~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

13.死刑台の紅龍(4)

その後、看守に加えて四人の大天使が交代で監視に立ち、無常にも処刑の朝は来た。
「おい、起きろ、最後の食事は、お前の好きな物を出してやる」
魔界の王子は、その声に目覚めた。
「……ああ、ラファエル。
最後の食事か……では、甘い物でも。ベリーのパイを二切れ、お願いしよう。
それと紅茶を。ブランディを少し、たらしてくれ」
「相分かった」

「……では、頂くよ」
乳白色のカップを優雅に持ち上げ、芳醇(ほうじゅん)な香気を吸い込むと、魔界の王子は完全に眼が覚めた。
パイの綺麗な色合いと、立ち昇るバターの香りが食欲をそそる。
普段のティータイムと同じように、彼はゆっくりとそれらを味わった。

「ごちそう様。美味かったよ。
それと、まだ時間があるのなら、湯浴みして身支度を整えたいのだが」
「いいだろう、執行は昼の予定だからな」
ラファエルは指を鳴らすと、湯がなみなみと入った湯船を出し、看守達に運ばせた。

髪と体をていねいに洗ってから、サマエルは温水に体を沈めた。
「ふうー、いい気分だ。
そうだ、死に装束(しょうぞく)は、上が青で下が黒にしてくれないか。センスのいいのを頼むよ」
「何だと、甘い顔をすれば! いい加減にしろ!」
さすがに大天使は腹を立て、怒鳴った。

彼は、ねだるように手を合わせた。
「怒らないでくれよ。これで本当に最後だ、いいだろう、ね?」
「く……仕方あるまい」
ラファエルは、しかめっ面のまま呪文を唱え、衣装を出した。
「済まないね」
サマエルは、名残惜しげに湯から上がり、体をふいた。

渡された服を見て、彼は賞賛の声を発した。
「さすがだ、ラファエル、とても趣味がいい。ありがたく着させてもらうよ」
眼の覚めるような青い絹のシャツと、漆黒の細いズボン……ラファエルは、彼の美貌を最大限に引き立てる衣装を出していたのだ。
「ふん、言っておくが、これはお前のためでなく、サリエルのため、なのだからな」

「分かっているよ、ありがとう。ところで、息子には処刑を見せるのか?」
着替えながら、彼は尋ねた。
「左様な無慈悲なことはせぬ、自室でアスベエルと一緒におるわ。
今日は一日、祈りを捧げているであろうさ、お前のために」
「それはよかった」
サマエルは、心からの笑みを浮かべ、髪をくしけずる。

身なりを整え終わった頃、ミカエルと三人の大天使が現れ、枷で後ろ手に(いまし)められた彼は、小さな檻に入れられた。
その檻を、輿(こし)のように看守達がかつぐ。

「とうとう、年貢の納め時だな、サマエル」
天使長のいやらしい笑い顔を、彼は、檻の隙間から見下ろした。
「そうなるといいがね」
「ふん、負け惜しみを。
よし、行くぞ──ムーヴ!」
ミカエルが呪文を唱え、一行は瞬時に処刑場の入り口に着いた。

天使長を先頭に、死刑囚を運ぶ列が中に入ると、大歓声が上がる。
同時にサマエルの姿が、巨大なスクリーンに映し出された。
入浴して桜色に染まった肌、額の角は一角獣を思わせ、ゆるやかに束ねた洗い立ての髪が銀色に(きらめ)いて、漆黒の翼を目立たなくしている。
上品な衣装も相まって、囚人であるはずの魔界の王子は、神や女神にも負けないほど美しく、気高くも見えた。

浴びせられていた罵声(ばせい)が、感嘆のため息に変わってゆく。
中央の特別席に陣取っていた天帝ゼデキアは、顔をしかめた。
「何たることじゃ、これではまるきり、貴人の入場じゃ。
彼奴(きゃつ)めは敵なのじゃぞ、それを、あのように着飾らせて何とする。
ラファエルめ、後で、きつく灸を据えねば」

「でも、ひいお祖父様。
あれなら、サリエルにも、父親の最期は敵ながら天晴れだったと言ってあげられますわ。
それに、いくら敵が野蛮な魔物でも、王族として遇することは、天界の品位を汚すことにはなりませんわ、そうでしょう?」
隣にいたフレイアが言った。
「……ふむ、まあ、そうも言えるかの」
ひ孫娘には甘い天帝は、あごひげをなでた。

やがて、一行は処刑場の中央に到達し、サマエルは檻の外に引き出された。
再び、どよめきが起こる。
非の打ち所のない美貌を持つ魔界の貴公子は、怯えた様子もなく胸を張り、澄んだ紅い眼で、処刑場をぐるりと見回した。

ミカエルは、手を上げ、観衆を静めた。
「最期に言い残すことはあるか」
「そうだね、お前にはあるかな」
サマエルは極上の笑みで、天使長に応えた。
「我にだと? ふん、恨み言か、下らぬ」

「いいや、助言だよ、よく聞け。
お前の意地汚さは淫魔以下だ、無闇に天使を食い散らすな、可哀想に。
慎まないと、離反する部下がさらに増えるぞ、愚天使」
静まり返った処刑場に、魔界の王子の美声が響き渡ると、どっと処刑場が沸いた。
天使長の行状(ぎょうじょう)は、天界では知らぬ者はなかったのだ。
「……本当、嫌だわ」
フレイアも眉をしかめ、扇で口元を隠しつぶやく。

「き、貴様っ!」
頭に血の上ったミカエルは、腰の剣を抜き放った。
サマエルは、軽やかに身をかわしたものの、シャツは胸のところがざっくりと切れて、白い肌が露出した。

「おやおや、せっかくの死に装束を。
ああ、首を斬る前にもう一度したいのか、私を裸にして……あの夜のように、無理矢理?
衆人環視(しゅうじんかんし)の中でなんて、本当に好き者だな、お前は」
彼は、(たち)の悪いにやにや笑いを浮かべた。
「こ、このっ!」
ミカエルの怒りが頂点に達した、そのとき。

「いい加減に致せ、ミカエル!
おぬしも天使の長なら、うかうかと悪魔ごときの挑発に乗るでないわ!」
天帝が立ち上がり、大天使に(かつ)を入れた。
「は、も、申し訳ございません、天帝様。ですが……」
「言い訳など聞きとうない! 左様に愚図愚図(ぐずぐず)しておって、逃げられでもしたら何とする!
座興は終わりじゃ、()く首を()ねよ!」

「は!」
ミカエルは彼の髪をつかむと、ねじ伏せるようにして処刑台まで引きずっていき、手荒く首を固定した。
それで安堵し、大天使は高笑いを始めた。
「はっははは、我を挑発し、その隙に逃げようなどと、姑息な考えが外れて残念だったな!」

サマエルは、あきれたように大天使を見上げた。
「この期に及んで、そんなみっともないことを誰がするか。
皆が迷惑しているとシェミハザから聞いていたから、最後に一つくらい、良いことをして死のうと思ったまでのことだ。
私とて魔界の王子、誇りを失くしたお前ごときと、一緒にしてもらっては困る」

「この、──減らず口を!」
ミカエルは、彼の頭を足蹴(あしげ)にし、巨大な斧を振り上げた。
「──死ね!」
次の瞬間、サマエルの首は、あっけなく胴から離れた。
鮮血が飛び散り、大天使の衣と処刑場の土を紅く染める。
一旦は地面に落ちた首は、一回転して切断面から血を滴らせ、勢いよく浮き上がった。
口の端から血を流し、生首はカッと眼を見開いて、声高らかに宣言した。

傲慢(ごうまん)なる天界の者どもよ、力での支配を好む偽りの王よ!
聞け、我が死すとも、魔界に敗北の文字はない!
近い将来、必ずや天界には破滅が訪れよう! 
我が内なる混沌の力、それに絡め取られし幾万、幾億の死者達の無念の思いが、必ずや、我が母星(ウィリディス)より、神を詐称(さしょう)するお前達を駆逐(くちく)し、我らフェレスは、故郷を取り戻す!
我は乞い願う、天帝ゼデキアの死と、その汚れた王国に終焉(しゅうえん)を!
──メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン!」

そして、魔界の王子の生首は、力尽きて地面に落ち、動きを止めた。

メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン(Mene, Mene, Tekel, Upharsin.)

「数えたり、量れたり、分かれたり」。アラム語。旧約聖書「ダニエル書」にある言葉。