14.白い形見(2)
フレイアはそっと布をめくる。無惨な傷口が現れた。
(……きゃ)
思わず上げそうになる悲鳴を噛み殺し、女神はぎゅっと眼をつぶり、切り口にへばりついていた髪を数本、震える手ではぎ取った。
血に染まった、サマエルの白い髪……閉じた目蓋の裏側に、またしても昨日の情景が、ありありと蘇ってしまう。
歯を食いしばって嫌な記憶を振り払い、髪を白い紙に包んで胸元にしまった直後、後から声がかかった。
「お待たせ致しました、女神様」
女神は、ぎくりと振り返る。
「あ、ああ、ラファエル……」
大天使は、気遣わしげな表情になった。
「どうなさいました……ああ、こんなものをご覧になっては、ご気分が悪くなるのも当然でございますね。
お話は、上に戻った後に致しましょう」
近づいて来たラファエルは、手早く死体に布をかけ直した。
「そ、そうね。……一人じゃ、さすがに怖かったわ。
話だけなら、ここまで来る必要はなかったけど、怖い物見たさ、っていうのかしら?」
「左様でございますか。ささ、戻りましょう」
そそくさと死体置き場を出、ベリアスが鍵を閉めて、三人は階段を上った。
明るい地上に出たフレイアは、心からほっとした。
大天使は、改めて深々と礼をした。
「まさか、女神様に、お話を通して頂けるとは思いもよりませんでした、お手数をおかけ致しました」
「いいのよ、サリエルのためですもの。
それより、どこに埋葬すればいいかしら。
マトゥタ様のお墓の隣は……やっぱり駄目よね、ひいお祖父様がお許しにならないわ」
「左様でございますね……それでは、わたしが適当な場所を
埋葬には、サリエルとアスベエルを立ち合わせます」
「そのときは、わたくしも行くわ」
「承知致しました。
実は、この後すぐに、戦略会議がございます。
その折、天帝様にご報告致しますので、汎神殿までご一緒に……」
言いかけるラファエルを、フレイアはさえぎった。
「いえ、わたくし、気分転換に市街を回ってから帰るわ。ひいお祖父様によろしくね」
大天使はうなずいた。
「無理もございませんね、あのような、おぞましい物を見た後では。
では、ベリアス、汎神殿までお送り申し上げよ」
「かしこまりました」
「それでは、失礼致します」
再度、礼をし、ラファエルは去った。
一息ついたフレイアは、周囲に誰もいないのを確認し、さらに念話で看守に話しかけた。
“あのね、ベリアス。アスベエルに会えないかしら”
“えっ、看守長殿に、ですか? ……”
天使は驚き、困った顔をした。
“分かってるわ、会わせちゃ駄目って言われてるんでしょ?
サリエルの部屋にも、行っちゃいけないことになってるし……。
それに、サマエルの埋葬にも、ひいお祖父様は、立ち合っちゃいけないと
フレイアはうなだれた。
“も、申し訳ございません……”
ベリアスもまた、頭を下げる。
“いいのよ、言いつけを守らなきゃ、お仕置きされるんだものね。
じゃあ、これ、アスベエルに渡してよ、サマエルの髪なの。
本当は、サリエルに渡したいんだけど……”
女神が紙を差し出すと、ベリアスはぎょっとしたように身を引く。
“い、いつ、そのようなものを……!?”
“ついさっき、死体置き場でよ。
サマエルは念話で、形見を渡してって伝えて来て、すぐ死んじゃったの。
声が必死だったし、気の毒になって。
でも、お前が嫌なら仕方ないわね、ひいお祖父様にお願いしてみるわ。
きっと、叱られて、捨てられちゃうわね……可哀想にサリエル、形見も持てないなんて”
フレイアは、しんみりと言った。
すると、看守は、意を決したように言った。
“分かりました。サリエル殿にお会い出来るよう、わたしが段取り致します”
“え? そんなこと出来るの?”
女神は眼を丸くした。
“はい、それを手渡すだけでしたら。
サリエル殿の監視役は同僚ですし、何とかなるかと……”
“本当!?”
フレイアは、顔を輝かせた。
“では、少しお待ち下さい、話をつけますから”
“ええ!”
天使は、監視の天使に念話を送った。
やがて、ベリアスは話を打ち切る。
その顔を見ただけで、首尾よく行ったことが、彼女には分かった。
“今なら、大丈夫そうだとのことです。
戦略会議のために、部屋の周辺は、まったくの無人状態だそうで”
“よかった!”
思わず女神は、ぱちんと手を合わせた。
ベリアスは素早く、魔法で白のローブに着替えた。
黒いローブは看守の証であり、汎神殿では目立つ。
“では、こちらへ”
彼は女神を、再び地下へ誘導し始めた。
“え、また下に行くの?”
“人目につかない方がよろしいかと存じまして。
それに、地上を行くより早く行けます。
この地下道は、闇の塔や市街地や、外の荒野ともつながっているのですよ”
“……まあ、知らなかったわ”
先ほどの階段から少し離れた所にある、重い鉄の扉を鍵で開け、十五ばかりの石段を下る。
まっすぐ続く石造りの地下道は平坦で、かなり歩きやすく、ランプだけを頼りに先を急ぐ二人にとっては、ありがたいものだった。
さっきとそっくりな石段に行き着き、そこを上がると、また同じ扉があった。
「もう着いたの? たしかに早いわね」
「はい。お待ち下さい、様子を見て参ります」
ベリアスはランプを女神に渡し、鍵で扉を開け、素早く出る。
ぽつぽつと灯りが並ぶ、薄暗い通路を慎重に見渡し、彼は戻った。
“大丈夫です、おいで下さい。ここまで来れば、もうすぐです”
“分かったわ”
少し行って、階段を上がると、そこからは、女神も見慣れたいつもの汎神殿だった。
監視役の天使は、フレイアにうやうやしくお辞儀をした。
“どうぞ、中へ”
“ありがとう。これはお礼よ”
彼女は、その頬に軽く口づけ、天使は真っ赤になった。
“さ、お早く”
ベリアスが女神を促し、二人は部屋に滑り込む。
アスベエルは所在なげに立って外を見、サリエルはホムンクルスと肩を寄せ合い、ソファにうずくまっていたが、女神達の姿を見ると驚いて立ち上がった。
「フレイア様!?」
「えっ、ベリアスも!? どうしたんだ、一体!?」
「女神様が、内密にサリエル殿にお会いしたいと仰るので、お連れしたのですよ」
ベリアスが説明した。
「……僕に? 何のご用でしょう」
サリエルは、女神のそばへ歩み寄る。
「あのね、さっき、お墓を作ってあげようと思って死体置き場に行ったら、サマエルが話しかけて来たの」
「えっ!? じゃ、じゃあ、父上はまだ生きて……!?」
少年は、父親譲りの眼を見開いた。
「いえ、もう死んじゃったわ。
わたくしにお礼と、そして、お前に形見を渡して欲しい、そう言い遺して……」
「えっ、形見!?」
「これよ、髪の毛」
女神は、胸元から白い紙包みを取り出し、渡した。
「あ、ありがとうございます、女神様……ああ、父上!」
包みを胸に、サリエルは泣き崩れた。
複製の少年がそっと近づき、本物の背をさすりながら、頭を下げた。
「僕からも、お礼を言います、女神様」
「お前、サリエルのホムンクルス?」
「はい。本物と区別するために、リナーシタと呼ばれていますが」
「やっぱり、フレイア様はお優しいですね……」
アスベエルが感極まったように言い、フレイアは頬を赤らめた。
「べ、別に優しくなんかないわ。ただ、魔族にちょっと興味があっただけよ。
サマエルにしたって、皆、口を揃えて、最悪の魔物だって言うけど、とてもそうは思えないし、どんな悪いことをしたかは教えてくれないの。
女性を騙したとかなら、ミカエルだってやってるし、そんなので、世界が滅亡するまでいくわけないし。
……あ、こんな時に
気を悪くしないでね、サリエル」
女神は軽く頭を下げた。
「いや、女神様は悪くありませんよ、なあ、サリエル?」
アスベエルは言った。
「はい、そんなこと、お気になさらないで下さい、形見を届けて下さったんですから」
「そう? でも、わたくし、これを口実に、お前に会いたかったのかも知れない……」
女神は、看守長を見つめた。
「え?」
アスベエルは眼を見開く。
「な、何でもないわ」
フレイアは、またも頬を紅らめながら、複製に向き直った。
「えっと、お前、リナーシタ? 変わった名ね、どういう意味かしら。
まあ、いいわ、お前、サマエルが、どんな悪いことをしたかを知っていて?
これまでは、魔物を捕まえても、帰してやっていたでしょう?
なのに、なぜ、今回だけ処刑を……」
「ちょ、ちょっと待って下さい、それは……」
アスベエルが止めに入ったとき、泣き伏していたサリエルが、飛び起きて叫んだ。
「父上は何もしてませんよ! 母上を愛したこと以外は!
それが罪なんですか、誰かを心から愛したことが!
罪深いのは神族の方だ! 元々天界に住んでたのは、魔族だったんだから!」
「ええっ!?」
「神々の祖先は、よその星からやって来て、そして、天界を……この楽園を手に入れるため、魔族の祖先を皆殺しにしようとした!
でも、“紅龍”のお陰で魔族は逃げ延び、行き着いた先は、魔界だった!
過酷な環境に順応して、姿がどんどん変わっていき、今の……悪魔のようになったんだよ!」
「う、嘘よ……そんな……」
サリエルは、父親の髪が入った包みを握り締め、ぎらつく瞳で、蒼白な顔の女神を見据えた。
「すべて本当のことさ。僕は、父上や魔界のことを知りたくて、色々調べ、真実を知ったんだ。
天帝様は、この事実を伏せて、彼らを悪魔と呼び、根絶やしにしようとしてる。
魔族の弱点を見つけようと、母上に、父上を誘惑させようともした。
でも、お二人は本気で愛し合い、そして、僕が生まれたんだ……!」
「あ、アスベエル、嘘よね、嘘でしょう、こんな話……!」
すがるような女神の視線に耐えられず、看守長は眼を
「いえ……ミカエルや、一部の大天使は知っている話ですよ、……」
「そ、そんな……ひいお祖父様が……わたくし達の祖先が……!?」
女神は、足元がガラガラと音を立てて崩れていくような気分に襲われた。
「もういいよ、サリエル、落ち着いて」
リナーシタは、優しくサリエルの肩をたたき、穏やかな声で言った。
「フレイア様、今の話がショックだったこと、お察しします。
しかし、すべて事実なんです」
女神は、ちらりと複製を見、無言で唇を噛み締めた。
「僕は、父から記憶を一部、受け取りました。
“紅龍”の中には、昔、虐殺された魔族の先祖の記憶が残されているんです、怨念のようになって。
だから、今の話が、真実だって分かるんですけど。簡単には信じては頂けないでしょう。
母……女神マトゥタでさえ、中々信じてくれなかったですし」
「ええ、信じられないわね」
フレイアは、きっぱりと言い切った。
複製の少年はうなずいた。
「今にお分かりになりますよ。何が真実で、何がそうでないか。
大切なのは、ご自分の眼で見聞きして、ご自分でお考えになることです」
フレイアは、ぷうっと頬を膨らませた。
「お前、ホムンクルスのくせに、生意気よ。
でもまあ、ちゃんと自分で考えることは、たしかに大事だと思うけど」
渋々認めたそのとき、思念が頭の中に響き、彼女は凍りついた。
“フレイア、今、いずこにおるのじゃ?”