13.死刑台の紅龍(5)
「あ、う……うわあああっ!」
魔界王の私室のソファでお茶を飲んでいたダイアデムは、いきなり棒立ちになった。
手にしたカップが床に落ち、粉々になる。
「どうした……うっ!?」
向かいに座っていたタナトスは、鋭い痛みを感じ、首に触れた。
同時に哀しみが胸にあふれ、涙を抑えるのがやっとになった。
「く、何だこの妙な感情……まるで、誰か、身近な者の命の火が消えたような……まさか、サマエルが!?」
ダイアデムも、首をつかんで床に膝をつき、がくがくと全身を震わせていた。
「はああ、あいつら、やりやがった……!
く……首か……サマエル……」
涙が滝のように頬を伝い、宝石の化身は気を失って倒れた。
紅い貴石が周囲に飛び散り、輝く。
「おい、しっかりしろ!」
少年を抱き上げた
「伯父さん、大変だ!」
「何かあったんだわ! 父さんに!」
「お前達もか。この感じ……サマエルは……神族にやられたようだな……」
タナトスの言葉に、二人は青ざめた。
「や、やっぱり……? あ、痛い、首が……」
「嘘よ、……痛、痛い、何で……」
彼らもまた、自分の首を押さえていた。
「口惜しいが、サマエルはもう生きてはいまい……俺達だけならまだしも、“焔の眸”までがこの有様では、な」
「そんな……ダイアデム……」
シュネは眼に涙を溜め、タナトスの腕に抱かれた少年を見た。
「可哀想に……あんなに、父さんとお似合いだったのにね」
リオンが言った途端、こらえられなくなったシュネは彼にしがみつき、火のついたように泣き出した。
「ああー、リオン兄さん、父さんが、父さんがー!」
「泣いても死んだ者は帰って来んぞ。
二人共、少し休め。俺は、こっちを介抱せねばならん」
込み上げて来るものを無理に飲み下し、タナトスはぶっきら棒に言った。
「はい、伯父さん……さ、シュネ、戻ろう」
リオンは、泣きじゃくる義妹の肩を抱き、二人して出て行った。
入れ違いにやって来たのは、イシュタルだった。
「……やはり、彼らも感じたのね、サマエルのこと」
「ああ、叔母上もか」
「……ええ。わたしは直接じゃなくて、カードで知ったのだけれど……」
そう答えるイシュタルも、蒼白な顔で色
「苦しいのか、叔母上? 無理は禁物だ、部屋まで送って精気を……」
「いえ、大丈夫よ、自力で戻れるわ。お前は“焔の眸”を
サマエルのことは……皆にはまだ、内密にしていた方がいいわね」
「そうだな。叔母上、欲しくなったら声をかけてくれ、すぐ行く」
「……ありがとう、必要になったらお願いするわ」
イシュタルは無理に笑顔を浮かべ、帰って行った。
「神族め……!」
歯噛みしながらタナトスは、化身を寝室へ運んでベッドに寝かせ、布団をかけてやる。
悲しみに浸っている暇はない。
攻撃の
自分一人だけでも冷静になり、対策を練らなければ。
他の者達が冷静さを取り戻した頃に呼び戻し、策を伝えればいい。
そのとき、押し殺した思念が頭の中に響いた。
“……タナ、トス、……”
“テネブレか”
“ルキフェルが、命を落とした、な……”
ため息をつくように、“黯黒の眸”の思念は言った。
“ああ。『焔の眸』は気を失った。今、寝かしたところだ”
“……むべなるかな。
おお、いたわしや……
“心配なら、見舞いに来てもいいぞ”
“……いいや、我は持ち場を離れまい、神族どもが何時攻めて参るやも知れぬゆえ。『焔の眸』は任せた”
“そうか、結界は頼んだぞ”
“承知……”
タナトスは、ほっと息をつき、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
“黯黒の眸”がいる限り、結界は安泰、仮に今、神族が大挙して襲って来たとしても、破ることなど出来はしまい。
守りは万全……では、攻撃は?
残りの龍で突撃するか、あるいは、今まで通り魔界に
それが賢いやり方だろうが、たった一人の弟が殺されたというのに、それでいいのか?
魔界王が、拳を握り締め、自問自答していたとき、またもや念話が届いた。
“タナトス様。お忙しいところ、誠に申し訳ございませぬが、少々お時間を頂けましょうや?”
またも思考を中断され、タナトスは苛ついた。
“エッカルトか、何だ!?”
“実は、エルピダに尋常ならざる異変があり、もしや、サマエル様の身に何かおありでは、と懸念致しまして……”
一瞬迷ったが、口が堅いこの魔法医は、信頼出来る家臣だった。
“想像通りだ、ヤツは死んだ”
単刀直入に、魔界王は事実を伝えた。
“おお……
かくなる上は、ぜひとも戦に勝ち、仇を討たねばなりますまいな……”
エッカルトの念は、沈痛だったものの、職業柄か、取り乱した様子はなかった。
“無論だ。それで、エルピダの異変とは?”
“は。つい先ほど、いきなり倒れ、サマエル様の
取り急ぎ魔力を与え、蛇の姿こそ取り戻しましたが、その身は、真っ二つになっておりました……。
魔法で治療するも反応なく……思い余って、ご連絡申し上げました次第……”
“分かった、連れて来い。俺の精気を吹き込めば蘇生するだろう。
ついでに、ダイアデムの診察を頼む。
サマエルの死を感じて失神した……大したことはないとは思うが、念のためだ”
“それは一大事。
一瞬後、扉がノックされた。
「入れ」
「失礼致します」
「あいさつはいい、ダイアデムは向こうだ」
紫の蛇を受け取ったタナトスは、もう一方の手で寝室を示した。
「かしこまりました」
魔法医は、大股で扉に向かう。
ぐったりとした蛇の首には、前にはなかった、紅く細い筋ができていた。
ここから真っ二つになったのだろう、そして、おそらく、サマエルが斬られたのも。
タナトスは、急ぎ蛇に口づけ、強力な精気を送り込んだ。
『う、ああ……』
細長い体がのたうち、エルピダはすぐに息を吹き返したが、紅い筋は消えなかった。
『おお、これは魔界王タナトス、……かたじけない』
蛇は深々と
タナトスは肩をすくめた。
「俺の手柄ではない、サマエルの強い魔力の恩恵を受けたのだろうさ」
蛇は、ひたむきに王を見つめた。
『本体の強力さもさることながら、王の中には、カオスの力が感じられる。
我を創ったときにもそれが作用し、今回も、蘇生が叶ったのかも知れない』
「ふん……そういえば、ヤツから、力を分け与えられたことがあったな」
『それにしても、本体が死んだのに、一筋の髪でしかない、我が生き延びるとは……』
エルピダは
「うるさい、貴様の生死は俺が決める、許可なく勝手に死ぬな!」
魔界王は、使い魔を睨みつけた。
紫の蛇は、サマエルそっくりの紅い眼を
『……生かされてしまったからにはやむを得まい。
本体の分まで、魔界のため働くとしよう』
「何がやむを得ずだ、生意気な! 死ぬのはヤツだけでいい!」
タナトスが怒鳴ったとき、魔法医が寝室から出て来た。
「おう、エッカルト。どうだった」
「はい、別段、異常は見られませぬ、すぐに目覚められましょう……ただし、精神的な影響のほどは、まだ何とも」
「……そうか」
「おお、エルピダ。
タナトス様、お礼の言葉もございませぬ」
エッカルトはうやうやしく頭を下げる。
「ふん、元は俺の創った物だ。礼など言われる筋合いはない。
俺の中にあるカオスの力が関わっているらしいが、もう大丈夫だろう、連れて行け」
「はい。エルピダ、来なさい」
魔法医が差し伸べる手に向けて、蛇はしなやかに体をくねらせ、這っていく。
「それと、でございますな……畑違いにて、差し出がましい仕儀とは存じますが、サマエル様亡き後、戦況のほどは……」
心配そうなエッカルトを、タナトスは腕組みをして睨みつけた。
「ふん、その戦略を組み立てているところを、貴様が邪魔したのだろうが」
「そ、それは申し訳……」
魔法医は慌てて頭を下げた。
「案ずるな、今も昔も、魔界は結界に守られている。
戦略についても、他の者達の知恵を借りれば、何とかなるだろう。
それと、他言無用だぞ、サマエルのことは」
タナトスは、行けというように、扉に向かって手を振った。
「心得ております、では、これにて」
ほっとしたようにエッカルトは礼をし、部屋を後にした。
寝室に行ってみると、宝石の化身は目覚め、布団の中で涙にくれていた。
「……うっ、く……サマエル、サマエル……なんで、なんでだよぉ……!
う、ううっ……!」
「気持ちは分かるぞ、ダイアデム。俺も、はらわたが煮えくり返っているからな」
その声に、紅毛の少年が、布団からそろそろと顔を出す。
枕の周辺には、乱れた長い髪の間を縫い、美しい宝石が紅く
「うん……一応、覚悟はしてたつもり、だったんだけど。
何つうか、やっぱ、ちっとショックで、さ」
「当然だ。ヤツらがまさか、ここまでやるとはな。俺も考えが甘かったわ。
神族め、皆殺しにしてやらねば、気が治まらん!」
「……サリエルは、助けてやりてーけどな。あいつの忘れ形見だし」
少年は鼻をすする。
タナトスは、魔族すべてを魅了してやまない、紅い瞳の中で妖しく揺らぐ金の炎を覗き込んだ。
「辛いなら、少しの間だけでも忘れさせてやるか?
自分から捕まりに行く、馬鹿な男のことで悲しむな、優しくしてやる」
途端に、瞳の炎は激しく揺れて、しまいには針のようにとがり、化身は、またも、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「そっか……オレ、またお前んトコに……。
けど、この戦が終わるまで、いや、せめて、今日明日くらい、喪に服させてくれたっていーじゃんか。
ううっ……」
少年は手で顔を覆った。
こぼれた涙が、いくつもの貴石となり、シーツの上で輝く。
タナトスは慌てた。
「ま、待て、誤解だ、ダイアデム、強制する気はない!
俺とて、そこまで非道ではないぞ、少しでも気が紛れればと思ったまでだ。
嫌なら戻らんでいい、お前は自由だ」
「……マジ?」
指の隙間から、化身は涙に濡れた眼で、かつての主を見上げた。
「ああ。お前に無理強いなどしたら、“黯黒の眸”が怒る。
サマエルに、化けて出られても困るしな」
「……ホント、バカだよ、あいつ。
お前にゃ言ってなかったけど、さんざ、ひでー目に遭ってて、いっぱい血ぃ流してたんだ……そ、そのあげくが……うっく」
くるりと背を向け、少年は再び肩を震わせた。
「泣きたくば泣け、気が済むまで」
魔界王は、かつて自分のものであり今は未亡人となった弟の妻の髪を、優しくなでた。
そして、燃え上がる紅い眼で、虚空を睨みつける。
「くそ、神族め、許さんぞ……!」
宜(うべ/むべ)なるかな
もっともなことだなあ。いかにもそのとおりだなあ。
いらえ【応え/答え】
こたえること。返事。
然(さ)もありなん
きっとそうであろう。もっともである。さもあらん。
いたわしい【労しい】
《いたわりたくなる状態である、の意》1 気の毒で同情しないではいられない。不憫(ふびん)である。
ちゅうしん【衷心】
心の中。心の底。衷情。