14.白い形見(1)
翌朝、かなり早い時間に、フレイアは目覚めた。
何か夢を見たようなのだが、内容は覚えていない。
ただ、気分はよく、心は弾んでさえいた。
(残念ねー、いい夢だったみたいなのに)
夢うつつに寝返りを打つ。
そのとき、女神は、魔物にもらったペンダントをつけたままだったことに気づいた。
「あら、いけない。わたくしったら。昨日は、気が動転して……」
口に出した途端、サマエルの処刑シーンを思い出し、彼女の顔から血の気が引いた。
真っ赤な血を滴らせた生首が宙に浮き、呪文のようなものを唱えた……あの言葉は一体、何だったのか。
曽祖父は青ざめて首を振り、周囲の者達も理解出来ない様子で、ざわつくばかりだった。
その意味を知っていたのは、多分、死んだサマエルだけ……。
女神はぞくっとし、思わず自分の肩を抱いた。
「ああ、もう!」
嫌な気分を振り払うようにベッドを飛び出し、シャワーを浴びる。
いつもの朝食時間より早いが、多分、曽祖父は起きているだろう。
着替えた彼女は、無意識に、またも
その足で、彼女は天帝の私室に行った。
「お早うございます、女神様」
護衛の天使達は、揃って礼をした。
「お早う」
あいさつを返して控えの間を通り、女神は、寝室の扉をノックした。
「ひいお祖父様、お早うございます」
ドアは独りでに開く。
「お早う、フレイア。今日は早いの」
部屋着でソファに座り、書物に眼を通していた天帝が、顔を上げた。
「ええ、夢を見て、早く目が覚めてしまいましたの」
それを聞いた天帝は眉を寄せ、本を閉じた。
「はて、いかなる夢じゃな?」
女神は笑みを浮かべ、部屋の中に歩を進めた。
「よくは覚えていないのですけれど、とてもいい夢だったようで、起きてからも、心が弾んで
おりましたわ」
天帝も、釣られたように微笑み返す。
「左様か。昨日、あのようなものを見たゆえ、悪夢にうなされたかと思うたが、
彼女は、またもサマエルの最後を思い出し、身震いした。
「ええ、恐ろしいこと……。あの血まみれの生首が、夢に出て来なくて良かったですわ……」
天帝は、重々しくうなずく。
「むう、フレイアには少し、刺激が強過ぎるかと思うたが、これも戦ゆえ、致し方なかったのじゃ。
かような事態になる前には、捕えた魔物は、魔界に返してやっておったゆえ、処刑を見たのは初めてであったのぉ」
何も知らない女神はうなずいた。
「ひいお祖父様は、お優しいお方ですもの。あの魔物は、特別でしたのでしょう?」
「左様、紅龍は、生かしておいては世界が破滅しかねぬ、極悪の魔物じゃったゆえな」
「世界が破滅って、どういうことですの? あんな
「フレイア。常々申しておるが、現実を知るには、もそっと大人にならねば、な」
「……それで、サマエルの死体は、どうなるのでしょう?」
いつものようにはぐらかされて、フレイアは、仕方なく話題を変えたが、尋ねてしまってから、自分でも驚いた。
口にするまで、こんなことを言うつもりは、まるでなかったのだ。
天帝は、再び眉をひそめた。
「首は、魔界に攻め入るときに、持って参る。
じゃが、何ゆえ、左様なことを聞くのかの?」
「あ、あの……そう、えっと……お墓は、どこに作るのかしら、と……。
あれでも、サリエルの父親、でしょう……?」
しどろもどろに答えたが、これもまた、自分の意志とは関係なく出て来た言葉のように、彼女には感じられた。
しかし、そんなことには気づかず、天帝は頬を
「墓じゃと? フレイアは優しい娘じゃのぉ。
実はラファエルも、墓を作りたいと申してな。
されど、悪魔ごときに墓など、もっての外じゃ。
死体は切り刻み、犬にでも食らわせるつもりじゃと、ラファエルにも左様に申しおいたのじゃが」
それを聞いた途端、女神の中で何かが弾けた。
「えっ、そ、そんな……なら、わたくしに下さいませ。
サリエルがお墓参り出来るように、わたくしがお墓を作りますわ!」
天帝は眼を剥いた。
「な、何を申すやら。
「お願い致します、ひいお祖父様!
サリエルのためだけでなく、わたくしも、このペンダントのお礼に、お墓を作ってあげたいのですわ、どうぞ、お許しを下さいませ……!」
フレイアは、自分でも理解出来ない、強い思いに突き動かされて、熱心にねだった。
「むう……」
「それに、犬に食べさせたら、毒にあたって死んでしまいます、犬が可哀想ですわ」
「……むむ? 何ゆえ、龍の毒のことを知っているのじゃ?」
「え? 天界の者なら、誰だって知ってますわ。
先の戦で、たくさんの天使達が、龍の毒で苦しみましたもの……」
「……そうじゃったな。
致し方あるまい……ただし、身体のみじゃぞ。首はしばらく、さらしておかねばならぬ」
「それで結構ですわ、ありがとうございます、ひいお祖父様!」
フレイアは、曽祖父に抱きついた。
天帝は、まんざらでもない顔をした。
朝食を終えたフレイアは、急に、サマエルの死体が見たくなった。
ねだられた天帝は仕方なく、護衛の天使に、ひ孫と共に光の塔へ行き、看守に死体置き場まで案内させるよう、命じた。
命令を聞いた光の塔の看守は、少し驚いた様子だったが、ともかくお辞儀をし、ランプを手にした。
「ご命、
死体置き場は地下にございます。足元が暗く、また、滑りますので、お気をつけ下さい」
護衛を帰らせ、フレイアは看守の後をついて行く。
石の階段は冷たい風が吹き上げて肌寒く、看守が掲げるランプ以外に、灯りは皆無だった。
「もう、暗くて歩きにくいわね、──イグニス!」
女神は呪文を唱えたが、その炎はいつもより暗く、すぐに消えてしまった。
「あら、どうしたのかしら。 お前が魔法を使いなさい、えっと……」
「ベリアスでございます、女神様。
申し訳ございませんが、ここでは魔法が持続致しませんので、これで我慢して頂く他はないかと……」
ベリアスは、ランプを示した。
「えっ、なぜ?」
「おそらく、光の檻の影響でございましょう。
死体置き場へは、あまり行き来も致しませんし、ランプを使う方が、簡単で確実なのでございますよ」
「……そう。いきなり真っ暗になったら、怖いものね」
「左様で。ご不自由とは存じますが、今少しのご辛抱ですので」
その後は黙々と、二人は歩き続けた。
「着きました、女神様」
目の前に、いかつい鉄の扉があった。
ベリアスは、錠前に鍵を差し込んで回し、扉を力いっぱい押した。
金属がきしむ音がして、重い扉がようやく開く。
「うっ、……」
刹那、冷気と一緒に嫌な臭いが押し寄せて来て、思わず女神は鼻をつまんだ。
「申し訳ございません、なにぶん、死体置き場ですので」
天使は軽く頭を下げ、室内の燭台に火をともして回った。
照らし出された内部は、思いの外、広かった。
薄汚れた壁、低い天井、床には所々、水が溜まっている。
そして、部屋の中央に置かれた台に、ぽつんと一つ、白い布がかけられた死体があった。
女神は、それに駆け寄った。
「これでしょ、見せて、早く!」
「は、はい……」
渋々ベリアスは、血がにじんでいる布を、足の方からゆっくりと剥いでいく。
肩のところで、天使は手を止めた。
「あの、首は……首桶に入り、そちらの棚にございますが……」
「あ、そうね、いいわよ、そこまでで」
見ると、魔物は手枷をはめられたままだった。
「まあ、もう死んでいるのに。可哀想だわ、外してあげて」
「か、かしこまりました……」
震える手で、ベリアスは枷を外す。
「ええと、それで……お墓は、どこがいいのかしらね。
お前、ラファエルを連れて来なさい、わたくしは、ここで待ってるわ」
「は……ですが、こんなところに、お一人で?」
「うるさいわね、早く行きなさい!」
「は、ただ今すぐに」
天使が去ると、突如、夢から覚めたように、彼女は我に返った。
「わ、わたくし、どうしてこんなこと……?
嫌だわ、こんな、死体と一緒だなんて……」
急に恐怖が込み上げて来て、後ずさったとき、声が届いた。
“フレ、ア様……”
女神は周囲を見回し、叫んだ。
「だ、誰!?」
“サマ、エル、です……。魔封じ、手枷、外し、頂けた、で、こうして、お話、出来……”
女神は真っ青になった。
「う、嘘! サマエルは死んだのよ!」
“まだ、完全に、死んでいませ……魔族、中でも、再生力、高く……こう、なっても、数、日……生き、延び、られ……”
「まあ大変! 悪魔がまだ生きてるって、ひいお祖父様にお知らせしなくては!」
ドアに歩きかけた女神を、サマエルの声が引き留める。
“お待ち、下さ、あ、と少しの、命、です……。
生きて、たとき……ミカ、ルに、鞭、打たれ、殴ら、れ……翼、引き、千切られ、慰みものに……つい、には、斬首……。
あげく、切り、刻まれ……犬、餌に、なら、ければ、ない、ですか……?”
切れ切れに聞こえて来る、悲痛なその声に、彼女は、以前檻の中で見た、魔界の王子の淋しげな微笑みを、鮮やかに思い出した。
フレイアは、ぐっと足を踏ん張り、その場に留まった。
「それが可哀想だから、お墓に入れてあげようとしてるんじゃないの。
恨み言なら、ミカエルに言えばいいわ」
“いえ……お礼と、お願い、言いた、かった、のです……。
ありがとう、ござ……ます、そして……サリ、エルを、どうぞ……よしな、に……”
「わ、わたしはただ、死者を
女神は頬を赤らめ、叫んだ。
“お優し、方だ、あなた、は……。
でも、サリエル……泣い、いる、でしょう……
こんな、私、を、父と……息子に、形見、一つ、残せず、死……ゆくかと、思うと、ただ悲、く……。
どうか、私の、髪……ひとふさ、息子に……届け、頂け、せんか……”
「何言ってるの、ずうずうしい!
どうして、わたしが、お前の髪なんかを届けなきゃいけないの!」
“女神……う、っ!”
突然、サマエルの声が苦痛の響きを帯びた。
「ど、どうしたの?」
“どう、やら、最期……さよ、なら……女神、心から、感謝を……。
形見の、件……は、嫌なら、お忘れ、下さ……い……あ、あ、も……意識、が……”
「サマエル、どうしたの? 答えて! ねえ!」
声は途切れ、いくら呼んでも、返事は返って来なかった。
(今度こそ、本当に死んでしまったのね。
人族との混血だから、光の檻の中でも生きていられたけれど、首まで斬られてしまったら……)
女神は、動かない魔族の王子の体に眼をやった。
(この魔物、どんな悪いことをしたのかしら。
どんな報いで、こんな死に方をしなければならなかったの?
ひいお祖父様は、詳しいことは何も教えては下さらない。
ただ、極悪非道な魔物だって……。
……)
意を決したフレイアは、死体に近づき、そろそろと手を伸ばした。