~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

13.死刑台の紅龍(2)

「ま、それも一興だが。
このままいけば、アスベエルは、私と同じ……もう一頭の紅龍へと変化を遂げ、お前に復讐を始めるかも知れないぞ」
サマエルは、声に威嚇(いかく)の響きを持たせた。
一瞬ぎくりとしたものの、ラファエルは、顎を突き出し虚勢を張った。
「ふ、ふん、誰が、そんな脅しに乗るか」

「それだけでは飽き足らず、自分という存在を産み出した、この世界に復讐を……。
む、まずいな、紅龍に変化するならまだしも……」
不意に口ごもり、サマエルは眉を曇らせた。
「まずいとは、どういう意味だ」
仏頂面(ぶっちょうづら)で、大天使は続きを促す。

「我らは、『おのれとは、このようなものである』と考えることにより、自分自身を規定しているものだ。
だが、何もかもが千変万化(せんぺんばんか)する混沌の中では、自己を(よすが)とすることは非常に難しく、寄る()なき奔流(ほんりゅう)の中で、おのれの何たるかを見失った後、“資格者”は、紅龍へと変化を遂げるのだ。
資格なき者は、死ぬしかない……が、例外もある。
あまりにも恨みや憎しみが強い場合、混沌に漂う何者ともつかない姿を取り込んで(うつ)し世に戻り、それを晴らすと……。
そうなれば、制御出来る分、紅龍の方がまだまし、ということにもなりかねない、だが、……」
魔界の王子は考え込んだ。

「……わたしを憎むあまり、紅龍よりも性質(たち)の悪い者に変化し、世界を滅ぼしにかかると?
まさか……」
ラファエルは、半信半疑でつぶやく。
「彼は、一旦は戻って来られた……並みの者より魔力は高いはず。
ただ、怨恨や憎悪より、哀しみの方が勝っている気はするが……」
サマエルは首を横に振る。

さっきまで、のた打ち回っていたアスベエルは、今はもう、意識を失って横たわっており、時折、びくびくと痙攣(けいれん)していた。
その腕は、ラファエルではなく、サマエルに向け伸ばされている。
「可哀想に、もうすぐ彼は死ぬ……もしくは、彼でなくなる……。
助けてやりたいけれど、……」
床に固定されたまま、サマエルは、恨めしげにラファエルに視線を送る。

「く、くそっ、何とかしろ!」
大天使は、すらりと剣を抜き、サマエルの喉元に突きつけた。
彼は眼を閉じた。
「彼を心配してはいるのだね。
……それとも、言い訳のためか? 自分はこうまでしたのに、という」

「違う!」
ちくりとした痛みと共に、剣の切っ先が喉に刺さり、わずかに血が流れる。
「……たった一つ、望みを叶えてくれるだけでいいのに。
何を約束し、実行しても、私はもうすぐ死ぬ、死人に口なしだ……」

「く、!」
次の瞬間、サマエルは手荒に引き起こされ、看守長の元へと引っ立てられた。
「早く助けてやれ!」
「無論だ」
アスベエルの額に手を当て、彼は、するりと心の中に滑り込んだ。
刹那、怒涛のように押し寄せて来るカオス、並みの者なら一瞬で飲み込まれてしまうだろう激流に逆らい、彼は必死に看守長を捜した。
“アスベエル、どこだ!?”

時折、稲妻のように記憶が閃き、その瞬間は、さすがの彼もひるんでしまう。
“く……アスベエル! どこにいる、返事をしてくれ!”
手遅れだったかと、ほぞを噛む思いで懸命に探し回っているうち、遠くに一筋、スポットライトのように光が差している箇所が見えて来た。
“あ、あれはもしや……”
光り輝く白い羽毛が舞う中に、天使が独り、膝を抱えてうずくまっていた。

“やはり!
──アスベエル!”
死に物狂いで近づきながら、サマエルが呼びかけると、天使はびくりと顔を上げた。
“だ、誰……?”
“私だ、サマエルだよ、分かるか?”
“あ、あ……サマエル様ぁ!”

泣きながら飛びついて来る少年を、彼は抱き締め、ほっとした。
“よかった、間に合った……よく無事でいたね”
“いえ、あの、俺、滅茶苦茶振り回されて、溺れたみたいに苦しくて、もう、何が何だか分かんなくなってたんですけど、さっき急に止まって、あったかくなって。
もう、天国へ来ちゃったんだと思ってました……”

“……そうか。
お前を守っていたこれは、かつて、お前の両親だったものかも知れないね……未練を残して死んだがゆえに、カオスに取り込まれたのか……”
サマエルが広げた掌に、輝く羽が落ちて来ては、淡雪のように融けてゆく。
“え? これが両親?”
慌てて、アスベエルは舞い散る羽に触れようとしたが、そのときにはもう、光は消えてしまっていた。
“ああ、……”

すべてが闇に飲まれるかと思いきや、代わりにサマエルの体が輝き始めた。
“サマエル様が光ってる……!?”
“ああ。私は混沌に飲み込まれることはない……すでに、この一部なのでね”
サマエルは、手でゆっくりと弧を描き、周囲を示した。
“そ、そうなんですか”

“それにしても、親の愛とは素晴らしいものだな、あんな状態でも、息子が分かるのだから。
ご両親の分も、頑張って生きなければね、アスベエル。
……さ、現実世界へ戻ろう”
“はい”
答えた途端、意識が戻り、看守長はぱちりと眼を開けた。

「大丈夫か、アスベエル!」
サマエルを押しのけ、ラファエルが彼の手を取った。
その眼は、うるんでいるようにも見える。
「あ、ラファエル様……俺は……」
「こやつのせいで、死にかけたのだ!」
大天使は、忌々しげに、魔界の王子の方へ手を振る。

「済まなかったね、巻き込んでしまって。
まだ休んでいた方がいい、かなり消耗しているはずだ」
「お前に言われるまでもない!」
ラファエルはさっと彼を抱き上げ、檻を出た。

「約束を忘れるなよ、ラファエル」
その背中に声をかけても、大天使は振り返りもせず、歩き続ける。
「ふん、夢魔ごときと約束事などした覚えはないわ」
「……おやおや、やはり、神族は嘘つきだな」
肩をすくめる魔界の王子は、大して落胆した風でもなかった。

「あの、ラファエル様、約束って……?」
つぶらな瞳で、アスベエルは大天使を見上げる。
「お前を助ける代償に、願いを一つ叶える約束をしたのさ。
まあ、反故(ほご)にされるだろうとは思っていたが」
サマエルが教えた。

「黙れ、魔物と取引などはせぬ。お前のせいなのだから、無条件で助けて当然だ」
「待って下さい、あいつの願いって何なんです?」
アスベエルは尋ねた。
「知らぬ。知りたくもないわ」
ラファエル返事は取り付く島もない。

「けど、内容くらい、聞いてもいいんじゃ?
……だって、俺のせいで、ラファエル様が、嘘つき呼ばわりされるのは……」
助けてくれた魔界の王子に、礼も出来ない自分の立場を心の中で密かに嘆き、アスベエルは涙ぐんだ。
「むう……」
そうとも知らず、ラファエルは足を止める。

「彼の言う通りだ、話くらい聞いても、罰は当たるまい」
サマエルも口を添えた。
「ならば申してみよ、その望みとやら」
渋々、大天使は振り返り、サマエルを見た。
「簡単だよ。処刑後、私の死体は、このウィリディスの大地に埋めて欲しい、それだけだ」

ラファエルはぽかんと口を開けた。
「……何、それだけ?」
「ああ。何を想像していたのだ?」
彼は、不思議そうに尋ねた。
「いや……お前は淫魔だ、てっきり、いかがわしいことを要求して来るものだとばかり……」

きょとんとするのは、今度はサマエルの番だった。
「……いかがわしい? そんなこと、まったく考えもしなかったぞ?
私の母の遺体は、この地に埋められている、そして、私がここに葬られれば、母、アナテは、冥界で安らかに眠りにつくことが出来るだろうと……」
「アナテだと? たしかお前の母は……」

「前世の母親だよ。私は、魔界の女神アナテの息子にして、夫だったモトの生まれ変わりなのだ。
アナテはお前達の先祖に虐殺され、憤怒(ふんぬ)と共に復讐の鬼神と化した……私は生まれ変わるたびに紅龍となり、お前達に(あらが)い続けて来たわけだ……。
今度で、もう三度目、これが最後であって欲しいよ……」
「ふうむ……」

「……ラファエル様、あいつの処刑はもうすぐなんですか?」
おずおずとアスベエルが尋ねた。
「ああ。三日後、の予定だ」
「ええっ……!?」
看守長は青ざめた。
義弟を案じてのことだろうと、大天使はとがめはしなかった。

魔界の王子は、眉一つ動かさなかった。
「そうか。フレイアが来たときに、そろそろだと思ったよ。
では、その後、荒地にでも埋めてくれ。墓石などいらない。私はただ、故郷の地に同化したいだけだ」
「相分かった、その約束、必ず果たそう」
厳粛な面持ちで、大天使は請合(うけあ)った。

「ありがとう、ラファエル」
サマエルは微笑んだ。
「お礼に教えておこう、私を処刑するなら、火あぶりは無駄だよ、炎に耐性があるからね。
縛り首とか溺れさすとか、窒息系も駄目だ、すぐ蘇生してしまう。
斬首が一番だと思うが、それでも、首と胴体は離しておかないと、すぐにつながってしまうから……」
彼は、自分の首を斬る真似をして見せた。 

大天使は眉をしかめた。
「お前、もしや、それらを全部、試してみたのか……?」
魔界の王子は、にっこりした。
「さっき、私の心を読んだろう?」
「う……」

「それから、もう一つ、告白しておこうか。たしかに私は、息子の記憶を書き換えた」
「何、やはり、お前……」
思わず、大天使は身を乗り出す。
「最後まで聞け。その理由は、サリエルが泣いたからだ……泣きわめいた、と言った方が正確か。
お前、私が、親子心中を図る気でいると知っていたろう」

「えっ!?」
思わず声を上げるアスベエルを尻目に、ラファエルは肩をすくめた。
「まあな。今朝、わたしが食事を持って来たのも、アスベエルにショックを与えまいとしたがゆえだ」
「心中……お、俺のため……!?」
アスベエルは、おろおろと、天使と悪魔を見比べる。
「……それで?」
大天使は続きを促す。

「ああ……それで、昨夜、息子に話を切り出したところ、案の定、死ぬのは嫌、怖いと大泣きされて、仕方なく眠らせたのだよ……。
やつれた寝顔を見て、心中は思い留まったが、父親との最後の夜に眠ってしまったと後で知ったら、きっと、この子は悲しむだろう、後追い自殺など企てるのではと案じられてね……。
それでも、せっかくよく寝ているのを無理に起こすのも……だから、一晩中、私と話していたという記憶を植えつけたのだよ。
何も嘘は入れてはいない、息子が起きていたら聞かせた話だ、すべて……」
サマエルは、さも本当のことのように、しんみりと語って聞かせた。

「あのぉ、ラファエル様。
もし……あいつが、本当に見境のないヤツだったら、息子なんかより、もっと身近な、俺ら看守や……そうだ、フレイア様にだって、襲いかかったんじゃないですかね……?」
おそるおそる、アスベエルが口を挟む。
「むう……」

看守長の尻馬に乗る形で、魔族の王子は言った。
「正直、アスベエルがいるから、(よこしま)な願いは口に出せなかったのだよ、息子の耳に入れたくはないから……あの子には、純粋なままでいて欲しい……お前がどう思おうと、ね」
「むうう……相分かった、何もなかったということにしてやる。
わたしとて、サリエルを死なせたくはない」
大天使は、看守長を抱いたまま、くるりと背を向け、去って行った。

一人残されたサマエルは、大きく息を吐いた。
「“人は真実より、自分にとって都合のいい嘘を信じる”というのは、けだし至言(しげん)だな……私の場合、全部嘘、だけれど……ふふ。
ああ、やっと……! あと、たった三日で、私は死ねる……!」
彼は、顔がほころぶのを抑えられなかった。

そのとき、磨き立てられた檻の壁に、妻の面影が浮かび、彼は笑みを消した。
「済まない、“焔の眸”……私は、どうしても死んでしまいたいのだよ……!
お前達が悲しむのが分かっていながら……ああ、許しておくれ……!」
彼は顔を覆った。

眉(まゆ)を曇(くも)らす

心配そうな顔つきをする。

かててくわえて【糅てて加えて】

ある事柄にさらに他の事柄が加わって。その上。おまけに。多く、よくないことが重なるときに使われる。

よるべ【寄る辺/寄る方】

頼みとして身を寄せるところや人。また、頼みとする配偶者。

ほんりゅう【奔流】

勢いの激しい流れ。

よすが【縁/因/便】

《「寄す処(か)」の意。古くは「よすか」》
1 身や心のよりどころとすること。頼りとすること。また、身寄り。血縁者。よるべ。
2 手がかり。手だて。方法。

うつしよ【現し世】

この世。現世。

けだし【蓋し】

1 物事を確信をもって推定する意を表す。まさしく。たしかに。思うに。

しげん【至言】

事物の本質を適切に言い当てている言葉。