~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

13.死刑台の紅龍(1)

「よかったです、サリエルが大人しく出てくれて」
檻の前にやって来た看守長は、心からほっとした様子だった。
サマエルはにっこりした。
「あの子だって成長するさ、これからも、弟として可愛がってくれ。
ところで、お前は、フレイアと近しい間柄のようだね」

「え……そりゃまあ、幼なじみなんで。
本来なら、気安く口を利ける身分じゃないんですけどね。
俺達以外に子供もいないし、後見人がマトゥタ様だってことで、一緒にいるのも許されてた、みたいな……」
魔界の王子はうなずいた。
「そう。彼女が理由なのだな」

「え? 何がですか?」
不思議そうに訊き返すアスベエルに、彼は微笑みかけた。
「心の中にフレイアがいたから、インキュバスの誘惑に打ち勝てたのだね。
……ほら、私が、お前を押し倒したときのことさ」
黒髪の大天使は、ぱっと頬を赤らめた。
「そ、そんなこともありましたね。
でも、フレイア様とは関係ないですから……」

「嘘が下手だね、全部、顔に出ているよ」
笑いを含んで彼が言うと、アスベエルは頭をかいた。
「……(かな)わないなぁ、ええ、仰る通りです。
初めは、無邪気に遊んでただけだったんですけど、いつの間にか……。
でも、看守長には自由もないし、仕事以外で汎神殿に行くこともなくて……三千年ぶりくらいになりますかね、会ったのは」
「そう、可哀想に。フレイアも、お前を憎からず思っているようなのにね」

「いえ、向こうは女神、幼なじみのよしみですよ、俺は禁忌の子供だし。
それに、魔界が勝ったとしても、彼女は天帝の曽孫です、間違いなく処刑されるでしょう……どう転んだって、俺の想いは実らないんだ。
もうやめて下さい、こんな話……」
黒衣の天使はうなだれた。

「そう悲観することもないと思うよ。
アザゼルは、ガブリエルを妻にと願い、許された。
シェミハザは、女公爵ゴモリーと、恩讐(おんしゅう)を超えて結ばれたよ。
お前が私に協力し、結果、魔界が勝利出来たなら、褒賞(ほうしょう)として、お前の願いも叶うと思うけれど」
「ほ、本当ですか!?」
ばっと顔を上げ、アスベエルは眼を輝かせたが、それも束の間のことだった。

すぐに、彼は瞳を曇らせ、言った。
「……変な希望を持たせないで下さいよ。約束なんてなくても、これからもお手伝いしますから」
「ならば、誓おう、アスベエル。
お前の助力により戦に勝利した暁には、フレイアの助命を叶えることを。
“カオスの貴公子”の名において、ここに約定(やくじょう)する」
魔界の王子は、胸に手を当て(おごそ)かに宣言すると、笑いかけた。
「私は約束は守るよ。たとえ相手がそれを、信じてくれないとしても、ね」

アスベエルは、期待と不安がないまぜになった表情をしたが、不意に聞き耳を立てた。
「どうした?」
「ベリアスからです……ラファエルが来ました」
小声で言い、さっと檻から離れたアスベエルは、看守長の顔に戻っていた。
直後、現れた金髪の大天使を、サマエルはにこやかに迎えた。
「お早いお戻りだね、ラファエル」

「あの、サリエルは……」
アスベエルは心配そうに尋ねる。
「フレイア様のお計らいで、汎神殿に住むことになった」
仏頂面で答えたラファエルは、檻の中のサマエルに鋭い視線を向けた。
「それより、お前、サリエルに何をしたのだ、昨夜」

「何を? 話をしていただけだが?」
「嘘をつけ! たった一晩のうちにサリエルは妙に大人びて、記憶は不自然に鮮明だった!
夢魔め、偽の記憶を植えつけたな!」
ラファエルは、彼に指を突きつけた。
「えっ、偽の記憶!?」
アスベエルは眼を丸くし、二人を見比べる。

「何のことやら、さっぱりだ」
サマエルは軽く肩をすくめ、いささかも動じた気配はない。
「このいやらしいインキュバスめが!
よりにもよって、実の息子と淫らな行為を……」
「やめてくれ、人聞きが悪い。どこにそんな証拠がある」

「証拠なら、今見せてやる! 檻を開け、アスベエル!」
「は、はい」
話が飲み込めぬまま、看守長が開錠すると、大天使はずかずかと檻の中に入って来た。
「アスベエル、お前は足を押さえよ!」

「え……」
「ぐずぐずするな!」
「はい!」
「な、何をする、放せ!」
二人がかりで押し倒され、サマエルはもがいた。

「これから、お前の記憶を読んでやる、さすれば、すべて一目瞭然だ!」
魔界の王子を見下ろし、大天使は高らかに宣言した。
「何だって!? そ、それはやめた方がいい、お前達のためだ、よせ!」
サマエルは叫ぶが、床の輪に手枷を固定されて体の自由は利かず、どうすることも出来ない。
必死に頭を左右に振る彼の額に手を押し当て、ラファエルは、強引に心の中へと押し入って行った。

魔界の王子の記憶、それは暗くよどみ、苦痛と悲嘆と憎悪に満ちていた。
最初に見えて来たのは、父王に(うと)まれ、飢えて泣いている少年の姿だった。
魔界王の意向に逆らえず、表立って彼に食事を与える者は誰もいない。
幼いサマエルは、兄や伯父、果ては召使にまでも身を売り、飢えをしのぐしかなかった。
中でも、実父かも知れない男、ベルフェゴールが、か弱い少年に与える(むご)い仕打ちは、眼を覆うべきものがあった。

次に、彼を待ち受けていたのは、紅龍の試練だった。
闇に塗り込められた塔の中、先祖の恨みつらみが全身を(けが)していく、筆舌に尽くしがたい苦痛が続く。
永久に続くように思えた苦行がようやく終わりを告げ、凍てつくような孤独から解放されても、受難は継続した。

念願の魔力も得て、今度こそ、父ベルゼブルに認めてもらえると思った彼に突きつけられた、残酷な真実。
紅龍は生け贄、儀式の後、生きたまま心臓を食い破られて殺され、骨は魔界中にばらまかれて、墓さえ作られない……。
だが、もう手遅れだった。力を手放すためには、死ぬしかない。
『魔界のために死ぬのがお前の役目』。
宣告を受けたサマエルは、胸が張り裂けそうになり、そのまま気を失った。

父親の無慈悲な仕打ちと、常に精神を(むしば)み続けるカオスの力により、発狂寸前にまで追い込まれ、ついに魔界を出奔(しゅっぽん)する彼に、追っ手が差し向けられる。
彼とマトゥタが出会った直後、追っ手が現れ、サマエルはとっさに、彼女をかくまう。
恋に落ちた二人はやがて引き裂かれ、魔界へ連れ戻されたサマエルを、ベルゼブルは散々打ち据え、『()れ者』とののしり、追放する……。
闇と絶望と狂気とを抱え、独り人界を彷徨(さまよ)う魔界の王子。
その眼にはもう、死以外のものは映らない。
幾度となく自殺を試み、果たせずに、血まみれで目覚める日々が、延々と続いていく……。

「う、うわあああーっ!」
叫び声を上げたのは、アスベエルだった。
ラファエルと共に、王子の陰惨(いんさん)な過去を見てしまっていたのだ。
「どうした、アスベエル!?」
大天使は我に返り、看守長を揺さぶった。

「うわ、あ、あ、あーっ!」
アスベエルは、体をのけぞらせ、黒髪を振り乱して悶え、その瞳には、闇色の狂気が宿り始めていた。
「正気に戻れ!」
ラファエルは、彼の頬を張る。
「あ……ラファエル、さ、ま……?」
痛みにはっとして、アスベエルは大天使を見た。

「アスベエル、しっかり致せ!
今のは魔物の記憶だ、お前自身が、ああいう目に遭ったのではない!」
「え、あ……そ、そうです、よね……」
ようやくアスベエルの眼に、正気の光が戻って来る。
彼だけでなく、ラファエル自身も、全身から汗が噴き出していた。

「く、サマエル、お前、精神トラップを仕かけていたな!?」
大天使が睨みつけると、縛められたサマエルは悲しげに答えた。
「私は何もしていない……。
力尽くで記憶をこじ開けたりするから、心の傷……トラウマが、反射的に……」
疲れたように、彼は眼を閉じた。

「酷い、酷すぎる……」
アスベエルは自分の肩を抱き、全身を震わせた。
涙が滝のように流れて頬を伝い、ローブを濡らしていく。
「トラウマ、だと……またそんな、口から出任せを……」
無理に心を奮い立たせ、ラファエルは声を絞り出した。

再び眼を開け、王子は答えた。
「本当に不可抗力だよ……もし、本当に罠がしかけてあったのなら、もっと前に発動してしかるべきだろう、お前達が、私を調べた最初のときにでも……」
「む、……」
ラファエルは返答に詰った。
たしかに、眠らせ捕らえたサマエルの心を、ミカエルを含めた天使達が全員で探ったときには、誰もそんな罠には陥らなかった……ただ空虚が、ぽかりと口を開けているのみで。

「あんな目に遭ったから、私は、サリエルには幸せになってもらいたいのだよ。
もし、彼が私の子供でないとしても、彼が、私を父親だと思ってくれるのなら、ね。
……続けるかい、ラファエル?
いきなりでなければ、もう出ないよ、あんな記憶は……おそらく、ね」

「むう……」
さすがに、大天使はためらった。
決心がつかずにいると、いきなりアスベエルが声を上げた。
「あ、あ、あ、……く、来るな、来るなぁ……!」
「アスベエル、いかがした!?」

「うわ、うわあ!」
黒髪の天使の様子が、再びおかしくなっていた。
虚空を凝視し、何もない場所に向かって、何かを追い払おうとしているかのように、手を振り回す。

「“カオスの力”の侵食が始まったな。彼の心が、狂気に取り込まれ始めたのだ」
サマエルが静かに言った。
「何だと!? わたしは、どうともなっておらぬぞ!」
ラファエルは、胸に手を当て叫ぶ。

「感受性には個人差があるし、やはり若い方が、自我が確立していない分、侵されやすいのだろう。
まして、アスベエルは心に傷を負っている。
両親と養母は処刑、養父まで殺され、自分は死に魅入られていると思って。
このまま行けば、廃人は確実、最期は狂い死にか……」

「くそ、お前のせいだ、何とかしろ!」
ラファエルは息を弾ませ、彼に指を突きつけた。
サマエルは、氷のように冷たい眼差しで、大天使を見返した。
「私の心に、土足で上がり込んでおいて、ずいぶんな言い草だな。
他人の心を覗くことは、こういった危険性も(はら)んでいるのだぞ。
これまでは、単に運が良かっただけだ」
彼は、そっぽを向いた。

慌てて、大天使は下手に出た。
「ま、待て、アスベエルは、わたしの行為に巻き込まれただけだ。
看守長ではあるが、お前にも拷問は加えていないはず、それに彼は、お前の息子の義兄弟だろう、頼む、助ける方法を教えてくれ!」
「お前が、彼の心の中に入り、連れ出せばいい」
魔界の王子の返答は、そっけないほど簡潔だった。

「な、……」
天使が仰天し、身震いしたのを見たサマエルは、冷たい笑みを浮かべた。
陰惨な記憶が渦巻く混沌の闇……ほんの少し覗いただけで、心がずたずたに切り裂かれそうになったはずだった。
それを、内部深くに潜り込んでアスベエルを見つけ出し、さらに、連れて戻って来なければならない……怖気づいて当然だった。

「まあ、お前には無理だな、迷子になるのがオチだ。
私が助けてやってもいいが、一つ条件がある」
「ま、魔物などとは取引せぬ!」
この期に及んで大天使は、まだ虚勢を張った。
「おや、薄情だね、保護者のくせに、彼を見捨てるのかい?」
「むむむ……」

ラファエルが歯噛みする間にも、黒髪の天使は、頭を抱えて床を転げ回り、苦しみ続けている。
「助けて、あああ、誰か……っ!」

やくじょう【約定】

約束してきめること。とりきめを交わすこと。契約。

しゅっぽん【出奔】

1 逃げだして行方をくらますこと。逐電(ちくでん)。

しれもの【痴れ者】

1 愚かな者。ばか者。