~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

14.白い形見(2)

フレイアはそっと布をめくる。無惨な傷口が現れた。
(……きゃ)
思わず上げそうになる悲鳴を噛み殺し、女神はぎゅっと眼をつぶり、切り口にへばりついていた髪を数本、震える手ではぎ取った。
血に染まった、サマエルの白い髪……閉じた目蓋の裏側に、またしても昨日の情景が、ありありと蘇ってしまう。

歯を食いしばって嫌な記憶を振り払い、髪を白い紙に包んで胸元にしまった直後、後から声がかかった。
「お待たせ致しました、女神様」
女神は、ぎくりと振り返る。
「あ、ああ、ラファエル……」

大天使は、気遣わしげな表情になった。
「どうなさいました……ああ、こんなものをご覧になっては、ご気分が悪くなるのも当然でございますね。
お話は、上に戻った後に致しましょう」
近づいて来たラファエルは、手早く死体に布をかけ直した。

「そ、そうね。……一人じゃ、さすがに怖かったわ。
話だけなら、ここまで来る必要はなかったけど、怖い物見たさ、っていうのかしら?」
「左様でございますか。ささ、戻りましょう」
そそくさと死体置き場を出、ベリアスが鍵を閉めて、三人は階段を上った。
明るい地上に出たフレイアは、心からほっとした。

大天使は、改めて深々と礼をした。
「まさか、女神様に、お話を通して頂けるとは思いもよりませんでした、お手数をおかけ致しました」
「いいのよ、サリエルのためですもの。
それより、どこに埋葬すればいいかしら。
マトゥタ様のお墓の隣は……やっぱり駄目よね、ひいお祖父様がお許しにならないわ」

「左様でございますね……それでは、わたしが適当な場所を見繕(みつくろ)い、ご報告致しましょう。
埋葬には、サリエルとアスベエルを立ち合わせます」
「そのときは、わたくしも行くわ」
「承知致しました。
実は、この後すぐに、戦略会議がございます。
その折、天帝様にご報告致しますので、汎神殿までご一緒に……」

言いかけるラファエルを、フレイアはさえぎった。
「いえ、わたくし、気分転換に市街を回ってから帰るわ。ひいお祖父様によろしくね」
大天使はうなずいた。
「無理もございませんね、あのような、おぞましい物を見た後では。
では、ベリアス、汎神殿までお送り申し上げよ」
「かしこまりました」
「それでは、失礼致します」
再度、礼をし、ラファエルは去った。

一息ついたフレイアは、周囲に誰もいないのを確認し、さらに念話で看守に話しかけた。
“あのね、ベリアス。アスベエルに会えないかしら”
“えっ、看守長殿に、ですか? ……”
天使は驚き、困った顔をした。

“分かってるわ、会わせちゃ駄目って言われてるんでしょ?
サリエルの部屋にも、行っちゃいけないことになってるし……。
それに、サマエルの埋葬にも、ひいお祖父様は、立ち合っちゃいけないと(おっしゃ)る気がするのよね……”
フレイアはうなだれた。

“も、申し訳ございません……”
ベリアスもまた、頭を下げる。
“いいのよ、言いつけを守らなきゃ、お仕置きされるんだものね。
じゃあ、これ、アスベエルに渡してよ、サマエルの髪なの。
本当は、サリエルに渡したいんだけど……”
女神が紙を差し出すと、ベリアスはぎょっとしたように身を引く。
“い、いつ、そのようなものを……!?”

“ついさっき、死体置き場でよ。
サマエルは念話で、形見を渡してって伝えて来て、すぐ死んじゃったの。
声が必死だったし、気の毒になって。
でも、お前が嫌なら仕方ないわね、ひいお祖父様にお願いしてみるわ。
きっと、叱られて、捨てられちゃうわね……可哀想にサリエル、形見も持てないなんて”
フレイアは、しんみりと言った。

すると、看守は、意を決したように言った。
“分かりました。サリエル殿にお会い出来るよう、わたしが段取り致します”
“え? そんなこと出来るの?”
女神は眼を丸くした。
“はい、それを手渡すだけでしたら。
サリエル殿の監視役は同僚ですし、何とかなるかと……”

“本当!?”
フレイアは、顔を輝かせた。
“では、少しお待ち下さい、話をつけますから”
“ええ!”
天使は、監視の天使に念話を送った。

やがて、ベリアスは話を打ち切る。
その顔を見ただけで、首尾よく行ったことが、彼女には分かった。
“今なら、大丈夫そうだとのことです。
戦略会議のために、部屋の周辺は、まったくの無人状態だそうで”
“よかった!”
思わず女神は、ぱちんと手を合わせた。

ベリアスは素早く、魔法で白のローブに着替えた。
黒いローブは看守の証であり、汎神殿では目立つ。
“では、こちらへ”
彼は女神を、再び地下へ誘導し始めた。

“え、また下に行くの?”
“人目につかない方がよろしいかと存じまして。
それに、地上を行くより早く行けます。
この地下道は、闇の塔や市街地や、外の荒野ともつながっているのですよ”
“……まあ、知らなかったわ”

先ほどの階段から少し離れた所にある、重い鉄の扉を鍵で開け、十五ばかりの石段を下る。
まっすぐ続く石造りの地下道は平坦で、かなり歩きやすく、ランプだけを頼りに先を急ぐ二人にとっては、ありがたいものだった。

さっきとそっくりな石段に行き着き、そこを上がると、また同じ扉があった。
「もう着いたの? たしかに早いわね」
「はい。お待ち下さい、様子を見て参ります」
ベリアスはランプを女神に渡し、鍵で扉を開け、素早く出る。
ぽつぽつと灯りが並ぶ、薄暗い通路を慎重に見渡し、彼は戻った。

“大丈夫です、おいで下さい。ここまで来れば、もうすぐです”
“分かったわ”
少し行って、階段を上がると、そこからは、女神も見慣れたいつもの汎神殿だった。
煌々(こうこう)とシャンデリアがともり、華やかなじゅうたんが敷き詰められた無人の回廊を通り抜け、彼らは無事、サリエルの部屋に到着した。

監視役の天使は、フレイアにうやうやしくお辞儀をした。
“どうぞ、中へ”
“ありがとう。これはお礼よ”
彼女は、その頬に軽く口づけ、天使は真っ赤になった。
“さ、お早く”
ベリアスが女神を促し、二人は部屋に滑り込む。

アスベエルは所在なげに立って外を見、サリエルはホムンクルスと肩を寄せ合い、ソファにうずくまっていたが、女神達の姿を見ると驚いて立ち上がった。
「フレイア様!?」
「えっ、ベリアスも!? どうしたんだ、一体!?」
「女神様が、内密にサリエル殿にお会いしたいと仰るので、お連れしたのですよ」
ベリアスが説明した。

「……僕に? 何のご用でしょう」
サリエルは、女神のそばへ歩み寄る。
「あのね、さっき、お墓を作ってあげようと思って死体置き場に行ったら、サマエルが話しかけて来たの」
「えっ!? じゃ、じゃあ、父上はまだ生きて……!?」
少年は、父親譲りの眼を見開いた。

「いえ、もう死んじゃったわ。
わたくしにお礼と、そして、お前に形見を渡して欲しい、そう言い遺して……」
「えっ、形見!?」
「これよ、髪の毛」
女神は、胸元から白い紙包みを取り出し、渡した。
「あ、ありがとうございます、女神様……ああ、父上!」
包みを胸に、サリエルは泣き崩れた。

複製の少年がそっと近づき、本物の背をさすりながら、頭を下げた。
「僕からも、お礼を言います、女神様」
「お前、サリエルのホムンクルス?」
「はい。本物と区別するために、リナーシタと呼ばれていますが」
「やっぱり、フレイア様はお優しいですね……」
アスベエルが感極まったように言い、フレイアは頬を赤らめた。

「べ、別に優しくなんかないわ。ただ、魔族にちょっと興味があっただけよ。
サマエルにしたって、皆、口を揃えて、最悪の魔物だって言うけど、とてもそうは思えないし、どんな悪いことをしたかは教えてくれないの。
女性を騙したとかなら、ミカエルだってやってるし、そんなので、世界が滅亡するまでいくわけないし。
……あ、こんな時に不謹慎(ふきんしん)だったわね、ご免なさい。
気を悪くしないでね、サリエル」
女神は軽く頭を下げた。

「いや、女神様は悪くありませんよ、なあ、サリエル?」
アスベエルは言った。
「はい、そんなこと、お気になさらないで下さい、形見を届けて下さったんですから」
「そう? でも、わたくし、これを口実に、お前に会いたかったのかも知れない……」
女神は、看守長を見つめた。
「え?」
アスベエルは眼を見開く。
「な、何でもないわ」
フレイアは、またも頬を紅らめながら、複製に向き直った。

「えっと、お前、リナーシタ? 変わった名ね、どういう意味かしら。
まあ、いいわ、お前、サマエルが、どんな悪いことをしたかを知っていて?
これまでは、魔物を捕まえても、帰してやっていたでしょう?
なのに、なぜ、今回だけ処刑を……」

「ちょ、ちょっと待って下さい、それは……」
アスベエルが止めに入ったとき、泣き伏していたサリエルが、飛び起きて叫んだ。
「父上は何もしてませんよ! 母上を愛したこと以外は!
それが罪なんですか、誰かを心から愛したことが!
罪深いのは神族の方だ! 元々天界に住んでたのは、魔族だったんだから!」

「ええっ!?」
「神々の祖先は、よその星からやって来て、そして、天界を……この楽園を手に入れるため、魔族の祖先を皆殺しにしようとした!
でも、“紅龍”のお陰で魔族は逃げ延び、行き着いた先は、魔界だった!
過酷な環境に順応して、姿がどんどん変わっていき、今の……悪魔のようになったんだよ!」
「う、嘘よ……そんな……」

サリエルは、父親の髪が入った包みを握り締め、ぎらつく瞳で、蒼白な顔の女神を見据えた。
「すべて本当のことさ。僕は、父上や魔界のことを知りたくて、色々調べ、真実を知ったんだ。
天帝様は、この事実を伏せて、彼らを悪魔と呼び、根絶やしにしようとしてる。
魔族の弱点を見つけようと、母上に、父上を誘惑させようともした。
でも、お二人は本気で愛し合い、そして、僕が生まれたんだ……!」

「あ、アスベエル、嘘よね、嘘でしょう、こんな話……!」
すがるような女神の視線に耐えられず、看守長は眼を()らした。
「いえ……ミカエルや、一部の大天使は知っている話ですよ、……」
「そ、そんな……ひいお祖父様が……わたくし達の祖先が……!?」
女神は、足元がガラガラと音を立てて崩れていくような気分に襲われた。

「もういいよ、サリエル、落ち着いて」
リナーシタは、優しくサリエルの肩をたたき、穏やかな声で言った。
「フレイア様、今の話がショックだったこと、お察しします。
しかし、すべて事実なんです」
女神は、ちらりと複製を見、無言で唇を噛み締めた。

「僕は、父から記憶を一部、受け取りました。
“紅龍”の中には、昔、虐殺された魔族の先祖の記憶が残されているんです、怨念のようになって。
だから、今の話が、真実だって分かるんですけど。簡単には信じては頂けないでしょう。
母……女神マトゥタでさえ、中々信じてくれなかったですし」

「ええ、信じられないわね」
フレイアは、きっぱりと言い切った。
複製の少年はうなずいた。
「今にお分かりになりますよ。何が真実で、何がそうでないか。
大切なのは、ご自分の眼で見聞きして、ご自分でお考えになることです」

フレイアは、ぷうっと頬を膨らませた。
「お前、ホムンクルスのくせに、生意気よ。
でもまあ、ちゃんと自分で考えることは、たしかに大事だと思うけど」
渋々認めたそのとき、思念が頭の中に響き、彼女は凍りついた。
“フレイア、今、いずこにおるのじゃ?”