~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

13.死刑台の紅龍(5)

「あ、う……うわあああっ!」
魔界王の私室のソファでお茶を飲んでいたダイアデムは、いきなり棒立ちになった。
手にしたカップが床に落ち、粉々になる。

「どうした……うっ!?」
向かいに座っていたタナトスは、鋭い痛みを感じ、首に触れた。
同時に哀しみが胸にあふれ、涙を抑えるのがやっとになった。
「く、何だこの妙な感情……まるで、誰か、身近な者の命の火が消えたような……まさか、サマエルが!?」

ダイアデムも、首をつかんで床に膝をつき、がくがくと全身を震わせていた。
「はああ、あいつら、やりやがった……!
く……首か……サマエル……」
涙が滝のように頬を伝い、宝石の化身は気を失って倒れた。
紅い貴石が周囲に飛び散り、輝く。

「おい、しっかりしろ!」
少年を抱き上げた刹那(せつな)、リオンとシュネが部屋に飛び込んで来た。
「伯父さん、大変だ!」
「何かあったんだわ! 父さんに!」

「お前達もか。この感じ……サマエルは……神族にやられたようだな……」
タナトスの言葉に、二人は青ざめた。
「や、やっぱり……? あ、痛い、首が……」
「嘘よ、……痛、痛い、何で……」
彼らもまた、自分の首を押さえていた。

「口惜しいが、サマエルはもう生きてはいまい……俺達だけならまだしも、“焔の眸”までがこの有様では、な」
「そんな……ダイアデム……」
シュネは眼に涙を溜め、タナトスの腕に抱かれた少年を見た。 

「可哀想に……あんなに、父さんとお似合いだったのにね」
リオンが言った途端、こらえられなくなったシュネは彼にしがみつき、火のついたように泣き出した。
「ああー、リオン兄さん、父さんが、父さんがー!」

「泣いても死んだ者は帰って来んぞ。
二人共、少し休め。俺は、こっちを介抱せねばならん」
込み上げて来るものを無理に飲み下し、タナトスはぶっきら棒に言った。
「はい、伯父さん……さ、シュネ、戻ろう」
リオンは、泣きじゃくる義妹の肩を抱き、二人して出て行った。

入れ違いにやって来たのは、イシュタルだった。
「……やはり、彼らも感じたのね、サマエルのこと」
「ああ、叔母上もか」
「……ええ。わたしは直接じゃなくて、カードで知ったのだけれど……」
そう答えるイシュタルも、蒼白な顔で色()せた唇を震わせ、胸を押さえていた。
「苦しいのか、叔母上? 無理は禁物だ、部屋まで送って精気を……」

「いえ、大丈夫よ、自力で戻れるわ。お前は“焔の眸”を()ておやり。
サマエルのことは……皆にはまだ、内密にしていた方がいいわね」
「そうだな。叔母上、欲しくなったら声をかけてくれ、すぐ行く」
「……ありがとう、必要になったらお願いするわ」
イシュタルは無理に笑顔を浮かべ、帰って行った。

「神族め……!」
歯噛みしながらタナトスは、化身を寝室へ運んでベッドに寝かせ、布団をかけてやる。
悲しみに浸っている暇はない。
攻撃の(かなめ)、紅龍に死なれては、戦況が不利になるのは確実だった。
自分一人だけでも冷静になり、対策を練らなければ。
他の者達が冷静さを取り戻した頃に呼び戻し、策を伝えればいい。

そのとき、押し殺した思念が頭の中に響いた。
“……タナ、トス、……”
“テネブレか”
“ルキフェルが、命を落とした、な……”
ため息をつくように、“黯黒の眸”の思念は言った。

“ああ。『焔の眸』は気を失った。今、寝かしたところだ”
“……むべなるかな。(いら)えなきゆえ、さもありなんと思うたわ。
おお、いたわしや……()やみの(こと)の葉さえ見つからぬ……”
“心配なら、見舞いに来てもいいぞ”
“……いいや、我は持ち場を離れまい、神族どもが何時攻めて参るやも知れぬゆえ。『焔の眸』は任せた”
“そうか、結界は頼んだぞ”
“承知……”

タナトスは、ほっと息をつき、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
“黯黒の眸”がいる限り、結界は安泰、仮に今、神族が大挙して襲って来たとしても、破ることなど出来はしまい。
守りは万全……では、攻撃は?
残りの龍で突撃するか、あるいは、今まで通り魔界に篭城(ろうじょう)し、神族が諦めるのを待つか……。
それが賢いやり方だろうが、たった一人の弟が殺されたというのに、それでいいのか?

魔界王が、拳を握り締め、自問自答していたとき、またもや念話が届いた。
“タナトス様。お忙しいところ、誠に申し訳ございませぬが、少々お時間を頂けましょうや?”
またも思考を中断され、タナトスは苛ついた。
“エッカルトか、何だ!?”
“実は、エルピダに尋常ならざる異変があり、もしや、サマエル様の身に何かおありでは、と懸念致しまして……”

一瞬迷ったが、口が堅いこの魔法医は、信頼出来る家臣だった。
“想像通りだ、ヤツは死んだ”
単刀直入に、魔界王は事実を伝えた。
“おお……衷心(ちゅうしん)より、お悔やみ申し上げます……。
かくなる上は、ぜひとも戦に勝ち、仇を討たねばなりますまいな……”
エッカルトの念は、沈痛だったものの、職業柄か、取り乱した様子はなかった。

“無論だ。それで、エルピダの異変とは?”
“は。つい先ほど、いきなり倒れ、サマエル様の御髪(おぐし)に戻りましたので。
取り急ぎ魔力を与え、蛇の姿こそ取り戻しましたが、その身は、真っ二つになっておりました……。
魔法で治療するも反応なく……思い余って、ご連絡申し上げました次第……”

“分かった、連れて来い。俺の精気を吹き込めば蘇生するだろう。
ついでに、ダイアデムの診察を頼む。
サマエルの死を感じて失神した……大したことはないとは思うが、念のためだ”
“それは一大事。()く参ります”

一瞬後、扉がノックされた。
「入れ」
「失礼致します」
「あいさつはいい、ダイアデムは向こうだ」
紫の蛇を受け取ったタナトスは、もう一方の手で寝室を示した。
「かしこまりました」
魔法医は、大股で扉に向かう。

ぐったりとした蛇の首には、前にはなかった、紅く細い筋ができていた。
ここから真っ二つになったのだろう、そして、おそらく、サマエルが斬られたのも。
タナトスは、急ぎ蛇に口づけ、強力な精気を送り込んだ。
『う、ああ……』
細長い体がのたうち、エルピダはすぐに息を吹き返したが、紅い筋は消えなかった。
『おお、これは魔界王タナトス、……かたじけない』
蛇は深々と(こうべ)を垂れた。

タナトスは肩をすくめた。
「俺の手柄ではない、サマエルの強い魔力の恩恵を受けたのだろうさ」
蛇は、ひたむきに王を見つめた。
『本体の強力さもさることながら、王の中には、カオスの力が感じられる。
我を創ったときにもそれが作用し、今回も、蘇生が叶ったのかも知れない』
「ふん……そういえば、ヤツから、力を分け与えられたことがあったな」

『それにしても、本体が死んだのに、一筋の髪でしかない、我が生き延びるとは……』
エルピダは(なげ)いた。
「うるさい、貴様の生死は俺が決める、許可なく勝手に死ぬな!」
魔界王は、使い魔を睨みつけた。

紫の蛇は、サマエルそっくりの紅い眼を(しばた)いた。
『……生かされてしまったからにはやむを得まい。
本体の分まで、魔界のため働くとしよう』
「何がやむを得ずだ、生意気な! 死ぬのはヤツだけでいい!」
タナトスが怒鳴ったとき、魔法医が寝室から出て来た。
「おう、エッカルト。どうだった」

「はい、別段、異常は見られませぬ、すぐに目覚められましょう……ただし、精神的な影響のほどは、まだ何とも」
「……そうか」
「おお、エルピダ。(よみがえ)ったか、よかった。
タナトス様、お礼の言葉もございませぬ」
エッカルトはうやうやしく頭を下げる。

「ふん、元は俺の創った物だ。礼など言われる筋合いはない。
俺の中にあるカオスの力が関わっているらしいが、もう大丈夫だろう、連れて行け」
「はい。エルピダ、来なさい」
魔法医が差し伸べる手に向けて、蛇はしなやかに体をくねらせ、這っていく。

「それと、でございますな……畑違いにて、差し出がましい仕儀とは存じますが、サマエル様亡き後、戦況のほどは……」
心配そうなエッカルトを、タナトスは腕組みをして睨みつけた。
「ふん、その戦略を組み立てているところを、貴様が邪魔したのだろうが」
「そ、それは申し訳……」
魔法医は慌てて頭を下げた。

「案ずるな、今も昔も、魔界は結界に守られている。
戦略についても、他の者達の知恵を借りれば、何とかなるだろう。
それと、他言無用だぞ、サマエルのことは」
タナトスは、行けというように、扉に向かって手を振った。
「心得ております、では、これにて」
ほっとしたようにエッカルトは礼をし、部屋を後にした。

寝室に行ってみると、宝石の化身は目覚め、布団の中で涙にくれていた。
「……うっ、く……サマエル、サマエル……なんで、なんでだよぉ……!
う、ううっ……!」
嗚咽(おえつ)が収まるのも待たず、タナトスは声をかけた。
「気持ちは分かるぞ、ダイアデム。俺も、はらわたが煮えくり返っているからな」
その声に、紅毛の少年が、布団からそろそろと顔を出す。
枕の周辺には、乱れた長い髪の間を縫い、美しい宝石が紅く(きらめ)いていた。

「うん……一応、覚悟はしてたつもり、だったんだけど。
何つうか、やっぱ、ちっとショックで、さ」
「当然だ。ヤツらがまさか、ここまでやるとはな。俺も考えが甘かったわ。
神族め、皆殺しにしてやらねば、気が治まらん!」
「……サリエルは、助けてやりてーけどな。あいつの忘れ形見だし」
少年は鼻をすする。

タナトスは、魔族すべてを魅了してやまない、紅い瞳の中で妖しく揺らぐ金の炎を覗き込んだ。
「辛いなら、少しの間だけでも忘れさせてやるか? 
自分から捕まりに行く、馬鹿な男のことで悲しむな、優しくしてやる」
途端に、瞳の炎は激しく揺れて、しまいには針のようにとがり、化身は、またも、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「そっか……オレ、またお前んトコに……。
けど、この戦が終わるまで、いや、せめて、今日明日くらい、喪に服させてくれたっていーじゃんか。
ううっ……」
少年は手で顔を覆った。
こぼれた涙が、いくつもの貴石となり、シーツの上で輝く。

タナトスは慌てた。
「ま、待て、誤解だ、ダイアデム、強制する気はない!
俺とて、そこまで非道ではないぞ、少しでも気が紛れればと思ったまでだ。
嫌なら戻らんでいい、お前は自由だ」

「……マジ?」
指の隙間から、化身は涙に濡れた眼で、かつての主を見上げた。
「ああ。お前に無理強いなどしたら、“黯黒の眸”が怒る。
サマエルに、化けて出られても困るしな」

「……ホント、バカだよ、あいつ。
お前にゃ言ってなかったけど、さんざ、ひでー目に遭ってて、いっぱい血ぃ流してたんだ……そ、そのあげくが……うっく」
くるりと背を向け、少年は再び肩を震わせた。

「泣きたくば泣け、気が済むまで」
魔界王は、かつて自分のものであり今は未亡人となった弟の妻の髪を、優しくなでた。
そして、燃え上がる紅い眼で、虚空を睨みつける。
「くそ、神族め、許さんぞ……!」

宜(うべ/むべ)なるかな

もっともなことだなあ。いかにもそのとおりだなあ。

いらえ【応え/答え】

こたえること。返事。

然(さ)もありなん

きっとそうであろう。もっともである。さもあらん。

いたわしい【労しい】

《いたわりたくなる状態である、の意》1 気の毒で同情しないではいられない。不憫(ふびん)である。

ちゅうしん【衷心】

心の中。心の底。衷情。