14.白い形見(3)
“ひ、ひいお祖父様!? ど、どうなさったの……!?”
女神は青ざめ、思わず扇を落としてしまった。
「あの、女神様……?」
扇を拾って差し出すホムンクルスに、彼女は唇に指を当てて見せ、それを受け取った。
“何じゃ? 左様に驚いて。いかがしたのじゃ?”
天帝の思念が、不審の色を帯びた。
“いえ、あの、……念話をお使いになられるなんて、滅多にないことですし。
それに、お声も緊迫しておられたので、つい……”
“左様じゃったかの。何せ、こたびの作戦には天界の命運がかかっておる。
必ずや、悪鬼どもを
“そ、それで、何のご用でしょうか……?”
女神は震える手で、額の汗をぬぐった。
“いや、何、大したことではない。
そちはまだ、市街におるようじゃとラファエルが申したゆえ、使いを送るより、念話が早かろうと思うてな”
それを聞いて、ようやく、フレイアは胸をなで下ろした。
“まあ、そうでしたの。わたくし、てっきり、何か緊急事態でも起きたのかと思って……”
“いやいや、左様なことはない、驚かせて済まなんだな”
“いえ、わたくしの早とちりでよかったですわ”
“それはさておき、サマエルの埋葬に立ち会うことなど、もっての外じゃぞ。
死体は、荒野に埋めるとラファエルは申しておるし、安全な市街を出ることはまかりならぬ。
よいか、フレイア、そちの体は、そち一人のものではないのじゃ”
“分かっておりますわ”
予期していたので、女神はさほど落胆はしない。
そして、彼女はまだ、すべてを諦めたわけではなかった。
“あの……ひいお祖父様、でも、一人でのお食事は淋しいですわ、今夜だけ、サリエルのお部屋で、お夕食をとるお許しを頂けませんこと?
わたくし、あの子が、新しいお部屋をどう使っているか見てみたいと、ずっと思っておりましたのよ”
“何? されど……むう、たしか、今、アスベエルも共におるのじゃろう……”
“え? アスベエルが何か?”
彼女は眼を見開いた。
“そちはまだ、あれとの約束を覚えておるかの?”
天帝の念は探るようだった。
フレイアは、小首をかしげた。
“何のことでしょう。わたくしが、アスベエルと?”
“いや、覚えておらぬならよいのじゃ、されど、……”
“ご心配でしたら、お目付け役として、誰かを同席させますわ。
そうだわ、最近侍女にした、大天使ハニエルはいかがでしょう。
あとは、光の塔からついて来ている看守のベリアス、それから……”
“もうよい、相分かった。サリエルを監視している者に命じておくゆえ、皆で会食致せ”
根負けしたように、天帝は許可を与えた。
“ありがごうございます、ひいお祖父様! うれしいですわ!”
思わず、フレイアの声は弾む。
しかし、同時に、監視という言葉が心に引っかかった。
“でも、サリエルには、また、監視がついたのですか?。
あんな幼い子が一人で、何が出来ると仰いまして?”
“わしも左様に思うたが、ミカエルが、どうしてもと申すのでな”
“まあ、またミカエルですの……!?”
女神は顔をしかめた。
“致し方あるまい。敵の血を引くサリエルを、無用な
父親が処刑され、あまつさえ、魔界の回し者などと
天帝の念は、なだめるようだった。
“ええ……仕方ないですわね”
“よい子じゃ。今宵は先に休むようにな”
“分かりました。お仕事も大事ですけれど、あまりご無理をなさらないで”
“うむうむ、ではの、フレイア”
“はい”
念話を切ると、待ちかねていたベリアスが尋ねた。
「女神様、まさか、このことが天帝様に!?」
「いいえ、違うわ、安心して。
ひいお祖父様は、会議をしながら夕食をおとりになると知らせて下さっただけよ」
その言葉に、
「それでね、わたくし、サリエルと一緒のお夕食を、お許し頂いたの。
だから、もう、大っぴらに、ここにいられるのよ!」
女神は、両手を広げ、くるりと一回転した。
淡い桜色のドレスが、花のように広がった。
不意に回転を止めて、彼女は付け加える。
「そうそう、ベリアス、お前も一緒によ」
「え、わたしがご
ベリアスは眼を丸くし、自分を指差す。
「そうよ。お目付け役として、誰かいなくちゃいけないの。だから、お前の他に……」
そのとき、ドアがノックされ、監視役の天使が顔を出した。
「失礼致します。たった今、天帝様から、このようなご命令が……」
天使は、命令書を差し出す。
「あ、今さっき、ひいお祖父様とお話をして、ここでお食事をしてもよいとお許しを頂いたのよ。
ごめんなさいね、無理を頼んだのに」
「い、いえ、そんなことは」
天使は、明らかにほっとしていた。
「ちょうどいいわ、お前、ハニエルを呼んで来てちょうだい、わたくしの部屋にいるはずだから。
ひいお祖父様のご命令で、お夕食に付き添うようにって。
今は、会議の真っ最中で、ミカエルに出くわすこともないから、って言えば喜んで来ると思うわ」
「かしこまりました!」
ぺこりとお辞儀をし、天使は急いで出て行った。
いそいそとやって来たハニエルは、ベリアスを見て驚いた。
「まあ、お前、どうしてここに!?」
「ハニエル様、お久しぶりです」
ベリアスは、込み上げるうれしさを、頭を下げることで隠した。
「あら、二人は知り合いだったの?」
「はい、ベリアスは以前、わたしの部下でした」
そして、ハニエルは念話で付け加えた。
“実は、女神様に、ミカエル様のことを相談しては、と助言してくれたのは、彼なのです。
たまたま、わたしが一人で涙にくれているところを、見られてしまいまして。
誰にも言えず悩んでいたところでしたので、つい、彼に話を……”
女神は微笑む。
「まあ、そうだったの。ちょうどよかったわね。じゃあ、二人は、隣同士に座るといいわ」
「えっ、ですが……」
「そうです、万一、妙な噂を立てられたりしたら、またハニエル様のご迷惑に……」
ベリアスも慌てて口を挟む。
「大丈夫よ、そんな噂を流すような者は、ここにはいないから」
女神は、居並ぶ全員に視線を送った。
「そうだぞ、ベリアス。俺の両親は、天使同士なのに愛し合って、俺が生まれたんだからな」
口火を切ったのは、アスベエルだった。
「僕だって同じような立場だよ、そして、このリナーシタは、双子の弟みたいなものだし」
サリエルは、ホムンクルスの肩に手を置く。
女神は、監視役の天使を見た。
「あとはお前だけね。……名前は?」
「は、ルクバトと申します」
「そう、ルクバト、ベリアスの同僚なんだし、そんなことしないわよ、ね?
お約束出来るなら、お前も、お夕食に付き合わせてあげる」
フレイアは、天使に微笑みかけた。
監視役の
「はい、お約束致します、女神様!」
「じゃあ、わたくし、アスベエルの隣に座りたいわ、これも内緒、いいでしょ、皆?」
女神は満面の笑みを浮かべ、看守長は顔を赤らめた。
大きなテーブルを囲んで皆が席に着くと、次々に豪華な料理が現れた。
今日の晩餐は、この場の皆にとって、忘れられないひとときとなった。
特に、フレイアにとっては。
幼くして両親を亡くした彼女にとっては、マトゥタが実質的な養母と言ってよく、アスベエルとサリエルは、義兄弟も同然だった。
一万五千歳で、アスベエルが看守長に就くと、彼女にも世継ぎとしての教育が始まり、二人にも会えなくなって、ずっと淋しい思いをしていたのだ。
「ねぇ、アスベエル、光の檻って、すごく眩しいわよね、眼が痛くならない?
あと、看守の暮らしはどう? 光の塔の地下に住んでいるんでしょ?
どんなお部屋? マトゥタ様のお屋敷と比べて?」
矢継ぎ早に質問を浴びせられて、アスベエルはどもりながら答えた。
「あ、あの、そりゃ、お屋敷とは、比べられませんよ、簡素……っていうか。
ベッドと、テーブル、あと、椅子がある……くらいで」
「そうなの。部屋に何か飾っていて?」
「いえ、何も。子供の頃は、フレイア様が、花などを飾って下さいましたけど」
「そうだったわね、迷惑だったでしょう、お構いなしに、いろんなものを持ち込んだから」
「迷惑だなんて、とんでもない。うれしかったですよ、俺。
フレイア様が下さったものを、部屋にも持って行きたかったんですけど、許されませんでした……」
「まあ、ひどいわね、せっかく、わたくしがあげたのに」
そんな二人を、サリエルは、にこにこと見ていた。
時折、隣にいるホムンクルスと眼を合わせ、微笑む。
記憶を共有し、考えることも同じ彼らには、言葉は必要なかったのだ。
そして、ハニエルとベリアスは、黙々と食事をしていた。
“あの、ハニエル様。その後、いかがお過ごしで……?”
他人には聞かせたくない内容のため、ベリアスは念話で尋ねた。
“ええ、ありがとう。
フレイア様にお仕えするようになって、気持ちもかなり落ち着いたわ”
“それは、ようございました”
“女神様はね、天使長様に、グルヴェイグ宮には決して立ち入らないよう、きつく命じて下さったのよ。
その上、室内ばかりでは退屈だからと、わたしを毎日、小宮殿の中庭や、汎神殿のあちこちに連れ出して下さるの。
たとえ、ミカエル様と行き会うことがあっても、自分と一緒なら、心配いらないでしょうと……お優しい方よ、フレイア様は”
“本当ですね。女神様にご相談することを思いついて、心からよかったと思います”
サマエルに教えられたという自覚がないベリアスは、そう答えた。
“それとね、魔法医の診察を受けたの……妊娠はしていなかった……わたし、安心して気が遠くなったわ……”
ナイフとフォークを皿に置き、ハニエルは目頭を押さえた。
“もし、そうなっていたら……わたし、天界を
“その……ハニエル様、何と申し上げていいか……”
痛ましげな表情のベリアスが差し出すハンカチを受け取り、大天使は顔を覆った。
“ありがとう、ベリアス……”
“いえ、本当によかったです、もし、ハニエル様に何かあったら、わたしも、……”
ベリアスも言葉を途切らせ、うつむいた。
「どうしたの、ハニエル?」
彼らの様子に気づいたフレイアが、大天使の顔を覗き込んだ。
大天使は、慌てて顔を上げた。
「あ、あの、色々ありまして、胸が一杯に……」
「大丈夫? 二人きりにしてあげたいけど、ひいお祖父様とのお約束もあるから……」
「いえ、そんな、……」
「じゃあ、もう泣かないで。今日は、楽しく過ごしましょ」
「はい、申し訳ありません……」
ハニエルは頭を下げた。
「謝ることないわ、気持ちは分かるもの。
わたくしも、あいつは憎いわ。決して、決して許さないから!」
女神はしかめ面で、ナイフとフォークを肉に突き刺し、勢いよく切り始めた。
しょうばん【相伴】
2 饗応(きょうおう)の座に正客の連れとして同席し、もてなしを受けること。
または、人の相手をつとめて一緒に飲み食いをすること。また、その人。
グルヴェイグ(グッルヴェイグとも。Gullveig)
北欧神話に登場する、おそらくはヴァン神族の一員の女神。その名前は「黄金の力」を意味する。
『古エッダ』の『巫女の予言』に登場。女神フレイヤであろうというのが一般的な見方のようである。
(ウィキペディアより抜粋)