~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

12.最後の晩餐(ばんさん)(4)

翌朝になり、サマエルは息子を揺さぶった。
「朝だよ、サリエル、起きなさい」
「ふあ……おはようございます、父上……」
少年はあくびをし、眼をこすりながら起き上がった。

「おはよう。気分はどうかな」
問われたサリエルは、頭に手を当てた。
「あれ? なんか、頭がすごくすっきりしてます……ぐっすり寝たせいかな」
「そう」
夢魔の王子は、満足気な笑みを浮かべた。

桶の水で顔を洗い、別れを惜しむように話しているところに食事を運んで来たのは、意外にもラファエルだった。
大天使は、父子を見てはっと息を呑み、それから顔をしかめた。
「これが最後だ、今日こそは、何があろうとも連れて帰るぞ。
泣こうが暴れようが、もはや容赦はせぬゆえ」
「分かってます、もうお待たせしませんから。
では、頂きます」
サリエルは軽く礼をし、質素な朝食に手をつけた。

それ以上は急かされなかったが、二人はそそくさと食事を終えた。
「ごちそう様でした……では、父上」
「達者で、サリエル」
親子は固く抱き合ったものの、さほど間を置かずに体を離す。
それから、サリエルはみずから檻を出て行った。

昨日とは別人のような少年を、ラファエルは不思議そうに眺め回した。
「どうかしましたか?」
サリエルは、可愛らしく小首をかしげる。
「いや、たった一晩でずいぶん変わったものだなと……」
「あ、昨夕は、わがまま言って済みませんでした、ご迷惑をおかけしました」
サリエルは頭を下げる。
その様子を、サマエルは微笑んで見ていた。

大天使は眉をしかめた。
「まあよい、行くぞ」
「はい」
少年は答え、檻に向き直った。
「では、父上。多分……これがお会い出来る最後だと思いますけど……」
「……そうだね、サリエル。私の分も、元気に暮らしておくれ」
「はい、父上」
親子は見つめ合い、笑顔で別れた。

途中で看守の詰め所に寄ったラファエルは、看守長に後を託し、サリエルを連れて、汎神殿内のグルヴェイグ宮……フレイアの住まう小宮殿へと向かった。
「おはようございます、フレイア様。
昨日は大変ご迷惑をおかけしました、申し訳ありません」
サリエルは、うやうやしく頭を下げる。
以前の子供っぽいものとは雲泥(うんでい)の差の、きちんとしたあいさつに、大天使は驚いた。

「おはよう。よかった、ちゃんとお別れが出来たのね」
ほっとしたように女神が言ったのは、この少年が、力尽くで父親と引き離され、泣きじゃくりながら連行されて来るのではないかと案じていたのだろう。
「はい、泣かずにお別れが言えました」
「そう、偉かったわね」
少年の笑みに釣り込まれるように、女神も笑顔になる。

「ところでね、サリエル。
お前、マトゥタ様のお屋敷に一人ぼっちで淋しいでしょ、汎神殿で暮らしたらどう?
実はもう、用意してあるの。お屋敷ほどじゃないけど、広いし、素敵なお部屋よ、きっと気に入るわ」

母の処刑後、汎魔殿の一室に軟禁されていたサリエルが、フレイアの口ぞえによってようやく自由の身になれた直後、今度は父親のサマエルが捕らえられてしまい、女神は、さらに不憫(ふびん)に思っていたのだった。

「フレイア様のお心遣いだ、ありがたく(うけたまわ)るように」
ラファエルは、少年に耳打ちする。
「あ……はい、では、お言葉に甘えさせて頂きます。
でも……あ、いえ、……」
ためらい、口ごもるサリエルに、フレイアは優く訊いた。
「なあに? 遠慮せず言ってご覧なさい」

「あの、こちらに移って来ても、一人じゃやっぱり、淋しいかなって……。
だから、誰かと……アスベエルと一緒じゃ、駄目でしょうか?」
「いや、それは許されぬ。看守長という立場もある、彼は光の塔からは出られぬ決まりだ」
断定口調で言ってのけたラファエルを、女神は睨んだ。

「じゃあ、ホムンクルスとだったらいけませんか?」
めげずに、サリエルは食い下がる。
「複製と? 何を言い出す……」
否定しかける大天使の台詞にかぶせるように、フレイアは答えた。
「構わないわよ。寝室の他に四室あるし、二人でも十分住めるでしょ」

「ですが、フレイア様、……」
抗議するラファエルを無視して、女神は続けた。
「ひいお祖父様には、わたくしからお願いしておくから、大丈夫よ。
それでも、淋しくなったら、ここに遊びにいらっしゃいね」
父親に今生(こんじょう)の別れを告げて来たばかりの少年に対する、女神の口調は、あくまでも優しかった。
「はい、お気遣い、ありがとうございます」
サリエルは再び、大人びたお辞儀をした。

「さ、ラファエル、彼をお部屋に案内してあげて」
打って変わってそっけなく女神は命じ、扇でドアを示す。
「……かしこまりました」
大天使は反論を諦め、胸に手を当て、礼をする。
「失礼します、フレイア様」
サリエルもまた、深々と頭を下げ、二人は退室した。

道すがら、ラファエルは、隣を歩く少年を、それとなく観察していた。
母親の死降、サリエルは泣いてばかりいて、時にはむずかる幼子同然にもなり、手に余るほどだった。
それが、突然、まるで脱皮でもしたかのように大人びて、あまりの変わりように、何か不気味なものさえ感じていたのだ。
彼を見返す少年の瞳は、以前のまま、無邪気な光を(たたえ)えているようにも思えるのだが。

大天使は、首をひねり、次の瞬間、気づいた。
(そうか、仕草だ。
髪をかき上げ、虚空を見上げる眼差し……あの魔物そっくりで、薄気味悪く感じるのだ)
たった一晩、共に過ごしただけで、感化されるのにもほどがある、そう彼は思った。

(それに、あの男は、親子心中をほのめかしていたようだったのに)
彼が朝食を持って行ったのは、死んでいる親子を、アスベエルに見せたくなかったからだった。
だが、二人はぴんぴんしており、彼は狐につままれたような気分になっていた。

(息子を落ち着かせるため、というのは、額面通りの話だったのか?
わたしが深読みし過ぎただけ、なのか……?)
サマエルの真意を図りかねて、大天使はさらに頭を絞った。

(一晩、見張りを遠ざけ、父子二人きりに……。
心情は分かるが、問題は、その父親が淫魔だということ……。
──まさか!?)

ラファエルは、顔から血の気が引く思いがした。
どくどくと脈が速くなり、自分の想像にのめり込んでいた大天使は、危うく目的地を行き過ぎかけて、慌てて立ち止まった。
「ま、待て、部屋はここだ」
「はい」

中に入ると、サリエルはドア近くに立ち、周囲を見回した。
フレイアの部屋ほど豪華ではなかったが、調度品も立派なものがすべて揃い、子供が独りで住むには、この一室だけでも十分なほどだった。

「……素晴らしいお部屋ですね」
少年はつぶやく。
静かなその様子にも、ラファエルは鳥肌が立つ思いだった。
今までのサリエルなら、子供っぽく歓声を上げて駆け回り、全部のドアを開けて覗き込んだあげく、静止も聞かずに靴のままベッドに飛び込むくらいのやんちゃを、平気でやってのけただろう。

「……お前は変わったな、サリエル。
昨夜、何があった? 昨日、父親と、何をしていたのだ?」
思わず、大天使は詰問口調になる。
「何って、お話をしてましたけど」
あどけない瞳で彼を見上げる少年に、特段、動揺したところは見られない。

ラファエルは、こうなったら、はっきり白黒つけようと思い立ち、身を乗り出した。
「サリエル。済まぬが、お前の記憶を読み取らせてはもらえぬか」
「えっ、記憶を? なぜですか?」
ようやくサリエルの表情は変化し、父親譲りの紅い眼を見開いた。

「いや、その……お前と父親の話の中に……だな、魔界について、何か……そう、重大な事柄が、隠されているやも知れぬわけだ、その……お前が気づいておらぬだけで。
そこで……そういう可能性も考慮し、調べておくようにと、天帝様のお言いつけがあって、だな……」
大天使は、苦しい言い訳をした。

これで拒絶するようなら、縛り上げてでも心を読み、そして……もし不幸にも、自分の読みが当たっていたなら……可哀想だが、いくら女神様がかばおうとも、地下室送りは免れまい。
そう、彼は思っていたのだが。

「うーん、魔界のことなんて、話したかな……?
でも、天帝様のご命令なら、喜んで従います。どうぞ、調べて下さい」
サリエルは、小首をかしげはしたものの、意外にもあっさりと同意し、ラファエルは肩透かしを食らった。
だが、純真で幼い少年のこと、自分が何をされたのか、分かっていないだけかも知れず、もはや後には引けなかった。

「では、そこに座って」
大天使は、ソファを示す。
「はい」
サリエルは、大人しく言われた通りにした。
その額に手を当て、ラファエルは、少年の心に入り込んで行った。

彼の記憶は、父親にすがりつき、泣いているところから始まっていた。
そこへ、アスベエルが夕食を持って登場し、父親になだめられて、少年はどうにか食事を済ませた。
初めはぎこちなかった親子も、それを機に、打ち解け始めた。
サマエルの話は流暢(りゅうちょう)で、サリエルは真剣に聞き入っていた。
内容は、もっぱらマトゥタのことで、そのうち、両親のなれそめの話になった。

人界の深い森、神秘的な湖のほとりで、二人は出会った。
朝もやの中、水浴びをしていたサマエルを、マトゥタは女性と間違えたのだ。
こうして、最初は敵同士として相対した彼らは、次第に()かれ合うようになっていく。
しかし、魔界の王子と天界の女神、そんな二人の関係が平穏に続くわけもなく、唐突に別れはやって来た。
二人は引き裂かれ、サマエルは、追放同然に人界に住むこととなった。
マトゥタは自害したと聞かされ、身ごもっていたとも知らず……。

親子は飽きもせず、一晩中話し続けていた……。

「……ふうむ」
ラファエルが手を離すと、サリエルは眼を開け、尋ねた。
「どうでしたか?」
「いや、特に、何も……」
「そうですか」
少年の穏やかな表情に、何も変化は見られない。

「……まあよい、後で、また様子を見に来る。
休みたいなら寝室はそちらだ、着替えも棚に揃っている」
大天使は、どこか釈然(しゃくぜん)としない思いを抱えながらも、右の扉を示した。
「あの、ホムンクルスは……」
「そうだったな。培養槽から出さねばならぬゆえ、明日まで待て」
「分かりました、よろしくお願いします」
サリエルは、大人しく頭を下げた。

部屋を出たラファエルは、歩きながら首をかしげた。
いくら相手の話術が(たく)みでも、あれほど鮮明に、まるで直接見たような映像として、頭の中に残るものだろうか。

(わざとらしい、取ってつけたような。
……まさか!?)
サマエルは夢魔、しかも、強大な力を持つ紅龍である。
魔力を封じられた状態でも、記憶のすり替えくらい、簡単にやってのけそうだった。

大天使は、部屋にとって返そうとして、やめた。
サリエルは、父親から聞かされた話だと思い込んでいる。
それが(いつわ)りだと言っても信じるわけがないし、おそらく本人には、本物の記憶との区別はつくまい。
……ならば。

ラファエルは光の塔へ行き、魔物を尋問することにした。
あやつも一筋縄では行かぬであろうが、捨ててはおけぬ……)

ひとりごつ【独り言つ】

《名詞「ひとりごと」の動詞化》ひとりごとを言う。
「ひとりごちた」のように助動詞と合わせて連用形で用いられることが多いが、終止形は「独り言つ」(ひとりごつ)であり、「ひとりごちる」とするのは誤りであるとされる。

むずかる【憤る】

《「むずかしい(むつかしい)」と同語源。「むつかる」とも》
1 子供の機嫌が悪く、泣いたりすねたりする。