~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

13.死刑台の紅龍(3)

「──サマエル様っ!」
翌日の早朝、ベリアスが、檻の中に転がり込んで来た。
「処刑が二日後だとかっ!? お逃げ下さい、い、今すぐ!
見張りは増えましたが、皆で気を()らせておりますから!」
「監視が厳しくては無理だよ。第一、お前達やアスベエルにも迷惑がかかる」
冷静に、魔界の王子は答えた。

「いいえ、看守長は、サリエル殿と汎神殿にて療養中です、いない者に罪は着せられません、さあ、お早く!」
看守は、彼の手を引っ張り、立たせようとした。
「それはよかった、息子も淋しくないな」
サマエルは微笑むだけで、動こうとはしない。

「な、なぜ、そんなに、落ち着いていられる、のですかっ!?
わたしなどの、心配は無用です、元々、天使には、命の未練など、ないも同然、なのです、から……!」
天使は、呼吸が荒く、眼は血走り、髪も乱れていた。
そんな状態になったのは、走って来たせいばかりではなさそうだった。

「ベリアス、何かあったのだね? ここに座って、落ち着いて話してご覧」
「は、はい……」
彼が指差す自分の横に、天使は、倒れ込むように膝をついた。
「大丈夫か? 苦しそうだ」
サマエルは優しく、その背をさする。

「も、申し訳、ございません……ハニ、エル様の、ことで、気が、動転しておりまして……その上、サマエル様の……」
「ハニエル? ああ、たしか、“美の天使”の別名を持つ大天使だったかな。
シェミハザに見せてもらったよ」
「そう、でしたか。……い、以前、直属の上司だった方、なのです、が……」
ベリアスは、言いにくそうに口ごもる。

「それで? その人が、どうしたのだね?」
促され、天使は重い口を開いた。
「……つい最近、その……ミカエルに……」
「なんと。本当に見境ないヤツだな」
サマエルは、端正な顔をしかめた。
「……その通りで」
ベリアスはうなだれた。

「お前、彼女が好きなのだね」
ずばりと言われ、天使は頬を染めた。
「は、ですが、つい昨日まで、わたしの片恋だと思っておりました……」
「おや、実は両思いだったと?」
「そ、そのようで……」
ベリアスは声を上ずらせ、額の汗をぬぐった。

「……と、申しましても、微笑みかけてもらえればいい、という程度の、ごく淡い想いで……あの方は、皆の(あこが)れの(まと)でしたから……。
ところが、わたし達の仲を邪推し、密告した者がいまして……手を触れたことさえないのに、ですよ」
ベリアスは、腹立たしげな面持ちになる。

「ふむ。無意識の気持ちが、二人の態度に出ていたのかもな」
「今になって考えますと、そうだったのかも知れません。
……ともかく、ウリエル様が、わたし達の心を読み、何もないと断言して下さって、逆に密告者の方が処分されたのですが、わたしは配置換えになったのです……」
「……なるほど。ウリエルは、二人の恋心を口には出さなかったわけだ」

「天使同士の恋愛は禁忌(きんき)です、知らない方が、互いのためだと思われたのでしょう。
ですが、昨夜、使いに出た帰り、偶然、泣いていらっしゃるハニエル様をお見かけし……無理に聞き出てしまいました……。
ミカエルの顔を見るのも嫌で、逃げ回っていると……ヤツは、妻にするなどと甘い言葉をささやいたそうですが、嘘に決まっています……!
天使同士の婚姻の前例はなく、これからも許されることなど、ないのですから……!」
ベリアスは、眼に涙を浮かべ、ぎりぎりと拳を握り締めた。

「……そうだったのか。
ハニエルには気の毒だったが、本気でお前を愛しているのだな。
一旦関係が出来てしまうと、淫魔同然のミカエルの体を、女性は嫌でも求めてしまうはずなのだ……それがないところをみるとね」
「そ、そうなのですか?」
「ああ。ガブリエルはそうだったようだ」
天使は眼を剥いた。
「ガ、ガブリエル様まで!? なんてヤツだ!」

「まったくね……。
そうだ、ミカエルに復讐するいい手があるよ、知りたいかい?」
彼の言葉に、ベリアスは身を乗り出す。
「も、もちろんです、ぜひ!」
「では、手を出して」
「はい!」

触れ合った瞬間、サマエルの紅い瞳が妖しい光を発し、倒れかけた天使を、彼は支えた。
「大丈夫か?」
「む、わたしはどうしたのだ……急に、くらっと来て……」
すぐにベリアスは正気づき、体を起こした。

「檻の中に入って来た途端、倒れたのだよ」
サマエルは、それまでの会話がなかったかのように、答えた。
天使は額に手を当て、頭を振った。
「おかしいな……昨夜、よく眠れなかったからか……?」
「うわ言のように、ハニエルがどうの、フレイアがどうのと言っていたが」

「ハニエル様……そうか、フレイア様にお願いすればいいのだ!
女性同士だし、ハニエル様を気遣い、保護しても下さるはず。
それに、天帝様のお耳へも届く……こんなことが度重なれば、必ず天使長様にも罰が下る!
なぜ、こんな簡単な解決法が、すぐに思いつかなかったのだろう!」
ベリアスは、晴れ晴れとした顔つきになった。

「ふうん? よく分からないが、急ぐのではないか?」
「そ、そうだな、ハニエル様!」
飛ぶような勢いで去っていく、天使の後ろ姿を眼で追い、サマエルは、薄く笑った。
(これで、もう、誰に心を読まれても大丈夫だ。そして、私が死んでも、悲しまずに済む)
今の一瞬で、彼は、自分に関する記憶を消去したのだった。

同様に、交代でやって来る看守達の記憶を、彼は書き換えて行った。
息子とホムンクルスは、とっくに記憶の処理を終えていた。
アスベエルに至っては、何もしなくとも、荒れ狂うカオスの力の残滓(ざんし)が、心を読もうとする者を寄せつけまい。

「……いたのか」
その日の夕方、やって来たラファエルは、意外そうだった。
「何だい、その言い方は。まるで、私が逃げ出しているのを、期待していたようだぞ」
サマエルは、皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「ふん……この際だ、聞いておくとしよう。何ゆえ、お前は逃げ出さぬのだ?」
大天使は、彼に指を突きつけた。
「おやおや。こんな風に捕らえられていて、どうやって?」
彼は手枷をガチャつかせ、檻を手で示した。

「……こんなもの、紅龍に変身さえすれば、立ちどころに破ることが出来ように」
「ああ、そういうことか。知っているだろう、私が紅龍になれば、世界が滅ぶ」
「されど、亜空間での戦いでは、変化していたではないか」

「あれは“焔の眸”がいたからさ。
無論、変化自体は、ここでも可能かも知れないがね。
しかし、おそらく、すぐに気が狂って、制御が利かなくなるだろう……世界が滅びてしまうなら、このまま死んだ方がましというものだ。
というか、私は死ぬために……否、殺してもらうためにここに来た、のかも知れない……」
魔界の王子は、眼差しを宙に彷徨わせた。

「何だと?」
大天使は面食らった。
「お前も見たろう、幼い頃から、私は死ぬためだけに生きて来た……なのに、この頃、周りの者達は、私に、生きろと言うのだよ。
兄だけはと思っていたら、いつの間にか宗旨替(しゅうしが)えをして、私を愛しているから死ぬな、などと言い出す始末だ。
……困ったものさ」
サマエルは肩をすくめた。

「何を言うか、兄弟なら、生きて欲しいと願うのは当然だろう、憎み合っておらぬ限りは」
「分からなくていいさ。それより、明後日が楽しみだよ」
サマエルはにっこりし、壁に背中をつけると、眼を閉じた。

(もうすぐだ、あと少し……いよいよ始まる……私が死んだら、もう止まらない……止めることは出来ない、神族には。
覚悟するがいい、魔族の復讐劇は、これからが本番なのだから……!)
閉じた目蓋の裏で、サマエルの紅い瞳は、飢えた野獣のように燃え上がっていた。