~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

12.最後の晩餐(ばんさん)(3)

移動する間も惜しみ、口移しに精気を送り続けたタナトスは、部屋に着くと、叔母を、そっとベッドに横たえた。
「まだ足りんだろうが、一気に満腹にするのはよくないからな」
「……悪いことしちゃったわね、特にケテルには」
答えるイシュタルの顔色は、まだそれほどよくなってはいない。

彼は肩をすくめた。
「あいつは気にせんさ。それより、なぜ、こんなになるまで……願でもかけていたのか?」
「……まあね。心配で、食欲がなかったこともあるけれど。
天界がすぐに、取引を持ちかけて来ると思っていたし、それにサマエルは、精気を吸わずにいても、ひと月は平気って……」

タナトスは、額に手を当て、大きく息をついた。
「何て無茶を。
あいつは人族との混血だし、紅龍の力もある、純血の淫魔とは一緒に出来んだろうに」
「そうね……」
イシュタルは眼を閉じた。
その目蓋も痛々しく落ちくぼんでいる。
()せた唇に口づけ、叔母の服を剥ぎ取るように脱がせると、彼は自分も裸になり、寝具の中に滑り込んだ。

「待って……あ」
起き上がろうとする(おい)の背に腕を回し、引き止めてしまってから、イシュタルは、はっとしたように手を離した。
「いえ、戻りたいわよね、奥方のところへ」
「構わんぞ。大体、一回では足りんだろうが」
「……いいの?」
上目遣いにイシュタルは尋ねる。

「遠慮はいらん、しかし、こんなになるまで、よく辛抱(しんぼう)したな。
年中、汎魔殿中の男どもが叔母上の相手をしたがっているというのに、もったいない限りだ」
タナトスは、体の下の女体を改めて眺めた。
抱き心地がよかった豊満な肉体は、今や、皮膚の上から骨が数えられるほどになってしまっている。
夏の雷雲のようにむくむくと苛立ちが湧き上がり、膨れ上がってゆくのを彼は感じた。

だが、それを爆発させることなく、彼は抑えた声を出した。
「前から思っていたのだがな。叔母上、俺の後宮に入ってはどうだ?」
唐突な申し出に、イシュタルは眼を丸くした。
「な、何を言うの……」

「くそ親父に義理立てするのはいいが、叔母上はまだ若い。
せっかくの女盛りを、棺おけに片足突っ込んだジジイのために浪費したあげく、しなびたミイラになってくたばりたいか?」
彼は、ずけずけと言ってのけた。

「相変わらず口が悪いわねぇ。実の父親に対して、そんな悪態……」
「ふん。あんな男!」
タナトスは、ぷいと横を向いた。
「やっぱり、親の愛情を受けられないと、そうなってしまうのかしら。
わたしが子供を産んで差し上げられたら……あの方も、お前やサマエルを可愛がったでしょうに……」

彼は、けげんそうな顔をした。
「叔母上が子を産むのと親父が俺達を可愛がることに、何の関係がある?
土台、あの男はガキに愛情など持てんのだ。
サマエルはともかく、確実にヤツの血を引く俺に対しても、気分次第で殴る蹴る、あげく首を絞める……」

「ちょっと待って。それは、お前が、サマエルにしていたことでしょうに!」
うろたえたように、イシュタルは彼の話をさえぎる。
彼は、叔母をじろりと見た。
「それがどうした。親父にされたことを、俺はそのままヤツにしていただけだ」

「ええっ!?」
イシュタルは青ざめ、絶句する。
「母上が死んで、あの男は、俺のような出来の悪いガキはいらんと思ったのだな。
つまり、親父の態度は叔母上とは無関係だ、自責の念に駆られる必要などまったくない。
もし首尾よく赤子を産めたとしても、俺達の二の舞になったろうさ」

がっくりと肩を落とし、イシュタルは目頭を押さえた。
「そうかもね……わたし、何も見てなかったわ……」
「いや、叔母上は、よくやっていたと思うぞ」
「え?」

「若い未婚の王族女性が、産んでもおらんガキを二人も面倒看る羽目になったら、普通は乳母に任せるだろう、誰も文句は言うまい。
それを、親身になって世話してくれたのだ。
親父が粗暴な振る舞いをしたのも、叔母上が寝込んでいた間だけだ。
だから、改めて礼を言おう、叔母上、かたじけない」
タナトスは上半身を起こし、頭を下げた。

「よして。わたし、母親代わりなんて全然出来てなかったわ」
「いや、叔母上がいなければ、サマエルはガキの時分に死んでいたはずだ。
あいつがせっかく還って来ても、叔母上に何かあったら、自分のせいだとくよくよするに決まっている、ヤツのためにもどうか自愛してくれ」

「でも……」
言いかけたイシュタルは不意に顔をしかめ、宙を見上げた。
金の粒を散らした藍色の瞳が、(かげ)りを帯びる。
「どうした?」
「ベルゼブル様がお呼びなの、行かなくちゃ」
起き上がりかける叔母を、タナトスは押し倒した。
「駄目だ」

「何するの、放して」
弱々しく、イシュタルはもがく。
「行くな。呼ばれた瞬間、うんざり顔をしたくせに」
「う、嘘よ、そんな……」
そう答えた叔母の眼が泳ぐのを、彼は見逃さなかった。
「俺が断ってやる」
「駄目、……」

(あらが)う叔母の唇を奪い、そのまま、彼は念話を送った。
“おい、くそ親父、叔母上は今、俺と寝ている、邪魔をするな!”
“……タナトス? どういうことじゃ、イシュタルが……そなたと……?”
枯れ木が風で鳴るような、かすれた念話が返って来る。
“俺は貴様を許さんぞ!
餓死寸前まで追い込まれた叔母上にも気づかず、のうのうと寝こけおって!”
“な、何!? 餓死じゃと!?”

驚愕した様子の父親に、彼は思念で追い討ちをかけた。
“さっさとくたばれ、この死にぞこない!
そうすれば、叔母上は好きなときに男と寝て、好きなだけ精気を食らうことが出来る!
もう邪魔するなよ、叔母上を殺したくなければな!”
たたきつけるように念話を打ち切ると、彼は唇を離し、にやりとした。
「これでもう、思い残すことなく食えるぞ、叔母上」

イシュタルは少し困った顔で、それでも笑みを浮かべた。
「最後の晩餐ってわけ?」
「まだそんなことを……!」
「冗談よ。さっきので、かえって空腹が刺激されてしまったわ」
「そうこなくては。自分に素直になった方がいい」
タナトスは、再び叔母に覆いかぶさっていった。

何度も愛し合い、空がわずかに明るんできた頃、ふとタナトスは汗に濡れた顔を上げた。
しかめ面で鼻をうごめかしていると、イシュタルが眼を開けた。
「行くの? 眠らないお妃が待っているものね」
「いや、まだ、夜は明けておらん。ただ、嫌な臭いを嗅いだものでな」
「え? ……あ、闇中草(あんなかそう)ね」
部屋の中には(こころよ)い香りが、かすかに漂っていた。

「ち、臭くてかなわんな!」
タナトスは、険しい顔で吐き捨てた。
「まあ。あの花は、香りの宝石とも呼ばれて、珍重されているのに」
「嫌なものは嫌だ!」
彼はそっぽを向く。

「そんなに? 魔界の奥地にだけ咲く、とても珍しい花なのよ。
ずっと昔の誕生日に、一輪だけ部屋の前に置いてあったの。
贈り主は分からなくて、今も気にかかっているのだけれど……」
イシュタルは、うっとりとした眼差しになった。
それを横目で見、彼は自分を指差した。
「夢を壊して悪いが、それは俺だ」

「えっ、お前が!?」
イシュタルは、藍色の眼を真ん丸くした。
タナトスは自嘲(じちょう)の笑みを浮かべた。
「ふ、今思えば、たわけたことをしたものよ。
それというのも、汎魔殿の庭師に()きつけられたせいだがな」
「どうして、直接、渡してくれなかったの?」

「渡そうとしたさ。だが、叔母上の周りにはいつも人がいた。
(きらめ)く装飾品や、美しいドレス、色鮮やかな花束……山のような贈り物を、うれしそうに受け取る叔母上を見るうち、自分が持っている花が、酷くみすぼらしく思えて来てな、部屋の前に置くのが精一杯だった……」

「そうだったの、可哀想なことをしたわね」
タナトスは(かぶり)を振った。
「いや。俺が臆病風(おくびょうかぜ)に吹かれただけだ。
そもそも、俺を嫌っている叔母上に、花を贈ろうなどと思ったことが間違いだったが」

「そんな、嫌ってなんか……お前がわたしを嫌ってたんでしょ。
亡くなったアイシス様はお美しく、完璧なお母様だった……わたしなんか、足元にも及ばないもの」
「それは違う。俺はただ、俺を見て欲しかっただけだ、弟ばかり構っておらずに。
気を引こうとしてはいつも失敗し、叔母上には怒られてばかりいたが」
「まあ……!」
イシュタルは口を押さえ、言葉をなくした。

タナトスは、遠くを見るような眼差しになった。
「母上が亡くなって、親父は俺を構わなくなり、俺は独りだった。
アルブを殺してしまった後は、一層孤独だった……。
俺を見るたび、親父は苦虫を噛み潰したような面でそっぽを向き、貴族達は震え上がって、召使どもさえ寄りつかず、……まあ、自業自得だが。
俺は、アルブの墓参り以外、何もする気になれなかった。
そうして、毎日花を取りに行くうち、庭師と顔なじみになったのだ。
俺が、死人に花など意味なかろうと言うと、庭師は、そんなことはない、故人は、あの世で生前同様の生活をし、手向けられた花は、その庭に咲くのだからと言った……。
特に、女は花が好きだから、喜ばないはずがないともな」

叔母の凝視を感じながら、彼は淡々と続けた。
「俺は、叔母上も花が好きかと聞いた。
庭師はもちろんだと答え、あの花を譲ってくれたのだ。
何年も丹精込めて育て、ようやく一輪だけ咲かせた、貴重な花を。
ヤツは、気づいていたのかも知れん……当時の俺の気持ちに。
叔母上の喜ぶ顔が見たい、弟に向けられる笑顔の、何分の一かでいい、微笑みかけて欲しいと願っていた、俺の心に」

「……そうだったのね」
イシュタルはつぶやき、引き出しから、細長いガラスの小箱を取り出した。
途端に強い芳香が立ち昇り、タナトスは息を呑んだ。
中には、闇中草が、あのときのままの姿で咲いていたのだ。
漆黒に近い藍色の花びら、金色のおしべ……それはどことなく、イシュタルの瞳に似ていた。

「ついに見つけたわ、贈り主を。
気づけなくてご免なさい、そしてありがとう、タナトス。
この花は、お前が来たから強く匂ったのね、きっと」
感慨深げにイシュタルは言い、彼を抱きしめた。
「い、いや……」
タナトスは柄にもなく、頬を赤らめた。

「その庭師にも、お礼を言わなくちゃね。
……お前、闇中草の花言葉を知っていて?」
「知るわけなかろう、そんなもの」
タナトスは一蹴(いっしゅう)した。
「『わたしを見つけて』よ」
「何?」

「闇中草は、昼は地中に潜み、夜、つぼみだけ地上に出して咲くの。
花が放つ高貴な芳香は、闇が深くなるほどに強さを増すわ。
極上の蜜を求める虫は、香りだけを頼りに、闇の中からこんな暗い色の花を探し出すのよ。
庭師は、わたしに、お前の心を見つけて欲しかったのね」
「あやつめ、味な真似を。今度墓に行ったら、褒めてやろう」
「……死んだの、その人?」

彼はうなずいた。
「クニークルスは短命だし、元から若くはなかったからな。
魔界で唯一の友だった……お陰で、心に刺さった棘がまた一本、抜けた気がする、すがすがしい朝を迎えられそうだ。
……と言っても、夜明けまでにはまだ間がある、もう一回どうだ?」
答えの代わりにイシュタルは、彼に口づけた。