル様、何と申し上げていいか……”
痛ましげな表情のベリアスが差し出すハンカチを受け取り、大天使は顔を覆った。
“ありがとう、ベリアス……”
“いえ、本当によかったです、もし、ハニエル様に何かあったら、わたしも、……”
ベリアスも言葉を途切らせ、うつむいた。

「どうしたの、ハニエル?」
彼らの様子に気づいたフレイアが、大天使の顔を覗き込んだ。
大天使は、慌てて顔を上げた。
「あ、あの、色々ありまして、胸が一杯に……」
「大丈夫? 二人きりにしてあげたいけど、ひいお祖父様とのお約束もあるから……」
「いえ、そんな、……」

「じゃあ、もう泣かないで。今日は、楽しく過ごしましょ」
「はい、申し訳ありません……」
ハニエルは頭を下げた。
「謝ることないわ、気持ちは分かるもの。
わたくしも、あいつは憎いわ。決して、決して許さないから!」
女神はしかめ面で、ナイフとフォークを肉に突き刺し、勢いよく切り始めた。

しょうばん【相伴】

2 饗応(きょうおう)の座に正客の連れとして同席し、もてなしを受けること。
または、人の相手をつとめて一緒に飲み食いをすること。また、その人。

グルヴェイグ(グッルヴェイグとも。Gullveig)

北欧神話に登場する、おそらくはヴァン神族の一員の女神。その名前は「黄金の力」を意味する。
『古エッダ』の『巫女の予言』に登場。女神フレイヤであろうというのが一般的な見方のようである。
(ウィキペディアより抜粋)