13.死刑台の紅龍(1)
「よかったです、サリエルが大人しく出てくれて」
檻の前にやって来た看守長は、心からほっとした様子だった。
サマエルはにっこりした。
「あの子だって成長するさ、これからも、弟として可愛がってくれ。
ところで、お前は、フレイアと近しい間柄のようだね」
「え……そりゃまあ、幼なじみなんで。
本来なら、気安く口を利ける身分じゃないんですけどね。
俺達以外に子供もいないし、後見人がマトゥタ様だってことで、一緒にいるのも許されてた、みたいな……」
魔界の王子はうなずいた。
「そう。彼女が理由なのだな」
「え? 何がですか?」
不思議そうに訊き返すアスベエルに、彼は微笑みかけた。
「心の中にフレイアがいたから、インキュバスの誘惑に打ち勝てたのだね。
……ほら、私が、お前を押し倒したときのことさ」
黒髪の大天使は、ぱっと頬を赤らめた。
「そ、そんなこともありましたね。
でも、フレイア様とは関係ないですから……」
「嘘が下手だね、全部、顔に出ているよ」
笑いを含んで彼が言うと、アスベエルは頭をかいた。
「……
初めは、無邪気に遊んでただけだったんですけど、いつの間にか……。
でも、看守長には自由もないし、仕事以外で汎神殿に行くこともなくて……三千年ぶりくらいになりますかね、会ったのは」
「そう、可哀想に。フレイアも、お前を憎からず思っているようなのにね」
「いえ、向こうは女神、幼なじみのよしみですよ、俺は禁忌の子供だし。
それに、魔界が勝ったとしても、彼女は天帝の曽孫です、間違いなく処刑されるでしょう……どう転んだって、俺の想いは実らないんだ。
もうやめて下さい、こんな話……」
黒衣の天使はうなだれた。
「そう悲観することもないと思うよ。
アザゼルは、ガブリエルを妻にと願い、許された。
シェミハザは、女公爵ゴモリーと、
お前が私に協力し、結果、魔界が勝利出来たなら、
「ほ、本当ですか!?」
ばっと顔を上げ、アスベエルは眼を輝かせたが、それも束の間のことだった。
すぐに、彼は瞳を曇らせ、言った。
「……変な希望を持たせないで下さいよ。約束なんてなくても、これからもお手伝いしますから」
「ならば、誓おう、アスベエル。
お前の助力により戦に勝利した暁には、フレイアの助命を叶えることを。
“カオスの貴公子”の名において、ここに
魔界の王子は、胸に手を当て
「私は約束は守るよ。たとえ相手がそれを、信じてくれないとしても、ね」
アスベエルは、期待と不安がないまぜになった表情をしたが、不意に聞き耳を立てた。
「どうした?」
「ベリアスからです……ラファエルが来ました」
小声で言い、さっと檻から離れたアスベエルは、看守長の顔に戻っていた。
直後、現れた金髪の大天使を、サマエルはにこやかに迎えた。
「お早いお戻りだね、ラファエル」
「あの、サリエルは……」
アスベエルは心配そうに尋ねる。
「フレイア様のお計らいで、汎神殿に住むことになった」
仏頂面で答えたラファエルは、檻の中のサマエルに鋭い視線を向けた。
「それより、お前、サリエルに何をしたのだ、昨夜」
「何を? 話をしていただけだが?」
「嘘をつけ! たった一晩のうちにサリエルは妙に大人びて、記憶は不自然に鮮明だった!
夢魔め、偽の記憶を植えつけたな!」
ラファエルは、彼に指を突きつけた。
「えっ、偽の記憶!?」
アスベエルは眼を丸くし、二人を見比べる。
「何のことやら、さっぱりだ」
サマエルは軽く肩をすくめ、いささかも動じた気配はない。
「このいやらしいインキュバスめが!
よりにもよって、実の息子と淫らな行為を……」
「やめてくれ、人聞きが悪い。どこにそんな証拠がある」
「証拠なら、今見せてやる! 檻を開け、アスベエル!」
「は、はい」
話が飲み込めぬまま、看守長が開錠すると、大天使はずかずかと檻の中に入って来た。
「アスベエル、お前は足を押さえよ!」
「え……」
「ぐずぐずするな!」
「はい!」
「な、何をする、放せ!」
二人がかりで押し倒され、サマエルはもがいた。
「これから、お前の記憶を読んでやる、さすれば、すべて一目瞭然だ!」
魔界の王子を見下ろし、大天使は高らかに宣言した。
「何だって!? そ、それはやめた方がいい、お前達のためだ、よせ!」
サマエルは叫ぶが、床の輪に手枷を固定されて体の自由は利かず、どうすることも出来ない。
必死に頭を左右に振る彼の額に手を押し当て、ラファエルは、強引に心の中へと押し入って行った。
魔界の王子の記憶、それは暗くよどみ、苦痛と悲嘆と憎悪に満ちていた。
最初に見えて来たのは、父王に
魔界王の意向に逆らえず、表立って彼に食事を与える者は誰もいない。
幼いサマエルは、兄や伯父、果ては召使にまでも身を売り、飢えをしのぐしかなかった。
中でも、実父かも知れない男、ベルフェゴールが、か弱い少年に与える
次に、彼を待ち受けていたのは、紅龍の試練だった。
闇に塗り込められた塔の中、先祖の恨みつらみが全身を
永久に続くように思えた苦行がようやく終わりを告げ、凍てつくような孤独から解放されても、受難は継続した。
念願の魔力も得て、今度こそ、父ベルゼブルに認めてもらえると思った彼に突きつけられた、残酷な真実。
紅龍は生け贄、儀式の後、生きたまま心臓を食い破られて殺され、骨は魔界中にばらまかれて、墓さえ作られない……。
だが、もう手遅れだった。力を手放すためには、死ぬしかない。
『魔界のために死ぬのがお前の役目』。
宣告を受けたサマエルは、胸が張り裂けそうになり、そのまま気を失った。
父親の無慈悲な仕打ちと、常に精神を
彼とマトゥタが出会った直後、追っ手が現れ、サマエルはとっさに、彼女をかくまう。
恋に落ちた二人はやがて引き裂かれ、魔界へ連れ戻されたサマエルを、ベルゼブルは散々打ち据え、『
闇と絶望と狂気とを抱え、独り人界を
その眼にはもう、死以外のものは映らない。
幾度となく自殺を試み、果たせずに、血まみれで目覚める日々が、延々と続いていく……。
「う、うわあああーっ!」
叫び声を上げたのは、アスベエルだった。
ラファエルと共に、王子の
「どうした、アスベエル!?」
大天使は我に返り、看守長を揺さぶった。
「うわ、あ、あ、あーっ!」
アスベエルは、体をのけぞらせ、黒髪を振り乱して悶え、その瞳には、闇色の狂気が宿り始めていた。
「正気に戻れ!」
ラファエルは、彼の頬を張る。
「あ……ラファエル、さ、ま……?」
痛みにはっとして、アスベエルは大天使を見た。
「アスベエル、しっかり致せ!
今のは魔物の記憶だ、お前自身が、ああいう目に遭ったのではない!」
「え、あ……そ、そうです、よね……」
ようやくアスベエルの眼に、正気の光が戻って来る。
彼だけでなく、ラファエル自身も、全身から汗が噴き出していた。
「く、サマエル、お前、精神トラップを仕かけていたな!?」
大天使が睨みつけると、縛められたサマエルは悲しげに答えた。
「私は何もしていない……。
力尽くで記憶をこじ開けたりするから、心の傷……トラウマが、反射的に……」
疲れたように、彼は眼を閉じた。
「酷い、酷すぎる……」
アスベエルは自分の肩を抱き、全身を震わせた。
涙が滝のように流れて頬を伝い、ローブを濡らしていく。
「トラウマ、だと……またそんな、口から出任せを……」
無理に心を奮い立たせ、ラファエルは声を絞り出した。
再び眼を開け、王子は答えた。
「本当に不可抗力だよ……もし、本当に罠がしかけてあったのなら、もっと前に発動してしかるべきだろう、お前達が、私を調べた最初のときにでも……」
「む、……」
ラファエルは返答に詰った。
たしかに、眠らせ捕らえたサマエルの心を、ミカエルを含めた天使達が全員で探ったときには、誰もそんな罠には陥らなかった……ただ空虚が、ぽかりと口を開けているのみで。
「あんな目に遭ったから、私は、サリエルには幸せになってもらいたいのだよ。
もし、彼が私の子供でないとしても、彼が、私を父親だと思ってくれるのなら、ね。
……続けるかい、ラファエル?
いきなりでなければ、もう出ないよ、あんな記憶は……おそらく、ね」
「むう……」
さすがに、大天使はためらった。
決心がつかずにいると、いきなりアスベエルが声を上げた。
「あ、あ、あ、……く、来るな、来るなぁ……!」
「アスベエル、いかがした!?」
「うわ、うわあ!」
黒髪の天使の様子が、再びおかしくなっていた。
虚空を凝視し、何もない場所に向かって、何かを追い払おうとしているかのように、手を振り回す。
「“カオスの力”の侵食が始まったな。彼の心が、狂気に取り込まれ始めたのだ」
サマエルが静かに言った。
「何だと!? わたしは、どうともなっておらぬぞ!」
ラファエルは、胸に手を当て叫ぶ。
「感受性には個人差があるし、やはり若い方が、自我が確立していない分、侵されやすいのだろう。
まして、アスベエルは心に傷を負っている。
両親と養母は処刑、養父まで殺され、自分は死に魅入られていると思って。
このまま行けば、廃人は確実、最期は狂い死にか……」
「くそ、お前のせいだ、何とかしろ!」
ラファエルは息を弾ませ、彼に指を突きつけた。
サマエルは、氷のように冷たい眼差しで、大天使を見返した。
「私の心に、土足で上がり込んでおいて、ずいぶんな言い草だな。
他人の心を覗くことは、こういった危険性も
これまでは、単に運が良かっただけだ」
彼は、そっぽを向いた。
慌てて、大天使は下手に出た。
「ま、待て、アスベエルは、わたしの行為に巻き込まれただけだ。
看守長ではあるが、お前にも拷問は加えていないはず、それに彼は、お前の息子の義兄弟だろう、頼む、助ける方法を教えてくれ!」
「お前が、彼の心の中に入り、連れ出せばいい」
魔界の王子の返答は、そっけないほど簡潔だった。
「な、……」
天使が仰天し、身震いしたのを見たサマエルは、冷たい笑みを浮かべた。
陰惨な記憶が渦巻く混沌の闇……ほんの少し覗いただけで、心がずたずたに切り裂かれそうになったはずだった。
それを、内部深くに潜り込んでアスベエルを見つけ出し、さらに、連れて戻って来なければならない……怖気づいて当然だった。
「まあ、お前には無理だな、迷子になるのがオチだ。
私が助けてやってもいいが、一つ条件がある」
「ま、魔物などとは取引せぬ!」
この期に及んで大天使は、まだ虚勢を張った。
「おや、薄情だね、保護者のくせに、彼を見捨てるのかい?」
「むむむ……」
ラファエルが歯噛みする間にも、黒髪の天使は、頭を抱えて床を転げ回り、苦しみ続けている。
「助けて、あああ、誰か……っ!」
やくじょう【約定】
約束してきめること。とりきめを交わすこと。契約。
しゅっぽん【出奔】
1 逃げだして行方をくらますこと。逐電(ちくでん)。
しれもの【痴れ者】
1 愚かな者。ばか者。